2011年2月26日土曜日

078. ひとは





アスファルトにだって宇宙を感じられる。

(PENTAX K200D + PLANAR T* 1.4/50 mm ZK)

2011年2月25日金曜日

077. あいまいさ





あいまいさを愛していたい。

(PENTAX K200D + PLANAR T* 1.4/50 mm ZK)

2011年2月22日火曜日

076. 銀河のはじまり





それは一種の爆発だったに違いない。

(5DMkII + EF 70-200mm f/4L IS USM)

2011年2月21日月曜日

075.暗がり





それが人生かもしれない。


(EOS 5D MkII + EF24-70mm f/2.8L USM)

2011年2月20日日曜日

074. しぶき






どうどうどう。

(EOS 5D MkII + EF24-70mm f/2.8L USM)

073. 雪の日








2/14 今年は雪だった。

(EOS 5D MkII + EF24-70mm f/2.8L USM)

2011年2月19日土曜日

072. CP+2011(来年も行こう。)

先日、2011年2月12日(土)に友人とともにCP+というイベントに行ってきた。

これは、カメラと映像技術の総合イベントで、2010年の第一回に続いて、今年は第二回目となる。

カメラ版の「東京モーターショウ」と思ってもらえれば大体あっていると思う。

カメラの新作発表も行われるので、一足先に実機を体験してみたいカメラファンにはうってつけだ。


今回の目玉、FujifilmのX100も触ってきた。



想像していたよりも、小さく、また期待通り高感度にも強そうだ(SIGMA DP2 Sと比較して。常用ISOは6400まで。暗所を撮影し背面液晶で拡大してみた結果、感覚的には3200までノイズを気にせずに使えそうだ)。

金属を削り出して作製されたシャッターダイヤルや、M型ライカを彷彿とさせるボディーデザイン、そして、光学ファインダーにプリズムで撮影条件の像を組み合わせたファインダー(見え方は不思議と「サイバー」なかんじ。スカウター越しに世界を覗くような。光学ファインダー自体は素通しなので非常に明るい。また勘違いされやすいがレンジファインダーではないので二重像合致はない。光学ファインダーでは(素通しなので)ピントの山を掴むことはできないが、EVFに切り替えることが可能で、こちらではピント面が分かる。なお、このファインダーモードの切替えは、ボディ前面のレバーで行う。このレバーの形状は、まるで往年のフィルムカメラのセルフタイマースイッチのよう。こんなさりげない部分にもデザインのこだわりを感じる。AFは一眼レベルと比較すると早いとは言えないが、コンデジと比較した場合、ストレス無いレベルと言える。無論、SIGMA DP1XやDP2Sよりも早く、その点でもこちらに軍配が上がる。)、質感に優れたボディー部分(合革ではあるものの、それ故に本革より耐久性は高いとのこと。持った感触として、高級感は十分。)、そしてPentaxの薄型パンケーキレンズを思わせる軽量なレンズ。裏面照射型のCMOSを搭載したAPS-Cサイズのセンサーに、F2.0のレンズを組み合わせているため、ボケ感も十分。また、少し絞って撮ると、シャープな写りになるそうだ(ここまではさすがに体感できず)。


非常に魅力的。

その一言に尽きる。(DP2Sを買わずに、待っていてよかった)

サイズ感はこんなかんじ。


思っていたより小さく扱いやすい印象。

CP+では他にもこんなレアな機種やレンズを楽しめる。

SIGMA の1000mm望遠レンズ。まるでバズーカ。(確か250万円くらい)




PENTAX の中判デジタルカメラ 645Dも触ってきた。
他社の中判デジカメと比べると、ソフトウェアの面で優れている印象。





ソニーから発表されたトランスルーセントミラー搭載の中級機。
参考出品のため、触れることはできず。残念。
(後ろの人の「いい表情」と言ったら)




木村伊兵衛賞受賞の写真家・梅佳代さんのトークイベントにも参加。
ちょうどストイックな風景写真家・米美知子さんの後だったので、ゆるいトークがよりゆるく感じられた(笑) 色々な写真家がいるものだなぁと。



総じて、楽しい一日だった。
カメラ好きにとっては一種のディズニーランド(夢の国)である。しかも無料。

CP+、来年も行こう。

,listening to nothing.

