2009年7月27日月曜日

027. 僕が旅に出る理由。


「僕が旅に出る理由は、大体100個くらいあって。」

とは、くるりの名曲「High way」の出だしだけれど、僕にとって「旅に出る理由」ってなんだろう?

僕は最近、こんな風に思うようになった。

「僕は今も、世界一周旅行中。」

これは比喩でもあり、本気でもある。
僕は社会人で、幸いにも仕事があって、日常生活の糧を得ながら、たまの休みに海外に遊びに行く。
いつかは「世界三周旅行に出かけよう!」と思っているけれど、
実態としては、「休みになったら旅に出る」というごくノーマルな社会人バックパッカーだ。だから、

日常日常日常

といった具合に、日常と旅とを順繰りに繰り返している。

今年は、
3月に韓国に行った。
5月にペルーとボリビアに行った。
そして、8月に、インドネシアに行く予定だ。

「今年は暇」というわけではない。
仕事は、正直、正念場。それは肝に銘じている。
でも、旅に出ない理由にまではなっていない(幸いにも)。

できれば、今年12月には、中国の元陽か、アラスカに行きたいとまで思っている。

旅には「始まり」があって、「終わり」がある。
でも、長い目で見たら、

韓国から戻って、
東京で原資をこさえて、
ペルーとボリビアに向かい、
東京に戻ってまた原資を養って、
インドネシアに向かう、
そしてまた、東京へと戻り・・・

という過程の中の「東京での日常」ってやつも、僕の「長い長い世界一周旅行」の一部だと思えるんじゃないか?

そんな思いが、

「僕は今も、世界一周旅行中」

という言葉に凝結していると考えている。

さて、そんな「巨視的な旅」を前提に、
『それでは、お前さんは何故、旅に出るのだ?」
と問われたら、きっと答えは一つ。

『世界を見ることができる身体を持って、生まれて来たからだ。』

ということだろう。
そんな根源的な階層まで、「理由」は根ざしている。
飽きっぽい僕は、心底「人間」で良かったなと思う。
もしも植物だったら、鬱病になって死んでしまうかもしれない。
動体となれる者として生まれて来たことを感謝しなければ。

僕には、何はなくとも、僕の視線で世界を眺めることができる。
東京での滞在時間は長いから、仕事に精を出して、日本という国に少しでも貢献しよう。日本以外の国は滞在時間が短いから、そのときの息づかいまで克明に思い出せるくらい、精一杯目を凝らし、音を聞き、匂いを嗅いで、触り、味わおう。

うん。これって幸せなことなんだろうな。
これだけでも、「僕は幸せだ」と言ってもいいんじゃないか?

さて、僕はインドネシアに向けて、また明日から仕事に精を出していこうと思う。
集中しよう。

2009年7月24日金曜日

026. 面白いひと。(愛すべきサイト。)


最近まじめな話ばかり書いてきて、ちょっと疲れてきたので(笑)
僕が勝手にリスペクとしている「お笑い系のサイト」を紹介しようと思います。
ほぼ毎日、ネットを見ない日はないというくらい、僕はネットに依存して生活しているわけですが、そもそも僕がネットに依存する原因になったのはあるテキスト系(お笑い)サイトでした。Windows98が最新OSだった時代、ISDNが最速だった時代。研究室のパソコンで論文を書くふりをして見ていたお笑いサイト。灰色の青春を思い出します(笑)
そのサイトは、

2001年宇宙のごみ」

というサイトでしたが、今はもう閉鎖し、どんなに検索をかけても見つかりません。悲しい限りです。バックアップ取っておけばよかった。

さて、そんなたまに見かけるお笑い系サイトを僕はちょくちょく「お気に入り」に入れてきたのでした。(「・・・灰色の人生?」というツッコミは却下で(笑))
そんな中で、本日、No.1と思えるサイトを発見したので紹介します!

