2010年7月24日土曜日

057. むんむんエジプト(また「旅行前」がやって来た)


さて、8月8日から18日まで、エジプト旅行である。
前回のギリシャ旅行を旅行記にまとめる暇もなく、
その前のタイ旅行もほっぽり出し、
その前のインドネシア旅行もペンディングで、
その前の韓国に至っては脳内デフラグで記憶が消えかけている、
という状態で、灼熱のエジプト。
ここらでひとつ、本サイトのテコ入れも必要かなと思うが、差し当たっては、差し迫ったエジプト旅行の準備/計画にスイッチを入れている。
エジプトの3大見所は、1)ギザのピラミッド群、2)アブシンベル神殿、3)ルクソールの巨大神殿群、らしい。
現地滞在期間は実質8.5日間なので、正直この3つを回るだけできつきつなのだが、
ここに来て、
「白砂漠、黒砂漠」
という魅力的な候補地が突如浮上してきた。
荒野好きの自分としては、見逃せないポイントなのだが、、現在、日程表を作りながらむんむん唸っているところである。
ここで、エジプトで気になる点をいくつか上げておこう。
・灼熱地獄。
今年は日本も暑く35℃を記録する日もあるが、エジプトの南方に位置するアブシンベル付近では、既に現在42℃を記録している(ほぼ連日。)。さらに、今年はモスクワでも30℃を超えるような猛暑が世界各地で起こっており(一方、冬の南米では壮絶な寒波が来ていたりして、どうなってんだ地球?っていうかんじである)、8月の気温ピーク時に行く自分としては、初の50℃台も経験できるのではないか?と期待(というか心配)しているわけである。
最近、目に見えて肥ってきて、暑さ耐性が著しく低下しており(デブは暑がり説は正しかったことを実証)、夜中寝てる間中もクーラーつけっぱなしの自分が、40〜50℃の暑さに耐えられるのか?ちょっと気になるところである。
あと、カメラとレンズ達。
やはりモンゴル写真家清水氏のアドバイスに従って、クーラーバックにカメラを入れていくべきなのだろうか?(できれば携帯性に優れたカメラバックで持って行きたいが、、)
・人にうんざりしそう。
行く前からこんなこと言っていては「偏見の目で現地の人を見る」ことになり、世界人類みな兄弟!、目指そう世界平和!、ヒトはみな性善!という幸せで立派な思想をお持ちの方から、ご批判をくらいそうだが。
だが、しかし。
経験上、アラブ人のしつこさは天下一品なのである。
モロッコでは、結構な目にあった。あのときは、初の海外一人旅で旅慣れていなかったというのもあろうが、そうとは言っても、あの「ほぼ全ての人がだましてくる、ふっかけてくる」「道を聞いただけで金を要求される」(喜捨の精神がある、っていうのもあるが、それにしても、むしり取ろうとしすぎ)「客引きが異常にしつこい」(ベトナムの客引きが笑えてくるレベル)「表示の値段の半値に値切っても、地元価格の5倍だった」という旅行者価格のハードルの高さ・・・というような状況は、やはりストレスフルである。
ま、とりあえずは「性悪説」に立った上で、自分のできる範囲マックスで交渉しよう。あとは、強く自分を持つのみだ。(こんな決意なんて、日本にいると笑ってしまうようなものだけど、案外、見知らぬ海外で1人でぽつーんといると、その上、道が分からなかったり、来るはずのバスが2時間待っても来なかったりすると、結構簡単にだまされてしまうものなのだ。その上、灼熱地獄では判断力や精神力が目に見えて落ちる。というわけで、気をつけて気をつけすぎることはないのだ)
・砂漠の砂がカメラに毒
モロッコでもサハラ砂漠に入ったのだが、砂漠では当然砂が風に巻き上げられている。この砂がデジカメのレンズ部分(伸び縮みする部分)に入ってしまい、壊れている人が何人かいた。当時は、GR-Dというコンデジに、ワイドコンバージョンレンズを装着し、筒状のカバーをかけることでデジカメを砂から守っていたが、今回はレンズ交換式の一眼レフである。しかも、僕の持っているレンズは24-70mmと70mm-200mmの二本でようやく広角から望遠までをカバーできる、という体制。このため、1台のカメラでは必然的にレンズ交換が発生してしまう。これでは、交換時に砂が入ってきてしまう。
