2012年12月31日月曜日

152. 年末に思うこと2

【2013年のこと】

2013年にひとつのキーワードを設定するとしたら、「意志の力」だ。


生活を律し、やるべきことに集中する意志の力を高く持っていきたい。


ここ数年思ってきた「成長」や「継続」といった言葉は、今の状況には合いそうもない。
もちろん、「結果」として成長があるのであれば、それは喜ばしいことなのだが、僕にはやるべきこと、やりたいことが分かっていて、その〆切も見えているので、毎日が「本番」なのである。この本番をどうやって戦うか。その点を真剣に考えると、「意志を強く持ってやる」という至極シンプルな信条に収斂していく。


明確な成果が求められる特に30代以降は、実戦経験に特化し、戦いの中でスキルを伸ばしていくのが良いように思う。逃げずに、覚悟して、やるのだ。


その場合、意志の力は、何よりも優先される。


ツルゲーネフも言うように、「自由よりも重要なのは意志」なのである。



【人間の本能について】
子供が生まれてから1ヶ月と10日経った。
目が見えてきたようで、起きている間は目をくりくりさせ、色々な方向を見ている。

最近は、「泣き出せば大人がやってくる」ということも学習済みのようで、例えば目が覚めたとき、近くに人がいないと、とりあえず泣き出す。

母乳であったり、おむつ交換であったり、そういった具体的な要求がない場合も多く、初めは「一体何をしてほしいんだろう?」と考えたものだが、抱っこしてあげると途端に泣き止むのだった。

つまり、「抱っこしてほしい」、「近くにいてほしい」ということなのかもしれない。

確かに幼い頃の淡い記憶として、「スーパーで親が視界から消えたとき」途端に不安になった感覚がある。そのような感性を既にこの子は持っているのだろう。

考えてみると、自分が子供であり、親とともに生活をしていたときは、「さびしい」という思いをほとんど感じなかったように思う。
しかし、10代後半を迎え、特に寮で生活をしたり、一人暮らしを始めると、「なぜか」彼女がほしくなり、独り身でいることが嫌になってしまった。真っただ中にいるときは、その理由を「そういう年頃だから」とか「周りが付き合っているから」等と思っていたが、根本的には、「さびしいから」なのだなと今は思う。

親から生まれ、育まれ、常に誰かが一緒にいる状態から、
1人での生活に切り替えたら、
寂しくなるのも不思議ではない。

人は、根本的に寂しがりなのだ。
もちろんその度合いは人それぞれだけれど、根本的に寂しがりなので、幼少期は親がその隙間を満たし、青年期からはパートナーがそれを満たす。だから、パートナーが見つからないと不安定だし、何か虚ろでもの寂しいのだろう。

この子は、まだ言葉を解さない。
他の子供も知らない。
他人との比較、という概念もない。
純粋に、内発的な欲求に従って日々を送っている。

つまり、僕はこの子を通して、「純粋な人の本能」を見ることになる。
そして、自分が気付かずに通り過ぎてきた、もしくは置き忘れてきた、自分自身の本能にもう一度出会うことになる。

親になって一人前だ、なんて言われることがある。
いやいやそんなことはないでしょ。経済的に自立していれば、もう一人前でしょ。と信じてきた。それは今でも同じだが、しかし、一方で、親になってようやく「人の基本部分」を理解できるようになるのだなという気もしてきた。

できるだけ、この子を見て、かまっていたいと思う。



【家族を持つこと】
結婚して、子供が生まれると、自由な時間やお金が減るし、ましてや一人旅なんか行けなくなる。一個人としてのプライベートに強烈な制限がかかる。だから、結婚や家族を作ることには懐疑的だ。

正直に言って、僕は20代までこう思ってきた。
実際に結婚して、子供が生まれてみてどうか?

確かに、自由な時間もお金も減るし、ましてや一人旅なんか行けやしない。
しかし、もともと「一人旅」をなぜしたかったのかと考えれば、「自分の日常にはない新しい何かを発見したい」という欲求があったのだと思う。

そして、この「新しい何かを発見したい」という欲求は、「子供」によっても多いに満たされることに最近気付き始めた。

家の中に、「新たな発見」がある毎日。
日常には「新しいことなんか一つもない」と信じて疑わなかった日々から、「日常の中に新たな発見が散りばめられている」と信じる日々へ。

なるほどなぁ。

こういうことをもっと早く知っていれば、また、若い世代にも共有できれば、少子高齢化も少しは緩和されるように思う(もちろん経済的な要因も解決しなければならないが、現実的に考えて、経済的な要因を解決することは非常に難しい。また、そもそも制度でできることと、精神的な変革を起こすことは根本的に異なるし、実は両面での改革が必要なんだと思う。制度でできること(意図的にインフレを起こす、税制を変える、子育て支援制度を充実させる、保育園を増やす)だけをやっていても駄目で(経済的に豊かになった→「じゃあ子供を作ろう」となるだろうか?経済的に豊かになった→「じゃあ何か買おう」となるのが普通だし、その世代内で経済的な余剰分が遣われてしまえば、少子には何の効果もない(国内経済的な効果はあるが)。「保育園が少ないから子供を作らない」というのも聞いたことがない。もちろん保育園は十分に作るべきなのだが、「結婚をする」「子供を作る」という「決断」には)精神的な部分でも変わっていかなければならないと思う。大家族が維持されていた高度経済成長期以前であれば、家族を作ることになんらの躊躇もなく、それが当たり前のものとして精神的に育まれてきた。しかし、核家族が大半を占める世界になると、世代間の連携が弱くなり、家族を作ることに対して意識が弱まってくる。ましてや親は高度経済成長を遂げるために仕事仕事で、家庭が家庭として機能を果たすのが難しいという状況まで揃ってしまった。さらに、ネットの普及から、個人が情報に直にアクセスする機会が増え、マスメディアがマスとして機能しにくくなり、「個の時代」が到来している。つまり、国全体をコントロールすることが非常に難しい社会だ。これは社会としては成熟段階にあるので、「自由意志に基づく人間観」としては究極の状態かもしれないし、実際、一個人としては快適なのだが、一方で、世代内に閉じた利己性を存分に発揮してしまうと、その世代で経済(具体的にはお金)を消費し尽くしてしまい、次の世代が生まれなくなってしまう。この現象を見るに、僕は毎回宮沢賢治の「なめとこ山の熊」を思い出す。漁師から獲物を買いたたく町中の荒物屋の主人を指して、宮沢賢治は「こんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく」と書いた。その通りで、「ずるい人間」は少しずつ世界から排除されていく。有限のエネルギー(食料、金、資源)を世代間で分け合う必要がある世界が規定された時点で、そう決まってしまうのだ。そして、当然、世界のエネルギーは有限だ。「個の時代」は文化の成熟という意味では賞賛されるべき時代かもしれないが、一方で、「ずるい人間(利己的な人間)」が多くなる傾向にあるように思う。僕もその一人なので、自己批判になるわけだが・・・。いずれにせよ、「個人の幸せ」の追求と、「国や社会(つまり集団)としての幸せ」の実現が相関しなくなってきており、そのズレが無視できないレベルまで来てしまっている。時代背景にせよ、経済的な背景にせよ、そういった言い訳はたくさんある。しかし、現実問題としては、個人個人の人生における「決断」がより合わさって社会や国の有り様を形作っているので、その「決断」に関与する精神的な下支えがなくてはならないだろうと思う。精神的な下支えというのは、「そうしたい」と本人が思える「価値観の下地」ということである。平たく言えば、「家族っていいもんだよ。」と心から信じられるということだ。僕は残念ながら、かなり長い間、「家族って厄介なもんだよな。」と思ってきたので、今となってようやくそう思えるようになった。大きな変わり様で、また、大変な幸運である。)


みなさん、良いお年を。

2012年12月30日日曜日

151. 年末に思うこと

メモ的な内容になるが、思いついたことを羅列していく。


  • どれだけの時間とお金をかけたのか:これは、その人にとってその対象がどういう位置づけにあったのかを簡単に推し量れる指標かもしれない(人生を「会社経営」に喩えた場合、どの分野にどれだけの資金と時間を投下したかに相当する)。例えば、カメラ、旅、英語学習といったものに僕は時間とお金をつぎ込んできたと思うけれど、それがどれくらいのものだったのかを考える場合、時間とお金は定量的に把握できる有用な(簡単な)指標と思う。ただし、その対象に取り組む精神、集中力は全て均一であるという強烈な仮定が必要だが。(英語学習など、教材への投資と努力とが必ずしも相関しないことが多い。)
  • 周期的に、2013年はAPS-Cサイズのデジタル一眼レフが多く出るのだろう。Canonからは7D mark2、NikonからはD300の後継機が出るかどうかが焦点だ。この二社は2012年までにフルサイズのラインナップを一新したので、恐らく次はAPS-C機の上位モデルを主軸に展開するものと思われる。後は、地味にレンズの刷新だろう。特にCanonは高画素機を計画中のはずなので、それに耐えうる性能を有するレンズを取り揃えるためにレンズの刷新を急ぐはずだ。個人的には、高画素機のセンサーをこれまでのプロセスルールで製造するのか、ファブリケーション設備を新しくして製造するのかが気になるところだ。後者の場合、後2年くらいはかかってしまいそうな予感。逆に早く登場するのであれば前者の可能性が高くなり、この場合、とてもがっかりする性能(ダイナミックレンジ的に)に落ち着くだろう。そして、SONYとのセンサー性能差が完璧に露呈することになる。DxO mark scoreは高画素機で得点が高くなりやすい傾向にあるが、それでも負けてしまうとなると、もはや誤摩化しがきかなくなってしまう。この辺り、Canonの開発部のシニアはどう捉えているのだろうか?ミラーレス市場での台頭を目指し、他方でプロユースも睨んだセンサー性能の底上げを要求される。異なるベクトルに多大な労力をかけねばならず、舵取りがかなり難しいはずだ。Canonは数年前(ミラーレス登場前の2007年くらい)から比べると、格段に苦しい状況に追い込まれている。Canonと同様にプロユースの多いNikonはと言うと、Nikonはセンサーを外注(SONY)に出しているため、センサーの設計には自社のコストをかけるが、製造設備の投資までは頭に入れる必要はない。その分、悩みは少なく、SONYが良いセンサーを作ることも相まって、プロユースでの勝負ではCanonを制していると思う。ただ、Nikonもミラーレス市場ではイマイチな位置取りで、ミラーレスという括りで考えると決して成功はしていない。(しかし、モノは考えようで、コンデジの市場とミラーレスの市場をくっつけて考えると(ニコンのミラーレス機Nikon1の1インチセンサーはコンデジ寄りの製品とも言えるので)、ある意味ビジネスとしては成功なのかもしれない※1。これはペンタックスのQシリーズも同様である。Qシリーズはコンデジと同じサイズのセンサーを使っており、出てくる絵もコンデジレベルと評判だが、「ミラーレス一眼」ではなく、「レンズが交換できる高級コンデジ」を売っているというつもりであれば、値崩れの激しいコンデジ市場から回避できているわけで、ビジネスとしては成功なのだ。)
  • SONYの動きが気になるところだ。ボディーのロードマップに大きな変更があり、恐らく、NEXのフルサイズ版がファーストプライオリティーで開発中である。NEXのEマウントにはフルサイズのセンサーが物理的には入るため(ビデオカメラとして既に販売はされている)、開発自体は容易と思われるが、問題はレンズとのマッチングだろう。Eマウント用のレンズはAPS-Cサイズのセンサーに特化してイメージサークルを決めており、当然フランジバックもそれに応じた最適化が行われている。しかし、恐らくだが、フルサイズのセンサーを積んだ場合、Eマウントよりも長めのフランジバックが要求されることになると思われる。個人的にはレンズの後端を前よりに設計して、レンズの鏡筒自体にフランジバックが内包されるようにすれば問題は解決しそうな気がするのだが、技術的にはそう簡単ではないのかもしれない。後は、フルサイズに求められるAF性能を、コントラストAFもしくは像面位相差AFでどれだけ達成できるか。既にRX1でポテンシャルは見えているのだが、レンズ交換式=様々な焦点距離に対応したAF(望遠は被写界深度が浅いのでよりシビアなAF精度が要求される)が必要で、この辺りに技術的な障壁がありそうな気がする(完全に素人推測だが)。ただ、SONYとしては「活路はここだ」と思っているはずなので、AFとレンズ設計について解決の目処が立った時点で一気に発売まで持ってくるはずだ。ここ最近のSONYの戦略は「先行逃げ切り型」なので、スタートの合図さえ鳴り響けば、市場構造が変わるのも時間の問題だ。後は、地道にEVFの性能向上をお願いしたい。NEX7あたりからかなり良くなったと思っているが、それでもまだまだ違和感を感じる(低輝度では特に)。この違和感がとれたとき、僕はフルサイズNEXを買うだろう(そして、CanonとSONYの2マウント体制になる)。
  • ペンタックスは2年前からフルサイズを開発中と言ってきたが、なかなか出せなかった。今年は、「マーケティング次第で、出す。」ということなので、発売時期として今年かは分からないものの、ある程度期待できそうだ。やるのであれば、高級路線の小型デジタル一眼レフだろう。K-7で既に使ってしまったが、キャッチコピーは「Pentax LXの遺伝子」だろう。小型のフルサイズには、Canonから6Dが、NikonからD600が出てしまい、「フルサイズで小型」というところには新規性がなくなってしまった(言わんこっちゃない、という思いで一杯である。せっかくの商機を逃してしまった。その上、EF40mm F2.8のパンケーキレンズも出されてしまい、「パンケーキが得意なペンタックス」という評価も事実上無くなってしまった)。しかし、6Dにせよ、D600にせよ、ある程度「フルサイズエントリー層」を意識した廉価版としての制限(作り込みの品質の制限)がある。ここを度外視して、高級感溢れる、カメラとしての魅力を発するようなエクステリアを纏えば、一定の支持は得られるはずだ。ペンタックスはデザインセンスもいい(K-5など)。そして、その発想はフィルム時代であればLXに相当する。3本のリミテッドレンズを刷新して、AF性能を付加した上で同時発売すれば、恐らく僕は買う(そしてCanonとSONYとペンタックスの3マウント体制になる)。
  • 富士フィルムは、Xシリーズのさらなる廉価版を出すと思われる。この機種には恐らくEFVもOVFも付かない。背面液晶のみの搭載となると思う。カラーバリエーションを揃え、女性層も取込む、「裾野を広げる」戦略を取るものと予想する。この場合、問題となるのは、黒いレンズだろう。カラーバリエーションをボディ側で作るのは容易でも、レンズの鏡筒が黒いままだとバランスが悪くなってしまう。そこで提案としては、シルバーバージョンのレンズも作るということだ。カメラの軍艦部(上部)はシルバーに統一し、張り革の色でカラーバリエーションを作る。レンズはシルバーとすれば、統一感が出てくる。ここまでやったら拍手を送りたい。そして個人的には、そのときになって、X-E1のシルバーを買うだろう(そして、CanonとSONYとペンタックスと富士フィルムの4マウント体制が出来上がる)。
  • RICOHが最近ずっと大人しい。どうした!?ペンタックスとの調和がうまく行っていないのか?とずっと心配だったのだが、今年はようやく動き出すようだ。個人的にはGX-Rの前に販売されていたGX-200の正統な後継機が出てくれると嬉しい。RICOHはカメラというモノをよく理解している希有な企業なので、是非頑張ってもらいたい。
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※1:BCNランキングによる2012年のミラーレス一眼カメラ販売台数シェアで考えると、一位はNikon 1 J1で11.2%、2位 OLYMPUS PEN Lite E-PL3 8.6%、3位 SONY NEX-5N 7.7%、4位パナソニッック LUMIX DMC-GF3 7.4%とのこと。台数シェア(売上げではない)では、安くなった2011年モデルが2012年に売れて、上位に来ている。台数で考えた場合、Nikonのミラーレスは好調なわけだ。ペンタックスQも7位でシェア6.0%となっている。「型落ち」や「値引き」も含めて、一般的なユーザーは購入を決断することになる。基本的に僕の考えは、early adopter(カメラの新製品を早く手にしたい層、カメラマニア層)ベースなので、この実売台数のシェアと僕個人の感覚には乖離がある(正直言って、J1が一位とは我が目を疑った。そして、数秒後に、自分の目が完全に一般消費者からかけ離れてしまっていることに気がついたというわけだ)。例えば、2012年のミラーレスと言えば、OLYMPUSのOM-Dがまず頭に浮かぶが、販売台数的には12位でシェア2.8%に過ぎない(それでも2012年のエポックメイキングなカメラとしてその名を刻むことは間違いない)。一方、あれだけAFの低性能ぶりで紛糾したEOS Mは15位 2.1%であり、歴史的な銘機となるOM-Dとわずかに0.7%しか違わない。これが「early adopter」と「late majorityを含めた市場全体」の乖離なのだろう(CM効果含め)。また、かなり意欲的な性能と特徴を持つ、富士フィルムのX-Pro1やX-E1は20位以内にも入っておらず、台数ベースで考えるとかなり低いと言わざるをえない。元々他社より価格設定が高めになっているのでメーカーとしても数が出ないことは織り込み済みだろうが、こういった高級機を含めて正当な評価を下すには、台数ベースではなく売上げベースで考えるべきなのかもしれない。なお投資家目線で言えば、売上げベースでもなく、営業利益ベースで考えたくなるのだが、そこまで行くともうカメラの世界から出てしまうので、とりあえず置いておこう(しかし、サムスンとの比較等、業界として企業同士を比較する場合、この考え方の方が重要だ。長期的な優劣は営業利益でつく。とはいえ、ここまで行くと証券アナリストやジャーナリストの世界に入ってしまうので、あまり深入りしないでおこうと自制する)。


