2009年1月17日土曜日

010. Thanks a lot for 100 accesses


このサイトに訪れてくれたみなさまへ。
今日サイトを見たところ、アクセス数が100を超えていました。
細々とやっているサイトなので、うれしい限りです。
アクセス数を稼ぐことが目的ではないのですが、やっぱり、自分が作ったものを見てもらえるのはうれしいものです。
今後もたまーに覗いていただけると幸いです。         

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さて、2008年末から、休日の過ごし方が変わってきたなぁと思う。
冬ということもあるけれど、
・家でゆっくり落ち着いて過ごす。
・写真の編集に精を出す。
・英語の勉強を再開する。
・俵万智「恋する伊勢物語」や茂木健一郎「脳とクオリア」など、知的興味に従った読書をする。
・読書を通じて、考えたことを、疑問を、ノートに取る。

ちょっとずつ、また習慣が変わりつつある事を感じる。いい傾向だと思うので、できるだけ続けばいいなぁ。
茂木健一郎がテレビの番組で、「人間の脳の配線が変わるには、2週間かかる」と言っていた。
つまり、なんらかの習慣を身につけるには、2週間くらいその行動を続けないといけない。年末年始を、いつもと違った過ごし方をして、だんだん、身に付いてきたのかもしれないなぁ。
とりあえず、2009年の始まりは、「落ち着いて、考えよう」がテーマかもしれない。

2009年1月11日日曜日

009. 科学の謎と文学と。


茂木健一郎の「脳とクオリア」を読んでいる。
高校生の頃を思い出すようだ。というのも、彼が問題としているのは、
「私」とはどこにいて、どのように生成されるのか?
「認識」とはどこから、どのように生成されるのか?
という哲学的な、日常では問題とすることすら忘れてしまっている問題だからだ。
そして、そこには考えれば考える程、「?」が湧いてくる。脳がかゆくなってくる。
そして、この脳のかゆみこそ、「面白い」のだ。
「なんで僕って、この世界をこんなにも鮮明に認識できるんだろう?」
「なぜ、僕という外界を認識できる存在が、存在しているのだろう?」(親が結婚したから、とか、社会に役立つため、とかそういうことではなく。)