「アルテイシアのもろだしな日々」


「アルテイシア」とは作者の名前で、「社長」兼「女流作家」さんです。

59番目のプロポーズ」

という、非常に熱い恋愛本を書かれています。
僕は恋愛というジャンルはまずもって苦手とするのですが、この本にはかなりやられました。泣けるし、笑える。僕が好きな一冊です。

さて、そんな作品を書くアルテイシアさんのサイトですが、おもいっきりシモです(笑)
パワー全開で、もろだしです。
59番目のプロポーズ」でも、この人、すごい「笑いを見つけるセンス」のある人だなぁなんて思ってたんですが、日記は僕の予想を大きく上回ってました。

このサイトを見るに当たっては、「59番目のプロポーズ」を読むことをおすすめします。
というのは、ちょこちょこと出て来る「59番」さんがまたいい味を出しているからです。
まるで、「59番目のプロポーズ」の「その後」を見ているかのようなお得な気分に浸れます。
さて、あまりに切れ味の鋭い下ネタに感激(笑)してしまったので、近著の


「もろだしガールズトーク」


も買ってしまいそうです(笑)
帯にはでかでかと、

「男子禁制」

と書かれていて、ものすごく買いにくい雰囲気なのですが。
27の僕は既に「男子」の域から「おじさん」の域へと差し掛かっているらしいので、たぶん大丈夫でしょう*´ー`)b

さて、こっからはいつも通り真面目なお話。
アルテイシアさんの日記を「下ネタ」や「お笑い」という軽い言葉で形容してきましたが、実は、この方の文章には、かなり深い洞察が含まれています。
軽妙で豪快な笑いはあくまでも「スパイス」で、本当はものすごく真剣に「人と人とのつながり」について考察しています。

僕は、お笑いの部分も好きですが、この「人間考察」も大好きです。
これからも是非活躍してもらいたいと思います。

2009年7月15日水曜日

025. やられた!(死神の精度と空飛ぶ馬の関係について)


「死神の精度」 伊坂幸太郎著



久しぶりに、「やられた!」と思わせられた作品だ。

作者の伊坂幸太郎を知ったのは、本ではなく、「鴨とアヒルのコインロッカー」という映画だった。元々小説だったこの作品を、中村義洋監督が瑛太の卓越した演技を加えて映画化したものだった。この映画に心底感嘆した僕は、諸処の事情もあって都合3回も映画館で見ることになる。連続3回は、僕の人生で初めての経験だった。それくらい、この作品は優れていたのである。

僕がここで改めて書くことでもないが、伊坂幸太郎は非常に卓越した「プロットセンス」を持っている。「鴨とアヒルのコインロッカー」の後に読んだ「チルドレン」でも、そのセンスを十二分に感じることができて、そのすこぶる爽快な読後感に酔いしれたことを思い出す。

さて、この「死神の精度」である。既に映画化もされているし、さらにDVDまで出ている(つまり、ちょっと前に流行ったということだ)。
特別な期待があったわけではなく、なんとなく「物語」が読みたくなって、ろくに立ち読みもせずに買ったわけだが、二日間で読んでしまった。(これは読書スピードが異常に遅い僕にとっては驚異的なスピードである)

さて、「死神の精度」は何が良かったか?
それを「ネタバラし」にならないように表現するのは、非常に難しい。しかし、あまりに素晴らしすぎたので、ちょっとだけここに残してみようと思う。


「死神の精度」は基本的には「短編小説集」のスタイルを取っている。しかし、伊坂幸太郎は「短編小説集」を単なる「独立した小作品の集合体」にすることを避ける質がある。「チルドレン」でも見られた形式だが、独立した世界だと思っていたものが、突如交錯する瞬間があるのだ。これは非常にユニークな読書経験だと思う(ちなみに、僕はそれほど小説を読む方ではないので、もしかすると、割と一般的に見られる作品形式なのかもしれないが、そこらへんは素人の戯れ言と思ってお許しいただきたい)。

