2020年12月23日水曜日

あとがき(現在の自分と過去の記録の関係について)

本ブログを閉じるに当たって、個人的な記録として書籍化しておこうと思った。

編集作業を今(米国東海岸時間: 2020年12月22日)やりながら、過去の記事を見直している。

記事は、2008年11月1日から始まっていた。二十六歳の頃。

現在三十八歳、二児の父である。

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正直に言うと、過去の記録を見ることは、若干の気恥ずかしさを伴う。当時は得意気に自分の考えを披露していたのかも知れない。しかし、現在の自分からすると、そこに「若さ」もしくは、「若さゆえの浅はかさ」を感じてしまうのだ。

写真も同じで、過去に撮った写真には、若干の気恥ずかしさが伴う。当時の空気、勢い、そういったものから切り離された、「現在の自分」が、客観的に「そう見てしまう」のである。これは反射的に感じてしまう類いのもので、そのような反応が自分の中に生じることに戸惑った。しかし、直観的に「そういうものか」で済ませていたように思う。当時は若かったのだ。浅はかだったのだ。ああ、恥ずかしい、と。

それで済ませることもできる。


しかし、本当にそれだけなのだろうか?

ここでは、もう一歩踏み込んで考えてみよう。

「現在の自分」は、常に過去の自分よりも、年長者であり、「間違いや浅はかさを過去の自分よりも知った状態」にある。したがって、常に過去の自分と比して、「より冷静、より客観的」になっている。その点で、「現在の自分」は常にずるく、シニカルである、とは言えないか(結果論のずるさに通じるものがある)。

したがって、現在の自分が「鑑賞者」になった時点で、この原理は作動し、決着はついているのであろう。過去の記録は、気恥ずかしいものにならざるを得ない。そういった認識上のバイアスがかかっている。

(この原理は、もちろん、この「あとがき」にも当てはまるだろう。数年後、「あの頃は若かった。原理的、という言葉を使い過ぎている」などと思っている自分が思い浮かぶ。)

しかし、だからと言って、過去の記録を「気恥ずかしいもの」として必要以上に貶める必要はないのではないか。

それが、編集作業をしながら、2020年12月22日にようやく思い至ったことだ。過去の記録がたとえ反射的に気恥ずかしく感じるものであっても、受け入れよう。ゆるそう。

それは、過去の自分が悪いのではなく、単に原理的にそういったバイアスがかかりやすいものに過ぎないのだから。

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余談だが、この「過去の記録が気恥ずかしい」問題は、実は写真にも通底している面がある。例えば、20代の頃のデート写真などは、気恥ずかしさ満載の「遅効性の劇薬」のようなもので、冷静沈着な「現在の自分」には耐えられないくらいの破壊力を持つ。

(なお、2020年12月現在、世界はCOVID-19のパンデミック下にあり、米国(現在New Jersery州在住)では1日に25万人の新規感染者が報告されている。このため、外出を控えており、結果として、過去の写真(2010年から)やブログを見直す、という作業に膨大な時間を当てている。恐らく、こういった機会がなければ、一生やらなかったかもしれない(割としんどい)作業である。そして、そういった作業を繰り返す中で、上記のような気づきが生まれつつある。)

写真は、流石に破壊力が強いので、「現在の自分」視点で「将来の(家族の)鑑賞にも耐えられるか」という基準にて選別を行っている。それくらいの権利を「現在の自分」が主張しても許されるだろう(と願いたい)。

これは、むしろ、「未来の自分」への優しさとも言えよう。

(それは気恥ずかしい写真を除外しておく、ということだけでなく、数十万枚という大量の写真から、重要な写真へのアクセスを確保しておく、という意味において。2010年から年間1-5万枚撮っているため、無選別状態の場合、それを見直すだけで数ヶ月はかかる。)

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さて、「過去の記録」問題は、「子供の成長記録」においても示唆に富む。

今、八歳の長男は、既に三歳の頃の記憶をほぼ忘れてしまっている。これは、当たり前のことに思われるかもしれないが、親の視点からすると衝撃的な事実である。

長男が三歳の頃、というのは、つい五年前のことで、それは2015年のことであり、自分にとっては三十三歳の頃のことである。当然、自分の記憶ははっきりしており、それこそ「ついこの間のように」思い出せる。

しかし、当の本人には、もはや、その頃の記憶はないのである。

また、本人の身体的な特徴(背丈、顔つき)も、三歳と八歳では大きく変化していて、「見た目」から三歳の頃のことを想起することは難しくなってきている。この変化は、今後も続いていくのだろう(それこそが成長であり、当然、喜ばしいことである)。