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人は、死んだ瞬間に、質量としては、死ぬ直前となんら変わらない。
見た目も、死んだ瞬間と死ぬ直前で、変わらない。
しかし、死は厳然としてそこにある。
言い換えれば、「死」とは、肉体から「私」がいなくなることだ。
しかし、死を境にして、質量が変わらないなら、「私」は質量には表されないものだということだ。そしてあらゆる「物質」は「質量」を持っている。
つまり、「私」とは、「物質」ではない。
「私」を構成しているのは、肉体であるが、正確には手でも腸でも肺でもなく、「脳」であり、その構成体の中でも実質的に精神活動に結びつく「ニューロン」である。
しかし、その構成体があるだけでは「私」は存在していない。死んだ直後もそれら構成体はそこにあるのである。つまり、「私」そのものは、ニューロンという構成体の「活動」によって現出していると考えるのが妥当である。
つまり、「私」とは「現象」である。
より細かく言えば、「ニューロンの発火現象」が、「私」である。
発火とはニューロンによる電気信号のon状態を示し、複数のニューロンの協同的な電気信号の総体、つまり、「波」のようなものが、「ニューロンの発火現象」である。ここまでは、いい。しかし、科学的に「壁」となると考えられるのは、ニューロンは、三次元的に分布しているため、その位相は、一次元(三角関数によってグラフに描かれるような波)でもなく、二次元(池の水面を広がる波)でもなく、三次元的に立体として存在する「波」であるということだ(シュレディンガーの方程式に代表されるような。しかもそれが不均一な空間に分布するえらく複雑な波であり、方程式化することはえらく困難なことと推察される)。このため、その波の計測が、PETやfMRIで行われてはいるが(時間的分解能の限界や空間的分解能の限界もあり、またファクター(外界からの刺激)が無数にあることからも)、「3次元上に描かれる波に対して、その意味を対応させる=コーディングさせること」は容易ではないだろう。この命題は、タンパク質の立体構造から機能を予想することが難しいこと、そして、一次元構造のDNAから三次元構造のタンパク質の形を正確に対応させ予測することが難しいことといった、分子生物学の「壁」と本質的に近い。つまり、「次元変換の高い壁」が立ちはだかっているのである。しかも、脳の方が入力情報(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、さらにそれらが複合して生成される質感のクオリア・・・クオリアが入力情報なのか、出力情報なのか微妙だが)が複雑な分だけ、絶望的に問題は困難である。その上、人には未知の物や人、未来に対して「仮想」を持つ。その所在などは到底、到達できないのではないだろうか?と思う程深遠な闇の中にある。
と、まぁ以上が、313ページ中70ページまで読んだ中での感想だ。
さて、このように科学が直面している「壁」というものを知る事は、楽しい。
僕は無神論者だ。宗教を否定しているのではない。信じれば、その人の脳内には神は存在し得る。神はその人には感じられる。神は存在していい。
しかし、僕の脳内にはいないのである。正確には「いない」ようにしていたい、と思っている。
なぜなら、「神」という「超越的な存在」を仮定する事で、思考が止まってしまうからだ。もっと人間の知性は、探求できるのに、もっと神秘は解明できるのに、あきらめてしまうのは嫌だ。その昔、疫病は「祟り」であると考えられてきた。しかし、現在は、細菌やウイルスによって引き起こされる感染症であることが分かっている。これこそが進歩だと思う。一見、神秘に見えることを、実はきちんとした因果律に従った現象であると証明することが、科学に課された使命であると思っている。僕は科学の見地から、物事を考えたい。そのために、一旦、僕は「神」という存在を自分の中から棄却する。(ぞんざいに扱うのではない。とりあえず、前提としないのだ)
そして、脳は科学の対象として、最もエキサイティングなものの一つだ。
脳は、「科学」という客観的な世界と、クオリアや仮想、さらには神や魂といった形而上学的命題を扱う「哲学」とを結びつける恰好の(唯一の?)対象である。ちなみに、科学の対象として、僕が面白いと思うのは、
1)脳
2)生命の作り方(人工的に生命を一から作る)
3)宇宙(空間、時間、物質、力)の始まり
3つだ。
それ以外の、例えば、レセプターの構造の話や、生理活性物質の話は、社会のために役立つ実学として面白いと思うが、それは利益生を伴っていることから、僕が思う純粋科学とは異なる。


さて、今年は、読書をこれまで以上に強化するつもりである。(時間もふんだんにあるし)
そのうえで、上記のような「科学の壁」を把握するような読書は、非常に魅力的だと考える。
さらに、脳科学のクオリアや仮想を考える上で、「文学」と言われる書物にも興味を持ち始めた。言葉は現実を完璧に表すには不完全だ。どのような美辞麗句を並べても、この感動は、この現実の美しさは正確に写し取る事、「言葉として保存する事」はできない。というのは、確かにそうだと思う。しかし、現実文字変換にロスがあっても、人には想像力という強力な武器がある。文字脳内での想像(仮想)の変換過程で、多いに「想像力」がレバレッジを効かしてくれる(故に、読み手の想像力次第だが。。)。そして、その想像力は人間の人間たる所以、人として知性を持って生まれてきた特権であるように思う。つまりは、文学で名作と呼ばれるすばらしい物語に、非常に高い価値を感じ始めた訳である。
今年は、名作と言われる古典を読もう。それが、これまでの生活に欠けていた要素である気がするから。

2009年1月1日木曜日

008. 2009年を表す漢字一文字


 一年の計は元旦にあり。ということで、今年も「一年をどうやって過ごそうか?」考えてみようと思う。
 ちょうど去年の元旦に2008年のテーマとして、「選択と深化」ということを考えていた。つまり、目標を絞って、そこに集中しましょう。ということだ。そこで立てられた目標は、
1)作品の投稿(写真)
2)TOEIC900越え
3)海外旅行2回

結果はというと、
1)写真作品「イスラムの光陰」をデジタルカメラマガジンに投稿するも、「次点」ということで、名前のみの掲載となった。評点:△

2)TOEIC:3月受験時に、905を取り、無事目標達成。評点:◎

3)海外旅行2回:GWに南アフリカには行けたが、2回は無理だった。しかし、沖縄や京都に行けたし、まぁまぁだったと思う。評点:◯

ただ、「選択と深化」と言うわりに、絞れていなかったし、集中も出来ていたか、というと疑問である。。とはいえ、どれも自分の私生活にとって重要な要素であった事は確かだ。



