2009年1月11日日曜日

009. 科学の謎と文学と。


茂木健一郎の「脳とクオリア」を読んでいる。
高校生の頃を思い出すようだ。というのも、彼が問題としているのは、
「私」とはどこにいて、どのように生成されるのか?
「認識」とはどこから、どのように生成されるのか?
という哲学的な、日常では問題とすることすら忘れてしまっている問題だからだ。
そして、そこには考えれば考える程、「?」が湧いてくる。脳がかゆくなってくる。
そして、この脳のかゆみこそ、「面白い」のだ。
「なんで僕って、この世界をこんなにも鮮明に認識できるんだろう?」
「なぜ、僕という外界を認識できる存在が、存在しているのだろう?」(親が結婚したから、とか、社会に役立つため、とかそういうことではなく。)

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人は、死んだ瞬間に、質量としては、死ぬ直前となんら変わらない。
見た目も、死んだ瞬間と死ぬ直前で、変わらない。
しかし、死は厳然としてそこにある。
言い換えれば、「死」とは、肉体から「私」がいなくなることだ。
しかし、死を境にして、質量が変わらないなら、「私」は質量には表されないものだということだ。そしてあらゆる「物質」は「質量」を持っている。
つまり、「私」とは、「物質」ではない。
「私」を構成しているのは、肉体であるが、正確には手でも腸でも肺でもなく、「脳」であり、その構成体の中でも実質的に精神活動に結びつく「ニューロン」である。
しかし、その構成体があるだけでは「私」は存在していない。死んだ直後もそれら構成体はそこにあるのである。つまり、「私」そのものは、ニューロンという構成体の「活動」によって現出していると考えるのが妥当である。
つまり、「私」とは「現象」である。
より細かく言えば、「ニューロンの発火現象」が、「私」である。
発火とはニューロンによる電気信号のon状態を示し、複数のニューロンの協同的な電気信号の総体、つまり、「波」のようなものが、「ニューロンの発火現象」である。ここまでは、いい。しかし、科学的に「壁」となると考えられるのは、ニューロンは、三次元的に分布しているため、その位相は、一次元(三角関数によってグラフに描かれるような波)でもなく、二次元(池の水面を広がる波)でもなく、三次元的に立体として存在する「波」であるということだ(シュレディンガーの方程式に代表されるような。しかもそれが不均一な空間に分布するえらく複雑な波であり、方程式化することはえらく困難なことと推察される)。このため、その波の計測が、PETやfMRIで行われてはいるが(時間的分解能の限界や空間的分解能の限界もあり、またファクター(外界からの刺激)が無数にあることからも)、「3次元上に描かれる波に対して、その意味を対応させる=コーディングさせること」は容易ではないだろう。この命題は、タンパク質の立体構造から機能を予想することが難しいこと、そして、一次元構造のDNAから三次元構造のタンパク質の形を正確に対応させ予測することが難しいことといった、分子生物学の「壁」と本質的に近い。つまり、「次元変換の高い壁」が立ちはだかっているのである。しかも、脳の方が入力情報(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、さらにそれらが複合して生成される質感のクオリア・・・クオリアが入力情報なのか、出力情報なのか微妙だが)が複雑な分だけ、絶望的に問題は困難である。その上、人には未知の物や人、未来に対して「仮想」を持つ。その所在などは到底、到達できないのではないだろうか?と思う程深遠な闇の中にある。
と、まぁ以上が、313ページ中70ページまで読んだ中での感想だ。
さて、このように科学が直面している「壁」というものを知る事は、楽しい。
僕は無神論者だ。宗教を否定しているのではない。信じれば、その人の脳内には神は存在し得る。神はその人には感じられる。神は存在していい。
しかし、僕の脳内にはいないのである。正確には「いない」ようにしていたい、と思っている。
なぜなら、「神」という「超越的な存在」を仮定する事で、思考が止まってしまうからだ。もっと人間の知性は、探求できるのに、もっと神秘は解明できるのに、あきらめてしまうのは嫌だ。その昔、疫病は「祟り」であると考えられてきた。しかし、現在は、細菌やウイルスによって引き起こされる感染症であることが分かっている。これこそが進歩だと思う。一見、神秘に見えることを、実はきちんとした因果律に従った現象であると証明することが、科学に課された使命であると思っている。僕は科学の見地から、物事を考えたい。そのために、一旦、僕は「神」という存在を自分の中から棄却する。(ぞんざいに扱うのではない。とりあえず、前提としないのだ)
そして、脳は科学の対象として、最もエキサイティングなものの一つだ。
脳は、「科学」という客観的な世界と、クオリアや仮想、さらには神や魂といった形而上学的命題を扱う「哲学」とを結びつける恰好の(唯一の?)対象である。ちなみに、科学の対象として、僕が面白いと思うのは、
1)脳
2)生命の作り方(人工的に生命を一から作る)
3)宇宙(空間、時間、物質、力)の始まり
3つだ。
それ以外の、例えば、レセプターの構造の話や、生理活性物質の話は、社会のために役立つ実学として面白いと思うが、それは利益生を伴っていることから、僕が思う純粋科学とは異なる。


さて、今年は、読書をこれまで以上に強化するつもりである。(時間もふんだんにあるし)
そのうえで、上記のような「科学の壁」を把握するような読書は、非常に魅力的だと考える。
さらに、脳科学のクオリアや仮想を考える上で、「文学」と言われる書物にも興味を持ち始めた。言葉は現実を完璧に表すには不完全だ。どのような美辞麗句を並べても、この感動は、この現実の美しさは正確に写し取る事、「言葉として保存する事」はできない。というのは、確かにそうだと思う。しかし、現実文字変換にロスがあっても、人には想像力という強力な武器がある。文字脳内での想像(仮想)の変換過程で、多いに「想像力」がレバレッジを効かしてくれる(故に、読み手の想像力次第だが。。)。そして、その想像力は人間の人間たる所以、人として知性を持って生まれてきた特権であるように思う。つまりは、文学で名作と呼ばれるすばらしい物語に、非常に高い価値を感じ始めた訳である。
今年は、名作と言われる古典を読もう。それが、これまでの生活に欠けていた要素である気がするから。