2009年11月15日日曜日

040. どっかのだれかが(生活をつくるもの)


僕は、

どっかのだれかが作った服を着て、
どっかのだれかが作った道を歩き、
どっかのだれかが穫った魚を、
どっかのだれかが作った店で食べる。

このガードレールは、どんな成分で出来ているのだろう?
鉄とニッケルの合金だろうか。
この白い塗装は、酸化チタンだろうか。

仮にそうだとして、
この鉄とニッケルと酸化チタンは、どっからやってきたのだろうか?
オーストラリアだろうか。
ロシアだろうか。
ボツワナだろうか。
ボリビアだろうか。

いずれにしても、
はるばるとこの国までやってきて、
ガードレールの形に変えられて、
アスファルトの大地に埋め込まれて、
今は、ガードレールとして、歩道と車道を分ける働きを、この街で行っている。

僕が着ているこの服は、
きっと中国で作られた繊維を、ベトナムで縫製したものだろう。
この繊維を染め上げているカーキ色、その染色の作業は、中国在住のだれかがやったことになる。

僕たちの生活は、「どっかのだれか」の仕事によって構成されている。
「どっかのだれか」の存在は、僕たちの日常から物理的には遠く離れていても、
確実に僕たちの日常を支える支柱となっている。

そんな無数の支柱が張り巡らされた世界が、
今の社会だ。

僕はそんなことを思いながら、外勤先の街を眺めている。
さて、仕事をしよう。
いずれこの仕事の後先が、どっかのだれかの日常の「支柱」」になることを信じて。

listening to 「PADDLE/ Mr.Children」

039. なんのために?(僕は知らない)