さて、2009年である。今年のテーマを考えるに当たって、試みに漢字一文字でテーマを表してみようと思う。


「強」


2009年には、いよいよ27歳になる。
いよいよ、というのは、「27歳〜28歳」が人生の中で頭の回転が最高だと、親父に教えられていたからだ。それ以降は、そこまでに付けていた知識なり見識なりを組み合わせ、土台にして、物事に取り組むらしい。もちろんそれ以降にも成長はできるはずだが、人生の通過点として、27歳というのは自分にとって特別だと思う。
そこで、選んだのは「強」という字。
2008年までは、ある程度で考えをストップしてしまう、ある程度のクオリティーで満足している(=あと一歩を詰める苦労から逃げている)、「今日は疲れたし、とりあえず、酒飲むか」と平日に勉強ゼロを容認、「昼間もPCに向かってばかりだから、作品作りはまた週末」と作れるはずの作品を中断、いつも「癒し」「楽」の方向へと意識が流れていた気がする。それを改善する。それを改善しない限り、今、なかなか手に入れられない、もう一歩先の段階(それは、TOEIC満点レベル、会議で自在に英語を使う、作品を世に出す、といったこれまで叶えられなかった自分)に到達できない。日々の小さな甘えが、長期的に自分を壊していく。その甘えを断つことが、今年の目標であり、それは意志の「強さ」だと思う。
意志の「強さ」を、意識的に高める一年にしたい。
さて、テーマは「強」であるが、ブレイクダウンした目標を立てよう。


1)臨床開発の仕事で使える英語を勉強する。
上司からどんどん英語のプレゼン作成や翻訳を請け負って行こう。そして、それは「仕事」ではなく、「勉強」と位置づけて、運用レベルまで高めよう。プレゼン資料な最高の教材である。



2)国内でできる最大限の英語環境に身を置き、英語の基礎力を再構築する。
「国内でできる最大限の英語環境」とは、高い英会話スクールを指すのではない。一人で、シャドーイングやリピーティングを毎日継続してやれる環境のことである。頻度が重要であり、また、コンテンツが重要である。そして、それは大体決まっている。
・コエダスadvance Vol.2〜6
English Journal 2007年11月号〜2008年10月号
American Accent Training
30音English Rhythm
・映画英語のリスニング
・ヒアリングマラソン 2007年11月号〜2008年10月号
HEMHET 2007年11月号〜2008年10月号
以上である。
つまり、2008年中に手を広げてみたが、結局やりきれなかった者達、を再度やり直してみよう。ということである。
「国内でできる最大限の英語環境」は実はもう手元にあるのだ。あとは、自分の尻を叩いて、この教材の持つ力を余すところなく全うしてやるだけだ。目新しくもないし、地味な目標だが、手持ちの資料の価値を再発見したつもりになってコツコツやろう。



3)海外旅行1回(遠くへ)&写真作品の応募5回
ここ数年、仕事の合間を縫って海外へ行くという経験をしてきて、海外旅行は、やはり年1回くらいが限度らしい。ということがわかった。仕方ない。金もかかることだし、今年は年1回でも納得しよう。ただし、遠くへ。南米か、アラスカかその辺りだ。
そして、写真作品は「5回」ということで、むしろ多くなっているが、これは既に頭の中に4つくらい作品があるからだ。あとは、きちんと処理して、適切な時期に適切に応募する。それだけなのだ。それをいつまでもしないのは逃げであり、甘えだと思う。



4)節約する。
と、いきなり家庭的な目標だが、少しお金のことも考える時期になってきたと思う。さしあたって、株やらFXやらは考えていないが(正直、英語の勉強と作品作りをマジメにやっていたらそんなことに費やす時間はない)、単純に、好き放題遣ってきたのを少し控え目にしよう、というだけのことだ。これまでひと月、大体5万〜10万くらいは遊びや飲み代、欲しい物に遣ってきたと思う。そういった「多少の贅沢」を少し控えめにするだけで、恐らく年間50万くらいは違うと思う。既に、英語の教材を見ればわかるように、手元には処理しきれない程の本や物が集まっている。それらが腐らないうちに、十分楽しむだけでも、時間は足りないくらいだ。というわけで、すぐに買うのではなく、基本的にはある物を生かすようにしよう。



