2008年12月30日火曜日

007. input と output

 年末年始中にこのサイトを完成させようと、ここ3日間ほど、かなり制作に時間を費やしている。だんだんと疲れてくるわけだが、そういったときの「逃避先」というは、マンガであったり、映画であったり、小説であったりする。でもよくよく考えると、文字を読んだり、画面を見たりするという意味では、「サイト作り」とあまり変わらない。なのに、なぜやりたくなるのか。

 恐らく、インプットとアウトプットの違いなのだと思う。何かを作る、という過程はアウトプットの連続で、自らのセンスや思考を反映させようと試行錯誤する。アウトプットをするためには、まず自分がどう考えるか?自分はどうしたいか?がないといけない。このため、全ての過程で「頭を使う」ことになる。一方、テレビや映画が楽なのは、「受け身」の行為であるためだろう。つまり、脳の状態は「インプットモード」。既にあるものを、基本的には、自分の中で理解するだけでいいため、ストレスが少ないのだろう。

 恐らく、脳にとって大事なのは、インプットとアウトプットのバランスなのだと思う。インプットは楽ではあるが、そればかりだと、だんだん「自分も作ってみたくなる」というアウトプットへの欲求が生まれる。一方、アウトプットばかりしていると、「正直しんどい。」とインプットで何も考えず受け身でいたくなる。それで正常なのだと思う。

 ただ、期間を区切っている以上は、気合いを入れて、多少のバランスはくずしても、やるしかあるまい。そうしないと納得しないのは自分自身なのだから。

 さて、これから年賀状の作成だ。これもアウトプットであるが、、アウトプットに強くならないといけないということだろう。でも終わったら、思う存分、小説を読んでやろう。

2008年12月22日月曜日

006. 今日の教訓



「面倒くさいと思う事を、ささっとやろう。」


仕事をしていて、


家で過ごしていて、


自分に足りないものがあるとすれば、この心がけだったと思う。


仕事の大半は、難解な数学の問題を解くようなものではなく、「あー面倒だ」と思う事ばかり。


それで手が止まっている。


仕事が遅くなる。


難しいから、ではなく、面倒だから、遅い。


部屋の片付けもそうだ。


面倒だから、進まない。


だから、いつも散らかっている。


面倒なことをじっくりやる必要はないけれど、「面倒だから」ささっと片付ける、というのが大事だと思う。


仕事ができる人は、そういう人だと思う。


このサイト作りもそうかもしれない。


面倒なことの連続だ。


いちいちページのレイアウトから背景色、フォント、行間の設定、pxの設定、間隔の設定などなど、頭を使うというより時間を使う、という作業の連続。


しかし、その一つ一つを抜かすと、これまた進まない。というか完成しない。


というわけで、サクサクッと仕上げる。


それが今日の教訓。


考えてみれば、生きている事自体が、面倒なことの連続だ。


しかし、それをきちんとやることで、成長がある。


そんなことを考えている。

2008年12月20日土曜日

005. 井上靖「考える人」と仮想と言語派社会学について



 井上靖の「考える人」という短編小説を読んだ。


感銘を受けた。


井上靖が書いた言葉が、僕の脳の中で再生され、その情景を、その主人公の感覚を、ありありと感じる事ができたこと、にだ。


この話は、主人公がコウカイ上人という出所不明の即身仏(ミイラ)と出会い、その十数年後、再度出会おうと東北を歩き、コウカイ上人の人生を推理する、という筋だが、


興味深いのは、全てが「推測」と「想像」で構成されているという点だ。


まず、コウカイ上人という名前も、正確には漢字も分からない。


しかし、「即身物の大半は出羽三山出身であり、そこの僧は「海」の字を好んで使う。まず、カイは海だね。そして、真言宗では弘法の「弘」の字を使うから、コウカイは弘海だろう。」として、弘海上人である、という「仮想」を前提として話が進む。


そして、主人公達が酒田、鶴岡周辺の山間のT部落に来た際には、「私は自分でも理解しがたい感動に襲われ始めていた・・・私にはなぜかこの部落に弘海上人は生まれ育ったのではないかという気がしてならなかった」という主人公の直感より、その後、弘海上人はT部落で育った、という仮想が真実であるかのように話が進む。