友人が面白いことを言っていた。
「町工場ってあるでしょ?自動車の部品とか作っている。」
「ああ、」
「そういう下請けのさらに下請けって、自分たちが『なにを作っているか?』知らされていないんだって。」
「へぇー。どんな車っていうことも?」
「そうそう。どんな車のどの部分を作ってるか?ってことは教えられずに、『こういう形のものを作ってください』って図面を渡されるだけなんだって。やっぱり、企業秘密とかノウハウとかあるからね。」
僕はこの話を、とても興味深く思った。
「なんのための製品か?」
それが分からないっていうのは、いかにも盲目的な労働のように感じる向きもあるかもしれない。それじゃ、ヤリガイがないじゃないか、と。
しかし、僕が興味を感じたのは、そういった側面に対してではなく、むしろこの事実が持つ「寓話性」の方だった。
「ははっ。じゃあ、もしかしたら、その部品はUFOの一部になったかもしれないね!」
僕は茶化して、そう言ってみたけれど、同時に、
(・・・でも、よくよく考えてみると、僕たちが生きているのだって、本当はこの話とそんなに変わらないのかもしれない。)
と思ってしまった。
別に人生に嘆いているわけではない。
ただ、事実として、僕たちは「自分が生きている理由を知らされていない」。
もちろん、こんな風に言うことは容易い。
「自分が生きる理由は、自分で見つけるものでしょ。」
さらに、酒でも入って熱を帯びて来ると、
「そういう『生きる理由』を探す『旅』が、『人生』そのものなんだよなぁ。」
なんて、哲学(っぽいドラマ的なパースペクティブ)を語ったりする。
それはそれで、実に真っ当だと思うし、そんなことを熱っぽく語る人を僕は好きだ。
むしろ、「ああ、よかった」とすら思う。
だって、そんな発想は、とても純粋だし、とてもストレートだし、とても人間味に溢れていて、居心地がいい。
だから僕は、
「うーん。確かにそれはそうだけど、それって思い込・・・ごにょごにょごにょ。」
と、語尾を飲み込んで、そんな発想を受け入れてきた。
また、ある人はこう言うだろう。
「なぜ生きるか?より、
 どう生きるか?の方が重要だ。」
確かに人生は一見すると短いし、その中でやらなければならない事はたくさんある。大体、「なぜ?(Why?)」より、「どうやって?(How?)」の問いの方が、機能性を追求した質問形態であるだけに、「お役立ち度」が高いのは自明だろう。
そういった立ち位置で物事や人生を考えた方が、よっぽど充実した人生につながることは、僕も分かっているつもりだ。
とはいえ、「Why?」の方が、意味性を追求した質問形態であるだけに、「ロマン度」はこちらの方が上。そして、僕は自称ロマンチストである。(と言ったら、友人全員に笑われるのは目に見えているが。恐らく、「どっちかって言えば、リアリストだろ。」と冷たくあしらわれるのが関の山だ。)
無論、僕だって「どう生きるか?」は大事な質問だと思う。
むしろ、毎日、割と真剣に「どう生きるか?」をブレイクダウンした「どうやったら今日という日を明日につながる意味のある一日にできるか?」「どうやったら、この仕事を完全なものにできるか?」「どうやったら効果的に、このプレゼンの主旨を伝えられるか?」「どうやったらチーム員全員がスムーズに仕事をできるか?」というようなことを考えている。
そういった点を考えてみると、「どう生きるか?」という問いは実に日常的なもので、より良い人生を追求する過程で必然的に通る道のようなものだと思う。
でも、たまには頭を、少年のような状態に戻してあげたい。
純粋に、「なんで?」っていう問いに向かい合いたい、というのは僕だけが感じる欲求だろうか。
それからもう一つ。
上のような発言には重大な欠陥がある。
「どう生きるか?の方が大切だ」と質問者の姿勢を批判することで、「なんで生きてるのかなぁ?」という質問そのものには全く答えていないのである。これは現実のディベートでは有効な戦略だが、純粋に答えを求める質問者には、がっかり感を与えるだけだろう。
一言で言えば、
「話を逸らすなよ。」
である。
またある人(特に大人の人)は、こう言うだろう。
「生きる理由や意味なんて、そんなものはねぇよ。
 お前は死にたいか?死にたくないだろ?痛いのは嫌だろ?
 だから、生きているんだ。死にたくないから生きている。それだけだ。」
立川談志あたりが、べらんめぇ口調で言い出しそうな台詞だ。
これは、思いっきり開き直っていて、リアリストに徹しているという点で好感が持てる答えだ。僕も、恐らく頭の80%くらいでは、この意見に賛成できるだろう。
でも、残りの20%の頭は、「この主張ってつまんないなぁ。」と思っている。
「Why?」というせっかく意味性に特化した質問を投げかけているのに、その「意味」(形而上学的な命題)には触れようとせず、「痛み」や「恐怖」と言った感覚(形而下学的な根拠)に立脚して答えてしまっているからだ。
もちろん、そんな「痛み」や「恐怖」といった感覚は、厳然として存在しているし、それを覆そうとは思わない。
とはいえ、僕の中学生のような頭は、
「なんかこう、もっと面白い答えはないの?」
