2014年6月29日日曜日

180. レンズが欲しい。

7月に山形の実家に帰省する。
こういった機会(旅行)にかこつけて、レンズが欲しくなってしまうのは、もう持病みたいなものだ。

今、メイン機種はCanon EOS 6Dで、以下のような布陣をとっている。

標準ズームレンズ(24-70mm F2.8L USM)
広角ズームレンズ(17-40mm F4.0L USM)
望遠ズームレンズ(70-200mm F4.0L USM)

旧型の大三元と、小三元の組み合わせ。
単焦点は、

ULTRON 40mm F2.0
EF 40mm F2.8
EF 50mm F1.8
EF 50mm F1.4

と標準域に偏ってしまっている。

さて、焦点距離としては、17mm - 200mmまで一応カバーできているので、大抵のものには対応できるのだが、複数のLレンズを1歳7ヶ月の子供を抱っこしながら持つのは正直しんどい。

かと言って、フォーマットをフルサイズから下げるつもりもない。

最近、Lightroomで管理する上で、「カメラは一つ」にすることが大事だと思っている。
複数のカメラからばらばらに写真を読み込むと、一度セレクトを終えたはずのフォルダにまた新しい写真が入り込んできてしまい、三途の河原状態になってしまうのだ(何度も何度も写真の選別を繰り返すことに)。

ということで、「One Camera」を優先するとすると、カメラを使い分けるという選択肢がなくなってくる。例えば、最近流行の大型撮像素子(1型以上)のコンデジでズームをまかない(つまりズームで撮るものは、そこそこ品質で我慢する)、フルサイズ機にはコンパクトな単焦点をつける(メイン機種は画質重視)、という戦略は取りづらい。

カメラを一つにしなさい、と言われたらやっぱりフルサイズのデジタルカメラとなってしまうのだ。
(撮像素子が大きいほど画質としては望ましいが、中判は価格的にフイルム機以外は手を出せない(60万円〜)。しかし、フイルム機をメインにするのは、今のワークフローから考えるとかなり難しい。となると、デジタルで手を出せる最大サイズのフルサイズがメインとなる)

となると、EOS 6Dにつける「レンズ」を工夫するという方向になる。
これが、レンズ交換式カメラのビジネス原理であり、かつマウントによる制約を受けた購買行動となる(と分かっていてもやめられないのが・・・)。


さて、最近タムロンから、28-300mmのフルサイズ対応レンズが発売された。
いわゆる高倍率ズームで、画質を重視すると最も選択されないレンズなのだが、上記のようなニーズには完璧に合致している。

先日ヨドバシカメラでニコン用ではあったが、触る事ができた。
実は過去、タムロンの高倍率ズームレンズを使用していたことがある。まだ、PENTAXのK200Dをメインで使用していた時期だ。
(余談だが、今はタムロンがPENTAXのOEMとして高倍率ズームレンズを出しているので、「PENTAX機でタムロンの高倍率ズームレンズ」という組み合わせ自体が今となっては昔の話である)。

店頭で久しぶりにタムロンのレンズを触ると、そのときの感覚がよみがえってきた。

「そうだった、そうだった。こんな感じで軽くて、伸びて。」

似ている部分もあるのだが、当然進化も感じられた。
昔(2008年頃)のように、下を向けるとレンズがだらしなくズルズルと伸びてしまう、というようなことはなくなっていた。簡易防滴とあるように、鏡筒の組み込みはきっちりしている印象だ。また、トレードマークの金の輪っか(これが如何ともしがたかった・・・これが嫌で手を出さなくなってしまった)が、やや黒っぽいグレーとなり、全体としてシックな印象になった。

つまり、確実に質感性能・デザイン性能はアップしているということだ。
AFも悪くないし、手振れ補正も効いていると思った。

ただ、欲を言うと、なんというか「高揚感」のようなものがないのだ。
軽いレンズを求めておきながら、矛盾しているのだが、レンズが軽いとどうしても「いいレンズ感」が下がってしまうのだな、となんとなく思ってしまった。

(なお誤解を避けるために書くと、タムロンのこのレンズは大ヒット中である。ヨドバシカメラでは6/26入荷〜6/28の三日間で全店で完売になってしまったとのことだ。特にキヤノン向けは、純正の28-300mmが1.6kgを超える巨漢レンズであり、値段も25万を超えるという「一般市民にとっては事実上存在しない」という状況であることから、フルサイズ機のライトユーザー(自分も含む)には待望のレンズとなっている。この焦点距離をカバーして、かつ、フルサイズのイメージサークルもカバーして、その上540gと計量で、6万円台というのはやはりすごいCPだ。従って、総じて「いいレンズ」なのである。)