  • 新しいiMacを購入することにした。27インチ、2.9GHz Intel Core i5で、1TBのFusion Driveとし、メモリをソフマップで積みまして、8Gから24GBに変更した(アップルで32GBまで積み増そうとすると5万2800円かかるが、ソフマップだと16GBの追加(24GBへ変更)で9000円くらいしかかからない。ちなみに同じことをヨドバシでやると4万5千円くらいかかる。ソフマップすごいな)。これでここ数年はやっていけると思う。品切れ状態が続いており、入手は1月末になりそうだが、楽しみだ。ちなみにこのiMac購入の遠因にはEOS 6Dの購入がある。EOS 6DのRAWファイルは、Lightroom 3では読み込めない(現像できないのではなく、ファイルそのものを読み込めない)。で、Lightroom 4を導入したいわけだが、Lightroom 4はMacのOSが10.6以上(Snow leopard以上)でなければならず、10.5のうちのiMacでは対応できない。Snow leopardを購入してOSを新しくすることもできるが、もうこの際だから買ってしまおうと決断したわけだ。うちのiMacはEarly 2008モデルで2008年末から使っているので、4年間も頑張ってきたわけだ。お疲れ様である。

2012年12月29日土曜日

150. 開眼

年末だ。
昨日、なんとか今年中に終わらせなければならない仕事を終わらせて、本日から年末の休みに入った。

子供が生まれてから、できるだけ夜早く帰れるように、朝は6時に起きて、6時45分に出発、8時少し前から仕事を開始する、という生活をしている。

生まれる前は、フレックス制をいいことに10時前に出社するというスローな生活だったので、2時間ほど生活のリズムを早めたことになる。

当初の目論見としては、19時くらいには帰り、沐浴や洗濯を手伝うことを予定していたのだが、ちょうど大規模なプロジェクトの開始時期にぶつかってしまい、結局夜22〜23時くらいに帰るのが精一杯という状況が続いている(結局朝の2時間分残業時間が追加されただけ、という状態)。

残業時間が70時間近くになるとさすがに疲れてくるのだが、とは言え、早起き効果なのか、存外集中力が続いた1ヶ月だった。

「今日、午前中の2時間でこのドキュメントを仕上げる。」
「その後、明日のプレゼン資料を30分で仕上げる。」
「3時間半外勤に出て、帰ってからシステムのレビューをする。」

といった具合に、1日にいくつもの締め切りがやって来ては、障害物競争のように各種のハードルを飛び越えていく。詳細を書けず伝わらないと思うが、統計、データマネジメント、トランスレーショナルリサーチ、臨床試験、海外規制、日本とアジアの医師とのやりとり、といった具合に、各分野の専門家達と顔を付き合わせ、協議し、決断し、アイデアをまとめあげて行く。
頭を短期間に切り替えて複数のタイムラインを並行して進めていく。

この業務の振幅の大きさが、初めはかなり不安だったのだが(普通なら2〜3人で分担するはずでパンクするんじゃないかと思っていた)やってみると、この振幅の大きさが自分を適度に緊張させ、「目が開いている」という状態が持続しているようだ。
中途半端な集中力では許されないという、状況が目をこじ開けさせているのかもしれない。暗闇で目をこらすのと同じだ。

ただ、金曜日くらいになると流石にへとへとで、体力を振り絞って仕事を終わらせ、終わらない場合は土曜日の午前中出社し、終わらせるということを繰り返している。

そんな流れでの年末年始なので、この「目が開いた状態」を持続させて、休みとしても高密度な状態を維持したい。

少なくとも朝は7時代には起きたい。今年は年末年始が長いので、朝 型の維持を意識していきたい。やりたいことは、それこそ山積している。

2012年12月16日日曜日

149. 体感としての遺伝子



11月20日に子供が生まれて、
僕たちの生活は、この子の時間をベースに動き始めた。

分かったことがいくつかある。
まず、僕たちは突然親になるのではない。
この子を抱いて、おむつを換えて、沐浴をして、ミルクをあげて、
せっせ、せっせと、行動を積み重ねていくうちに、
徐々に親の自覚が湧いてくるということだ。

そして、初めにこの子を見た時よりも、
今の方がもっと大事に感じている。
何かを愛おしいと思う気持ちは、
ある日突然湧いてくるのではなく、
重ねられる行動の内に芽吹いてくるのだ。

泣いている。
どうした?どうした?
と抱き上げて、
ゆっさゆっさと揺らしていると、
だんだん落ち着いてくる。
口を尖らせて、舌を出し、
ミルクが欲しいとねだってくる。
哺乳瓶を差し出すと、すごい勢いで飲みまくる。
ゲップして吐き出して、
それをガーゼで拭く。

そんなことを日に何度も繰り返している。
どうした?どうした?
と何度も語りかける。

その度に、僕は目を開かれるような、首の後ろから熱くなるような、不思議な充実感を感じる。

なるほど。
これが親の気持ちなのか。

もう一つ分かったことがある。
この子は、僕を父親にしてしまったと同時に、
僕の父をおじいちゃんに、
僕の母をおばあちゃんにしてしまった。
漏れなく、押し出し式に世代が一段上に上がってしまった。

父は70歳で、母は58歳。
「もうそんな世代だよ」と明るく言った。
そうか、もうそんな年なのか。

僕は、多分中学生くらいから、精神年齢は変わっていないと思うけど、
僕も30歳。
そんな年なのだ。

腕の中で、あやしながら、
顔をよく見る。

なんとなく、自分の幼い頃の写真に似ているような気がする。
目を細めたときは、父に似ているような気がする。
目をぱっと見開いたときは、嫁さんに似ているような気がする。
何か思案気にしている表情は祖父を思わせる。

遺伝。

この子は、僕たち家族の遺伝子が混ざり合い、
今この場に存在している。

ありありと、それが分かる。
体感する遺伝子。その権化に会ったように思う。


人と人とが出会うことは、そう珍しいことではない。
日常的に、僕たちは出会いを経験している。

しかし、僕や彼女が存在して、初めて存在する者と出会うことは、
めったにない。

もしかすると、僕たちが世界に対して行える、最も大きなことは、この出会いなのかもしれない。

148. 5→6

先日、Canon EOS 6Dを購入した。
これまでEOS 5D mark IIをメイン機種として愛用してきたが、今後は6Dへと引き継がれることになる。

EOS 5D mark II
2008年の発売から4年近くハイアマ向けフルサイズ機として活躍してきた銘機。
僕は2010年から使っている。


EOS 6D
2012年11月30日、廉価版フルサイズ機として、フルサイズ入門者向けに作られた新たなライン。


なぜ今、6Dか。

  • 子供が生まれ、室内での撮影が増えた(新生児は1ヶ月間外に出られない)。
  • 最近、マクロ撮影を始めるようになった(EF 100mm f/2.8 L)。
  • このため、暗所での撮影に強い機種が欲しくなった。


ということが挙げられる。

所有している5D mark IIは暗所での性能以外はほぼ満足しており、ISO 1250までなら作品づくりにも使えると思っている。しかし、ISO 3200から画質の劣化が激しく、そして、室内×マクロの場合、ISO3200は常用感度となる。

結果として、高感度性能重視で、新機種を導入することとした。



さて、Canonの製品ラインナップを整理すると、5Dは6Dの上位ラインにあり、最新機種としては、5D mark IIIがある。
なお、全体としては、1D X > 5D III  > 6D (ここまでフルサイズ) > 7D > 60D > Kiss というラインナップになる。

さて、価格面では、ざっくり言うと5D mark IIIは最安価格で、26万円。6Dは16万円と、10万円の価格差がある(2012年12月16日現在)。

対して、高感度特性(高感度撮影時のノイズの少なさ)は、ざっくり言えば、両者で同等。レビュー結果によっては、6D > 5D mark IIIという下克上な報告もある。これは単純に画素ピッチが6Dの方が広いためだろう。

5D mark IIIと6Dの最も大きな違いは、AF性能。
6Dは、低輝度AF性能が優れているが(-3EVまで可能。5D IIIは-2EV)、測距点の数、クロスセンサーの数で、いずれも5D mark IIIが圧勝しており(というのも、5D IIIはさらに上位のフラッグシップ機1D XからAF機構を引き継いでいる)、AFを重視する人には間違いなく5D mark IIIとなる。

しかし、である。
僕の場合、基本的に中央一点のみのAF利用で、コサイン誤差は許容するというスタンスだ。(コサイン誤差というのは、中央1点で焦点を固定した後、構図を変えた場合、構図を変える際に生じるカメラの回転(角度θ)によってcos θ分だけ、ピントがズレるというもの。気にする人は気にするし、厳密なピントを求めるなら正しいスタンスだと思う。)

僕にとっては、むしろ、「より近いものにピントが合ってしまう多点AF」の方が、こちらの意図を解されず使いにくいと思っている。(例えば、木陰の向こう側にいる猫にピントを合わせたくても、より近い葉っぱにピントが合ってしまうなど。例え測距点が増えても、視線入力でもない限りこの問題は解決しない。)

また、5D IIIにない機能として、6DにはGPS機能(ジオタグ)とiPhoneを使用して撮影する(背面液晶をWi-Fiで共有し、ライブビュー撮影を行える)機能も追加となった。また、重量もかなり軽くなり、大体EOS 50Dと同じくらいだ。これはペンタプリズムのある一眼レフとしては驚異的な軽さだ。やればできるじゃないかCanon。

もちろん、6Dには視野率が97%であったり(5DはIIでも100%だし、ペンタックスでは普及機であっても100%だ)、最高シャッタースピードが1/4000であったり(5D IIでも1/8000)と見劣りする部分もある。しかし、色々と頭の中で機能の拮抗を計算した結果、それでも6Dの存在価値はあるものと判断した。