と無邪気に不平を言ってしまう。
さて、そんな偏屈かつ幼稚な僕がむしろ興味を感じるのは、
「生きる理由?なにそれ食えんの?」
っていうくらい、この疑問に興味を持つこともなく、数十億の人々が生きているという現実だ(もちろん、宗教や家族、仕事といった拠り所を見つけて、生きる理由を「分かった状態」で生きている人々も数十億といるだろう)。
僕たちの日常は、どうという訳もなく忙しかったりする。
36協定?なにそれ食えんの?
っていうくらい、働いたりする。
そんな嵐のような日々の中で、立ち止まって、
「そういや、俺ってなんのために生きてるんだっけ?」
なんて考える時間は本当に一瞬だ。そんなことを考える暇もないくらい、僕たちは全力で生きている。それはそれで素晴らしい。
そんな素晴らしい人生の中で、
「俺は、妻と息子と娘のために働いている。生きている。」
っていうのも真実になりえるし、
「俺は、このとても優れた商品を世の中に広めるために生きている。」
っていうのもいいアイデアだろう。
僕も、今のプロジェクトを成功させたいし、この仕事でもしかしたら多くの人を少しでも癒せるかもしれないと信じて、今日もまた仕事をしている。
生きる理由は人それぞれでいいし、それが当たり前の現実だろう。
ただ、それでもたまにふっと思ってしまう。
「あれ?なんか大事なこと忘れてない?もっと別に、もっと根本的な、『知りたいこと』があったんじゃない?」
僕は、時間をかけて、経験を重ねて、なんとなく成長したような気になったりしながら、その実、本当の疑問の周囲をぐるぐると回っているだけに過ぎないのかもしれない。
こんな変てこな考えは、さっさと捨て去りたい。
でも、僕はやっぱり考えてしまう。
「生きる理由ってなんなんだろうねぇ。」
と。
例えば、こんなストーリーがあったりしたら、僕はとても満足するだろう。
「驚くなよ?実は地球ってスーパーコンピューターなんだぜ。」
「え?どういうこと?」
「地球っていう天体は造られたものだったんだ。ある高次な知的生命体が、『生命、宇宙、そして万物についての(究極の疑問の)答え』を見つけるためにね。」
「でも、天体である地球がコンピューターだったなんて信じられないよ。」
「そうかな?君は今、『生きる理由』ってのを考えているだろう?」
「ああ、」
「そんな疑問は、数百万年前から人類が考え続けた疑問なんだ。そして、その問いを続ける過程で、宗教が生まれ、科学が生まれた。そう、気付いただろ?俺たち人間は、地球というスーパーコンピューターの演算素子のひとつなんだ。」
なーんて事をダグラス・アダムスさんは「銀河ヒッチハイク」というSF小説でうそぶいたそうだ。
でも、そんな話が本当だったら、どんなにいいのになって思うときがある。
「そっかー」
と、納得してしまうように思う。
と言ったら、人によっては「なんで?」って思うかもしれない。
実際、数年前まで僕もそうだった。
上記のような銀河ヒッチハイクの話をある人にしたときに、その人は、
「本当にそうだったらすごいね。」
と非常に肯定的だった。その反応に僕はとても驚いて、
「え?そうかな。俺はやだけどなぁ。だって、自分の命が誰かに仕組まれたものみたいじゃん。」
と答えたものだ。
でも、先に挙げた「町工場の話」を持ち出したら、もう少し違った視点で理解できたかもしれない。
何を作っているか分からない従業員は、自分の仕事にヤリガイを感じられないでいた。
従業員はつぶやく。
「毎日、毎日、同じ部品づくり。なんて面白みのない単調な仕事なんだ。」
そんなある日、隣で働く友人がそっと耳元で囁いた。
「知ってるか?実は、俺たちが作っているこの部品って、レクサスの一部分なんだぜ。」
こんなことを知ったら、きっとその従業員は喜ぶに違いない。
「そっかー!あのレクサスを俺たちは作ってたのか!」
トヨタの高級車、レクサス(ハイブリット)は4ヶ月連続で販売増。2009年の10月には70%も増加したらしい。そんな日本最大企業の大本命の車を、今、自分たちの手で作っているなんて!
きっと、町工場の従業員達は、自分たちの仕事をある種、「崇高なもの」として感じられるに違いない。俺たちの仕事には意味があり、理由があるぞ!と。
上記の喩え話の「仕事」を「人生」に訳してやれば、そのまま銀河ヒッチハイクのくだりと符合するだろう。レクサスは、『生命、宇宙、そして万物についての(究極の疑問の)答え』だ。
僕がこの町工場のお話に「寓話性」を感じたというのは、そういうことだ。
なんだか訳も分からず生きてきた。
でも、その生には理由もあって、意味もあった。
その理由や意味が崇高なものだと感じられたなら、その生もまた崇高なものとなりえるだろう。
そう考えてみると、銀河ヒッチハイクが示したフィクションが、僕にとって非常に魅力的に映るのは自然なことのように感じられないだろうか?
でも、、
しばらくすると、僕はまたこう思ってしまうだろう。
「でも、その高次な生命体って何者さ?」
「その高次な生命って、誰が造ったんだろう?」
「なんのために?」
listening to 「トーキョーシティーヒエラルキー/Bankband」