この奇妙な読書経験は、まるで「初めて会った人が、実は小学校の担任の先生の娘だった」というような、「降り積もった人生経験」がもたらす「偶然のいたずら」を感じさせる味がするのである。

「チルドレン」は、この作品形式が存分に使用され、作者本人も「短編小説の顔をした長編小説」と表現をしているように、物語の根幹を担っている。

一方、「死神の精度」は、その作品形式が非常にさりげない形で使用されている。この「さりげなさ」が、作者が巧妙に配置した「文芸の罠」をちょっとやそっとじゃ見破れないものにしている。

そして、その「罠」にはまったとき、僕は「やられた!」と心底思ったのだ。

この「罠」とはどういうものだったのか?それをストレートに書いてしまうと、それこそ「ネタバラし」になってしまうので、もう少し遠回りしてみよう。


この「死神の精度」と非常に良く似た読後感を感じる作品がある。


「空飛ぶ馬」 北村 薫著



この作品も「短編小説集」であり、主人公の「一人称」でストーリーが語られる点で、「死神の精度」と共通している。(僕は「一人称」の文体が好きだ)

「空飛ぶ馬」は、伊坂幸太郎の作品ほど、短編小説間の「つながり」は重視されていないが、全ての作品で主人公が共通している点で、「死神の精度」と類似性があると言える。

また、両作品とも、「謎解き」の要素が物語にアクセントを加えているのも、共通している。(正確に言えば、「空飛ぶ馬」は真っ当なミステリー小説であり、「謎解き」がアクセントというより、本題である。一方、「死神の精度」は謎解きは、読者がページをめくりたくなるようにブーストする機能を果たすが、それそのものは本題ではない。あくまでも「物語性」あるいは「ドラマ」というものに主眼が置かれている。)

「一人称」
「相互に関連のある短編小説の集まり」
「謎解き」

これら類似性もさることながら、僕が最も興味を覚えるのは、その短編作品の「配置のさせ方」だ。

この2冊を読み始めると、恐らく、多くの人は「お、こんな世界観なんだな。だったら、結末はこんな展開かな。」という「期待」を無意識に持ってしまう。
それは、その作品が持つ雰囲気から、読者が紡ぎ出す「願い」に近い。

読み進めて、登場人物に愛着を感じるようになると、その「願い」は露骨なものになる。

「こうであってほしい。こんな展開ならハッピーになれる!」

その願いは、


短編1


を読むと満たされる。


短編2


を読んでも満たされる。

そこで、読者は、この作者は読者の「願い」を聞き入れてくれる「優しい人」に思えてくる。「願い」が満たされた時、読者は清涼な読後感を味わうことになる。その読後感は麻薬性を持っており、もっと!もっと!と、次の短編に進むと・・・


いきなり、冷や水を浴びせられるような、「裏切り」に見舞われる。


読者の切なる「願い」は無情にも拒絶され、作者に対して文句を言いたくなるような、そんな忸怩たる思いが突如胸に広がるのだ。


「たしかに、あっと言わせる展開ではあるけれど・・・あんまりじゃないか!」


そう叫び出したくなる展開が待っているのである。


そして、この「苦情を言いたくなる程の苦い思い」それこそが、作者の「罠」の始まりである。


これ以上説明するのはよそう。
後は、ご自分の目で、心で感じてほしい。

久しぶりに、心底面白い物語に出会えた。

伊坂幸太郎に感謝である。

2009年7月10日金曜日

024. 追求。


仕事が楽しい。
それが、とてもうれしい。
でも、たまに自分のふがいなさに、嫌気がさす。
それも、またよし。か。
やっぱり、ちょっとは感情の起伏がないと。
熱くなって、失敗して、ぶつかって、負けて、凹んで、また考え始める。
そんな、いらだちと多少の痛みは、このとつとつと続いて行く道に、アクセントを加えてくれる。なーんて思えれば、きっと怖いものなんかないはずだ。
そう思えるには、しばらく時間がかかりそうだったけど、
あと少しでなれそうな気もするよ。
うむ。きっと少し強くなっている。