しかし、この一件が自分に告げるのは、「三歳だった長男」は、もはや「写真」や「記憶」の中にしかいないのだ、という切実な事実である。

そして、現時点で間近に見れる、本人も体感している「八歳の長男」もまた、やがて消え去ってしまい、「写真」や「記憶」の中にしか残らなくなる。

子供時代というのは不思議なもので、こうして移ろい、やがて消失してしまう。この子育ての切実さを、最近特に意識するようになった。そして、やはり「過去の記録」は、軽んじてはならないのだ、と再認識している。

下の子は、現在二歳。やはり、同じような変化を感じるようになるのだろう。

また、この現象は、自分にも当てはまる。三十八歳の自分は、やがて消え去り、四十代、五十代、六十代、七十代、八十代と変化を見せていくだろう。中には、「忘れるものか」と信じ切っていることでも、いつの間にか、「それがあったことすら忘れてしまった」という状態になるかもしれない。それは、時間軸上に置かれた人間にとって、抗いようのない摂理なのかもしれない。

「現在の自分」にできることはそれほど多くない。

しっかりと見て、相手をすること。

そして、要所で写真や記録に残すこと。

残された記録を疎かにしないこと。

−−−

COVID-19のパンデミック下にあって、多くの人々に様々な変化が起きたことだろう。自分にとっては、過去、現在、未来の関わりについて、見直す契機となった。

このブログは、主に20代後半から30代前半までの思索をまとめたものになっている。当時は、ブログで自分の考えを言語化すること、それに割く時間の意味が今ひとつ分かっていなかった。もしかしたら、膨大な時間の無駄遣いをしているのでは、と疑うことも多々あった。

しかし、30代後半の自分が言えるのは、ここでの記事があったおかげで、「思考の言語化能力」が磨かれたということだ。結果、30代後半、日本に向けたレポートを量産することができるようになった(米国での業務経験を毎月レポートにして配信していた)。その後、MBAの取得、博士課程への進学へと繋がっている。


「本当にそうだろうか?

 ここでは、もう一歩踏み込んで考えてみよう。」


それが、このブログでの基本スタンスだった。そして、その思考や言語化への努力は、着実に自分の人生や仕事の質を変えていったと思う。

−−−

現在、三十八歳。

妻と八歳、二歳の子供と米国で生活している。

このような中で、最近よく思い浮かべるイメージは、「現在の自分」は、「時間の使い方を任されたファンドマネージャー」のようだ、というものだ。

時間は、「過去」「現在」「未来」のいずれかのbox(これらにつながる活動)にbetできる。

「過去」のboxには、例えば、回想や写真の整理などがある。このブログやSNSへの書き込みもそうかもしれない。

「現在」のboxには、娯楽全般(ゲーム、映画、漫画、You Tubeの動画、行楽など)や、消費(ショッピング)がある。しかし、これらは、現時点の楽しさを極大化するが、基本的に、未来への波及効果が弱い。実は、日々のTransaction的な業務(定型的な業務)もここに当てはまることが多い。現時点で誰かの役には立つが、将来の自分の仕事にはあまり影響を与えないという仕事も多い。

一方、「未来」のboxに入る活動は特殊で、その活動の効果や成果は遅れてやってくる。代表的なものは「教育」であろう。知的な体力をつけていくことは、未来へ(割と)直接的な作用を持つ。子供たちには、受験という試練がやがて平等にやってくるが、そのハードルをいかに超えて、成長していけるか。そのために、今何ができるか。そういったことを考え、動くことが、未来のboxに時間をbetするということである。他にも、「投資」や「身体的なトレーニング」もこのboxに入るだろう。ミクロ経済学では、企業の投資活動を「時間を通じた資源配分」と表現するが、これと同じ理屈である。

基本的には、未来のboxに時間を優先的にbetしていくのがいいのだろう。

不等式で表すなら、


未来 > 現在、過去


である。

しかし、前述の通り、過去の記録を振り返ることの重要性を認めている以上、話はそう単純ではない。

例えば、思考をまとめて言語化することは、その瞬間には「過去を見直すこと」であり、過去に向かってベクトルが伸びているように見える。

しかし、実は、その過程で、未来にも応用可能な「言語化能力」の鍛錬にもなっており、その面で、未来に向かってもベクトルが伸びている、と考えられる。

このように、一見わかりにくい繋がりや原理を読み解きながら、これからも未来へ向けて一歩一歩進んでいこうと思う。


「本当にそうだろうか?