2009年11月13日金曜日

038. ヘヴィメタル(と休日)


先月、あまりに休日出勤をし過ぎたせいで、本日半ば強制的に代休を取ることになった。


とはいえ、一年で最も忙しい時期だけあって、結局は自宅にてメールをチェックしつつ、関連部署と電話でやりとりしつつ、月曜日のアポイントを入れ、飛行機の予約を取り、取引先と電話し、契約書の疑義事項を法務部と詰め、チーム員に報告書の書き方についてアナウンスのメールを出し、、と、「なーっんだ家でも十分仕事になるじゃないか。」と、思い知ったものである。


とはいえ、せっかくの休みをいただいたので、ずっと仕事をしてるのももったいないなと、買い物に出かけた。僕の予想に反して、平日の渋谷は休日のごとく人で溢れていた。
うーむ、この人達は仕事をどうしているのだろう?
と思いつつも、とりあえず目当ての「灯油ポンプ」と「まな板」を購入。


・・・地味だ。
あまりに地味な買い物に我ながら苦笑してしまう。
わざわざ若者の街、渋谷で買う必要があるのだろうか?と思われてしまうかもしれないが、目黒付近で一番買い物がしやすいのが渋谷なのだから仕方がない。
もしも、ホームセンターが近くにあれば、迷いなくそちらを選ぶだろう。


帰りしに恵比寿にある紀伊国屋という酒屋でワインとシャンパンを購入。なんとか最後の買い物で「おしゃれ感」を演出しようと試みたわけだが、一体誰に対するアピールなのかは不明である。


さて、帰宅後にもう一度メールをチェックして、いくつか返信をし、腹が減ったのでもう一度外出。松屋で腹ごしらえをした後、スターバックスでコーヒー豆を買う。


僕はコーヒーが好きで、特に冬の朝は顔を洗う前にコーヒーを煎れるのが習慣になっている程、僕の生活に欠かせない。
ところで、あまり知られていないが、スターバックスにはCOFFEE PASSPORTという、コーヒー豆のスタンプラリーのような物がある。




スターバックスのコーヒー豆は世界中の様々な地域(主に、ラテンアメリカ、アジア、アフリカ)から集められており、そのブレンドにはそれぞれ特徴的な名前とロゴデザインが与えられいる。このパスポートは,そのロゴデザインをスタンプラリーのように集めることができる。
気の利いたことに、その豆が採られた地域まで地図で示されているため、


「まるで、香りと味の世界旅行だなぁ。」


などと思ってしまう。


本物のパスポートでは出入国のスタンプが押されるわけだが、このCOFFEE PASSPORTではコーヒーのロゴデザインが貼付けられるわけだ。これは日本にいながらにして、世界を探検しているような気分にさせてくれる。
また、


「お前、はるばる中南米からやってきたのか。」


と、感慨に耽ることもできる。スターバックスもなかなか粋な計らいをしたものである(もちろん、それが顧客のリピート率を上げる戦略であることも承知の上だが)。


さて、そんなわけで、コーヒー豆国をまた一国制覇し、僕はHMVへと向かった。最近新しい音楽をあまり聴いていないので、久しぶりに新譜をチェックしてみようと思ったのだ。


いつものように、日本のメロコアバンドを一通り視聴して、


「やっぱり、想像の域を出ないなぁ。」


と失礼ながら思ってしまった。毎度思うことなのだが、ある特定のジャンルが確立されると、その「様式美」をとにかく追求しようとするベクトルが生じるらしい。みなこぞって、
「The best of メロコア」