2011年2月18日金曜日

071. しあわせもの(とある日のこと)

前日に同期に結婚お祝い会をしてもらい、二日酔いで起きた今朝。

眠い目をこすりながら、二日酔いに効くと言う胃薬を、枕元まで持ってきてくれた妻。


風呂に入り、汗を流す。
こわばっていた身体がほぐれていく。


スーツを着て、髪を乾かし、ヘアワックスをつけて、部屋に戻るとお茶漬けが用意されていた。


二日酔いの身体にも、お茶漬けは優しい。


朝の番組では、歌舞伎役者の隠し子騒動が報じられている。
コーヒーを飲む。


「ごちそうさま」


「なんとなく元気になってきた気がするよ」


「それじゃあ、行ってくるね」


駅へ向かう道すがら、こんなことを思う。


病気もしておらず、
やりたい仕事もでき、
大きな問題も今のところなく、
明日にはカメラ仲間とのかに鍋会が控えていて、
明後日には撮影会が待っている。
一ヶ月後は、妻と中国桂林旅行へ。
二ヶ月後には、新婚旅行でドバイとイタリアへ。


毎日、「いってきます、いってらっしゃい」「ただいまー、おかえりー」と言い合える生活。


ああ、これが幸せってことか。
ストンと合点がいった。


, on the way to my company by Saikyo line.

2011年2月16日水曜日

070. Photolog (思案中)

最近、Lightroom(Adobeが出している写真整理とRAW現像ができるソフト)のアルバムの整理をした。
というのも、iMac上のハードディスクを写真が占拠してしまい、動作が遅くなってしまったからだ。

僕は基本的に、RAWモードで写真を撮っているため、一枚当たり10〜20MBくらいになってしまう。一方、愛機iMacは2008年製でハードディスクは300GBしかない。このため、半年に一回くらいは、写真を外付けハードディスクに移して(こちらは1.5TBあり、二台を手動でミラーリングしている)、iMacから消してあげないと動作が不安定になるのだ。

前回の移し替えから8ヶ月経っていたため、写真は9000枚程増えており、ハードディスクの空きはわずか17GB程になっていた。


ちなみに、PENTAXの645DはRAWで撮ると1枚当たり50〜100MBらしく(先日のCP+で、PENTAXブースの係員に口頭確認)、デジタルになっても、中判は撮影枚数に抑制がかかることになりそうだ。
10枚で1GB。わずか10000枚で1TBである。8ヶ月で9000枚撮っているのだから、約9ヶ月で1TBのハードディスクをつぶしてしまうことになる。
これは大変だろう。

やはり、中判デジタルを不自由なく扱うには、PC側の体制も相応の用意が必要と言えるし(一つのファイルで100MBの物をそれなりにサクサク編集するには相応のスペックが要求される)、また、それなりに撮る枚数にも気を遣わないといけないのだろう。ある意味、中判らしいと言えば、中判らしい。
(中判フィルムで写真を撮ったことがない方には分かりにくいかもしれないが、中判用フィルムは写真1枚当たりのフィルム面積が大きいため、例えば6×6判というフォーマットで撮ると1本のフィルムでわずか12枚しか撮れない(それでも通常の36枚撮りフィルムとほぼ同じ値段である)。このため、中判は金がかかる。結果、撮る枚数に抑制がかかる。これをもってして、「1枚1枚丁寧に撮るようになるからいいことだ。」とする人と、「出し惜しみするとシャッターチャンスを逃しかねない。出血大サービスを覚悟するか、デジタルもしくは35mmにした方がいい。」とする人がいる。僕は結果的に後者を選び、EOS 5D MkIIに落ち着いてしまった。しかし、たまに妻(のお父さん)から借りたハッセルブラッドで写真を撮ると、(特にモノクロで)「ああ、中判ってやっぱりいいなぁ」と感じてしまう。密度感というか、凝縮感というか、はっきりとした存在感を感じることができる。結果的に、5D MkIIで撮った100枚の写真より、ハッセルで撮った1枚の写真の方が記憶に張り付いてしまうことすらある。と、思いながらも、薄暗がりにも強いデジタルを結局手にしてしまうのも、自分らしいと言えば自分らしい。)


随分脱線してしまった。
さて、そうやって写真を整理していると、「作品展には恥ずかしくて出せないレベルだが、ハードディスクの肥しにするには惜しい気がする、微妙なラインの写真」というのがある程度の数あることに気がついた。