 ここでは、もう一歩踏み込んで考えてみよう。」


これを結びの言葉として、筆を置きたい。

2020年12月11日金曜日

196. とりあえず一区切り(2020年12月)

 早いもので、前回の投稿(2016年3月)から4年9カ月。オリンピック1回分以上の期間が開いてしまった。

そして、おそらくこれがこのブログ上では最後の投稿になると思う。


当初、7 billionth part of the world.comという旅行記をまとめた個人サイトの一部として始めたこのブログ。

振り返ってみると、20代後半から30代前半に考えていた事、関心ごとが現れていて、個人的な記録として価値があったと思う。

一方で、時代の流れ(個人による公開サイトから、Closed なSNSやEvernoteへ)もあり、また自分自身の生活の変化(米国駐在(7年以上継続中)、MBA取得(無事卒業)、博士課程への進学、第二子の誕生(本当に良かった)など)もあり、目まぐるしく変わる日々に押されて、相対的にこのブログから遠のいていたのも事実。


総合すると、おそらく、その役割を終えたのだろうと思う。

ひとまず一区切りとしよう。


2020年12月

2016年3月14日月曜日

195. 再開(1年ぶりの更新の件)

前回が2015年3月9日で、今回は2016年3月13日ということで、実に1年ぶりの更新になる。

このように1年間空いてしまったのは、ひとえにFacebookを使い出したことによる。
自分のメインの媒体がBlogからSNSに移ってしまったのだ。

世の流れ、ということだろう。自分も例外ではなかったようだ。
確かに、顔を知った友人と交流が気軽にできる点や、興味あることをシェアできる点など、FacebookにはBlogよりも進んだ利点がたくさんある(今更)。

特に、今のように(米国NJ州に赴任中)友人と距離がある場合には、Facebookはかなり便利なツールとなる。

さて、この1年で変わったことをさっぱりとまとめると、以下のようになる。


  • 米国生活は2年目となり、大分「日常感」が出てきた。
  • 車の運転にも慣れてきた。既に米国内で5万キロ程走っている。
  • 英語はまだまだだけれど、仕事をする上では安定感が出てきたかんじだ。ただ、相変わらず、すごい人たち(現地採用の日本人)には、足下にも及ばないのが正直なところ。
  • 駐在員として働きつつ、2015年10月より、University of MassachusettsのLowell校にて、MBAコースに参加している。入学してから分かったのだが、アメリカの大学は入学してからが本当にきつい。成績が悪いと結構シビアに退学になってしまう。なるほど、MBAは大変と聞いていたが、こういうことか、と納得した。ということで、真剣に勉強中。恐らく、Facebookへの媒体の移行と、このMBAの勉強とがダブルパンチで1年も更新が開いてしまったのだろう。
  • カメラは相変わらず、EOS 6Dだが、Sigmaの単焦点Art シリーズ(24mm, 35mm, 50mm)が常用レンズとなった。抜けの良さ、開放から使えるシャープさが気に入っている。実は、三本の中で意外なヒットだったのは24mmで、「広角だけどボケる」という不思議な描写に虜になった。中判フィルムで取ったときのように、被写体の背景全体がムッとボケるかんじが、立体感作り出し、とてもよい。

Facebookを頻繁に使うようになって、このBlogをどうしようかしばらく悩んでいたのだが、 SNSに向いていない長めの内容や、真面目な内容を書き込む場所として、今後は使っていこうと思う。

2015年3月9日月曜日

194.進撃のキヤノン

ああ、やっとこのタイトルで書ける。
ようやくキヤノンが反撃の狼煙を上げ、ここ最近気合いの入った製品を連発している。
既にやや古い情報になってしまったが(落ち着いて書く時間がここ数週間作れなかった)、少し振り返ってみたい。

キヤノンは、昨年の9月にAPS-Cフラッグシップ機 7D MarkIIを発売してから、本気度が上がってきているように見える。

出典: http://kakaku.com/item/K0000693649/images/ 


ここ数年待ち望まれてきたAPS-Cサイズ 高速連射機7Dの刷新は、期待が大きいだけに失敗したときのリスクも大きいものだったが、見事に期待を上回る出来だった。10コマ/秒とEOS-1DX並みのAF性能で、鳥や航空写真、スポーツ系の動きものを撮る人々から大歓迎された。

また、同じクラスのニコン機(D300S)が長らく刷新されていないことから、ニコンのDXフォーマット(APS-C)ファンも一部キヤノンに鞍替えしようか、とつぶやく結果となった。(実際にどうなったかはわからないが)

さて、遡ること3年前、2012年2月、ニコンは3630万画素のD800を発表した。この画素数は前機種のD700(その後別ラインとしてD750に分かれるが)が1210万画素だったことを考えると、実に3倍で、如何にインパクトのある高画素化であったか分かると思う。

それより以前は、フルサイズの高画素機と言えばキヤノンの5D MarkIIで、2230万画素だった。ニコンはしばらくキヤノンの高画素フルサイズに嫉妬し、それを大幅に上回る機種を出したのだった。