「The best of パンクロック」
を目指しているように思えてしまう。
もちろん、その過程で、それぞれのバンドの個性がキラリと光ることもあるけれど、一定の様式美の範疇から外へは出ない(ように思える)ことが多い。
(ただし、様式美そのものが全て悪だとは思っていない。様式美には、様式「美」があるのだ。それはそれでOKである。ただし、聴きすぎると、結構簡単に飽きてしまうという副作用がある。)


僕は特別音楽には詳しくないけれど、毎回、視聴する度に、


「ヤられた!そこでこのギターソロか!!」


みたいな、楽曲が持つ意外性を探してしまう。
さて、日本のメロコア新譜を一通り聴いた後で、僕が向かったのは、British Rockのコーナーだった。とか言ったら、少しはおしゃれかもしれないが、実際は、ヘヴィメタルコーナーだった(笑)


ヘヴィメタ雑誌「BURRN!」がどんッと鎮座したコーナーは、いかにもDMC(漫画デトロイトメタルシティー)の世界(つまり、パーマのかかった胸の辺りまである長髪のおっさんが、やたらと鋭角なギターを片手にポーズを取っている世界)であり、毎回、ここで視聴することに一抹の羞恥心を感じてしまう。


「い、いや、僕は別に『デス! デス!」とかつぶやきながら、頭を縦に振ったりしませんよ!?」


と、一目を気にしながらヘッドホンを手に取る。
流れ出すのは、重く速いギターリフとユニゾンしたベース、そして鼓膜に突き刺さるようなツーバスのドラムである。
一体どうやったら、こんな音を人間が出せるのか?まるで銃口が耳に向かって突きつけられているような感覚だ。全く演奏している状況を把握できない程、暴力的に音の波は僕の耳を叩き付ける。


「そうそう、やっぱりこれだよ。」


僕は演奏の「技巧」を追求していくと、どうしても、ヘヴィメタルに行き着いてしまうなぁといつも思っている。人間の極限に迫るかのような演奏は、どのジャンルよりも真に迫っている。
しかし、、である。


僕は先に、メロコアシーンに対して示したように、「様式美」という檻は、このヘヴィメタル界にこそ、より厳然としてあると言って過言ではない。


思うに、ジューダス・プリーストやアイアンメイデンといった老舗の大御所が、あまりに完成度の高いヘヴィメタルの様式美を確立した上に、いつまでもいつまでもシーンの頂点に君臨し続けたのが原因だと思う。なんせ、ジューダス・プリーストは1969年というヘヴィメタルの最初期から、2009年現在まで、30年間もずっと「メタルゴッド」なのだ!


このため、今回聴いていた「SLAYER」のアルバムも、2曲目にてダウン。


「うむ。メタルであったな。」


という感想しか持てない。
確かに技巧は最高なんだけれど。


これまでヘヴィメタルは様々なサブジャンルを産み、異分野との融合も図られてきた。その結果、スラッシュメタル(例えばSLAYER、Anthrax、メガデス、メタリカ)、デスメタル、ネオクラシカルメタル(例えば、イングヴェイマルムスティーン)、オルタナティブメタル、メロディックデスメタル(例えば、ARCH ENEMY)、メタルコア、ラウドロックといったサブジャンルがたくさん出来上がっている。


しかし、僕はもっともっと、シーンを跨いで、突拍子もない分野と融合してほしいなぁと思っている。
例えば、メロコアであったり、ヒップホップであったり、フォークであったり、ポップスであったり。


というのも、ヘヴィメタルが持つ様式美は、それ単体ではすぐに「もうお腹いっぱい」になってしまうものだが、例えば、曲の一部、とりわけメロコアなどのアップテンポな曲の「間奏」として取り入れたら、リスナーの度肝を抜けること間違いなしだからだ。