と、そこで、手に取ったのがSigmaの35mm F1.4 DG HSMである。
新生SigmaのArt line(芸術作品での使用を意図した光学性能重視ライン)の一番頭として登場したレンズだ。フラッグシップと言われ、「最高」の概念を覆すとまで喧伝された。

現在Art lineには標準域の50mm F1.4 DG HSMもラインナップされている。こちらも光学性能ではカールツァイスのOtus(40万円超のMF専用レンズ。標準域のレンズではほぼ世界トップクラスのレンズ)と、光学性能で、そこそこいい勝負をすると評判だ。

自分は50mmの方が、主題を明らかにしやすいという意味で、好きだ。
50mmには詩的なものを感じる。
しかし、家族との写真となると「やや狭いな」と感じてしまう。

(なお、広角になるほど、多くの景色が画面に入り込み、結果状況説明的となり、記録的となってくる。もちろん、建築や室内空間など広い対象を主題にした写真であれば問題ない。一方、より望遠になると、メインの被写体以外が入り込む余地がなくなり、主題を際立たせることができるが、一方で、状況が分かりづらくなり、家族写真としては微妙になる。標準域(40〜50mmくらい)はその間を取り持ち、状況と主題の双方に手を出せるが、結果、中途半端になりやすいという面も持つ。)


例えば、テーブルを挟んで家族を撮ることを考えると、50mmの場合はまずテーブルが入らない。どこにいるのかあまり分からない写真になってしまう。一方、35mmの画角の場合、テーブルの上が入り、料理と一緒に撮る事ができる。
撮る被写体が変わってきたということか。

また、既に50mmは2本持っているということもある。
これらを考え合わせると、自然と、35mmが気になってくる。

触れてみると、鏡筒の造りが非常にいいことに気づく。
高級感がある、滑らかな表面処理。
また、フォントも含めて、プロダクトとして美しいと感じるデザイン。
そして、開放から安定して使える芯のあるピント面。
なるほど、確かにDxO mark scoreでも高評価を得るだけあるなぁなどと思う。
やや彩度の低い写りをする、渋みのある絵作り。
華やかさよりも、透明感を重視している印象だ。
30cmまで寄れる最短撮影距離。これならテーブルフォトにも十分使えるだろう。

総じて「使ってみたいと思わせる何かがある」と言える。
Sigmaは現在の山木社長になってからか、随分と変わったなと思う。
何か一つ吹っ切れたような印象がある。

Productへのこだわりや誇りに溢れ、
また、それが思想として立ち現れているような。

Foveonセンサーを搭載した、DPシリーズもそうだ。
最新機種のQuattroは、現代彫刻のような造形をしており、未来のカメラのようで好感を持てる。(ただし、エルゴノミクス的に握りやすい形状かと言うと、そうでもない)

このQuattroとSigmaの新シリーズのレンズ群は、確かに並べてみると、「ある一つの設計思想に基づいた作品群」という気がしてくる。
端的に言えば、Apple製品に近い。

一つ一つの形状は異なっても、共通する何かがある。
それは、Sigmaが提唱するGlobal Visionというものなのだろう。
いやはや変わった。改めて思う。

さて、35mm F1.4 DGは665gである。
35mmでおおよそのことは撮れるとしても、やはり広角と望遠を用意したくなる。
羽黒山の杉林に五重塔がそびえ立つ様子は、35mmではやや狭いだろうし、日本海に沈む夕日は150mm以上で撮りたいだろう。それが人間というものである。

となると、
広角ズームレンズ(17-40mm F4.0L USM)475g
望遠ズームレンズ(70-200mm F4.0L USM) 705g
と併用することになるだろう。
総重量、1.84kgか。6Dが電池込みで755gなので、約2.6kgか。
これに計量の三脚など諸々をつけると、4kgは超えてしまう。

あれ、なんで新しいレンズを買おうとしていたのだっけ?(→ 一行目に戻る)

2014年6月2日月曜日

179. 嵐が去って

怒濤の1ヶ月だった。
突発的な出来事と、それに引き続く事後対応に追われ、追われ、追われに追われた。
そして、ようやくここに来て普通の土日を過ごせるようになった。
とりあえず、お疲れさま。>自分とチームのみなさん

それにしても、自分の仕事人生(と言っても、まだ8年と少しに過ぎないが)で一番集中していたように思う。朝4時まで仕事・・・というのも初めての経験だった。

こうしたピークをなんとかしのぎ切って、一段落すると、
まるで「受験生の受験後」のように、精神にぽっかりと空白が生まれる。
それは、心身ともに疲れ切った証でもあるし、一種の「集中の反作用」でもある。

「集中と弛緩」の弛緩だ。
これはこれで、必要なのだろう。

さて、そんなときには、いろいろな事が大脳新皮質に去来し、支離滅裂に「〜って、〜なんだよな。」としみじみ思ったり、納得したりする。おそらく、自分の記憶のハードディスクをデフラグ(領域整理)しているのだと思う。
今日は、そんな心に去来した話を、アトランダムにつらつらと書こう思う。