5)このサイトを継続して運営すること
正直、このサイトの立ち上げはしんどかった。やりたいことがあり過ぎた&その割にソフトの使い方を知らなかったということもあるが、何よりも、2005年〜2008年の3年分を一気にまとめようとした、のがそもそもの仕事量として多すぎだったのだろう。
というわけで、やはり旅なり、イベントなりで、「思い出写真」がたまってきたのなら、小刻みにこのサイトにまとめておくべきだろう。(とはいえ、意外とそれが難しかったりするんだよな)


6)掃除をする。
と、これもまた家庭的な目標だが、掃除とは「面倒なこと」であり、やらなくても「気にしない」ならそれでいい、という「逃げ」やすい行為である。簡単に逃げられるが、そうすると、ごちゃごちゃした中で、生活または仕事をすることになり、ひいては頭の中までごちゃごちゃしてくる。これも心がけ一つのことのはずだ。そして、その心がけこそ、今年のテーマ「強」に当たる。


7)良質な作品に出会う。
今年最後の目標である。最近、いろいろあって、ずいぶんと心が虚しいときがある。何よりショックなのは、大抵「他人の冷たさ」に触れたときよりも「自分の冷たさ」に触れたときであろう。「他人の冷たさ」の場合は、「嫌な奴もいるもんだ。でも自分は違う。」と怒りの対象になっても、虚しさの源泉にはならない。広い意味で自己肯定へと作用するからだ。一方で、「自分の冷たさ」を切に感じてしまった場合、「なんて俺はひどい奴なんだ」と虚しさが沸き上がってくる。自己否定へと意識が持って行かれてしまうのだ。そうすると、手に負えない。勉強などと高度な行為はたちまち忘れ去り、思考も固く、停止してしまう。行動も消極的になり、萎縮してしまい、早く帰って寝たくなる。
ただ、今年は、それをそう簡単には許さないのである。しかし、必ず波はあるもので、虚しさが突然暗雲のようにこの身を取り巻くこともあるだろう。そのときの何よりの処方箋は、良質な映画、小説、漫画、音楽、写真、エッセイ、に出会うことだと思う。(もちろん、人に話を聞いてもらう、なんていう方法もあるが、とりあえず、自分一人で完結する手段としては、ということである)
せっかく、知性を持って存在しているのだから、他の知性が作った良質な作品は、体験しておきたい。それこそが、人間として生まれてきた醍醐味ではないか。と思う。また、それを楽しむだけの心の余裕は持って生きていたい。
優れた作品が、心を震わせてくれることで、虚しさの緊縛が少し解けるのも経験的に知っている。つまり、心へのいい薬になるわけだ。今年は、意図的にそれら作品と出会うよう、探そうと思う。

・・・とまぁ、以上が2009年の自分に期待することである。
全体的に、「これまで挑戦した、もしくは設定してみたけどうまく出来なかった」事を目標に置いている。そういう点からは、「これまでの延長線上にある年」と言えるだろう。
しかし、これは、「これまでの方針は今も間違っていないと思う」という自分の中の無意識の判断を物語っているものだと思う。
このままの道筋でいい。しかし、より高みへ。

そういった気持ちで、一年が始まる。

2008年12月30日火曜日

007. input と output

 年末年始中にこのサイトを完成させようと、ここ3日間ほど、かなり制作に時間を費やしている。だんだんと疲れてくるわけだが、そういったときの「逃避先」というは、マンガであったり、映画であったり、小説であったりする。でもよくよく考えると、文字を読んだり、画面を見たりするという意味では、「サイト作り」とあまり変わらない。なのに、なぜやりたくなるのか。

 恐らく、インプットとアウトプットの違いなのだと思う。何かを作る、という過程はアウトプットの連続で、自らのセンスや思考を反映させようと試行錯誤する。アウトプットをするためには、まず自分がどう考えるか?自分はどうしたいか?がないといけない。このため、全ての過程で「頭を使う」ことになる。一方、テレビや映画が楽なのは、「受け身」の行為であるためだろう。つまり、脳の状態は「インプットモード」。既にあるものを、基本的には、自分の中で理解するだけでいいため、ストレスが少ないのだろう。