しかし、高画素と高感度耐性は逆相関すると当時考えられており、発表から発売までは、「そんな高画素はいらない、高感度耐性を高めたバランス機がよい」との論調が多かった(噂サイトで)。

蓋を開けてみると、意外にも高感度耐性もよく(結局プリントするサイズは小さいので、縮小することによってノイズが見た目上キャンセルされ、意外とISO6400でも鑑賞に耐えることが発覚した)、大ヒットとなった。

対してキヤノンは、D800にやや遅れて、2012年3月に5D Mark IIIを発売したが、これは完全にバランス指向型の機種で、画素数は据え置き2230万画素。

5D Mark IIIは、高いAF追従性能と常用ISO25600までの高感度対応で訴求したが、D800よりも約5万円近く高い値段設定で、割高感があった。

肝心の高感度対決でも、ISO6400では同サイズにリサイズしたD800にディテールの保持で敗れ、キヤノンファンは落胆を隠せなかった。(D800はISO6400までしか設定できないため、ここでの対決となった)

さらに追い打ちをかけるのは、DxO mark scoreで、ニコンが採用するソニー製センサーはフルサイズでは90ポイント以上を叩き出す一方で、キヤノン製センサーは83ポイント程度。センサー性能も大きく水をあけられていることは明らかだった。(この点をあげつらうサイトがいくつかあって、キヤノンファンとしては見ていて悲しくなってくる)

さて、こうなると、キヤノンファンが今度は嫉妬する番である。
「キヤノンの高画素機はどうなるのか?このまま水をあけられたままでいいのか?」
ここから長らく、キヤノンの「冬の時代」が始まる。

(なお、5D Mark IIIの名誉のために補足すると、その設計意図通り、バランス指向型の機種として完成度は高く、今となっては扱いやすい名機とされている。キヤノンが真面目な技術開発を行っていることは間違いない。)

さて、話は2015年現在に戻る。
ニコンのD800から遅れること3年、キヤノンも遂に高画素機を発表した。
EOS-5DSと5DSRである。

出典:http://kakaku.com/item/K0000741187/



出典:http://kakaku.com/item/K0000741188/


有効画素数は5060万画素。
ローパスフィルターの効果あり、なしでEOS-5DSと5DSRに分かれる。
これは、ニコンのD800とD800Eの2ラインと全く同じやり方で、またネーミングは、ソニーのRX1とRX1Rと全く同様である。(ローパスフィルターレス(もしくは弱めた方)をRとし、赤字にすることまで一緒)

他社がうまくやってのけた戦略を、そのまま借用するのはキヤノンのお家芸(横綱の後追い相撲)だが、今回もまさにそのような方法で、結果としては「意趣返し」をしたことになる。
(ここまで来ると、嫌みなのか?とも勘ぐりたくなる。)

(余談だが、なぜ5DSはロゴを金色にしてしまったのだろう?以前キヤノンは色を無駄使いせずブランドイメージの演出がうまいという趣旨の記事を書いたが、一部前言撤回しなければならないように思う。この金ロゴは、訳が分からない。これを承認してしまうセンスの持ち主がいるということなのだろう。個人的にはとても残念だ。ただ、5DSRの方は銀と赤で、Lレンズとの相性もいいデザインだ。もしかして、5DSRを買わせようとでもしているのか?などと穿った見方をしてしまう。)

さて、時を同じくして、今年2月20日。
オリンパスのOM-D EM-5 Mark IIに、センサーシフト方式の手ぶれ補正機構を応用し、半画素ずつずらして8枚撮影した画像を合成することで、4000万画素の画像を得るというとんでもない技術が搭載された。
この撮影は、残念ながら静物に限られることになるが、それでも、4000万画素の画像を得る手段がマイクロフォーサーズに搭載されてきたという点は注目に値する。


世はついに、4000万から5000万級の高画素時代に移りつつある。


さて、進撃のキヤノン。
ネックは例によって値段である。5DSが45万、5DSRが48万円。中古車ならば買えてしまうような値段だが、これがどこまで受け入れられるだろうか。

また、5000万画素についてこれるレンズの選択と、巨大ファイルサイズのハンドリング、等倍鑑賞で目立つ手ぶれ(微ぶれ)等、性能が上がったことによるトレードオフもある。
この辺り、キヤノンは十分分かっていて、恐らく生産調整をきちんとしてくるはずだ。

その上で、バランス機を5D MarkIVとするのだろう。
賢い。

技術で勝ることを誇示しつつ、商売でも勝てるよう布陣を敷く。
価格の面で不安要素がありつつも(ただ、それは利益率重視の企業としては、正しい戦略)、まだまだキヤノンは頑張れそうである。