その中には、以下のような局面を意識した理由もあった。
少し長くなってしまうが、メモしておく。

現在のCanonの撮像センサーは、プロセスルールが古く、全体的にSONY製センサーに劣ってしまっている。

Canonは自社製センサーにこだわり、その姿勢はよいと思うのだが、プロセスルールを新しくしようとすると、半導体製造設備を刷新することになるので、巨額の設備投資が必要になる。このため、その経営判断には時間がかかるし、はっきり言ってここ数年は、あまり積極的に投資はしていないものと思われる。(マイナーチェンジを繰り返しつつ、メジャーチェンジは控えているという状況)

一方、SONYは自社のカメラ以外にも、ニコン、OLYMPUS、ペンタックスにセンサーを外販しており、それそのものがビジネスになっている。この結果(と思われるが)、プロセスルールの刷新が早く、結果として、SONYセンサーを搭載したモデルはダイナミックレンジに優れ、大ヒットしている(好例:Nikon D800, D800E, OLYMPUS OM-D,ペンタックスK-5, 5II, 5IIs これらは、2012年を代表するカメラとなるだろう)。

撮像素子の性能を比較しているDxO mark scoreを見ると、それがよく分かる。


出展:デジカメinfo
http://digicame-info.com/2012/12/dxomarkeos-6d.html


出展:デジカメinfo
http://digicame-info.com/2012/09/dxomarkd600.html


残念ながら、Canonの機種はフラッグシップの1D Xを含め総合スコアで82止まりである。
一方、Nikonは96というあり得ないスコアまで出ており、近年発表した機種は全て90以上のスコアをマークしている。

DxO Mark scoreは、画素数が大きい程結果がよくなる傾向があり、この数値をそのまま信用するのは危険だとも言われている(特に熱心なCanonファンから)ので、鵜呑みにしない方がいいかもしれないが、それでも全く無視することもないだろう。

いずれにせよ、一般的に言われているのは、「Canonはここ数年センサー性能が伸び悩んでいる」ということだ。
5D Mark IIがスコア79で、最新のMark IIIが82では悲しくなってしまう。

しかし、その分、画像処理エンジンのDIGICの開発には力を入れており、撮像素子では負けているけれど、その出力(JPEG)では何とかライバルにくらいついている。

整理すると、

撮像素子・・・光の情報(輝度、色)をデジタル変換
RAW画像・・・DxOではここを計測。結果、Nikon > Canon
画像処理・・・ここがGICICによる処理
JPEG画像・・・優れた画像処理により、高感度(ISO6400〜)ではややCanon > Nikon

というかんじなのだ。

素子が負けているのに、JPEGでは追いつくというのはある意味すごい。
しかし、やっぱり素子は負けているのである。

恐らく、Canonは次のフルサイズラインナップ(大体3年〜4年周期)で、プロセスルール自体を変更して、素子からのレベルアップを図ってくるはずだ。高感度だけではなく、低感度でのダイナミックレンジも改善してくるだろう。また、高感度一辺倒な戦略を見直し、D800に対抗する高画素機も投入するだろう。

その時、SONYセンサー搭載のNikonとどう戦えるかが、天下分け目の合戦となるだろう。(そのときには、もしかすると、SONYがさらに飛躍しており、三国志のような三つ巴の戦いが巻き起こっているかもしれない。もしくは、場外乱闘扱いだったミラーレス市場がさらに支配的になり、戦場自体が移っている可能性がある。その場合、圧倒的にSONY>Canon、Nikonとなるだろう。SONYには合戦場自体を変えてしまう可能性があるので、頑張ってもらいたい。)

上記のような大局観に立った場合、現在のラインナップは、そのときまでの「つなぎ」としてしか考えられなくなる。

これは、Canonのビジネスモデルと経営判断から生まれた必然的な状況で、一カメラファンとしてはどうしようもないものだ。
結果として、僕の判断は、「今は廉価版で様子を見て、3年後につなごう」というものになった。

と、色々書いてきたが、「今買う」という条件の中で、「Nikonに行く」という選択肢を捨てるとすると(これはレンズ資産がそこそこある僕としてはなかなか取りにくい選択肢だ。何より、レンズの赤いラインが好きだ。Nikonが金色のラインをやめたら行く気も起きるのだが、金色のラインはどうしても好きになれない。ここは非論理。感性の問題だ。そして、結局カメラも写真も感性がモノを言う)、あと残るのは、5D mark IIIと6Dの価格差と性能差のバランスということになる。そして、前述の通り、5D IIIは機能面での完成度が高いが、10万円の差を肯定するまでではない、という判断となった。

さて、6Dは12月12日に159800円で、銀座のチャンプカメラにて購入した。
直後の12月13日には165000円に値上がりしたので、底値で買えてよかったなと思う。
スマートフォンがあると、値動きを逐一チェックできて、買い時が分かりやすい。
(多分、冬のボーナス需要を当て込んで大量仕入れした店が12日時点で在庫を売り切ったのだろう。結果、5000円程の上昇となった。)



現在所有している5D IIは139800円で販売されているので、6Dは販売から僅か半月で2万円差まで値が下がったことになる。フルサイズに価格破壊が起こっていることをひしひしと実感してしまう。
同じく廉価版であるNikonのD600は大体16万2000円くらいなので、それよりも機能的に劣っている6Dは安くなければいけないと思っていたが、ちょうどよく15万台まで下がったので、購入を決めた次第だ。

ちなみに、ヨドバシカメラでは198000円なので、4万円ほどの差がある。
ポイント還元を考えても、2万円程の差だ。
同じ東京で買うのに、ここまで差が出てしまうとは、カメラの購入とは難しいものである。ヨドバシはカメラの周辺機器やフィルムなどでよく使っているのだが、価格差が出やすい大きな買い物となるとなかなか使いにくい。ヨドバシとしても業態の異なる卸売り業者のような激安販売店と競争を強いられるのは辛いだろう。

しかし、ネットの普及やスマホの普及はこういった業態の異なるもの同士がライバルとなる世界を実現させてしまった。この世界の中で、最適な者が生き残る。在ったはずの壁がなくなり、世界はより競争的になったと思う。Canonにせよ、ヨドバシにせよ、頑張ってもらいたい。

147. 4→5

先日、長らく愛用してきたiPhone 4をiPhone 5に変えてきた。
5の前に登場した4Sへの乗り換えは見送ったので、2年数ヶ月使用してきたことになる。
ほぼ毎日、デジカメinfoとデジカメウォッチを見せてくれた。
お疲れ様でした。




5は4から少し縦長となり、軽くなった。
この軽さはちょっと驚くくらいだ。iPadもじきに軽さを売りにしたモデルがでるのだろう。
(サイズの小さなminiが出たが、性能も下げてしまった。価格帯を優先したのだろうが、次は性能も多少上げてほしい。)

また、昨日から(ソフトバンクでは)5でテザリングができるようになった。データ通信量に制限はあるものの、これで家にあるWi-Fi版 iPadを外で使えるようになったわけだ。

さて、5になっていいことばかりかと言うと、ソフトバンクのLTEはまだ発展途上だし、デフォルトの地図アプリが間違っていたり(座標情報とテキストが間違うとは、、UAT(User acceptance test)やってないんじゃないか?と疑いたくなる。どうした?>アップル)、電池の持ちが悪かったりと、実際は色々とある。けれど、使って半月だが、既に手放せない存在になっている。
多分、また2年くらいの長い付き合いになるんだろうな。

カバーは付けない主義だったのだが、5では塗装が剥がれやすかったので、カバーをつけることにした。

韓国製なのだが、なかなか手触りがよい。
天然の木を使っているらしいけど、一体どうしたらこんなに薄く貼付けることができるんだろう?

カバーをつけて、より愛着が湧くこともあるのだな。

2012年11月23日金曜日

146. 写真の効能追加(区別をなくす)

ここに、祖父の形見の懐中時計がある。

僕は祖父がその懐中時計を片時も離さず持っていて、
夕暮れ時になると左胸の内ポケットからそっと出して、
老眼鏡をおでこの上に押しのけてから時刻を確認していた、
その少し猫背気味の姿を憶えているから、
これがただの懐中時計だとは思わず、祖父の形見であると認識できる。

「そろそろ帰ろうかね」

という優しい声と結びついているから、それが祖父の形見として、僕の中で機能する。

そのひんやりした感触や、ネジを巻くときの歯車の抵抗に、
「ああ、かつてこの感覚をおじいちゃんも感じた瞬間があったのだな」
と直感し、祖父と僕とが時間を越えて再会したような、そんな一瞬の夢を見ることができる。

しかし、この懐中時計が祖父の形見であるとは知らない人がやってきて、この懐中時計を見たら、なんのことはない、古い、すすけた懐中時計に過ぎず、誤って燃えないゴミの日に出してしまうかもしれない。


このように、モノに宿る記憶というものは、「ダイレクトに(=同じ時間と空間で)その記憶を共有した人」にしか生まれないという性質がある。

しかし、例えば、祖父がその懐中時計を見ているシーンを写真に撮っていたとして、その写真が懐中時計と一緒に保管されていたら、どうだろう?

少なくとも、この懐中時計が祖父に使われていたことは証明される。
少し想像力を働かせれば、この懐中時計が何の脈絡もなくこつ然と現れたものではなく、祖父と供に一定の時間を過ごしていたであろうことも分かる。
それは、例えば、言葉の通じない外国人にも、恐らく伝わるはずだ。

写真とはシーンであり、シーンには意味を持たせることができる。
写真は存在証明になりうる。
モノに与えられた記憶を、「その記憶をダイレクトに(=同じ時間と空間で)共有していない者」にも、伝える可能性を秘めている。

といったようなことが、写真の「古典的な性質」である。
こういったことは、既にロラン バルト等、古典的な写真論の中で語り尽くされたもので、その類いを読んだ方々には当たり前のことだろう。



ところで、冒頭に記載した「祖父の形見の懐中時計」なるものは、実在しない。


今しがた考えた、「たとえ話」なのだが、一瞬でも「そんな懐中時計があるのかもしれない」と思ってもらえたら、この記事としては成功だ。そして、その「誤認識」は昨今(と言っても15年くらい前から含めて)の写真作品に頻繁に認められる性質でもある。

先に記したとおり、写真にはシーンが固定されており、そのシーンが実在したという「存在証明」になりうる。この「存在証明」という性質を逆手に利用して、あるシーンを人工的に細工し再現し、そのシーンがあたかも実在するかのように見せる(つまり現実を捏造する)作品が数多く発表されている(特に海外で)。

なお、これら作品の本質的な命題は、「現実を捏造する行為」そのものよりも、捏造された現実を、鑑賞者が現実と(一瞬)誤認(し、その後、誤認であったことを自覚)するときに生じる、【現実とは何かという問いかけの視点/角度】であったり、【容易に捏造されうる現実の不確実性】であったり、【容易に捏造可能なアイデンティティーの不確かさ】であったりするのだが、個別の作家や作品にはここでは言及しない。

こういった「ストレートではない」写真は、いわゆる写真らしくはないし、カテゴライズすると「現代アートだよね」となってしまう。
特に日本では「写真」と「現代アート」は、奇妙なほど区別されているように見受けられる。

「これは写真じゃなくて、アートだよね。」

というのは、日本独特の写真文化的発想のように思う。
僕自身は、一観賞者として、両者を明確に区別する必要もないし、能力もない。
なので、無節操に「存在証明」と「存在偽造」を行き来してみようと思う。

そう思うと、写真がとても愉しくなってくる。

2012年11月20日火曜日

145. Welcome to the world !


「吾輩は人である。名前はまだ無い。」




本日(2012年11月20日)、10:45に僕たちの子が、この世界に仲間入りした。
3040g、49cmで、小柄な母親からすると、とても立派な体格。
とにかく、無事で良かった。
それが何より。何より。

さぁ、これからその目で何を見ていくのだろう?
僕は親として、何を見せられるのだろう?

せっかく僕らのもとにやってきてくれたのだから、できるだけ愉しい世界を見せてあげたい。世界の愉しみ方を教えてあげたい。

この子のことをしっかり見よう。
そう思った。
そう誓った。

今日は記念日となる。

2012年11月11日日曜日

144. 写真展を終えて(写真について考える)

写真展を終えてみて、改めて「写真」というものを考えてみたい。
これまで基本的には「旅写真」と「日常スナップ」しか(いずれも記録を主目的とした写真)してこなかった自分にとって、「コンセプトを決めて作品を撮る」という行為自体が新鮮だった。最近読んでいる写真史や写真論とも相まって、自分の中で、写真の特性がより明確になったと思う。私論として、以下にメモしておきたい。