最近は、ちょっと欲が薄くなって来て、とても謙虚で、まともな、しごく平凡な青年をやっている。道徳的だし。無害だ(きっと)。
これがきっと僕の人生の日常なんだろう。
贅沢なんか言わないから、この日常が長く、できるだけ長く続けばいいなと思う。
いや、違うな。
きっと、この生活は既にちょっと「贅沢」なんだろうな。
なんであんなに身体が弱かったのだろう?と思う程、僕は幼少の頃から大学生の頃まで体調を頻繁に崩していた。
神経を張りつめて、体調に気を遣っていないと、すぐに風邪をひいていたっけ。
今は、結構適当に生きていても、風邪ひとつひかない。ここ1年くらい病気らしい病気もしていない。(ボリビアでの高山病とダラスでの腹痛と帰国後の虫歯を除く)
健康。
それだけで、もはや既に贅沢だ。

だから、僕はこの日常をありがたく過ごさせてもうことにするよ。
ちょっとつまらないけど、「つまらない」だけなら、まだ大分いい方だろう。
少しばかりの間、仕事に集中して、生きて行こうと思う。

生きる意味だとか、生まれて来た意味だとか、
そんな大それたものではなくて、
ただ、淡々と僕は僕にできることをひたすらに追求していこう。

そこには、一切の無駄がない。
純粋な透徹した意志の後先。
それだけを追い求めて、僕は歩みを進めて行く。
その後先がどこにつながっているか?
そんなことには一切目もくれず、ただひたすらに、意志のベクトルに忠実に。
そんな、ナイフの切っ先のような、人生を送っていきたい。

今の僕には、余裕がない。
悲しいくらいキャパが狭い。
他人をかまえる程の優しさや、冗談に付き合える心ののりしろ、そして後進を育てる器量の大きさも、残念ながら、ない。

今、ここ、の瞬間瞬間を徹底的に考えること。
その一点にしか、選択肢はない。
小さな小さな点のような自分。
弱くか細い思考力。
頼りない判断力と根拠。
圧倒的な無力感。

そのくらいの自己認識が、今の僕にはちょうどいい。
考えてみれば、いつだって、僕はそういう自己認識を土台にして成長してきた。
「弱き自分」
は、その実、成長への原動力だったりする。
そんな老獪な感覚がそこにはある。

「これでいい。
 これこそが、自分の成長パターンだ。」

そんな計算が脳裏で働いている。
そういった冷めた自意識も想定に入れながら、
みじめな自分に喝を入れ、日々を生きて行こう。

ただ1人。
それでも構わないから、僕は僕の信じる道を進む。
後先のことは、後先に立ったとき考えよう。

そんな了見の狭い今の僕を、きっと人は哀れに思うだろう。
もっと肩の力を抜いて、
楽しく、
明るく、
やっていけばいいじゃないか。
そんなに自分を追いつめても、しょうがないだろう?

それもまた真実だと思う。
見るからに今の僕は「小物」だし、光るものもないかもしれない。
でも、なぜか確信だけはある。

この薄暗い、たった1人歩むその先に、また一段高い世界があることが。
今は了見が狭いかもしれない。
今はキャパが狭いかもしれない。
今はたいしたことないかもしれない。

そんなことはどうでもいい。
どうだっていい。

「今」の僕は、常に「明日」の僕のプロトタイプだ。

僕には、今、たった1人で、突き詰めて物事を考える時間が必要だ。
徹底的な、他の追随を許さない思考。
それを追求していくことが、今の僕には必要なんだと思う。

いつか、きっと。

僕は追求の一手を緩めない。
ナイフの切っ先のように。
27歳のこの時期は、それでいいんだと思う。