 恐らく、脳にとって大事なのは、インプットとアウトプットのバランスなのだと思う。インプットは楽ではあるが、そればかりだと、だんだん「自分も作ってみたくなる」というアウトプットへの欲求が生まれる。一方、アウトプットばかりしていると、「正直しんどい。」とインプットで何も考えず受け身でいたくなる。それで正常なのだと思う。

 ただ、期間を区切っている以上は、気合いを入れて、多少のバランスはくずしても、やるしかあるまい。そうしないと納得しないのは自分自身なのだから。

 さて、これから年賀状の作成だ。これもアウトプットであるが、、アウトプットに強くならないといけないということだろう。でも終わったら、思う存分、小説を読んでやろう。

2008年12月22日月曜日

006. 今日の教訓



「面倒くさいと思う事を、ささっとやろう。」


仕事をしていて、


家で過ごしていて、


自分に足りないものがあるとすれば、この心がけだったと思う。


仕事の大半は、難解な数学の問題を解くようなものではなく、「あー面倒だ」と思う事ばかり。


それで手が止まっている。


仕事が遅くなる。


難しいから、ではなく、面倒だから、遅い。


部屋の片付けもそうだ。


面倒だから、進まない。


だから、いつも散らかっている。


面倒なことをじっくりやる必要はないけれど、「面倒だから」ささっと片付ける、というのが大事だと思う。


仕事ができる人は、そういう人だと思う。


このサイト作りもそうかもしれない。


面倒なことの連続だ。


いちいちページのレイアウトから背景色、フォント、行間の設定、pxの設定、間隔の設定などなど、頭を使うというより時間を使う、という作業の連続。


しかし、その一つ一つを抜かすと、これまた進まない。というか完成しない。


というわけで、サクサクッと仕上げる。


それが今日の教訓。


考えてみれば、生きている事自体が、面倒なことの連続だ。


しかし、それをきちんとやることで、成長がある。


そんなことを考えている。

2008年12月20日土曜日

005. 井上靖「考える人」と仮想と言語派社会学について



 井上靖の「考える人」という短編小説を読んだ。


感銘を受けた。


井上靖が書いた言葉が、僕の脳の中で再生され、その情景を、その主人公の感覚を、ありありと感じる事ができたこと、にだ。


この話は、主人公がコウカイ上人という出所不明の即身仏(ミイラ)と出会い、その十数年後、再度出会おうと東北を歩き、コウカイ上人の人生を推理する、という筋だが、


興味深いのは、全てが「推測」と「想像」で構成されているという点だ。


まず、コウカイ上人という名前も、正確には漢字も分からない。


しかし、「即身物の大半は出羽三山出身であり、そこの僧は「海」の字を好んで使う。まず、カイは海だね。そして、真言宗では弘法の「弘」の字を使うから、コウカイは弘海だろう。」として、弘海上人である、という「仮想」を前提として話が進む。


そして、主人公達が酒田、鶴岡周辺の山間のT部落に来た際には、「私は自分でも理解しがたい感動に襲われ始めていた・・・私にはなぜかこの部落に弘海上人は生まれ育ったのではないかという気がしてならなかった」という主人公の直感より、その後、弘海上人はT部落で育った、という仮想が真実であるかのように話が進む。


全ては、主人公達の「推測」と「想像」を軸として、弘海上人というミイラの人生が解き明かされて行く。しかし、そこに正答はない。ついに真相は明かされる事なく、物語は終わってしまう。しかし、その想像のみで、僕はぐいぐいと引っ張られ、時に、手に汗にぎり、時に息をのんだ。


充実した読書の時間を愉しめた。


読み終わって、外に出た.12月の乾いた空気と葉の散ったイチョウの並木を通り過ぎながら、ふと、「この気持ちは、どうやって説明がつくのだろう?」と思った。


学生時代に、「言語派社会学の原理」という橋爪大三郎の本を読んだ。


社会は行動の集積で構成されており、行動は「言語」「性」「権力」の3要素のみから成立している。という大胆な発想で、社会をロジカルに解説した本だ。(ちなみに、まだ途中までしか読んでいない)「言語」「身体」「性」の要素で説明できない社会の構成要素はない、と書いてあった。


その際の読書メモに、「芸術はどうか?」との走り書きがあったことを思い出す。


小説もどうか?