写真集に並べるのも、ちょっと力不足な気がするし、
かといって、Lightroomの中だけに閉じておくのもなぁ。

そんなことを漠然と思っていたのだが、
考えてみればこのブログ、写真も載せられるのだ。

日記同様、タグで整理もできるし、
よくよく調べてみたら、ブログ自体を書籍化することもできるらしい。
なんだ、これでいいじゃん。

というわけで、「作品未満」の写真をここに載せていこうかなと思っている。
世の中では、そういった写真主体のブログのことをPhotologというのだそうだが、
僕が考えているのは、まさにPhotologなのだろう。

もともと、このサイトは「エッセイ」を載せるために開設したものだ。
そのため、思索であったり、論考であったりを主体にするつもりは変わらないのだが、
たまに、写真のみを掲載する回も出てくるかもしれない。
そんなことを思案中である。

@埼京線&自宅

2011年2月15日火曜日

069. ユビキタス?(車内から)

そういえば、ユビキタスって言わなくなったなぁ。
確か、どこからでもネット環境にアクセスできることを、ユビキタスと言っていたと思ったけど、いざ実現すると、こういうコンセプトを表す言葉そのものは消えてしまうんだね。
ある意味、それは正しい終わり方なのかもしれない。
それだけ、「ユビキタス」が当たり前になったということでもあるから。

@埼京線

2011年2月3日木曜日

068.ああエジプト(半年前と今)

エジプトがすごいことになっている。
わずか半年前に僕はそこにいた。
暴動が起こっているその背景には、あのとき見たエジプト考古博物館が見える。

「ああ、あそこか。」

ニュースの向こうに「実感」が湧く。
あの宿から歩いて、、そうだな、20分くらいのとこ。
今でも僕は地図無しで、そこに辿り着けるだろう。

政情が不安定にならなくたって、エジプト人は日々、喧嘩をしている。
それは事実だ。
町中を一日ほっつき歩けば、2〜3回は盛大な口喧嘩に出会えるはずだ。
5〜6人が互いをののしり合ったり、なだめ合ったり。

しかし、今回の暴動は明らかにそれとは違う。
死者まで出しちゃだめだろう。
馬から引きずり落としちゃだめだろう。
そのあと、7〜8人が囲んで、殴ったり、蹴ったりしていた。
ひとり、ふたりではなく、7〜8人。
タイマン、ではなく、7〜8人。
いわゆる「砂にする」ってやつだ。
7〜8人が殴る、蹴る。
鼻血が出ていた。
そのあとも殴る、蹴る。
顔が不自然に横に揺れていた。
そのあとも殴る、蹴る。
もう無抵抗だ。
そのあとも殴る、蹴る。
そりゃ死ぬって。
そんだけ殴ったら死ぬって。
もうやってる方は、完全に憂さ晴らし。
「どうなろうと、どうでもいい。」
そんなかんじで殴る、蹴る。
どうでもいい外野の連中が、やってきては、殴る蹴る。


そんなこんなで、何人か死んだ。
日本ではちょっと考えられないけど、まぁでもそんなところだろう。
あの国は。

かつて居た場所で、暴動が起こった。
死者が出た。
でも、そのことにちっとも違和感を感じない。
僕が見たエジプトは確かにそんなかんじだった。

「ああ、エジプトかぁ。たしかにありそう。」

そう思えた。
残念だけど。
事実だ。

2011年2月1日火曜日

067.偶然と必然(物活説との決別)

Jacques Lucien Monod(以下、ジャック・モノー)の「偶然と必然」を読んだ。
実に、面白かった。




内容をごく単純に言えば、「分子生物学上の発見を使って、哲学界に渦巻いている議論(生命とは何か?や進化は何が起こさせるのか?やマルクス主義における「科学性」の定義の誤りや宗教が前提とする世界観自体の誤り等々)を整理してみた。」というものだ。

モノーは、ノーベル賞を受賞した分子生物学者であるが、同時に、哲学者でもあった。
この本が発行されたのは、1970年(昭和45年)で決して新しくはないし、モノーが前提とする分子生物学上の「発見」は、2000年代に生物学を専攻していた僕たちの世代からすると「古典」に近い。しかし、そのような「古典的知見」から端を発する形而上学的な言説(そもそも進化に上方の指向性があるのはなぜか?何らかの「意志」のようなものが働いているのだろうか?など)の数々は、実に面白い。

