2009年5月9日土曜日

022. 帰国とひととのつながり


5月6日、無事、ペルーとボリビアの旅から帰国した。
今、写真をMacに取り込み、そろそろ写真の選別をしなければと思っているところだ。
詳細は、Travelのページに譲るが、とにかく、最高に楽しく、アドベンチャーに満ち満ちた二カ国であった。

さて、なんとなく、今日はとてもすがすがしい。
それは、余分な事が無く、やりたいことが山積みになっていて、また、それを実行に移すだけのやる気に満ちている状態にあるからだろう。
とにかく、うれしくてたまらないのだ。
わくわくしている。こんなストレートで無邪気な気分は一体どれくらいぶりだろう?
これが旅の効用であるなら、旅とはどれほど魅力的なものであろうか。

さて、「無邪気な気分」という言葉を何気なく遣ってみたが、この「無邪気さ」というのは、なかなか人生で、特に人間関係で重要な尺度だと思うようになってきた。

僕は、ときに人といるときに、「こう思われるだろうか?」「こう思われやしないか?」「こう受け取られるだろうか?」「だとしたら、これは言うのをやめておこう。」「これを言うと、彼を傷つけるやもしれぬ。やめておこう。」「ああ、失敗した。これは言うべきじゃなかったな。」「ああ、もっとこうリアクションしてあげればよかった。」「ああ、もっと気の利いた台詞があの瞬間に思いつけば・・・」などと、人や場所や状況を考えて、自分の言動や行動を制限してしまうことがある。
それは、ひとつに、「大人になった」もしくは「大人たろうとしている」ことの現れであり、ひとつの成長の形(もしくは日本的な遠慮の精神の形)なのかもしれない。
無論、社会的な生活(特に社会人世界)においては、必要なもののひとつである。

しかし、はっきり言おう。
大変窮屈である。
こんなにいっぱい考えてから行動したくない。
こんなんばっかりじゃ嫌だー!なのである。

他方、僕は外人と話すのが好きだ。
大好きと言ってもいいくらいだ。
それは英語の修行になる、という実利的な側面よりも、どちらかと言うと、やたらと気楽に話せるからだ。
というのも、大抵は旅行者、初対面、のシチュエーションで、相手と自分には利害や上下はなく、すなわち儒教的なヒエラルキー的世界から一線画した世界で、分かりやすく言えば、対等な世界で話せるのである。
そのとき、僕は、無自覚に「無邪気になって」話しているのであろう。

また、僕は幸いにも少なからず話していて楽しい友人や同僚がいる。なんで彼らと話しているとき、僕はあんなにも高揚して、またあんなにもリラックスして、またあんなにも気分良く時間を過ごしているのだろう?
やはり、そこには「無邪気な」感覚があるからだろう。
肥大した自意識や、強固な遠慮の世界や、義務的な「和」の世界はなく、ただひたすらに、「これってすごいよね。」「これ超うまい。」「これ最高。」「僕はこう考える。」「僕はこう思う。」「僕はこう考えるが、それがしはいかがか?」等の自由気ままな、脳みそがすぅっとなるような楽しい会話が満ちているのである。

僕は、「あなたにとって、人を好きになる条件は何か?」と問われたとしたら、それは「その人と無邪気に会話できるかどうかである」と答えると思う。
(昔話をしよう。僕は6年くらい前に同じ質問を人からされたことがある。そのときも色々考えたが、その結論は以下のようなものであった。

「その人と話しているときの『自分』が好きになれるかどうかである」

いかがであろうか?
これはこれで一つの真理であるように思うのだが、どうしても「自意識」が見え隠れしてしまっている気がしてならない(当時僕は21歳だ。)。最近では、以上の定義がしっくりこなくなって久しいのである。なぜなら、上記の回答では、意識の中心は結局、「自分自身」に向いているからだ。その人を「通して」、あくまでも「自分」を見て、その「自分」が好きかどうか?で、「相手」を好きになるかを決める——
「その人と無邪気に会話できるかどうか」という定義は、これに似ていると感じる向きもあるだろう。しかし、そこには根本的に違いがあるように思う。それは、意識が完全に「会話」に向いている点だ。「会話」は、その人と自分の中間にあるもの。つまり、その人との相互作用自体に、意識が集中しているのである。)

では、「無邪気な状態」とはどういう状態を指すのだろうか?
・自分がどう思われようとかまわない
・自分が自分のことを意識する事がない
・相手のことをしげしげと観察して色々と考えてしまうこともない
とにかく純粋にただ、会話を楽しんでいる状態、そんな状態だと思う。

「無邪気になれること」は、幸せなことだ。
「無邪気でいさせてくれる人」は、僕にとって大変ありがたい存在である。
そしてそんな人が僕は単純に好きだ。

なんて、少し考えれば当たり前なことかもしれないが、しかし、僕にとっては大きな発見に匹敵する確かな手応えを感じている。
それが、嬉しくて仕方ないのだ。

ああ、こんなピースな気持ちが続いていけばいいのにな。
無邪気な会話ができる人、そんな人をもっと増やしていければいいな。
そうしたら、僕のこの世界はもっとピースになるんだろうな。
そんなことを考える土曜日の午後。
いい時間である。