全ては、主人公達の「推測」と「想像」を軸として、弘海上人というミイラの人生が解き明かされて行く。しかし、そこに正答はない。ついに真相は明かされる事なく、物語は終わってしまう。しかし、その想像のみで、僕はぐいぐいと引っ張られ、時に、手に汗にぎり、時に息をのんだ。


充実した読書の時間を愉しめた。


読み終わって、外に出た.12月の乾いた空気と葉の散ったイチョウの並木を通り過ぎながら、ふと、「この気持ちは、どうやって説明がつくのだろう?」と思った。


学生時代に、「言語派社会学の原理」という橋爪大三郎の本を読んだ。


社会は行動の集積で構成されており、行動は「言語」「性」「権力」の3要素のみから成立している。という大胆な発想で、社会をロジカルに解説した本だ。(ちなみに、まだ途中までしか読んでいない)「言語」「身体」「性」の要素で説明できない社会の構成要素はない、と書いてあった。


その際の読書メモに、「芸術はどうか?」との走り書きがあったことを思い出す。


小説もどうか?


小説は、当然「言語」の行使の固まりであるし、その点は賛成だ。


しかし、問題なのは、例えば、井上靖の「考える人」を読んだ僕の感想と、恐らく、別の人が読んだ感想は全く異なるものになっていたに違いないということだ。


面白い、という人もいれば、よくわからないという人もいるだろうし、


僕のように、「考える人」が引き金となって、このような感想文を書く人もいれば、何事もなかったかのように日常生活に戻る人もいるだろう。


つまり、言語の「作用」が、各人の「認識の違い」によって変わってきてしまう、という点が実に面白く思えた。


茂木健一郎が提唱する「仮想」という概念を支持する形になるが、脳の個体差が、言語という行動の結末を大きく変えてしまうわけだ。


特に、紙に書かれた言語は、その再生を読み手側の脳に依存することになる。このため、言語の作用が脳の個体差(その人の人生経験も含め)に大きく影響を受けてしまうのだろう。


そして、その「個体差」を感じることこそが、人生を生きる上で、楽しいことの大きな柱であるような気がしてきた。


経済は、「誰もが好きな、より多くの人に愛される商品、サービス」を指向する。それが、結果的に、その商品の、その企業の「生存」につながる。つまり、経済の原理とは「最大公約数の幸せの追求」と言える(うわぁ、大胆なこと言ってしまった(笑))。


それはそれで重要なことだと思うが、「私個人」という個体レベルで人生を俯瞰するときに、重要と思えるのは、むしろ、「私の感覚」であり、「私の仮想」であり、「私のクオリア」である。つまり、この脳がどのように作用したか?である。


言語派社会学が解明しようとするのは、「社会」である。


しかし、僕が考えるに、より正確に記載するのなら、「現実」である。


現実に厳然として存在する人間が構成する生活空間の総体を「社会」と言っているようである。


しかし、その内側、またはその根底には、人間の心理があり、そこには、「仮想」と「クオリア」がある。さらに、「仮想」と「クオリア」は、ひとつの現実の前に、「脳の個体差」に応じて無数に存在する事になる。なんとも複雑な、不思議な世界だ、と僕は思う。


と、色々考えて、まだ「言語派社会学の原理」を読み終えていないことにいささかの焦りを感じた。(よくわかっていないうちに批判しているようで)


この正月にきちんと読もう。

2008年12月1日月曜日

004. 2008年にやり残した読書


新しいことは、家の中にあった。

ということらしい。

読んだと思っていた本が、実は読んでいなかった。
買った事すら忘れていた本もあった。

というわけで、以下、読み残しあり!の本達である。これでは本が浮かばれない。

・茂木 健一郎 「脳と仮想」・・・てっきり読んでいたかと思った。途中である。茂木さんの話は面白いので、「生きて死ぬ私」あたりから遡って読んでみるのも一興だ。

・橋爪 大三郎 「言語派社会学の原理」

・「単語耳」

・「英語でプレゼン」

・「英語でミーティング」

・ライシャワー 「ライシャワーの日本史」

・池田 清彦 「構造主義科学論の冒険」

・城山 三郎 「無所属の時間で生きる」

・北村 薫、宮部みゆき 編 「名短編、ここにあり」

・伊坂 幸太郎 「グラスホッパー」

・伊坂 幸太郎 「チルドレン」

・帚木 蓬生 「アフリカの蹄」

・スティーブン・R・コヴィー 「7つの習慣」


この他にも、

・コエダスVol.2〜6:3月中

・ヒアリングマラソンの1年分の復習

・HEMHETの復習

・English journal

・New York detective story

・TOEIC speaking and writing

・Berlitz level 5

・ハート オブ ウーマンの台本

・ショコラの台本

・UDA式 30音トレーニング

・American Accent Training

・ダイアローグ1800

・キクタン 12000


などなど、英語関連の伏兵が(気が遠くなるほど)潜んでいる(笑)