僕がメロコアやパンクロックに物足りなさを感じてしまうのは、ギター、ベース、ドラムに活躍の場があまり用意されていないからだ。みんなほとんど一斉に演奏して、全力で駆け抜けて、歌って、疾走したまま終わってしまう。もちろん、曲のスタートでは徐々に音を重ねていく、等の試みは見られるが、気付けば全員がフルスロットルで突っ走っている。


こうなると、結果として目立つのは、ボーカルの声のみということになる。この結果、ボーカルの歌とルックスが重視されるお決まりのパターンが始まってしまう。


「ああ、もっとギターが前に出ないと!ベースも、もっとずんずん刻んでいいのに。ドラムだってもっとキャラ立ちできるはずっ!」




と、僕は、活きのいい若手バンドを聴く度に、思ってしまう。
さて、僕が思うそれぞれの楽器の「活躍の場」とは、つまり「ソロ」である。


バンドとして、渾然一体となって演奏と歌をやる、というのはバンドがバンドたる所以であり、バンド冥利に尽きるところでもあるはずだけれど、せっかくバンド(異なる楽器を演奏する集団がひとつのグループとして名乗っている)なのだから、個々のプレーヤーがそれぞれの地位でアピールする場面が多くてもいいんじゃないかなぁと思う。バックバンドではないのだから。


そういう意味では、ヘヴィメタルは「ソロ」を重視する文化があり、その文化に育まれているからこそ、ギターにせよベースにせよ、「見せ場」を意識した楽曲となっている。また、ソロで目立つために、異常な程、技巧を高めまくっているのも事実だ。


そういったわけで、僕はメロコアバンドの曲を聴いている時に、


「ああ、ここでヘヴィメタのギターソロが入ったら・・・!」


などと、不謹慎にも思ってしまうのであった。


さて、SLAYERの次に聴いたのは、ARCH ENEMYというメロディックデスメタルのバンド。これがまたすごい。もはや野獣がそこにいるのではないか?というくらい、ギターもベースもドラムも、そしてもちろんボーカルも猛々しく嘶いている。
このボルテージ、この密度。
恍惚とした表情で、ヨダレを垂らしそうになりながら、僕はヘヴィメタルの世界に入り込んでいた。
歌詞はほとんど聞き取れないが、おおよそ、「デス!」だとか「モンスター!」だとか「悪魔!」だとかを叫びまくっているんだろう。


ああ、それでもいいっ。
この音、かっこ良すぎる・・・!




「ヴォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」


と、人間のものとは思えない凄まじいシャウトがこだました瞬間、




「ヴヴウウウウウウッ」




と携帯が鳴った。




「はい、もしもしっ(汗)」


「もしもし?今大丈夫ですか?」


「あ、   (ダッシュでHMVの外へ出る)  はい。大丈夫です。」


「契約書の件ですけど、法務部の校閲が終了しまして、先方の確認も取れたんで、FIXです。」


「あー!ありがとうございます!助かります。」


「それで、捺印の手順は通常の費用の覚書と同じでいいですよね?」


「はい、もちろんそれでお願いします。いや、今回は本当に助かりました。ありがとうございます!すみません、お手数をかけてしまって。」


「いえいえ、すみませんね。こちらこそ。お休み中なのに電話しちゃって。」


「いやいやいや、こちらこそ提出が遅くなってしまったんで。本当にありがとうございました。」


「いえいえ、こちらこそ。それじゃあ失礼します。」


「失礼いたします。」




・・・あっぶねー。
っていうか、人間って意外と一瞬で、
ヘヴィメタの「デス!デス!」の世界から、
ビジネスの「すみません!ありがとうございました!」
の世界に立ち戻れるのだな。


そんなことを考えながら、視聴機に戻ると、僕が聴いていたARCH ENEMYが流れ続けていた。ヘヴィメタはやっぱり人気がないらしい。


僕は何事もなかったかのように、ヘッドホンを取ると、また「デス!デス!」の世界へと戻って行った。


(ちょっと、リアルDMCだよな。)


と思いながら。


listening to 「Broke/ ( Hed ) P.E.」