【写真の特性】


  • 写真はごく当たり前の事実として「シーンを固定」する。一方、私たちが普段体感している「ヒトの目を通した視界」は常に「動画」であり、「動き」を含めて外界を知覚している。写真の「静止状態」はごく当たり前のことだが、しかし、これが見過ごせない大きな特徴を形作っている。例えば、作品「 見 え な い 」で、両国国技館の観客を遠くから撮ったが、写真上の「ボケ感」はまさに視力0.02程度の自分の目が見た視界と同じ不明瞭さを携えていた。実際に裸眼でそのシーンを見た時、確かに人の輪郭が完全に消失し、斑の模様になっているように見えたことを記憶しているが、しかし、人々の「動き」は認識できていたため、そのシーンが「大量の人」を示していることに疑いはなく、容易に認識できた。しかし、そのシーンが「固定」された「写真」を見た人からは「これは何を写しているのか?」と聞かれることが何度かあった。繰り返すが、写真上に提示された「色情報」「輪郭情報」「明暗情報」は、僕の裸眼が捉えた視界と非常に近い。しかし、「動き」の情報が無くなるだけで、被写体が何か分からなくなってしまうのである。「動き」という情報は写真の特性上(松江泰治さんの「動く写真」は除く)、欠落を免れ得ない。結果、「写真で再構築した世界」は、通常の「ヒトの視界」から似て非なるものとなる。ニューバウハウスのモホイ=ナジは写真を「人間の視覚の拡張」に位置づけたというが、「人間の視覚」と「写真」は、「動き」の情報1点に関しては決定的に決裂関係にある。
  • しかしながら、逆に、この「固定」という作用によって写真には一種の「謎」が生じるというメリットがある。まず第一に「動き」がない分だけ、先の例のように「想像の余地」が生まれる(つまり、「これってなんだろう?」である。情報が少ない程、人は判断に迷う)。
  • また、「固定」によって、人は「同じシーンを何度も見る」ことができるようになる。普段の生活で、あるシーンを注意深く、何度も何度も見ることはほとんどない。また対象が人である場合、その人も動体であり、流動的なシーンを動画として認識していることの方が圧倒的に多い。それが、写真をひとつの「作品」にしうる一因となっている。これを表す好例に、「シャッターチャンス」と言われるものがある。世の中では動体が交差しており、その交わりによって、いわゆる「決定的な瞬間」というものが生起している。それを「良い構図(コンポジション)」で、シーンを「固定」できるかどうかが写真(一般的な)においては重要であるという概念である。つまり、動きをキャンセルする作業をする以上、「ちょうどよい瞬間」でやるべきであり、その「ちょうどよい瞬間のシーン」を人は見て、驚いたり、頷いたり、面白がったり、気味悪がったりするのである。しかし、仮にその鑑賞者の彼ら彼女らをその実際の瞬間に連れて行ったとしても、彼ら彼女らは「写真を通して」得たディテールまで感じることはできないだろう。無論、「体感としての情報量」は上だろうが(空気の振動、音、匂い、雰囲気全てが体感情報となる)、恐らく、写真で見たほどに「注意深くそのシーンを見ること」はない。例えば、事故車の写真があったとして、助手席のシートのカバーと、車線の向こう側にあるレストランの看板の色が似通っていて、あたかも「ここで事故するのが決まっていたかのような」シーンであったとしても、その現場ではなかなか気付かないだろう。そういうディテールは、写真によって初めて曝露される。そして、これこそが「固定」の効果と言える。
  • 「固定」には、さらに本質的な性質がある。それは、「時間を逆行すること」である。例えば、2010年に撮った写真があったとして、2012年現在からすれば、それは「2年前の写真」なわけだが、2014年になってから見返せば、「4年前の写真」であり、2110年に見返せば「100年前の写真」になる。当たり前のことかもしれないが、写真は常に「現在から過去に向かって、時速60分のスピードで遡っている」。これはつまり、「私たちは時速60分で未来に向かっている」のと同義である。この点で、「写真とは、錨(いかり)である。」とも言える。一定のスピードで無情にも流れ去ってしまう時間に対する、ささやかな抵抗と言える。また、人生が一度きりであるという残酷な一回性に対する大いなる反抗とも言える。それは、写真を繰り返し見ることで、過去を繰り返し再生する、というセンチメンタルな欲求を少なからず肯定する。
  • 写真は「過去」を収めている。私の写真管理ソフトLightroomにはおよそ82000枚の写真が収められているが、これら写真を戯れに見返してみると、過ぎ去った過去の世界をタイムマシーンにのって断片的に眺めているような不思議な感覚に陥る。8万枚もあるので、ちょっとやそっとでは見切れないし、いちいち懐かしい。懐かしく感じるのは、年をとったからかもしれないが(とはいえまだ30歳だが)、何より、経験的に「この瞬間はもう、ない」ということを理解しているからだ。「もう、ない」世界を、写真という「窓」によって、無理矢理こじ開けて垣間みている。そして、周辺の記憶が呼び起こされ、「懐かしい」という脳の状態が作り出される。これは「人生が一度きりであるという残酷な一回性に対する大いなる反抗」と言ってもいいような気がする。


【「いい写真」とはどんな写真か】

  • 優れた写真には「謎」がある。なぜこれを撮ったのか?その興味が人の目を引き、長時間眺められる可能性を備える。「長時間眺められる写真」は、即ち、「よい写真」である。(しかし、友人から教えてもらった写真家(鈴木理策さんか畠山直哉さんのどっちか)の言葉として、「しかし、答のない謎解きに人は付き合ってくれない。見ないという選択肢もある。」という主旨のものもあった。つまり、「謎」を「謎のまま」投げてしまうと、単なる「意味不明なもの」=「情報のないもの」=「価値のないもの」になってしまう。「回答のある謎」もしくは、「回答がなんとなく分かる謎」が望ましいのかもしれない。よくよく思い返してみると、確かに成功している写真家の作品には、そんな「うまい謎」が仕掛けられているようにも思える。
  • 優れた写真の撮影者には、いくつかのタイプがあるが、その中には「写真になったときに、このシーンはどう見られるか?面白いか?人をハッとさせられるか?」ということに敏感なタイプの人がいる。このようなセンス、感性、アンテナが良い人は、得てして写真が巧い。また、このようなタイプの人は、本能的か意識的かは分からないが、写真が「シーンを固定すること」、写真となった瞬間にそのシーンは「一枚の平面」になり、「一枚の平面を通して鑑賞者がシーンを見る」ことを、きちんと理解している。(その上で、「仕掛け」を練り込もうとしている。その「仕掛け」の良し悪しが評価を決める。これがなかなか難しい。ありきたりに堕ちると、「ストゥディウム」だけのカレンダー写真になってしまい、プンクトゥムを標榜してとんがってみても「実は先人がやっていた」ということも多く、やはり難しい。ま、これを自在にコントロール可能なら、写真家になれてしまうのだが。)
  • 写真は、基本的に指呼的な存在(「あれ、それ、これ」程度の情報量)である。写真一枚に文章のような情報や思想のような情報を伝達させようとしても(文章の書いてある本の写真とかは抜きとして)、それは伝わらない。しかし、「あれ」「それ」「これ」は、「あれだ!」「それだ!」「これだ!」にはなりうる(糾弾の作用)。そして、数枚の写真が組合わさると、「世界は(私には)こう見える!」という意図を伝えるまでに至る。(なお、本当に優れた写真は、一枚でも「世界はこうだ!」と示すことができる。アンドレア グルスキーやトーマス ルフやトーマス デマンドはそうだろう。人によっては、アラーキーかもしれないし、鷹野隆大やナン ゴールディンかもしれない。)
  • 写真が得意なことは、脈絡なき複数の世界を、一気に横断することである。例えば、イギリスの上流階級で生まれたばかりの赤ん坊と、エイズで死にいくジンバブエの中年男性は、全く異なる世界に属しているが、二人の写真を並べることも、あなたの自由である。この脈略ない縦横無尽さが、写真の特権とも言える。(なお、写真集として、「よい並び」であったり、写真展やスライドショーとして「よい並び」というのがあるのも事実で、「連続性による良さ」というのもある。しかし、元々写真というのは世界の「断片」であり、それを「構築」をしようなんていうこと自体煩わしいし、そもそも「構築」という行為そのものから自由でいたいんだ、と現代美術の始祖マルセル デュシャンが言い放ったように、「断片」であるが故の特質というのも同時に認めてしかるべきかと思う。)
  • 複数の写真には「振幅」が必要である。振幅がないと、人はすぐに飽きてしまう。なお、一見するとベッヒャー夫妻に端を発する「タイポロジー」はどうなんだ?という気もするが、実はタイポロジーも、厳密に決めた構図や被写体の内側に、振幅は存在している。撮影対象と条件(構図)を厳密に限定しているからこそ、個々の写真の差異が目だち(差異に頭が行き)、結果として「長時間見て」しまう。
  • 技術的に無理がある写真は、一瞬にして見破られてしまう。そして、一度はじかれると、人の関心は閉じてしまう。(ただ、全く「サラ」の人(一般の人)は違うかもしれない。ある程度写真を見慣れた人の方が、技術的なことにはうるさい。残念ながら自分も含む。)

今回の経験で、撮影に対する認識が少なからず変わってきたように思う。
トーマス・デマンド展から続く「写真の再定義」が徐々に自分の中で腑に落ちてきた。
写真でもっともっと遊んでみたい。


143. 写真展を終えて(作品2)

前回に引き続き、写真展に出展した作品をアーカイブとしてここに残す。こちらの作品は、「オブジェ(立体物)」の形式を取っており、画面や誌面で伝えることが難しいが、平たく言えば、「箱」である。

箱の蓋部分に「写真1」があり、その蓋を開けると「写真2」がある。写真1と写真2は、ある「意図」を持って「対」にさせられている。この「意図」が、この作品のコンセプトである。

1枚目を見てから、2枚目を見るというワンテンポの遅れや、「開ける」という動作そのものが作品の一部であるため、安易に2枚をここで並べても残念ながら興ざめするだけだ。クリックして2枚目を表示させればWebでもそれなりに再現できるはずだが、時間もないので、とりあえずここでは、箱の外観や展示風景だけを残しておく。



+++







タイトル:Uncover it
 
私たちの多くは、「日常のベール」に包まれて生きている。
そのベールによって、本来あるはずの「事実」や「プロセス」を覆い隠し、 快適な日々を過ごしている。
つくづく、良くできた制度だなと思う。
この作品では、ベールが隔てる二つの世界を、写真によって強制的につなげてみた。
「ベールの存在」を剥いでほしい。あなた自身の手で。 


使用カメラ: 
キヤノンEOS-1V キヤノンEOS 5D Mark II フジフイルムFinePix X100 ペンタックスK200D アップルiPhone 4






+++ 作品について +++この作品は、二枚一組の写真と一つの箱で構成されている。通常、組写真は誌面や壁面など同一平面上に配置されることが多いが、本作品では、一枚目は箱の蓋表面に、二枚目は箱の中に据えられている。この結果、「蓋を開ける」という身体的な行為によって、初めて二枚目の写真が見られる構成となっている。是非、箱を手に持って、蓋を開けてみていただきたい。


Title:  Uncover it

Many people are living with ‘veils of daily life’.The veils can hide the inconvenient facts or processes for us, and give us comfortable daily lives instead.
This must be well-designed social and mental system, I think. At the same time, I also think the people look like anesthetized patients. The worlds that they’re perceiving seem to be ambiguous.
I tried to forcibly combine the ‘worlds partitioned by the veils’, by using 2 photographs.Please uncover the veils, by yourself with the box.
Camera:Canon EOS-1V, Canon EOS 5D Mark II, Fujifilm FinePix X100   Pentax K200D, Apple iPhone 4

+++ About the piece +++This piece is composed of 1 box and 2 photographs which are paired each other. Generally, paired photographs are placed on a same page of magazine or a wall, anyhow that is one plane. On the other hand, this piece has 2 layers. The first photograph is set on the cover of the box, and the second one is inside the box. Only the physical action, I mean your uncovering it, can show the second photograph to you.




+++展示の様子+++









この作品は6個の箱から成っており、それぞれにナンバーが振られている(1〜6)。
展示している台(これも自作で、大変だった)は少しずつ高さを上げており、順番に見てもらえるように誘導する役割と、ナンバー毎にレベルが上がっていく寓意を与えていた。
写真の「順序」(=ストーリー)は以下のような意図に基づき決定した。


1箱目はこちらの意図を分かりやすく伝えるストレートなものを。
2箱目は少しテーマをずらし、余白を与える。
3箱目はドスンッと一回たたき落とし、軽い恐怖を味わってもらう。
4箱目は3箱目の余韻を引きずって、作者の意図に否が応にも気付かせる。
5箱目にさらなるショックを与えて、視覚的に追い打ちをかける。

僕が想定(期待)していたのは、「6箱目を開けることが怖い・・・」という心理状態だ。
1箱目から5箱目で、見る人は「開けたら何かがある。予期していない何かがある。」ということを悟ることになる(そうあってほしい)。

その上での6箱目。

ある程度覚悟して、開く。

そこに待っていたものはーー

ここでは触れないが、展示の様子の写真にあるように、ある人は苦笑いし、またある人は不快感を露にし、またある人は無言で立ち去った。

その様子を見ながら、僕はつくづく「写真って面白いなぁ」と思う。写真は視覚を共有できる。世界を切り貼りして、意味を与えることができる。何の脈絡もない組み合わせだってできるし、因果関係を無視することも、また跳躍して間の時間をすっ飛ばすこともできる。実際、この作品に使った写真は、2009年〜2012年までの4年間のもので、時間的な意味で言えば大いに「跳躍」している(間がすっ飛んでいる)。また、場所もインドネシア、中国、タイ、埼玉、神奈川、東京とこれまた「跳躍」している。この節操のない、飛び方が写真を組み合わせる面白さのひとつだと思う。

これ以外にも今回は写真の面白さや特性について色々と考えることがあった。(「写真」が自分にとってちょっとしたブームなのだ。今更だが。)
それについては、次の記事に書こうと思う。

142. 写真展を終えて(作品1)

去る2012年10月9日から14日まで、所属する写真サークル「ニーチ」の写真展に作品を出展していた。

渋谷にあるギャラリー「ルデコ」で、2階と3階の2フロアに渡って、計33名が作品を出品した。来場者は、各階で大体370人ほどで、アマチュアがやる写真展としては多かったほうだと思う。
(とは言え、700人ほどの年もあったらしいので、メンバーとしては少ない方とのこと)

普段、他人に写真を見せる機会など(Web上を除いて現実世界で)あまりない自分としては、これだけ多くの人に自分の写真を見てもらえる機会は他に無い。
ありがたいことだ。


このグループ展は今年で9回目だそうで、自分としては2回目の出展だった(前回は一昨年)。
2回目ということで、今回は、多少実験的な要素を入れて、作品を制作してみることにした。特に以下のようなことを意識していた。


  • 初めにコンセプトを決めて、それから写真を撮る。
  • コンセプトをベースに、写真を選ぶ。
  • 主観的になりすぎない。客観的に、突き放す。
  • 人によく思われようとしない。やりたいことに忠実になる。
  • 見る人を「傷つける」くらいのつもりでやる。