そんなわけで、僕は新しいものを買う必要はない。

むしろ、今あるものをきちんとやる。しっかり、その生まれてきた役割を全うさせてやる。

それを目指して、コンパクトに、しばらく生きていこう。

2008年11月30日日曜日

003. 本当にやりたいこと

 今日は本当は仕事に行くはずだったけど、家でやりたいことがあれやこれやと思い浮かんで結局出れず仕舞い。

やりたいこと、とは今度友人が家に遊びにくるので、掃除、洗濯、本棚の整理などだ。
最近、自分の生活を大分さぼっていて、改めて整理してみると気づく事がたくさんあった。

気づいたこと。

1)自分の本棚に読んだ事のない本がたくさんあった。まるで「本屋さんの本棚」のようだ。

2)本当に自分がやりたいこと、ってなんだろう?「深く、人生を感じる」ってよく言うけれど、それってもっと具体的には何なんだろう?


そんなことを思っている時、ふと、昔書いたメモが見つかった。
橋爪大三郎の「言語派社会学の原理」を読みながら取っていたメモだった。
そこには汚い字で、しかし、一生懸命、ロジックの変遷が書き留められていた。


そこに、自分の思考の痕跡を見る気がした。
しかし、メモは途中で止まっている。つまり、僕はまだこの本を読み終えてもいないのだ。

また、TOEICの勉強ノートも開いてみた。
久しぶりに開いてみたが、最初の頃は非常によく書いているのがわかる。


当時は、「統計的なゆらぎ」を自分の回答に見つけては、その補正こそが重要である、という仮説に基づいて勉強していた。

その当時の痕跡がよくわかる。

しかし、後半に行くと、どうも単語の羅列になってきてしまっている。
鮮やかなポストイットに、とにかくたくさんの単語とその意味が書かれているが、
もはや見直す気にもなれない。

恐らく、この頃から英語の勉強が「かったるいもの」になってしまっている。
英語の勉強もそうだが、「こなす」感覚になってしまうと、もはや「勉強」とは言えなくなるのではないか。
橋爪先生の本を読んでいるとき、僕は間違いなく「勉強」していた。

その痕跡を見て、僕はうれしく思う。
僕は確かに「考えていた」し、「一生懸命」だった。

気づいたこと1)と2)が教えてくれるのは、
これまで、勉強しようとして、その実、「こなすこと」にばかり気を取られていやしませんか?
ということと、

僕が本当にやりたいことは、「真っ当な勉強」だった。

ということだ。

僕は日々、タスクリストを作って、仕事をしている。
それは、やらなければならないことを忘れないようにするための予防線であったり、業務量や優先順位をつける際のツールになるのだが、
タスクリストに

「英語の勉強」

と書いてしまうと、なんだか、それは急に「こなすべきもの」に成り下がってしまう気がする。

僕は、英語を「勉強」したい。
「勉強」とは、習得までの「過程」である。
「過程」を急いで「こなして」しまっては、(もちろんそれで十分理解して目標が達成できるならいいのだが)、楽しめない。

こなすことは、楽しくないのだ。

これは、最近の自分の反省点だ。

・タスクリストにないことはやらなくなってしまう。
・タスクリストにレ線をつけることに捕らわれて、タスクを「こなす」ことに終始してしまう

この点をよくよく反芻して、これからはきちんと「勉強」しよう。

勉強のポイントは、愚直ではあるが、

・本を読む際、ノートを取る。トップポイントの記事を書くかのように、肝要な情報を抜き取る気持ちで。
・英語を聞く際、読む際、ノートを取る。同じトップポイントを模して。
・ノートは、キチンとした字で構成も踏まえて見直せるように書く。(見直す価値があるノートにする)
・ノートには、英語だろうが、社会学だろうが、国際情勢だろうが、なんでも書いてかまわない。ただひとつ、それが自分の「思考」の痕跡であることが条件だ。
・思考の痕跡であることが条件であるため、単なる単語の羅列などは、禁止。もし、単語の暗記に使うのなら、きちんと調べて、自分の思考が十分に行き渡ったものだけにすべきだ。
・思考の行き渡っていない、血の通っていない内容を書くと、その部分は「死んでしまう」だろう。というのも、書いていたことを思い出すことすらできないからだ。意味がない。