  • 今日は、1歳半になった息子と、児童館に行ってきた。

子供の遊具で、三角や四角のブロックを、その形に合った穴に入れる、というものがあるが、これがようやく出来るようになってきた。
ただし、3つの穴があったとして、それぞれに対して全部入るか試してようやく入れられる、という状況ではある。(頭を使うというより、試してガッテンというかんじ)


とは言え、少なくとも、この遊具のコンセプト(形合わせ)は理解しているようだ。
そして、それは、「形」(トポロジー)という概念が既に備わっているということを暗示している。成長したもんだ。


  • ここ最近の怒濤の業務で、2週間で3kg痩せた。

しかし、その後、2kg太って、結果としてあんまり変わっていない。
(基本、ストレスがあると食べてしまう方なので。ただ、昼飯を食べ忘れて気づいたら夜10時だった・・・というようなアホみたいな忙しさは初めてだった。)

しかし、今日は暑いな。
今年一番の夏日らしく、地域によっては35℃を記録したらしい。
東京は29℃くらい。
ビールがうまい。こんな日は、ベトナム式に氷を入れて飲むといい。
グラスは薄はりのものが最近のお気に入りだ。
ビールは、よなよなエール。もしくは、麒麟一番搾り。


  • 仕事は彫刻のようなもの
仕事は、いい。
最近しみじみ思う。
もちろん、死ぬほど忙しいのが続くのはしんどいが、やればやるほど、結果、わかる事が増えてくる。

「ここは、もっとこうすべきだ。」
「ここは、こうして。」
「そこは、こうだ。」

仕事は立体的なもので、集合的なもので、そして、「あるべき姿」があるはずのものだ。
それは、喩えるなら、彫刻家が大理石の塊に相対しているような、そんな状況に似ている。

彫刻家には、彫るべきラインが見えている。
完成形が見えている。
それは彼の頭の中にあって、彼の手足は、それを実現するための道具だ。

しかし、腕のよくない彫刻家は、すばらしい完成形を具現化することができない。
想像の世界では、あんなにすばらしいものだったのに!
しかし、研鑽を積む事で、彼の手足はより理想に近づいていく。
完成形を実現する精度が増してくる。

「ここは、もっとこうすべきだ。」
「ここは、こうして。」
「そこは、こうだ。」

そうやって、彫刻刀を入れるべきラインを正確に見いだし、あるべき角度で、あるべき溝を作る。その溝の集合が、表面の凹凸を成し、形を成し、全体は完成形に近づいていく。

(なお、頭にそもそも完成形を描けないというのが最も悪いパターン。次に、頭には完成形が描けているのに、それを具現化できないというパターンが来る(上記の例はこちら)。また、具現化はできるけど、そもそも完成形が凡庸な場合もあり、別の悩ましさがある。ここら辺は、写真の作品作りにも通じる部分があるなぁ。)

ちなみに、僕の仕事は、医薬品の臨床開発で、科学的思考、論理的思考、規制要件への理解、チームワーク、コミュニケーション能力、そして言語運用能力(英語、日本語両方)が必要とされる。「スーツを着て、チームで行う科学」が、臨床開発だと思う。彫刻とは一見すると、かけ離れた職業だ。

しかし、それでも「あるべき姿」があるという1点において、両者はつながっている。
(と、なんとなく確信している)

さて、その性質に着目すると、「スーツを着て、チームで行う科学」なのだが、一方で、量的側面に注目して振り返ってみると、この仕事は、大半が「言語」で行われているということに気づく。
90%が言語である、と言ってもいい。

チームでの情報共有、上司への説得、当局への説明、医師とのディスカッション、海外支社とのミーティング、他部署との打ち合わせ、プレゼン、報告書の作成、外注会社への指示、すべては言語で成立している。(もちろん、その内容は、科学(医学と統計学がメイン)に立脚し、規制要件を踏またものでなければならない。)


そのように考えると、言語(書き言葉、話言葉)は、彫刻家の一刀一刀に相当するものに思えてくる。
そうであるなら、言語運用能力というのは、鍛えても鍛えても足りないのだろう。
そういった意識が重要なのだと思う。

また、言語を運用する以前に、「何を書くか」の方がさらに重要と言える。
それを決めるのは、内容に直結する、科学と規制に関する知識だ。それにさらに、テクノロジー(臨床開発であれば、Risk Based ApproachやQuality by Designといった新しい概念に根ざした手法など)が加わる。

こういった専門分野の各領域には広がりがあり、ある程度散策し、知識を収集する必要がある。こういったことを怠ると、前提としている知識が古びてしまい、結果として、アウトプットの精度が落ちてしまう。