特に最後のものは理解しにくいと思うが、オブジェ作品の方(今回はいわゆる「壁掛けの写真展示」と、「写真を使ったオブジェの展示」の2種類の展示を行った)を見ていただけた方にはいくらか伝わったと思う。

(「トラウマになりそうです」という感想までいただけた。こちらのスタンスが真っすぐ届いた証拠であり、とても嬉しい。ショックを受けた方には申し訳ないような気もするが、コンセプトとストーリーが決まった時点で、あれ以外の終わり方はあり得なかったと今でも思っている。)

製作途中では、少し手加減しようかと思ったりもしたのだが、出し切って良かったと思う。
今回は作品を見た見ず知らずの人から何度か声をかけられることもあった。こういうのは、なかなかないことなので、「ああ、やってみてよかったなぁ」と思っている。


見に来ていただけたみなさま、どうもありがとうございました。


+++

さて、ここでは、自分の作品が忘却の彼方に追いやられてしまう前に、作品概要、キャプション、製作意図についてアーカイブを残しておこうと思う。

写真作品とは、本来「物質的」なもので、プリントとして提示された「そのもの」でなければ、本当の意味でのアーカイブはできないのだが、ここでは割り切ることにする。

(一方で、厳密な話をすれば、彫刻や絵画のように、その「一回性」や「テクスチャ」や「サイズ」がよりモノを言う芸術に比べれば、写真は「複製技術時代の芸術」であり、「物質的な制約」からは、これら他の芸術媒体よりも遠い存在である。そういう意味においては、むしろ節操もなくここに作品のサムネイルを載せることは、写真の特権を行使しているとも言える。ただ、いかんせん、オブジェ作品の方だけは、鑑賞者の身体的な操作も加わって初めて作品となるので、Web上での再現が難しい。本当にドライなのはオブジェの方なのだが、残念だ。)

まず、壁掛け展示した方の作品から。

+++







タイトル: 見 え な い 

私の体重は69kgで、眼鏡の重さは16g。重量としてはわずか0.03%にも満たないが、眼鏡なしでは出歩くことすらままならない。 目を凝らしても、見えない。
そのもどかしさを、写してみようと思った。
眼鏡をはずしたとき、私はこんな世界に放り込まれる。

使用カメラ: フジフイルムFinePix X100



+++ 製作プロセス +++製作では、「視野の再現」を念頭において各パラメータを決定した。まず、裸眼で焦点の合う距離を測定したところ、目の表面から約17cmだった。ヒトの眼球は平均で直径およそ2.4cmであり、内径を2cmと仮定すると網膜から焦点の合致する距離までは約19cmとなる。このため、カメラの焦点距離を19cmに固定することとした。次に、ヒトの視界の縦横比を測定したところ約1:1.37であり、A3サイズの紙(1:1.41)に近いことが分かった。一方、カメラの撮像素子(APS-Cサイズ)の縦横比は1:1.50であったため、プリントの段階で左右を裁ち切りA3サイズに合わせることとした。ヒトの中心視野の画角は焦点距離43mmのレンズ(35mm換算)に近いとされているが、プリント段階で左右の裁ち切りがあることを考慮して、やや広い35mmのレンズを用いることとした。以上の条件を満たすカメラとして、フジフイルムのX100(35mmレンズ(35mm換算)、最短撮影距離10cm、APS-Cサイズセンサー)を選択した。なお、ヒトの目が虹彩による自動絞りを採用していることから、絞りは任意の値(F4-11)とし、撮影時に眼鏡をはずして実際に見えたボケ感に最も近い絞り値を選択した。

Title:  can’t see My body weight is 69kg and my glasses are 16 g, this means my glasses are only <0.03% in weight. However, the value of my glasses must be greater than the weight. I cannot go out without my glasses. I can’t see, even if I look hard at.
I came up with an idea to capture my feeling in the blurred world. When I take off my glasses, I am put into such a blurred world.
Camera: Fujifilm FinePix X100


+++ Method +++I determined each parameters in order to recreate my viewing field. First, I measured the distance between the surface of my eyes and the focal plane with my naked eyes. That was approximately 17 cm. The diameter of human eye is reportedly about 2.4 cm on average. Assuming that the internal diameter of eye is 2 cm, the distance between the retina and the focal plane is 19 cm. So I fixed the focus of the camera as 19 cm. Next, I tried to measure the aspect ratio of the human view, the result was about 1:1.37, which was close to A3 size paper(1:1.41). Meanwhile, the aspect ratio of imaging sensor (APS-C size) is 1:1.50, so I decided to cut the right and left side of photographs to make it A3 size. Generally the central viewing field of human is reportedly close to the view which captured by 43 mm lens converted in Leica format) in terms of field angle, however, I selected 35 mm lens in consideration of cutting process. To meet these requirements, I selected the Fujifilm X100 (35 mm lens(in Leica format), minimum shooting distance = 10 cm, APS-C sized sensor). Additionally, human eyes use automatic diaphragm, I set the aperture as certain range (F 4-11), and then I selected the best aperture by comparing the photos and the real view with my naked eyes.

2012年10月28日日曜日

141. 外部刺激(並行世界)

医師でMBAホルダーの友人から、

「会社を一緒にやらないか?」

と誘いを受けた。
今日、その事業内容や、技術について話を伺ってみたのだが、これがもう何とも刺激的で。

今の医療や治療概念、医薬品産業そのものをひっくり返すような、インパクトのあるものだった。

データの詳細を吟味するまでには至らなかったが、
「筋もいいし、追い風も吹いている。」
そう感じた。


CEOにも会うことができた。
これまで今の会社で、自分なりに描いてきたキャリアプランを話した。

返ってきた言葉は、

「それって楽しいですか?」


そう来たか。
こういう反応がある人は初めてだ。
しかし、彼のミッションから考えると、「確かにな」としか言いようがない。

参加するにせよ、しないにせよ、このベンチャーが成し遂げようとしていることは、日本の未来を変えうるものだ。産官学が一体となって、金とエネルギーを存分につぎ込んで、つぎ込んで、つぎ込んでもおつりがくるくらいのものだと思う。


これまで、比較的大きな企業体の中で、一歩一歩、地道に階段を積み上げてきた。
それはまさに、「積み上げる」作業と言ってよかった。

その階段が、いきなり大波に飲まれるような。
そんな衝撃を感じて、目眩がした。

正直に言うと、短期的な回答としては、
「No」だ。

しかし、仮にここで「Yes」と言ったら・・・

世界は分岐する。
そういう類いの選択肢と言える。



Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world?


スティーブ ジョブズがペプシコーラのスカリーを引き抜く際に言い放った台詞だ。

2012年10月20日土曜日

140. 理想のカメラ(実現できるのは・・・)

ニコンのD800は、2012年3月22日に発売された。
3680万画素の35mmフルサイズセンサーを搭載しており、2012年現在としては、「高画素機」と目されている。

質実剛健な造りと、圧倒的な高画素(当時ライバルと目されていたキヤノンのEOS 5D MkIIIは2230万画素なので)、そして、何よりその安価な価格設定(2012年10月20日現在で最安値は23万6千円。一方5D MkIIIは27万円)で大ヒットしている。

3680万画素について、発表当時は「そんなに画素数はいらない。」「画素数が多過ぎると画素ピッチが狭くなり、結果、ノイズが乗りやすくなる。画素数は据え置きで高感度耐性を上げてくれ。」と否定的な意見が多かったが、蓋を開けてみれば、「案外高画素でも、縮小して(といってもA3ノビ程度)印刷する分にはノイズが見た目上キャンセルされ、むしろディテールを残す良い効果を発揮する」ということが次々と示されていった。

一方、「画素数据え置きで、高感度耐性を上げる」という方向(ある意味、世間一般の支持する常識的な方向)に進んだライバル機5D MkIIIはDxO Mark scoreなどで先代の5D MkIIから十分な進化を示せず、さらにスコア上でD800に大きな差をつけて負けてしまった。
(ただし、DxO のスコアは画素数が大きい程有利な傾向にあり、必ずしも全てではないということを付け加えておく。)

5D MkIIIはそれ単体としてはいいカメラだが、価格設定がD800より4万円程高いということもあり、結果として、「思ったよりヒットしなかった」というのが本音なところだ。先代のMkIIの評価が高かったため、ファンの期待が大きすぎたというのもあるかもしれない。(という自分もMkIIを使っているため、正直言ってこの結果はつらい)

さて、巻き返しを図るキヤノンは、4700万画素の高画素機を開発中、と噂されている。一方で、ニコンにセンサーを供給しているSONYは、5000万画素の高画素機を開発中と言われている。

まず、キヤノンはニコンと並び一般的には一眼レフの王者と見られがちだが、ことセンサー(撮像素子)の市場から考えると、むしろ挑戦者に近い。
というのも、センサー市場では9割近くがSONY製だからだ。

SONYは、ニコンにも、OLYMPUSにも、ペンタックスにもセンサーを供給している。SONY自身もカメラを製造しているので(正確に言うとセンサーを作っている会社はSONYの子会社だが)、これらカメラメーカーはライバルではあるわけだが、同時に、顧客でもあるわけである。

つまり、「他社が儲かれば、自社も儲かる」というおいしい仕組みをSONYは持っており、センサーを中心に見ると、SONYこそが王者なのである。

一方、キヤノンはあくまで自社製造路線を崩しておらず、また例えば台湾のOEMメーカーへの外注も極端に少ない(ただし、台湾の小会社へは依存している)。センサー市場では、キヤノンとパナソニック、それからAptina社などがSONYに対抗しているが、それらを足しても10%程度。

これはPCのプロセッサでインテルが一人勝ちしているのとほぼ同じ状態だ。


さて、話を元に戻すと、王者SONYは5000万画素で、挑戦者キヤノンは4700万画素。
このような高画素化はどこまで進展して行くのだろう?


僕は、「2億画素」くらいまで行ってもいいと思っている。

いやむしろ、理想的な、究極的なカメラというものには、2億画素程度は必須だとすら思っている。

こう言うと、大方のカメラ好き(カメラオタク)の諸先輩方には一笑にふされるだろう。

もちろん、現時点では、画像処理エンジンの処理速度が追いつかず、連射速度に問題があるだろうし、ノイズも十分に制御できないだろう。そもそも、2億画素の35mmフルサイズセンサーには、レンズ自体の解像力が追いつかない、という意見もあると思う。(3680万画素のD800でさえ、レンズを選ばなければその解像力を十分には発揮できない)

しかし、あくまで「2億画素が理想的である」と考えるには以下のような理由(と仮定)がある。

  • まずセンサーのサイズは36mm×36mmの正方形センサーとする。(理由は後に述べる)
  • ファインダーは、リフレッシュ速度が十分高いEVFとする(どの程度の動体を被写体とするかによって「十分なリフレッシュ速度」は変わってくるが、とりあえず細かなスペックは置いておく)。
  • まず大事なポイントとして、2億画素まで高画素であれば、モアレを除去するためのローパスフィルターが不要になるということが挙げられる(レースのような高周波の被写体であっても、干渉縞が発生しないほど画素ピッチが狭い。このため通常のRGBベイヤー配列のセンサーでもモアレを気にしなくていい)。結果として、解像力が単なる画素数の増加以上に向上する。
  • 次に大事なポイントは、通常の撮影時では、デモザイク処理(RAW→JPEG処理)の段階で9画素を1画素に統合する画素統合処理を行い、2000万画素程度のJPEGを生成するという機能を付けることである。(これがかなり重要。つまり、2億画素=一枚で200Mbというアホらしい容量を通常時は抑制できる。そして風景撮りなどとにかく解像力を活かした撮影をしたいときに、2億画素開放(35mmフルサイズの領域だと1.3億画素だが)で、エッジの効いた超弩級の高解像写真を生成する。)
  • さらに大事な点は、デジタルズームを1インチセンサーサイズくらいまで可能とすることである。正方形センサーは36mm×36mm=1296、1インチセンサーは13.2mm×8.8mm=116で面積比で大体10倍くらいの差があるが、もとのセンサーが2億画素もあればトリミングした1インチセンサーの面積であっても2000万画素程度保たれることになる。つまり、デジタルトリミングをしても、十分写真になるのだ。
  • デジタルズームを1インチセンサーまで可能とすると、レンズの焦点距離は2.7倍まで伸ばせることになる。例えば、28mmの単焦点レンズ1本で、75mmまでデジタルズームが可能である。28mmのF2レンズなど小型軽量で安価なわけで、それが75mmまでF2通しのスペシャルなズームレンズになるのだ(現在そんなレンズは存在しない!※1)。キヤノンの大三元レンズの一本EF24-70mm F2.8Lレンズは大体17万くらいで950gくらいの重量があるが(2年前から愛用しているが重い)、これよりも(若干広角は負けるにしても)明るくて小さなズームレンズが4〜5万円で手に入ることになる。なんと素晴らしいことか。そして、これは「レンズで儲ける」という商売を得意とする老舗メーカー、キヤノンやニコンには手痛い話となる。
  • 画素統合は、デジタルズーム中も連動することとする。つまり、35mmセンサーサイズ時にも2000万画素、APS-Cサイズ時も2000万画素、フォーサーズサイズでも2000万画素、1インチセンサーサイズでも2000万画素と最終のJPEGサイズは常に2000万画素となるようにアルゴリズムを組むのである。
  • 同時に、ファインダー上の画像もデジタルズームに追従して拡大することが必須である。このため、必然的に、光学ファインダー(OVF)ではなく、電子ビューファインダー(EVF)を搭載することが必須となる。
  • また、縦横のフレーミングの回転も、これまではカメラそのものを持ち替えて行っていたが、センサー上のトリミング範囲を縦横交換することによって可能となる。これが、36×36mmの正方形センサーを搭載する所以である。こうすることで、フラッグシップ機にあるような「縦位置グリップ」というスタイルが不要になる。縦位置グリップには周囲のカメラマンを威圧する力があるが(もちろん縦位置も横位置も同様に違和感なく交換できるという本来の良さもあるが)、大きく重くなるというマイナス点も大きい。正直、キヤノンから高画素機が出るとしてもEOS 1DX系の縦位置グリップが付いているような大きなモデルであれば、全く欲しいとは思わない。普段使いに、アレは大袈裟過ぎる。
  • そして、画素数を最大限使いきるには、30×30mmの真四角領域(対角線長43mmで、35mmフルサイズセンサー用のレンズがギリギリカバーできる最大のイメージ範囲)で撮影するという選択肢がある。これは、およそ1.38億画素で、正方形の比率から中判の6×6写真のような印象を与えるだろう。


というわけで、まとめると「2億画素のカメラ」によって、

  • 明るい単焦点レンズを夢のズームレンズに変換することができる。この結果、大きく高価なF2.8通しのズームレンズが一切不要になり、レンズも含めたカメラ全体の大きさを小型化できる。
  • ローパスレスによる解像度の向上をベイヤー配列センサーでも(特別なアルゴリズムを必要とせず)実現できる。
  • 36mm角の正方形センサーによって、縦位置への変換をボタン一つで行えるようになり、縦位置グリップが不要になる。
  • 30×30mmという新しいフォーマットが副産物として生まれる。なお、この場合、1.38億画素であり、いわゆるフルサイズの36×24mmでは1.33億画素である。


以上が、「理想的な、究極的なカメラには2億画素が必須」と考える理由だ。

こんなカメラが出てきたら、既存の高価な交換レンズを主体とする一眼レフの市場は完璧に過去のものになるだろう。


さて、こんなラディカルで素敵なことをできるメーカーはあるだろうか?