よくよく考えてみると、この1970年というのは実に「ちょうどいい時代だった」と思える。
というのも、世は「社会主義と自由主義」の対立軸を中心として構成されており、それを反映した米ソの冷戦が厳然として存在していた。この時代では、「思想」というものにまだまだ「社会的な力」が残っており、学生運動が起こったり、ヒッピーやフラワーボム等の文化的なムーブメントが散発的に発生し、「音楽が世界を変えられる」と本気で信じていた若者が大勢いたし(事実、信じられる程、音楽自体にもパワーがあった。ビートルズは当時、キリストよりも人気があった)、その上、社会主義国の明白な失敗が明らかになっていなかったため、自由主義に対する対立軸を作り出せるマルクス主義者達がそれなりに自信を持って闊歩できた。
このように、思想を取り巻く環境が流動的で、決定されたものがなく、それゆえに自由に議論でき、ちょっとした知識層は互いに思想的な議論を交わせる、そんな時代であった。
つまり、「思想を語るのにちょうどいい時代」だったのだ。(とか断定的に書いておきながら、僕自身は1982年生まれなので(笑)本来は、「だったらしいのだ。」である。もちろん、間違っている部分もあるかもしれない。所詮は一介のサラリーマンの妄言なので、その辺りは適当に聞き流していただければ幸いである。)

話はそれるが、ちょうどこの頃、米軍専用の通信網「アーカネット」(だったと思う)が民間に払い下げられ、インターネットの基礎が作られた。
当時、このインターネットの原始版は会員制の通信網で、せいぜい短いメールを双方に飛ばし合う程度のことしかできなかったが、その目的(理念)はすごかった。

曰く「一切の商業主義を排除した、人種、外見、性別の差別を一切排除した、真に理想的な魂の交流」、つまり「精神的なユートピアの実現」だったのである。
しかし、それが今となっては、排除しようと心に決めていた「商業主義」がネット界には蔓延し(僕はそれをちっとも悪いこととは思わないが)、2chなどの巨大掲示板では差別的な発言が(ネタだととしても)日々量産されている。

ネットは、確かに顔も見えなければ、声も聞こえないため、純粋に「言語」に翻訳した「魂」(「精神」や「心」などと読み替えていただいても結構)が表出している空間だが、結局「魂」になっても、ひとは人。そこには必然的に、商業主義や差別が生じてしまう、ということなのかもしれない。

(ちなみに、当初は会員制の通信網だったが、そのままでは立ち行かなくなり、商業利用(つまり広告の表示と、物品の販売経路としての活用)への開放を決定したという経緯がある。歴史は決断を迫り、その当時の管理人はそのように決断をした、ということだ。)

おおう。
随分話がそれてしまった。
ただ、いずれにせよ、インターネットがこれだけ身近なものとなり、個人が自身の考えや感想を自由に(まさにこのサイトのように)発信できるようになり、また、「検索」によって自分の「興味」や「目的」を前提として情報を「能動的」に取りに行くようになると(テレビのように自分の興味とは無関係に一方的に情報が発信され、それを受動的に曝露されるという情報環境とは根本的に異なる環境である)、必然的に、「個の時代」がやってきてしまう。
それはそのまま、「思想」の力が弱められることを意味している。
思想とは、多くの人に信じられる程、強くなる。
しかし、これだけ個人個人がその趣味、趣向、消費行動力に従って自由に運動(社会的な意味での「運動」である)してしまうと、思想が形成される前に分散化してしまい、ムーブメントが起きる程のきちんとした思想が形成されない。
つまり、70年代のように、世界を二分するほど、大きな思想は今では非常に生まれにくいということになる。

そんな「思想が弱ってしまった時代」が今の時代なのである。

さて、思想的に熱かった70年代の落とし子である本書は、
実は、生前の祖父が唯一勧めてくれた書籍でもある。
祖父は、植物の形態形成を研究する研究者だった。

祖父はこの本のことを、「一言で言うのは、難しいねぇ。」と言って内容を教えてくれなかったのだが、確かに読んでみると、「一言で言うのは、難しい。」のである。

だからと言って、じゃあ読んでみて。と簡単には勧められない本でもある。
というのも、前提としている分子生物学上の知識が、大体、生物系専攻の大学3年生程度の知識レベルで、一般の人が読むには若干難解なところがある。