小説は、当然「言語」の行使の固まりであるし、その点は賛成だ。


しかし、問題なのは、例えば、井上靖の「考える人」を読んだ僕の感想と、恐らく、別の人が読んだ感想は全く異なるものになっていたに違いないということだ。


面白い、という人もいれば、よくわからないという人もいるだろうし、


僕のように、「考える人」が引き金となって、このような感想文を書く人もいれば、何事もなかったかのように日常生活に戻る人もいるだろう。


つまり、言語の「作用」が、各人の「認識の違い」によって変わってきてしまう、という点が実に面白く思えた。


茂木健一郎が提唱する「仮想」という概念を支持する形になるが、脳の個体差が、言語という行動の結末を大きく変えてしまうわけだ。


特に、紙に書かれた言語は、その再生を読み手側の脳に依存することになる。このため、言語の作用が脳の個体差(その人の人生経験も含め)に大きく影響を受けてしまうのだろう。


そして、その「個体差」を感じることこそが、人生を生きる上で、楽しいことの大きな柱であるような気がしてきた。


経済は、「誰もが好きな、より多くの人に愛される商品、サービス」を指向する。それが、結果的に、その商品の、その企業の「生存」につながる。つまり、経済の原理とは「最大公約数の幸せの追求」と言える(うわぁ、大胆なこと言ってしまった(笑))。


それはそれで重要なことだと思うが、「私個人」という個体レベルで人生を俯瞰するときに、重要と思えるのは、むしろ、「私の感覚」であり、「私の仮想」であり、「私のクオリア」である。つまり、この脳がどのように作用したか?である。


言語派社会学が解明しようとするのは、「社会」である。


しかし、僕が考えるに、より正確に記載するのなら、「現実」である。


現実に厳然として存在する人間が構成する生活空間の総体を「社会」と言っているようである。


しかし、その内側、またはその根底には、人間の心理があり、そこには、「仮想」と「クオリア」がある。さらに、「仮想」と「クオリア」は、ひとつの現実の前に、「脳の個体差」に応じて無数に存在する事になる。なんとも複雑な、不思議な世界だ、と僕は思う。


と、色々考えて、まだ「言語派社会学の原理」を読み終えていないことにいささかの焦りを感じた。(よくわかっていないうちに批判しているようで)


この正月にきちんと読もう。

2008年12月1日月曜日

004. 2008年にやり残した読書


新しいことは、家の中にあった。

ということらしい。

読んだと思っていた本が、実は読んでいなかった。
買った事すら忘れていた本もあった。

というわけで、以下、読み残しあり!の本達である。これでは本が浮かばれない。

・茂木 健一郎 「脳と仮想」・・・てっきり読んでいたかと思った。途中である。茂木さんの話は面白いので、「生きて死ぬ私」あたりから遡って読んでみるのも一興だ。

・橋爪 大三郎 「言語派社会学の原理」

・「単語耳」

・「英語でプレゼン」

・「英語でミーティング」

・ライシャワー 「ライシャワーの日本史」

・池田 清彦 「構造主義科学論の冒険」

・城山 三郎 「無所属の時間で生きる」

・北村 薫、宮部みゆき 編 「名短編、ここにあり」

・伊坂 幸太郎 「グラスホッパー」

・伊坂 幸太郎 「チルドレン」

・帚木 蓬生 「アフリカの蹄」

・スティーブン・R・コヴィー 「7つの習慣」


この他にも、

・コエダスVol.2〜6:3月中

・ヒアリングマラソンの1年分の復習

・HEMHETの復習

・English journal

・New York detective story

・TOEIC speaking and writing

・Berlitz level 5

・ハート オブ ウーマンの台本

・ショコラの台本

・UDA式 30音トレーニング

・American Accent Training

・ダイアローグ1800

・キクタン 12000


などなど、英語関連の伏兵が(気が遠くなるほど)潜んでいる(笑)

そんなわけで、僕は新しいものを買う必要はない。

むしろ、今あるものをきちんとやる。しっかり、その生まれてきた役割を全うさせてやる。

それを目指して、コンパクトに、しばらく生きていこう。