キヤノンには絶対できない。
(仮にやれたとしても、しないだろう。また、これまでEVFの技術を軽視し過ぎてきた。これからよほどの巻き返しをしなければ追いつけないだろう。さらにレンズビジネスまで取り上げられたらと思うと、もう進めないはずだ。)

ニコンにもできないだろう。
(レンズビジネスとOVFがある。)

結果として、僕は、SONY以外にはあり得ないと思っている※2。

SONYには、

  • 2億画素を実現する技術基盤が既にある。
  • レンズのビジネスモデルを守る理由がない。(むしろ、カメラ本体を売ってなんぼの商売をしている。というか、カメラ出し過ぎ。)
  • エントリー機からハイエンド機まで、徹底してEVFを搭載している(むしろ、OVFの銘機だったα900シリーズを潰してしまったという因縁すらある)

さて、今後5年間くらいの間で、どれだけ僕の理想(妄想)に、カメラメーカーが追いついてくれるだろう?

上記の理想(妄想)は、あくまでベイヤー配列のセンサーを軸に考えているが、もう一つの方向として、FOVEONのような三次元の積層型センサーという方向や有機センサーの方向もあるかと思う。こちらの方向にも期待大だ。

両者が融合して、結果として5年以内に僕の妄想が追いつかれ、追い抜かれたら、これはもう言うことなしだ。
10年以内でもOKだと思う。

いずれにせよ、高画素不要論は2012年10月時点では多いものの、各メーカーには頑張ってほしい。特に画素統合など、ソフトウェア側の進化が実はボトルネックになりそうだ。こちらの開発も抜かり無くやってほしいと思う。

理想のカメラができることを、楽しみに待っている。

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後日追記(2012年10月22日)
※1:すまん、存在していた。不明を恥じるばかりだ。
OLYMPUS ズイコーデジタル ED 14-35mm F2.0 SWDである。
フォーサーズは2倍するとフルサイズ換算の焦点距離になるので、このレンズは28-70mmの開放F値2.0ということになる。フォーサーズはフルサイズやAPS-Cに比べると小さな撮像面でボケ量は少ないのだが、その分、レンズの中心部分の一番密度の高い光を受光できる。恐らく、撮像素子が小さな分だけ、またμフォーサーズに比べてフランジバックが長く余裕がある分だけ、明るいズームレンズを作りやすいのだと思う。

※2:あともう一社、可能性がある会社があった。サムスンだ。日本では販売されていないので余り知られていないが、サムスンは既にミラーレス一眼レフを販売しており、世界的には割と知られている。コンデジでは、既に世界シェアで10.7%取っており、富士フィルム(9%台)を抜いている。サムスンが、本当に本気でハイエンドカメラを狙ってきたら、これくらいの理想は達成されてしまうかもしれない。個人的には、SONYに達成してほしいが。

2012年10月19日金曜日

139. 半形而上学的な君へ(父親未満のひとりの男)





子供ができた。
もちろん、奥さんに。
11月中旬に出産予定で、どきどきしながら経過を見守っている。

先日、初めて産婦人科に付き添って、エコーで「我が子」を見た。

モニターに目が映った。

二重だった。

くっきりと。

エコーの画面越しに、
目が合った気がした。

その瞬間、
「ああ、生きている。」
と思った。

そして、何と言えばいいのだろう?
空想上の生き物だった「我が子」が、
一気に現実の、
自分の延長線上に出現したような、
それはとても鮮烈な体験だった。


「ああ、ここにいる。
 新たな世界が始まりつつある。」

僕が率直に思うのは、そういうことだ。
なんと、素晴らしいことだろうか。


それでもまだ、僕は十分な実感を伴ってはいないのだろう。
熱心に出産や子育ての本を読む奥さんを横目に、僕は写真論の本に没頭していたりする(おい)。


父親未満のひとりの男。

それが今の僕なのだろう。
子供がもしもできたなら・・・という空想は、これまでにも何度かしたことがあった。それは、まさしく「空想」であり、「形而上学的な」ものだったろう。

正直に言うと、この記事は、随分前に一度書こうとしたことがある。

そのときのタイトルはこうだ。

「形而上学的な君へ。」

しかし、あのエコーの事件があって以来、僕は君のことを純粋に「形而上学的」な存在にはできなくなっている。もっと実体を伴った、リアルな存在として、既におぼろげながら、僕の精神の中にいる。

しかし、まだ生まれてきてはいない。
実体はあるが、君は子宮の中に留まり、現前してはいない。
その結果、

「半形而上学的な君へ」

というタイトルとなった。

さて、父親未満である僕は、むしろ積極的に「一個人」として思いを巡らせている。

まず、何よりエキサイティングなことは、

僕とは違った「知性」が、生まれつつあるということだ。

一体、君は30年後、何を考えているのだろう?
僕が到達できなかった、知の地平を切り開いているのだろうか?
何を悩み、何に頭を使い、何に喜びを見い出しているのだろうか?
人生の目標は何で、どんな研鑽を積んでいるのだろう?
そして、その胸に抱く「君の世界」はどんな広がりを持っているのだろう?

僕は純粋に、一個人として(それは父親というよりも、1人の人間として)これらに興味がある。

そして、その将来を指向したワクワク感は、20代の頃には想像もしなかったものだ。
僕は「一個人」の時代から、「父」の時代へと移り変わろうとしているのだろう。
父性というものを、まだ僕はおぼろげにしか感じることができないが、その片鱗を自分の中に見い出しつつある。
僕自身も成長していかなければならないだろう。


次にエキサイティングなことは、「生命」が正に今、形作られているということだ。
僕は、高校生くらいの頃から、「生命」というものを、正確に理解したいと思っていた。
熱力学第二法則は、「宇宙の万物は、エントロピーが増大する方向に向かって行く。」と言い切った。
エントロピーとは、「乱雑さ」であり、「無秩序さ」である。
山肌にある大きな岩は、やがて転がり落ち、川に流され、細かくなり、小石となり、砂利となり、砂となる。全ての物質は、拡散していく。混ざり合い、複雑になり、境界を失っていく。それが自然の摂理である、と。

しかし、と高校生の僕は思った。

「じゃあ、生命の進化については、どう説明をつけるのだ?」と。

単細胞生物から、真核細胞生物へ。
魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類、人類と、むしろ身体機構は複雑さを増し、意識という曖昧なものが芽生え、知性が生まれた。

そして、僕たちは地上に立って、思考している。

この知性を備えた人類というものは、いや、それだけではなく、その他のあらゆる生命というものは、あたかも熱力学第二法則に抗い、無秩序さから秩序を作り出し、発展させているように見える。これはとても不思議なことだ。

生命の生命たる理由を解明してみたい。
理解してみたい。
熱力学のあらゆる法則に矛盾しない形で、生命が存在していいことを、自分なりに明かしてみたい。
そして、願わくば、生命を自らの手で作り出してみたい。
生命を一から作り出せるということは、生命を理解した何よりの証拠だろう、と思った。

そういった欲求から、生命理工学部の道を選び、生物物理学の研究を行った。
しかし、僕が生物物理学の世界で理解できたのは、ほんの僅かなことだった。

ATPaseというタンパク質は、回転機構を持っており、その物理的な挙動は一切、熱力学の法則と矛盾しない。ただし、水の熱揺動によるエントロピックな力をも利用して、非常に高い効率で回転運動を行っている(ATPの化学的なエネルギーがほぼ100%の効率で、γサブユニットの回転という力学的な反応に置換されている)。
そんなことくらいだ。(とはいえ、それはそれで結構面白い発見だったのだが)

結局、「生命の生命たる理由」を解明することのないままに、僕は大学院を卒業し、今は抗がん剤の分子標的薬を開発している。

(なお、熱力学第二法則と生命との共存については、修士課程でそのカラクリをある程度確からしく理解することになる。熱力学第二法則が予言しているのは、「宇宙」のことなのだ。つまり、地球という小さな惑星の中でたとえいくら生命が高度に組織化したとしても(無秩序さを減らしたとしても)、宇宙規模で見れば、宇宙の大部分は物質でできており、シンプルな物理学に従って、乱雑さを増している。宇宙の中の全ての乱雑さの総計から比べれば、地球上で起こる生命の進化など、容易にキャンセルされてしまうだろう。高校生の僕は「生命」に着目し過ぎていたわけだ。対象とする系が宇宙規模まで拡大された場合、生命とは微小空間に巻き起こった渦に過ぎないのだろう。その渦だけを見て、「熱力学第二法則は成り立たないんじゃないか!?」と言っていたわけだ。ああ、恥ずかしい。)

僕は自身の研究で生命を作り出すことはできなかったが、しかし、今、それは自然な形で実現しつつある。

内蔵ができ、心臓が拍動し、手が形成され、目や耳ができ、といった人類が解明したい「生命の神秘」が正に進行している。

こういった「形態形成」というのは、今の生命科学の中で重要な位置を占めているはずだ。元は、まん丸い一つの受精卵だった細胞は、分裂を繰り返すうちに、「俺は心臓をやるから、お前は手な、お前は目で、お前は足。」というように、自分の位置を把握して、立体的なヒトの形を形成していく。

外から見て、ここらへんに目で、ここらへんに腕で、とやっているわけではない。「内発的」に自分の位置を探知し、自らをトランスフォームしていくわけだ。それは中心から「湧き上がる」ようなものだ。

これは大変なことだと思う。
ちょっと考えただけでも、簡単なプログラムでは実現できないことを直感する。何より「形態」とは、「三次元」なのだから。

三次元の座標を正しく把握して、自らの役割を決め、変容していく。
そのプロセスは、「神の御業」としか言いようがない。

それが、今、進行しているのだ。
「科学」では到達できなかったことが、「自然」によって実現される。

これを奇跡と呼ばずに何と呼ぶのだろう。
僕はつくづく、そんなことを思っている。

2012年10月7日日曜日

138. TOKYO PHOTO 2012(鈴木理策さんに会う)

先日(2012年9月30日)、六本木ミッドタウンで開催されたTOKYO PHOTO 2012へ行ってきた。

欧米、中国などから著名なギャラリーが集まり、時代を代表する作品(それは例えば、アウグスト ザンダーのような1920年代の名作から、マッギンレーの最新作のようにごく最近のものまで含まれる)が出品され、観賞するだけでなく、購入もできるイベントである。


今年で四回目ということだが、自分は初めての参加である。
これもひとえに、定期購読を始めた写真雑誌IMAの招待券のおかげだ。
(通常は入場に1500円かかる)


今年創刊された「写真の現在」を伝える雑誌 「IMA」
僕の現在の興味にぴったりの雑誌である。


ここではそのとき取ったメモを残しておこうと思う。

様々な収穫があったが、大きなものとしては2つ。

1)鈴木理策さんがサイン会を開いており、幸運にもサインをもらうことができた。「分離派宣言、がんばってください!」と言おうと思ったのだが、この宣言について、どれだけ深く理解できているか自信がなく、また勇気もなく、結局「ありがとうございました。」とだけ言って去ることになる。とはいえ、初対面で嬉しかった。なるほど、この人があの写真を撮るのか、と。

2)作品の価格というものを、試みに、ドラゴンボールで言う「戦闘力」に置き換えると(無粋なことかもしれないが)、結構値札を見るのが愉しくなる。傾向としては、

  • 歴史的に、地位が確立された作家(ザンダー、エグルストン、マーティン パー、アヴェドン、ポール ストランド、ウォーカーエヴァンス、ベッヒャー夫妻など写真の歴史本に名前が大きく出てくるような人々。いわゆる巨人達。)は、当然ながら高い。大体100〜750万くらい。
  • 今をときめく作家は、そこそこの値段60〜150万くらい。
  • 日本人の作家はかなり有名な人でも比較的安い。30〜60万円くらい。新人作家では3万円というのもあった。

という感じだった。
もちろん、今回出品された作品にも、エディションとして価値が低いものが混じっていたと思うので、上限はもっと上にあると思う。(エグルストンの有名な三輪車の写真は、4900万円ほどで落札されたことがあるので、エディション的に希少なものはこのくらいまで跳ね上がる。その点を考えると、今回は1000万越えのものがなかったので、ギャラリーとしては比較的イベントに出品しやすいものを選んでいたようにも思える。来場者に制限がない(プロのみの来場ではなく一般人も入れる)のもそのおかげかもしれない。)