さて、ここにソニーがどのように絡んでくるのだろう。
EVFレスのNEXタイプの廉価フルサイズ機が噂されている。実売10万円未満とも言われており、もし実現すると、フルサイズ=高価という図式が完全に壊れることになる。(既にα7で大分壊れてしまっているが)

これは、フルサイズの市場で値崩れを発生させる「禁断の扉」を開くことになる。

まだまだ、デジカメ市場は面白い。

2015年2月8日日曜日

193.ペンタックスの始動

ペンタックスファンのみなさま、おめでとうございます。
ついに、待望の「フルサイズ機」が正式に開発発表されました。
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出典:デジカメWatch http://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/20150205_686692.html


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これまで本当に長い間ペンタックスファンは、「フルサイズ機」の登場を待ってきた。

もちろん、キヤノンやニコンといった大手との差別化で、APS-C注力路線を堅持すべきだ、という意見もあったので、全員が全員待っていたという訳ではなかったが、それでもフルサイズはペンタックスファンの一つの夢だったと思う。

しかし、ペンタックスにはフルサイズに踏み出せない足かせがあった。銀塩カメラからデジタルに移行した際、純正レンズのイメージサークルをAPS-Cに最適化しており、結果としてフルサイズをカバーできる最新のレンズが皆無となってしまっていたのだ。このため、「例えフルサイズ機を出してもレンズ資産がほとんどなく、システム構築に莫大なコストがかかり、採算が合わない」と言われていた。

実際、ここ数年何度も「フルサイズ機の開発は行っているが、具体的な発売の目処はたっていない」といった趣旨の発言をペンタックス開発陣は繰り返しており、毎回、「今度もか・・・」とため息をついたものだった。

それがあまりにも長く続いたため、自分は我慢できずペンタックスのKマウントから、キヤノンのEFマウントに鞍替えしてしまった。それが2009年。もう今から5年以上前のことになる。時間が経つのは本当に早いものだ。

しかし、それでも自分の一眼レフの使用歴は、Kマウントから始まったことに間違いはなく、特別な思いを持ってペンタックスの動向を見つめてきた。

考えてみると、ペンタックスは、ここ数年、「激動」と言ってよい経験をしてきた。
親会社のHOYAから不採算事業として扱われ、その後RICOHによって買収されることとなる。
結果、今ではペンタックスは「一眼レフのブランド」ではあるが、「カメラメーカー」としては存在していない。
象徴的なのは、背面液晶の下部で、ここを見ると、PENTAXではなく、RICOH銘がプリントされているのだ(この点が古参のペンタックスファンにはどうしても受け入れられない)。

一眼レフのラインナップもめまぐるしく変化してきた。
K10D、K100D時代(2006年頃)から自分はペンタックスを使用し始めたが、このときは、APS-Cの一眼レフ2機種のみというシンプルなライン構成だった。形状も、カメラしかりとしたもので、どちらかというと保守的なデザインのものだったように思う。

初級機のK100Dと、中級機のK10Dは、それぞれ同じクラスの他社競合品よりも、やや機能的に良く、「中級機までの使用」「高速なAFを必要としない風景写真での使用」として割り切るのであれば、悪くない選択肢だったと記憶している。(しかし、その上のクラスが不在で、ここが他社ではフルサイズ機となる)

それが、やがてデザインを中心として急激に変調を来す。
K-xのカラーバリエーション100色展開や、マークニューソンデザインのミラーレスカメラK-01(ただマウントは、一眼レフと同様のKマウントのままでこん棒のように分厚いミラーレスになってしまった)、小型化を最優先とした結果、撮像素子までコンデジ並みに小型化してしまったQシリーズ(普通は撮像素子の大きさはなるだけ確保して、筐体の大きさを小さくする努力をするのだが、そのような一般通念を度外視し、ある意味銀塩の110カメラのように撮像素子まで小さくしてしまったという賛否両論を巻き起こしたミラーレス)、最近のエントリー機種は若者向けのデザインを重視し、LEDを前面に配置している(K−S1)等、「遊び感」のあるポップな開発路線を展開した。

その一方で、K−7、5、3とK10Dの本格路線を引き継いだと思われる、真面目な中級機カメラも作ってきた。また、645Dに始まる中判デジタルへも踏み出し、結果として、645、APS-C、Qシリーズと撮像素子のラインが3本に分かれることになる。市場シェアで10%に満たない会社にとっては、これらラインの維持、そして対応するレンズ群の構築は相応のきつさを伴っているものと思われる。

そこに今回、フルサイズが新たなラインとして加わることになる。
それもレンズ群の新規構築という大きな課題を伴って。
これは大きな決断だったと思う。
今後、進む道はかなり険しいと思われるが、それでも是非がんばってほしい。