生物系の人も読んでいるかもしれないので、大体の目安を言うと、
ヴォートの生化学の上下巻をそれぞれ1/3程度ずつ、薄ーく、ざっくりと読んだくらいの知識は必要である。

加えて、大学2年生までの熱力学の知識はあった方が、より楽しめる。
熱力学の第二法則、と聞いて、「ああ、エントロピー増大の話か。」と分かる程度の知識は要求される。
(もちろん、日本語で書いてあるので、知らなくてもそれなりに読めるのだが、多分、ピンとこない。ちなみに、この熱力学の第二法則というのを単純な言葉に換言すると、「自然のままにおいておくと、世界(孤立した系の内部)はどんどん乱雑さが増す方向に進んで行く。その逆はありえない。」ということを予言している。例えば、お風呂一杯に張った水に墨汁を一滴静かに垂らしたとすると、当然、特にかき混ぜなくても、熱をかけなくても、墨汁は大量の水と混ざる。逆に墨汁の色素が一カ所にとどまり続けることはありえない(仮に水に溶けない色素であっても、ある程度の塊となって分散していくはずだ)。ここで、墨汁の色素の「位置」に注目すると、着水直後の色素同士が隣り合っていた「秩序だった状態」から、水と混ざり合った「乱雑な状態」へと自然に移行していることがわかる。このように、熱力学の見地から考えると、特にエネルギーをかけない「自然な状態」にある系でも、「乱雑さ」が増す方向に全ての分子は動いており、その中から「秩序」は自然には生まれない。しかし、生物というものは非常に秩序だった分子、細胞内小器官(オルガネラ)、細胞、組織、器官、個体を有する。このような有機的なネットワークは研究すればする程精巧に作られていることがわかり、驚嘆に値する。例えば、生命活動の主役を担う種々のタンパク質は、微視的にはオングストローム単位の精度で立体的に作られており、水分子による熱揺動により確率的な変形は常に受けているものの、その立体特異性に基づく触媒機構は忠実に保たれており、実に「秩序だって」いるとしか言いようがない。このような「秩序の塊」と言えるような生物の存在は、熱力学第二法則を侵害しているように思われる。なぜなら、生物は、「自然と発生してきた」のだから。これは僕が高校3年のときに持っていた疑問であり、かつ、大学4年の時に解決した疑問でもあるが、その上、本書においても取り上げられており非常に驚いた。と同時に、僕がまるで自分で発見したかのように思っていたこの疑問がとっくの昔の70年代には当たり前のように解かれていたということに少なからずショックを受けた。まぁ、凡人が考えられる程度の疑問は科学者の誰もが考えついてしまうのだろう。)

そして、これは僕にはなかったので非常にくやしいのだが、マルクス主義、弁証法的唯物論、またプラトン、ヘラクリトス、ヘーゲル、カント、デカルト等の思想の論理体系とイデオロギーの勘所や代表的な特徴、くらいは知っておきたかった。
それがあると、この本はより楽しいに違いない。

というのも、モノーがやっているのは、「分子生物学の知見を使って、これらの思想をぶっ飛ばす」ということだからだ。
「これらの思想」自体に不慣れであるため、どの程度、痛快にやっつけているかが僕自身としてはいまいちピンときていないのが残念だ。

とはいえ、本書によって多くの形而上学的な疑問がある程度すっきりとした。
また、生物系を専攻すると「当たり前」と言える、DNAの複製機構や、タンパク質の立体構造に由来する触媒反応や、そのタンパク質を作り出す翻訳→合成の過程や、タンパク質の一次構造とその折れたたみによる立体構造の形成(とともに、一次元から三次元に「情報」が増えるというパラドクス)や、確率論的にDNAの複製が間違われることなどの分子生物学上の古典的知見が、一見関係ないような「弁証法的唯物論にもとづく史的予言主義」の批判になりうる、というのは実にいい頭の体操になった。
「その事実をそう使うのか!」という発見である。

というわけで、こう限定するかたちで本書をお勧めしよう。

大学3年生程度の生物の知識を有する方で、
かつ、哲学的な(ある意味思春期に誰もが持ちうる答のないソフィーの)疑問に付き合うくらい精神的な余裕のある方には、本書はお勧めである。


そして、今考えてみると、祖父は僕のそんな性質を見極めていたに違いないのだった。


, listening to ハイウェイ/くるり