そうやって彫刻刀の原料を仕入れて、言語で成形し使用する、ということが繰り返される。
その繰り返しに、一種の面白さがある。
よく切れる彫刻刀もあれば、そうでもないものもある。
さて、また異常なくらいの数の刀をこさえよう。

  • 生活の中心に写真を据えてみる
4月初旬にiMacを初期化するという事態に遭遇し、「所有物の価値」について考え直すことになった。
購入したアプリケーションは、比較的簡単に復旧できた。シリアル番号さえわかっていれば、手間ではあるが、再度インストールすれば元どおりだ。
また、音楽ファイルも、iTunesから購入したものは、iCouldから再度落としてくればすぐに元通りになる。

つまり、既製品、商品といったものは一旦失われてしまっても、復元可能であると言える。
また、それは例えば机や椅子といった家具であってもそうだろう。それそのものが仮に修復できなくても、代替品を別途購入する事はできる。
さらに拡張すると、住居であってもそう言える。特に、賃貸の場合、地震で大破してしまったとしても、代替品を用意できる。一旦失われても、再生可能なものは案外多い。

しかし、写真データの場合、そうはいかない。

オリジナルは、自分の手によって生成される。
このオリジナルデータが失われた場合、それはもう、本当にそこまでなのだ。
そういった意味で、写真やそのデータを私生活の中心軸に置いてもいいように思う。

幸いにも、今回は、写真データはほぼすべて外付けHDDに入れていたので大事には至らなかったが、一部、加工した写真のオリジナルデータをiMacに入れていたため、失われてしまったものもあった。

さしあたっては、バックアップをきちんと取ることだろう。
既に2台体制でバックアップしているのだが、頻度を多くする必要があると思う。
また、大事な、これといった写真は、プリントしておきたい。

  • 萬馬軒のはなし
約4年ほど前まで、目黒駅のすぐ近くで一人暮らしをしていた。
そのとき、萬馬軒というラーメン屋が近くにあって、ものすごく旨いというわけではない(食べログで3.1〜3.3くらい)のだが、それでも、「町の中華ラーメン屋さん」という気楽なかんじが好きでよく行っていた。
特にネギ味噌ラーメンと、ごまの担々麺が旨かった。

昔を思い出しつつ、先日、会社から目黒のその店まで歩いて行ってみた。
すると、全然違うラーメン屋になっているではないか。

「つぶれたのか・・・」

ショックを感じながら、そのラーメン店に入ってみる。

麺屋 航(わたる)

という店で、つけ麺や煮干し系のラーメンが揃えられていた。
濃厚つけ麺を選ぶ。
「六厘舎」や「中華蕎麦とみ田」といった魚介+動物系の濃厚ダブルスープを指向したスープで、六厘舎のようにほぐれた豚肉が入っており、また、もみじの軟骨成分のようなトロミもあった。臭みもなく、うまく処理されているなと思う。麺の風味は「津気屋」のような小麦の風味を感じるつるつるとした中太麺だった。
丁寧に仕事しています、という感があり、とても好ましい。

「これは、萬馬軒よりうまいわ・・・」

という別のショックを感じながら、スープ割りを頼む。
出汁で薄めるだけでなく、ゆずの皮を少し入れるのは、六厘舎ライク。でも、もはやこれは伝統的・正統派と言ってもいいのかもしれない。
それくらい広まったし、実際に合うのだ。
さて、食べログを見てみると、確かに高評価で3.51をマークしている。なるほど、確かに旨いわけだ。

しかし、店舗の移り変わりは激しい。
人の行う営みこそ、移ろいやすいもので、こういった「久しぶりの来訪でショックを受ける」現象を「ウラシマ現象」と呼んでいるのだが、今回もウラシマ現象を感じてしまった。それは、決して嬉しいことではなく、なんとなく、寂しいものだ。

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後日談。

実は萬馬軒はつぶれたわけではなかった!
今は桜上水に移転しているらしい。2012年2月に移転したそうだ。

しかも今見てみたら、食べログで3.5をキープしている。(3.5以上で星の色が変わり、高評価であることがわかる。経験的に3.5以上なら万人に勧められるレベル)

今では、「桜上水の名店」として知られているらしい。

目黒のときから味がさらにブラッシュアップされたのか?(目黒時代は3.1~3.3だった)
それとも、場所が変わって相対的に当該地域の他店より高く評価されているのか?

今度確かめに行こうと思う。
いや、違うな。

どちらにせよ、結局問題じゃない。

「萬馬軒が今もある」という事実が嬉しいのだ。
また、ネギ味噌ラーメンや担々麺を食べられる、ということが素直に嬉しい。
またお邪魔させてもらいたい。
」ようy