さて長らく、噂され、そして期待されてきたペンタックスのフルサイズ一眼レフ。
自分は、1年程前に以下のような記事を書いていた。
http://7billionth-essay.blogspot.com/2014/01/1702013.html

そこでは、
  • 銀塩時代の名機 PENTAX LXをデジタル版として復活させた機種(LX−D)
  • マウントは新マウントで、かつミラーレスに思い切って変更する
というようなことを、「フルサイズ後発のペンタックス」にとってはいいのではないかと考えていた。


しかし、蓋を開けてみると、全くはずれてしまい、

  • デザインエッセンスは、LXではなく、中判カメラの67IIがモチーフの模様
  • マウントは、Kマウントで、かつミラーありの通常の一眼レフ
であった。
PENTAX 67(出典:パンフレット)

ただ、自分はこれに思った程がっかりしていない。
むしろ、ペンタックスが自身の強みを徹底的に見直し、突き詰めた結果として、こうした回答を用意したのだと理解している。

自分の考えは、オリンパスのOM-Dシリーズのフルサイズ版で、「デジタル技術で過去の名機を現代版に刷新する」という戦略だった。

デジタルカメラになり背面液晶の必要性から大型化したボディと、テレセン性のため巨大化したレンズを、「ミラーレス構造とEVFで、再度フィルム時代のサイズまで小型化する」という発想だ。

しかし、ペンタックスは、EVFではなく、光学ファインダーを選んだ(のだと思う)。
ペンタプリズムを国産メーカーとして一番に導入し、一眼レフの普及を担ってきた、というメーカーの歴史を譲りたくなかったのだろう。

さて、フルサイズ機のデザインの主張は、一言で言えば「よく見えるファインダー」だ。
特徴的なとんがり頭のファインダーは、ソニーの名機α900(デジタルカメラ史上、最も倍率の高い、最も明るくクリアなファインダーを搭載)の面影を感じる。
人によっては、LXの稀少ファインダーFA-2を思い浮かべるかもしれない。

いずれにせよ、光学ファインダーを極めるという方向性は、ソニーがα900を最後に放棄してしまった路線なので、今となっては差別化の訴求点としてあり得るポジションだと思う。(つい先日まで、日本に帰ったら中古でα900を購入しようと思っていたくらいなので、僕自身、そのニーズを持っている。)

明るいファインダーに明るいレンズをつけると、本当に世界が明るく見える。
撮影者と世界をつなぐのは、ファインダーだ。
撮影体験は、ファインダーとシャッター音、そして各部の操作感によって構成されている。このため、光学ファインダーを極めるという方向性は、とても好ましいと思う。

手元には、売却せずにとっておいたKマウントのカールツァイス Planar T* 1.4/50がある。
APS-Cでは75mmの中望遠となってしまい使いどころが難しかったが、フルサイズであれば標準の50mmとなり、開放F1.4によるボケも楽しめる。