というわけで、性懲りもなく、またノートを買いに出かけるのである。

2008年11月28日金曜日

002. 城山三郎 「無所属の時間で生きる」

『慶弔積立金もいいが、それよりも友人にまつわるよい思い出を互いに積み立てておきたい。
人生にあぐらをかき、安定した話などは、どうでもよい。出世した話や金もうけの話は、ときに卑しくひびく。
結果はともかく、在るべき姿を求めて、いかに悩み、いかに深く生きたか。いかにさわやかに、いかに優しく生きたか。
よい思い出のためには、よいつき合いも要るが、よいつき合いとは何なのか・・・
学生時代に戻ったように、問いかけは果てしない。』


表面的なこと、はもういいよ。
もっと深く、人生を感じていたい。
と最近ふと思い出した自分には、ちょっとカチリとくるくだりだった。
ただ、最後に疑問形になるところが、また微妙な悩ましさがある。
或る意味、正直なのだけれど・・・正直とは何なのか。
学生時代に戻ったように、問いかけは果てしない。

2008年11月22日土曜日

001. 読書について


僕は読書をあまりしてこなかった。

というのも、文字を読むのが遅いからだ。苦手、とまではいかないけれど、実にゆっくり読むと言っていい。
例えば、少年ジャンプを普通の人なら30分程度で読み切ってしまうだろう。僕はその倍、1時間〜1時間半くらいかかって読む。
恐らく、文字を認識し、その意味を読み取るという機能が弱いのだと思う。

というわけで、これまで僕は読書というものに対して、積極的ではなかった。

自分の本棚(本棚を持っているだけで、多少は読む方かもしれないが)を見ると、大体4割が漫画、2割が英語の学習本(未読のもの多し)、2割が雑誌(内容は、るるぶのようなタウンガイドやダイヤモンドのような経済誌、それからラーメンとカメラの雑誌とPC関連)、1割が旅に関するガイドブック(主に地球の歩き方)、そして1割が小説といったところだ。漫画が圧倒的に多いのは、単純に好きだからだが、「文字を読むのが遅い」ということの証左である気もする。

また、内容としては、圧倒的に「知識型」が多い。
英語、旅、カメラ、ラーメン店、経済、知らない事を減らそうとする、もしくは好きな事をもっと知ろうとする、という意志の現れだろう。
しかし、
と最近少し思うようになってきた。

読書をもっと、もっと、意義深いものにしたい。
端的に言えばこういうことを思っている。

もう少し書くなら、

「知識を得る」ではなく、「知性を磨くため」の読書がしたい。
「知性を磨く」という言葉が多少抽象的ならば、「より深く考える」と換言してもいい。
「考えること」は「知識を得ること」と根本的に違う気がする。
これまでは、「考え方」を教わるのは嫌だと思っていた。

考えるのは、あくまでも僕である。
というのが言い分だ。

「考えるのは、自分でやるから、とりあえず新しい知識を仕入れよう。」

と思ってきた。『知識」を仕入れて、それから自分だけで考えよう、というのである。

しかし、最近は少し心持ちが変わってきたようだ。
人生26年生きてみて、「自分だけでは到底、到達できない極み」があることを経験的にわかっている。
その極みに到達した人の考えに興味がある。
その人がどんな風に感じ、何を大事に思い、どのように生きてきたか、を知りたい。

それを知る事が出来る、というのは最高に楽しいことではないか。
そんなことを思いながら、仕事を早く切り上げた水曜日に、僕は三冊の本を買った。

・五輪書 鎌田茂雄 著
・名短編、ここにあり 北村薫 宮部みゆき 編
・無所属の時間で生きる 城山三郎 著

さて、これをサクサク読んでいきたい。

2008年11月1日土曜日

000. 序





「思索」は内へ向かい、




「視覚」は外へ向かう。