気になった作家をメモしておく。特に気になったものに☆を付けた。


  • Jean Baptiste Huynh Official web site: http://www.jeanbaptistehuynh.com/
  • Philippe Calandre / Slio 2001 / Official web site: http://www.philippecalandre.com/main.html
  • Loan Nguyen / Basin 2000 / ¥510,000 Official web site: http://www.madameloan.com/
  • Denis Darzacq / Hyper 15, 2007 / ¥1,106,000(浮遊少女の元祖かも?)Official web site: http://www.denis-darzacq.com/
  • Bernard Faucon / Official web site: http://www.bernardfaucon.net/v2/index.php
  • Anders Ptetersen / Vasagatam Stockholm 1968 / ¥2,615,000
  • Ryan McGinley / Black forest / ¥1,344,000,  Kaboom / ¥2,467,500
  • 蜷川 実花 / Plant a tree / ¥304,500
  • Laurie Simmons / Man/Sky/Puddle/Second View/ ¥2,662,800
  • Nick Brandt / Elephant Train Amboseli 2008 / ¥270,000
  • David Drebin / Jerusalem 2011 / ¥410,000
  • Elger Esser (好ましい淡いプリント)☆ Official site: http://www.elgeresser.com/index.php?id=38
  • Martin Parr (暴力的なビビッドさ)
  • Joann Callis
  • Tereza Vlgkova (双子写真?フェイク?)
  • Susan Perges(フォトグラムっぽい)
  • Edward Weston
  • Dodie Weston (Edward Westonの息子の嫁さん。Edward Westonのフィルムから作品を選び出し、再度プリントしていたもので、3000〜5000USDだった。再プリントだから安いのだろう。)
  • Chen Baosheng / Open Air Theatre (この作品は人物のものだが、本来は馬の写真が代表的な作家。馬の「龍性」を捉える。)
  • Yang Yongliang / Snow City Quaternity 02 / ¥375,500 (中国の山水画と現代の街をミックスさせたような作品。写真と絵画の中間のようなイメージ)☆ 紹介Web site http://mag.9bic.jp/yang-yongliang/
  • Paolo Roversi 
  • 山本糾
  • 川田喜久治
  • 西村陽一郎 / 青いバラ / ¥400,000
  • さをり にのみや / 鎮魂景 / ¥30,000
  • 佐藤信太郎 / 2010年11月3日新小岩 / ¥262,500
  • 新井卓 / 放射性のヤマユリ(飯館村)ダゲレオタイプ / ¥277,788
  • 横須賀功光 / Cave(壁)
  • 北井一夫(農村風景が多かった)
  • オノデラユキ /  Portrait of second hand cloths(あの衣服の写真シリーズ)/ 窓の外を見よ☆
  • Michael Kenna / ¥473,000 (日本の風景を再発見している写真家。この人の写真は本当に好きなのだが、どうしてもこういう風には撮れない。。)☆ Official web site:  http://www.michaelkenna.net/
  • Masao Yamamoto / ¥108,000☆(変な喩えかもしれないが、Michael Kennaに近いものを感じる。それは「和」だ。)Official web site : http://www.yamamotomasao.jp/
  • Sarah Moon / Fashion (pour New York Times) 1998
  • Richard Avedon / ¥7,350,000(今回気付いた中で、最高額だったと思う)
  • Nastassja Kinski and the Serpent 
  • Helmut Newton / ¥2,310,000 (今回出品数が多かった。複数のギャラリーが扱っている)
  • Yuki Tawada / Layered / 複雑な形のパネルが3層に重ねられたオブジェのような作品。
  • Jonas Bendiksen / The place at live Mumbai 2006 / ¥235,000☆(マグナムフォトの一員。現実の報道でありながら、絶妙な、ある意味で絵画的な構図。瞬発力とセンスの調和。裏打ちする行動力。うーんこの人の本はほしい。)紹介サイト:http://thephotosociety.org/member/jonas-bendiksen/
  • Elliot Erwitt / ¥ 340,000 (エディションNo.不明。サインあり)
  • Steve McGurry / Afgan girl 1984 / ¥600,000(友人からもらったNational Geographicの表紙に選ばれていたアフガニスタンの少女を写した写真。オリジナルプリントで見れるとは。吸い込まれるような目だった。)
  • Rong Rong & inri (双子の三つ編み)
  • 林ナツミ(浮遊少女の人。売れてるなぁ。木村伊兵衛賞かな?)
  • August Sander / Two boxers / ¥ 630,000 (あの有名な「拳闘士」の写真である。それでも安いのは、エディションが切られていないからなのか。そうはいっても、リアルに見れるとは。)
  • Lee Friedlander / Self portrait / ¥238,000
  • Ellen Kooi / out there (とても不思議な写真だった。僕には真似したくても決してできないタイプの写真。大判カメラ×ファンタジー。)☆ Official web site: http://www.ellenkooi.nl/
  • Eterplan:縮面加工された上質紙。テクスチャとして面白い。
  • Ansel Adams / Sand Dunes, Sunset, Death Valley 1948 / ¥1,200,000
  • Paul Strand / New York roof tops 1916
  • Walker Evans / New York Skyline / ¥900,000
  • William Eggleston / Sign between two tree 1972 / ¥950,000
  • Joel Peter Witkin
  • シカマタケシ
  • Hamid Sardar

走り書きをそのまま転記したので、スペルミスがあるものと思うが、とりあえず「とっかかり」のテキストとしてメモっておく。これからそれぞれを検索し、その作家の他の作品を見てみたい。

しかし、上記のメモをしていたとは言え、4時間ほど滞在していたことになる。

約1000点の見応えは、相当あったと思う。

改めて思ったのは、「写真に国境はない。」ということだ。

「スポーツに国境はない。」というのは有名だし、「音楽に国境はない。」というのもよく言われる。つまり、「言語」ではなく、「身体」に帰属するものは、基本的にホモサピエンス間で無条件に交換可能であるということだ。味覚に依存する「料理」もそうだろう。各国で馴染みやすいようアレンジはされるものの、料理は国境を越えている(今夜はナポリ風ピザだった)。嗅覚に依存する香水だってそうだ。日本ではそれほど強いものは好まれないが、それでもなお、外国産の香水は一定の地位を得ている(高校時代とCK oneの香りが結びついているのは、恥ずかしくもあり、懐かしくもある)。写真も視覚に訴えるものであり、言語は補足になるにしても、基本的には独立変数と考えていい。

言語を伴わないものは、情報量が少ないという欠点を持つが、一方で、一国に閉じることなく(言語の勢力圏に依らず)拡散する性質を持ちうるということだ。普段、海外の写真に接していなかった分、こういったことを強く感じる結果となった。
面白いなぁ。

来年も是非行きたいと思う。

2012年9月29日土曜日

137.  写真生活(本、写真展)

最近、写真への関心がより高まっている。
ちょっとしたマイブーム(?)のようだ。

【最近読んだ本・読んでいる本】
  • 世界写真史/飯沢耕太郎 監修(執筆:飯沢耕太郎、大日方欣一、深川雅文、井口嘉乃、増田玲、倉石信乃、森山朋絵)


  • 写真分離派宣言/鈴木理策、鷹野隆大、松江泰治、倉石信乃、清水穣 著



  • 苔のむすまで/杉本博司 著

  • 伝わる、写真。/大和田 良 著

  • 写真と生活/小林紀晴 著

  • 現代写真論 コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ/シャーロット・コットン著、大橋悦子、大木美智子 訳



新旧織り交ぜて、写真史170年余の変遷を理解するのはまだまだ足りない。
まだまだ、「写真を見る経験」が不足しており、体感として作家名が入ってこないのだが、とりあえず、大まかな流れや系譜が頭に描かれつつある。もう少し、現代写真を俯瞰したら、次には、著名な作家の代表的な作品集を網羅的に解析していきたいと思っている。
(いつか自分なりの歴史年表やマップを作ってみたい。その上で、現在売れている作家達を分類し、どの系統の「進化型」なのか「突然変異型」なのか同定してみたい。)

しかし、正直なところ、現段階では批評家達の言説は難しく、なかなか頭に入ってこないのも本音だ。

例えば、写真分離派宣言の参加者である倉石信乃さんは、世界写真史の現代写真編を担当しているが、ここのパートはいきなり難解である(倉石さんは写真批評家)。

絵画に従属した写真(絵画主義)を否定して、レンズを通して得られた正直な、細密な写真(ストレートな写真)を謳ったスティーグリッツや、その後のf.64、主観写真といった流れはよく分かる。その後発生する、カラー写真を取込んだニューカラーやソーシャルランドスケープ、ベッヒャー夫妻から始まるタイポロジーによる客観主義、といったものもよく分かる。

しかし、1980年代以降のポストモダンから突然変異が多重に起こったように、「作家性」のベクトルが混沌とし出してくる。

僕は「写真の現在」を理解したいのだが、その直前までの経緯が最も複雑で、混沌としているという印象だ。
(日本の歴史と同じ。第一次世界大戦あたりから情報過多となり、かつ大抵が学期末と重なって駆け足で流されてしまう。日本(人)にとって居心地の悪い時代であったことも反映しているのかもしれないが。)

また、比較的最近の2010年に鷹野隆大さん、鈴木理策さん、松江泰治さん、倉石信乃さん、清水穣さんが始めた「写真分離派宣言」も、それそのものが混沌としている。

正直、声明文は一本のベクトルに貫かれたものではなく、複数のベクトルが包含されたもので、主張がバラバラになってしまっている印象だ。

しかし、結果として、参加者それぞれが「写真の現在」を異なる形で理解しているのがよく分かる。(また、それが分かるように、意図的に修正せず、そのまま出しているのだろう)

例えば、

・何に対する分離なのか?

・どこに向かいたいのか?
・参加者(5人中3人が写真作家、2人が批評家)の作品の方向性として、何か軸があるのか?

など、肝心な部分で、参加者内に分裂が起こっている。



(一方、スティーグリッツがかつて行った「写真分離派宣言」は、絵画主義写真(鮮明な写真にならないようにネガに処理を施し、あたかも印象派の絵画のようなテクスチャを与えたり、絵画の構図をそのまま受け入れ、「絵画に似ていること」に価値を見る主義。鈴木理策さんの言では、「絵画に従属した写真」)に対する「分離」を宣言しており、それに対して「ストレートな写真」を提唱し、その作家性を推進し、後進への教育も行った。分離する対象、その後の方向性が明確で、今回の宣言と大きく異なっている。)


2010年の写真分離派宣言の発端としては、「写真のデジタル化によって、フイルム時代の現像やプリントワークが過去の遺物になってしまう」ということに鷹野さんが危機感を抱いたことが挙げられているが、写真のデジタル化に対する意見(肯定/否定)も参加者によって異なっている。

鷹野さんは、デジタルよりもフイルムを肯定したい(保存していきたい)立場のようだが、一方で、松江さんは「デジタルの方がごまかしが効かない正直なものなのだから、さっさと全てのフォーマットはデジタルに移行してほしい。」と話す(とは言いつつ、松江さんの作品は大判カメラで撮られており、大判カメラの細密性の優位は認めている。恐らく松江さんとしては、「フイルムの大判カメラと同じフォーマットのデジカメが出てくれれば、全く躊躇無く全てをデジタルに引っ越せるのだが、実際は大判デジタルなんてメーカーは作らない(作ったとしても数百万は確実)。なので、(仕方なく)大判のフイルムを使っている、という状況なのだろう)。

このように、時代を牽引している著名な作家が、これほど現状に異なる見解を持っていて、「分裂」しているというのが、「写真の現在」なのだろう。

とはいえ、毎年、木村伊兵衛賞は発表され、新たな写真は生まれつつある。賞を与える側の頭には、写真史が描かれ、特に現在の写真の流れを考慮した上で、「新しさ」を評価しているわけで、その流れが分かっていなければ、新しさも分からないということになる。「流れ」と「新しさ」は、陰と光のような関係だ。

僕は作家になるつもりはさらさらないが、「写真の鑑賞者」として、より高い視点を持ちたいと思っている。現在の「新しい写真」=光を理解するためには、「古い写真」=陰を知らなければならないのだろうと思う。

そして、古い写真というのは、何も数十年前という訳ではなく、たった数年でも「古い写真」に認定されてしまうのが、恐ろしいところだ。

ま、その分、愉しいとも言えるのだが。



【最近行った写真展】

  • Ryan McGinley 「Animals」 /渋谷ヒカリエ
  • Ryan McGinley「Reach out, I'm Right Here 2012」 /小山登美夫ギャラリー
  • 松井一泰 「幻の島」/新宿ニコンサロン
  • 第4回SPRAY写真展「写真ってナンダ?!」/写真企画室 ホトリ


明日は、TOKYO PHOTO 2012に行く予定だ。
Ryan McGinley「Reach out, I'm Right Here 2012」はとても良かった。とても良かったのだが、この「良かった」をより明確な言葉で表せないのが歯がゆい。(これが、現状の鑑賞者としてのレベル)

自分なりに思ったことはあるのだが、恐らく、その大部分が「外している」予感がするのでここでは敢えて書かない。
(残念ながら、McGinleyの写真を、どのように自分の中で位置づけていいのか分からない、というのが本音だ。)



【最近のカメラについて】
週間ダイヤモンドの9/22号がカメラ特集で面白かった。



このブログでも書いていたのだが、スマホを発端としてドミノゲームが起こっていることが分かりやすく書かれている。
また、各企業がどの程度、台湾企業に依存しているかも紹介されており、各社の戦略の違いが明確になっている。キヤノンがニコンより高めな価格設定なのは、内製化の副作用なのかもしれない。自動化を強力に推し進めることで、人件費の高さはカバーできる、と言っているが、過渡期の間はどうしても相対的に高くなってしまうのではないか。