明るいファインダーに、明るいレンズの組み合わせ。
これは正に自分にとって最高の提案になる。
続報を楽しみに待つとしよう。 

2015年1月19日月曜日

192. 2014年のカメラ業界を振り返る

今更だが、2014年のカメラ業界を振り返ってみようと思う。
ごく一部のカメラファン(キヤノンユーザー)の戯れ言なので、その点あしからず。

キヤノン
  • 何と言っても7D mark2の発売。これで近年のふにゃふにゃ開発を一掃したかに見えた。が、やはりキヤノン製センサーのDXOスコアは従来通り低調で、スコア至上主義者からは批判を受けることになってしまった。とは言え、AFは最高。位相差AFでの優位性はしばらく続く。しかし、コントラストAFやデュアルピクセルAFでは、まだまだな印象。EVFと像面での処理が依然として課題に見える。
  • 力を入れた高級コンパクトクラスでは、G1XからG7Xまで発売。つまり、マイクロフォーサーズから1インチまで、センサーサイズを揃えてきたことになる。これは、キヤノンが他社のアプローチ(マイクロフォーサーズのオリンパス、パナソニック、1インチのソニー)を認めた年だった、とも言える。つまり後追いなのだが、カメラ業界では横綱相撲とも言われる。さて、このような取り組みはいつまで続くだろうか。
  • G7Xはソニーセンサー。このため、DXOスコア高し。それでいて6万円台。元祖のソニーRX100Mk3がEVF付きとはいえ8万円台なので、やっぱりキヤノンは商売上手に見える。ただ、実際持って見ると、なんとも言えないもっさり感(デザインとして)があるのは、ちょっと残念だった。
  • G1Xは、購入して使っている。手振れ補正が動画撮影時にとてもよく、また家族の写真を他の人に撮ってもらうときにも、顔認識が働くのでピントが合いやすく重宝している。ただ、パナソニックのLX100が登場してしまった今、この機種を積極的に選ぶ必要性はほぼなくなってしまった。ほぼ同サイズのセンサーで、100g近く軽く、EVFまで内蔵されており、デザインもかなりいい。実機をUSで触れられていないのであまり自信を持って言えないが、ひいき目に見てもLX100の圧勝だろう。(G1Xの利点は、70-120mmの望遠域と、ティルト液晶、1日のダイジェストムービーを作れる機能といったところだ)
  • 今後、キヤノンに作ってほしいのは、LレンズのEF-M版。これとEVFを搭載した本気度の高いEOS Mが出たなら、僕は飛びつく。
  • 気になるのは、新しいLレンズは総じてプラスチッキーであること。もっと金属感が欲しい。コスト的にはだめなのかもしれないが。
フジフイルム
  • フジフイルムは、カメラよりも医療分野での活躍の方が目新しかったように思う。買収した富山化学が持っていた抗インフルエンザ薬がエボラ出血熱にも有効であるとして、新薬開発を発表。また、3Dプリンタの技術を応用し、再生医療分野にも進出を発表した。こういった新規参入のエリアで成果を上げることは並大抵のことではないと思う。素直にすごいと思う。
  • デジカメ事業としては、着実にレンズの本数を増やす一年で、ボディに関しては少し立ち止まった一年だったように思う。恐らく、エントリー機が想定より売れず、戸惑い、戦略の練り直しを行っているように思う。またパナソニックと提携し開発を発表している有機センサーにはあまり期待できなそうだ。
  • Xシリーズにはフルサイズセンサー化の噂があったが、今年のメーカーのインタビューを見る限り、APS-Cで腹を括ったようだ。フルサイズは恐らく別ラインにして、レンズ固定式から出してみる、くらいだろう。X100T後継機をフルサイズとし、ソニーのRX1と競わせる、というのもありそうだが、どれだけ事業として魅力的かは疑問である。ビジネスとしては、既存のXマウントのシェア向上が第一だろう。
  • しかし、X100Tをレンズを変えずに出したのは英断だったと思う。これでテレコンやワイコンが、X100シリーズ三世代を通して使えるようになった。開発初期に、開発本部長が「10年使える機種を作るぞ」と号令を出したと記憶しているが、この三世代を合わせればもしかすると10年選手にもなるかもしれない。(少なくとも6年くらいは)

パナソニック
  • 独自路線を明確に打ち出し、突き進む一年だったと思う。GM1の流れから変調し(いい意味で)、GM5へと進化した。LX100も、とてもよく研究された機種と思う。G1Xを買う前なら、完全にこちらだった(もしくはライカ版)。
  • 不思議なのは、ティルト液晶の機種をあまり出さない傾向にあることだ。GM1の後継機には期待していたのだが、見送られてしまった。もちろん小型化を優先ということはあると思うが、RX100Mk3では、あのサイズでできているわけで、やはり選択肢から敢えて外していると見るべきだろう。

オリンパス
  • オリンパスも独自路線を進化させる方向だった。EM-1は確かに持ってみると所有したくなる。EM-10も質感は劣るが、タブルのダイアルが操作性抜群で、キヤノンとはまた違った操作性の極みを見たように思う。パナはこの点に欠けている(が、デザインでは勝っている。ブランド名の女性っぽさを除いて)。
  • 最近リークした、EM-5の2型には心底惚れ込んでしまった。この比率だよ、この比率。と何度も写真を見直しつつ、得心している。初代EM-5のときもそうだったが、CP+で展示されれば、恐らく最も混み合うブースになるだろう。USにいるのが悔しい限りだ。(ちなみに、カメラやレンズの価格では、USの方が日本よりやや高めの価格設定になることが多い)