また、本日(9/29)、キヤノン待望のミラーレス機「EOS-M」が発売された。早速ヨドバシに行ってみたのだが、なんと、全く人気がない。並びもせずにあっさりと触れてしまった。

印象は、

  • APS-Cとしては(&小型化に熱心でなかったキヤノンとしては)驚異的に小さい。(ただし、NEXと比べるとほぼ同じだが)
  • AFが遅い、迷う(コントラストAFのみのOLYMPUSに完全に負けている。)
  • 絞り優先AEなど、凝ったことをやろうとすると、設定が面倒。その上、タッチパネルでの操作が必要。
という感じで、あまりいい印象はなかった。キヤノンもそこは十分承知していると思うので、少なくともAF周りは、今後急速にキャッチアップを進めるのだろう。

しかし・・・、やはりEOS Kissデジタルとの棲み分けを意識した作りは随所に感じられたので、このコンセプトをやめないと厳しいと思う。キヤノンの戦略部門には、「あんまり考えすぎるな」と言いたい。
(「いいものを出す」それに集中しないといけないと思う。子狡くラインナップの統制ばかりを気にすると、ミラーレスの世界で戦っていけないように思う。今回改めて、「デジタル一眼」と「ミラーレス一眼」の世界は別物だと実感した。例えばOLYMPUSのOM-Dは、素子のサイズは小さいが(とはいえとてもよいSONY製センサーだが)、操作性、AF速写性が良く練られており、ミラーレス市場での経験値の差を如実に感じることができる。キヤノンがミラーレスをAPS-Cで出したことで、m4/3陣営は途端に厳しくなるかとも思ったが、システムとしての完成度でまだまだレベルアップは可能であり、システム全体としての完成度として(単純なスペックに出ない操作性など含めて)戦っていけるのではないかと感じた。・・・と、センサーサイズ至上主義者の僕でもそう思わせるほど、EOS-Mは残念な感じなのである。キヤノンがAPS-Cを選択したことで、キヤノンもミラーレスに本気になったかと思ったが、正直まだまだ、ミラーレスを「コンデジとデジタル一眼の中間層」程度にしか位置づけていないらしい。「隙間を埋める」発想だと、EOS-Mのようなものしかできないし、それで問題とも思わなくなってしまう。(確かにEOS-Mは隙間を埋めている。しかし、ミラーレスを主戦場とするSONY、OLYMPUS、パナソニック、富士フイルムは、隙間だとは思っておらず、本気の開発を行ってくる。この本気度の違いは侮れない。))


とまぁ、一通り書いてみて、結局最後はカメラの話になってしまった(笑)

さて、作品のキャプション作りを再開するかな。

2012年9月14日金曜日

136. 歴史的一日(キヤノンが最近つまらない)

午前中、アップルから、iPhone5の発表があった。
朝からニュースで取り上げられ、より薄く、より早く、より長く使えるようになった「正常進化版」のiPhone5は奇をてらった機能はないけれども、確実にヒットするだろう。

そして、午後。
ニコンから、兼ねてから登場が噂されていた「廉価版」フルサイズ機 D600が正式発表された。
一日にこれほど注目する製品が登場するのも珍しい。
歴史的な一日と言っていいかもしれない。




これまでフルサイズ(24mm×36mmの大型撮像素子。フィルム時代の35mmフィルムと同じ撮像面積であり、そのため「フル」サイズと言われる。デジタル一眼レフカメラの分野では長らく16mm×24mmのAPS-Cサイズの撮像素子が一般的で、これはフルサイズのおよそ40%の面積しかない)と言えば、プロ向け(50〜80万円くらい)かハイアマチュア向け(大体25〜35万円)だった。
しかし、D600のコンセプトは、「ミドル層」を狙った「廉価版フルサイズ機」である。

D600のスペックを見てみると、

  • 本体サイズ幅約141mm、高さ約113mm、奥行き約82mm、質量約760gと、ニコンFXフォーマットデジタル一眼レフカメラで最小・最軽量を実現。
  • ボディー各所に効果的なシーリングを施すことで「D800/D800E」と同等の防塵・防滴性も確保。
  • 有効画素数約2400万画素、新開発FXフォーマットCMOSセンサーを搭載し、高いS/N比と広いダイナミックレンジを確保。
  • AFセンサーには、39点フォーカスポイントのマルチCAM4800オートフォーカスセンサーモジュールを採用。
  • FXフォーマットで視野率約100%、約0.7倍の高倍率光学ファインダーを搭載。
  • 1920×1080/30pのフルHDに対応。映像圧縮にはH.264/MPEG-4 AVC方式を採用。
  • ワイヤレスモバイルアダプター「WU-1b」を装着することで、「D600」で撮影した画像をスマートデバイスと共有可能。
  • 約5.5コマ/秒の連続撮影、起動時間約0.13、レリーズタイムラグ約0.052秒。
  • 最高速1/4000秒、フラッシュ同調速度1/200秒、約15万回のレリーズテストをクリアした、高精度、高耐久シャッターユニット。
  • 発売日は2012年9月27日、価格はオープン。

廉価版とは言え、なかなかのハイスペックだ。
正直、キヤノンEOS5DMkIIを使っている自分からすると、十分過ぎるくらいだ。(高感度性能がどうかは分からないが)
価格はオープンとなっているが、量販店の予約価格を見たところ、196200円〜218000円といったところ。フルサイズの初値としては相当安い。

実は、以前16万円代という噂も流れていたため、それよりは高めだったと見る向きも多いかもしれないが、防塵防滴を施して、5.5コマ/秒、2400万画素というのは、かなり良い性能であり、当初の予想性能を上回っている。これを考えると、196200円は、安いと言えるだろう。

そして、何より、重量だ。
760gとは。
マレーシアからの噂で、確かに軽いとは言われていたが、事実だったとは。キヤノンのAPS-C機EOS7Dが820gだから、それよりも軽いことになる。
ついにここまで来たか、という感じだ。価格も、重量も。

軽いと言えば、一昨日(9/12)発表になったSONYの「フルサイズコンパクトデジカメ」RX1も相当画期的だと思う。
その重量、482g(!)
片手で扱えてしまうレベルである(とはいえ、フルサイズで2430万画素だと手ぶれにシビアなので、きちんと両手で構えるが)。


形はややレトロで、なんとなくエプソンのRD-1や、富士フィルムのX100を彷彿とさせる。割と好きな方だ。35mmのゾナーF2というのも、コンタックスのTシリーズを彷彿とさせて、いい感じだ。もちろん、レンズ固定式の(それもEVFが内蔵されていない)カメラに25万円はおいそれと出せはしないが、エポックメイキングという点では、間違いなく歴史に名を残すカメラになると思う。

ニコンとSONYが実に、元気だ。
一方、我がキヤノンはというと、実に心もとない。

キヤノンにはD600に対抗した廉価版フルサイズ機が噂されているが、そのスペックは今のところ次のようなものだ。

EOS 6D(仮称)

- 2200万画素フルサイズセンサー
- 可動式モニタ、フラッシュ内蔵
- 19点AF、63分割測光
- シングルDigic5+
- 連写は4.5コマ秒で4.9コマ秒ではない
- 3インチ液晶モニタ(以前にタッチスクリーンと聞いている)
- ISO12800
- 新型のバッテリーグリップ、オプションで新型のGPSとWi-Fiグリップ
- 接続ソフトと共有ソフト内蔵
- 可動式液晶は採用されない
- フラッシュは内蔵されない

引用元:http://digicame-info.com/2012/09/eos-6d.html

AFポイントにしても、画素数にしても、D600に負けている。
恐らく、防塵防滴も採用されないと思う。
こうなってくると、6Dであと注目すべき点は、価格くらいしかない。
相当安くなければ、D600とD800への流れは買えられないだろう。


2400万画素のD600が196000円で、3680万画素のD800が241000円。
対して、2230万画素の5DMkIIIが275800円である。

現在、高画素のD800に対抗する3Dxなる機種が噂されているが、その位置づけから考えると、間違いなく、5DMkIIIより高くなり、初値で450000円台というのもあり得ると思っている。

そうなると、キヤノンではニコンより7〜20万円くらい高い設定になることになる(もちろん、画素数だけで比べるのは不当であり、高感度性能であったりAF性能であったりとした、トータル性能で比べるのが真っ当であるが、それでもニコンの機種は全体的にしっかりできているという現実がある。総合力でも、大きくは見劣りしないのだ)。


他方、SONYの非常に早い新製品開発サイクルに、巨人のキヤノンは完全についていけてない。さらに、SONY製のセンサーを採用したOLYMPUSのOM-DやニコンのD800を見たところ、SONY製のセンサーは階調も豊富で、目を見張る性能をたたき出している。
このように、他社へも撮像素子を売り、他社が儲かれば、自分たちも儲かる仕組みは、食品業界の味の素と同じビジネスであり、PC業界のインテルとも重なる。
PCではアップルのMacも、もはやインテル製のプロセッサを搭載しており、プロセッサと言えば、インテルというくらい市場を席巻している。

SONYがカメラ業界のインテルになる日も近いだろう。
(カメラ業界のアップルには、どの会社がなれるのだろうか?)

キヤノンはいつまでも横綱相撲(後だしジャンケンでの勝利)が取れると思っていないで(恐らく、さすがに社内はそれなりに危機感を抱いているとは思うが)、もう少し的を絞って開発した方がいいと思う。

時代は変わってきているし、価格破壊は進んできている。


+++ 2012年9月15日追記 +++

EOS 6Dのスペックについて、新しい噂が出てきた。
恐らく、D600の正式発表に触発される形で、意図的にリークされたものと思われる。

- センサーは新開発の2020万画素フルサイズCMOSセンサー
- 画像処理エンジンはDIGIC5+
- APS-C機並に小型化されたボディ
- ボディはカバーのみマグネシウム合金
- W-Fi内蔵
- GPS内蔵
- AFは11点、中央はF2.8対応のクロスセンサー
- 連写は最高4.5コマ/秒
- シャッター速度は30-1/4000秒、シンクロ1/180秒、シャッターの耐久性は10万回
- 防塵防滴
- 液晶モニタは3型104万ドット
- 動画はフルHD(1920x1080)、30p/25p/24p
- ISO100-25600(拡張で50、51200、102400)
- クリエイティブオート
- メディアはSD/SDHC/SDXC(UHS-I対応)
- 重さ755g(バッテリー、メディア含む)
- 発売(on-sale date)は2012年12月
- 店頭予想価格はボディが195000円前後、EF24-105mm F4L ISキットが295000円前後
- (追記)ファインダーはペンタプリズム、視野率97%、倍率0.71倍
- (追記)大きさは144.5mm(幅) x 110.5mm(高さ) x 71.2mm(奥行き)
- (追記)AFユニットは低輝度に強い新型



まず、僕の想定を上回っていたのは、重量だ。
バッテリーとメディアを含んで755gというのは、大体APS-C機の60Dと全く同じで、APS-C機と同じ気軽さ(と言ってももちろんミラーレスとは異なるが)で持ち出せる。素晴らしいサイズに収めてきた。

なお、先の文章では、D600が760gとなっているが、これはバッテリーとメディアを除いた重量で、バッテリーとメディアを込みにすると、860gとなり、100gほど6Dより大きくなる。
この点で、6Dは頑張っていると言える。

また、防塵防滴は諦めるかと思っていたが、きっちり行ってきた。エントリー版フルサイズ機と言えど、そこまで手は抜かなかったということだ。

Wifi内蔵とGPS内蔵も嬉しい誤算だ。特にGPS内蔵は、旅写真で重宝する(バッテリーを喰うということもあるだろうが)。

手を抜かなかったという点では、ペンタプリズムもある。Kissのようにペンタミラーを搭載する可能性も考えていたが、そうではなかった点にはホッとした。キヤノンはなんだかんだ文句を言われても、「カメラメーカー」として真面目に考えられているなと思う。
(後は、戦略の全体像を指揮する優れた指導者がいれば文句無しなのだが。。)


AFはポイント数が前回の噂の19点から11点まで減ってしまっているが、「低輝度に強い新型」ということで、合焦の精度やスピードに期待したい。なお、ポイント数ではD600の39点からするとかなり少ないので、AFの「カバー面積」を意識する人、動体を撮りたい人には、D600の方が良さそうだ。
(自分の使い方は中央1点に絞って使うことが多いので、AFのポイント数よりアベイラブルライト下での精度やスピードを重視する。)

価格は、初値で195000円ということだが、これはD600の実売価格(値引き後の価格)とほぼ同等。しかし、元々D600は220000円が正式な(?)初値なので、そういう意味では、2万円程安い位置づけのようだ。
これはスペック差を考慮すると妥当なラインと思われる。ただ、実売の初値として18万円代が見えていないと、実質的な差がなくなってしまい、性能差の方が注目される結果となりかねない。ここらへんは、営業部隊の戦略が試されるのだろう。


さて、600Dと6Dで、今後注目すべき点は何だろうか?
個人的には、「高感度」だと思っている。

画素数こそ幾分少ないが、6Dのセンサーは「新型」であり、5D MkIIIの方向性を引き継いでいるとすると、「高感度耐性」に特徴付けされている可能性がある。
一方、作例を見る限り、600Dはそれほど高感度に強くない印象だ(と言っても、まだまだ検証データ不足で完全に推測の範囲内だが)。

ここでの差別化がうまくできれば、6Dと600Dはいい勝負をするかもしれない。

あと、どうでもいいことだが、デザインは6Dの方が好みだ。
(レンズもキヤノンの方が好みで、Lレンズの赤いラインは差し色として好ましく思っている。一方ニコンのカメラは質実剛健といった「Fシリーズの系譜」を感じさせるものなのだが、どうしても、純正レンズの金文字が気になってしまう。撮るときには見えないものなのだが、気分の問題はコントロールできないものでもある。)

両者の今後の動向に注視したい。