リコー(ペンタックス)
  • ペンタックスは、ここ3年くらい一人でダンスし続けている。若手が奇抜なデザインを考え、熟練技術者が中身(光学ファインダー、センサーシフト機能、JPEGのチューニング)をがっちり作る。その外と中のギャップが側から見てると楽しいが、やはり自分の好みではないのだな、と思う。相変わらずフルサイズへの参入は噂止まり。来年は出るだろうか。
  • リコーはthetaだけだけど、そろそろGX200の後継機(GXRではなく)を出すというのはどうだろうか。あとはフルサイズのGR?レンズが大きくなりそうで微妙だろうか。
ソニー
  • ソニーは今年も台風の目だった。フルサイズでもボディ多産路線とは恐れ入る。α7, 7R, 7Sのように筐体を共通化した上で、センサーだけ変更するという手法は、なるほどと思う。ただ、共通化するのなら、筐体をきちんと剛性感を持たせて作るべきだった。結果、そういった弱点を潰したα7後継機が出たが、ユーザー的にはどうなんだろう。
  • ソニーセンサーは間違いなくキヤノン以上で、JPEGの絵作りも正直言って好みだ。ただ、どうしても、カメラとして見たときに、デザインが好きになれない。例えば、ペンタ部分にある社名のロゴだが、もう少し下につけるだけで締まって見えるはずだ。また、ペンタ部とボディとの間に一段間が空いているのだが、ここをなくすよう変更した方がいい。オリンパスのEM-5後継機を是非直視してほしい。せっかく提携しているのだから、カメラとしてのデザインセンスもどうにか協力できないのだろうか。。(個人的には、オリンパスの筐体でソニーのフルサイズセンサーが入ったらと願っている。このとき、僕はマウントをキヤノンから乗り換えるかもしれない)
  • デザイン以外で言うと、AFの高速化くらいしか弱点がない。ソニーすごいなぁ。

個人的なこと
  • センサースコア至上主義に一時やられて、ニコンに鞍替えしようかとも思った。しかし、どうしてもデザインで萎えてしまう。結局は、好きになれるかどうかが重要なのだろう。
    • ニコンの一眼レフでは、なぜ、F3のジウジアーロデザインの差し色(赤線)をくちばしのようなデザインとして残した上で、ブランドカラーは黄色でありながら、ハイエンドレンズでは金色のライン(高倍率ズーム、廉価レンズのタムロンにかぶる)をつけてしまうのだろうか。こういった色の不統一について、メーカーは特に気にしていないのだろうか。(同じことがペンタックスにも言える。ブランドカラーは緑なのか、金なのか。)
    • なぜそれほどマッチョなデザインとするのか。
    • Nikonの書体はなぜイタリックにしたのか(スポーツブランドのようだ)。
    • なぜモデル名がD810のように端数を許すのか。またD7000のような四桁を採用するのか(ここはソニーも同じ)。呼称という点で、言いづらく、また愛着も湧きにくく感じる。
  • 上記のようなことは、カメラの本質(どんな写真が取れるのか(センサーと画像エンジン)、その歩留まりはどの程度か(AFとセンサーの高感度耐性能)、携帯性能はよいか(サイズ)、など)とは直接リンクしない。しかし、趣味の範疇では重要な要素だ。好きになれるか。その点には忠実でいたい(でなければ、フイルムカメラなどには手を出せない)。
  • こういった思考を経て、結局自分はスペック至上主義ではないことに気づいた。もちろん、そこそこにスペックは欲しいが、一等賞でなくてもよく、むしろ、レンズとカメラの一体感、シリーズとしての一貫性、デザインのしっくり感を重視してしまう。次に、質感性能。未だに、5DMk2が好きなのは、6Dよりも質感に優れているから。使っていて、いいな、と感じる。持って感じる剛性感。
  • そのように考えると、改めてLレンズの赤線とEOSのボディとの相性は良く、また、5DMk2のように、5Dのラインに連番が付く呼称は、自分にとって好ましいことがわかった。まだしばらくはEOSユーザーなのだろう。
  • あとは、キヤノンがセンサー性能(ダイナミックレンジ)を上げてくれることを祈るのみだ。

2014年12月26日金曜日

191. 最近のお気に入り

ARCTERYXのKhamski 38というモデル。日常でも使いたいため、Shortサイズ(30〜34L)にした。Lレンズと同じ配色で気に入っている。


nobisというカナダの会社のジャケット。Canada gooseと同じか、それより暖かい。普通の部屋で着ると汗が出てくるくらい。


このブランドのいいところは、手首周りが丁寧に造られていて、熱が逃げない構造になっているところ。

画像ではうまく説明できないのだが、左右のポケットにはサイドから手をつっこめるようになっていて、そこがフリースで覆われており、とても暖かい。
Hand warmerと店員が表現していたのだが、自分の体温で暖まったポケットに手を入れると確かに、その名の通りだと思う。

また、ジップがダブルジップで、下方のみ開けることも可能。身の丈が長いコートやジャケットはこの機能が絶対必要だと思う。(が、たまに無いものもある。)

他にも、首まですっぽり隠れること、フードにワイヤーが入っており形をある程度いじれること、前の留め具がマグネット式になっており、ジップを閉めた後はワンタッチで全面を閉められること、など小技が効いている。

普段、服装のことなどほとんど気に止めないのだが、これだけ趣向が凝らされると、いいなぁと思う。

恐らく、近々日本でも販売するはずなので(もしかすると既にしている?)、暖かくて実用的なコートやジャケットを必要とする人にはおすすめである。