しかもレンズ自体も伸縮部分があることから、砂が入ってしまう可能性もある。(一応、両方Lレンズなので、それなりの防塵機構はあるけれど)
ということで、理想は
2台の一眼レフ体制。
レンズを含めてすっぽりと覆うカバー。
が必要になって来る。
最近、自分の機材が高額化しており、上記レンズ二本と一眼一台だけでも軽く50万を超えてしまうので、砂が入って動かなくなったときのショックは、マリアナ海溝よりも深くはないが、高尾山くらいの大きさはありそうだ。その上、エジプト人がうざくて、気温が50℃を超えていたら、もう、自分が人の姿を保てるか自信がない(笑)ひとり覚醒してサードインパクトを引き起こしかねないのである。
さて、実はキヤノンの一眼レフとしては、EOS-5DMarkIIというデジイチとEOS-1Vというフィルム一眼があるのだが、この2台体制だと、一方がデジタルで一方がフィルムで、といった具合でレンズの違い以上にフォーマットの違いが大きすぎて、一つの旅でテイストが異なる写真が混じってしまうという問題がある。
(実は、タイとギリシャで経験済み。ギリシャでは結局、レンズを付け換えてほぼ5DMarkIIを使っていた)
もちろん、EOS-1Vはキヤノンのフィルムカメラ史上、最後のフラッグシップ機でその性能に申し分はないのだが、このフォーマットの違いは他にも、
・大量のフィルムを持ち歩く必要がある
・ISO感度が実用感度で800がせいぜいで、お気に入りのフィルムはISO100もしくは400なので、暗い条件に非常に弱い
・フィルムの交換が頻繁で、そもそも砂漠の真ん中でフィルム交換なんてしたくない
・液晶で確認ができないので、どうしても撮り逃したくないシーンでは、結局5DMarkIIにレンズを付け替えて撮ることになる
というような問題がある。
というわけで、もう一台、キヤノンのデジイチが必要なのである。
(一体、何台カメラを持ったら気が済むんだ!というツッコミは、もう自分でも散々しているので、今回は寛大な心でどうか勘弁してやってください)
というわけで急遽、デジイチを物色中なのである。
とりあえず、撮像素子サイズはAPS-Cで構わない。
今更、20万以上するフルサイズ機を買うだけの気合いと余裕はない。
(プロでもないのにフルサイズ機二台持ちとか、ちょっとおかしいはず。一般的には。)
APS-Cで評判がいいのは、当然7Dだが、予算的にパス。(現状、10万以上はきつい)
次にいいのが、EOS-Kiss X4だが、、記録媒体がSDカードなのである。。
そう、キヤノンは初級向けのKissシリーズはSDカードベースにしておいて、中級機以降、つまり50D(二桁Dシリーズ)や7Dから、はCFベースにしているのである。
おいおい、CF使い回せないのかよ。
というわけで、KissシリーズとしてはX4のスペックは異常にいいのだが、見送ろうと思っている。
そうすると、残るのは、50Dである。
50Dというのは決して評判のいいモデルではない。
優秀すぎるX4と7Dの間に挟まれて、ひたすら影の薄い中級入門機である。
さらに、発売も2008年と一世代前の機体。(5D MarkIIだってそうだが)
しかも、ちょっと前までやっていた2万円キャッシュバックキャンペーンも終了してしまい、もはや売れ残りしか残っていない。
その上、新型機60Dの噂も現実味を帯びてきている。
というわけで50Dを取り巻く情報に、いいことというのは非常に少ない。
しかし、自分にとっては、CFは使い回せるという利点と価格が現在、66000円台とこなれている点、が魅力である。
また、Kissのプラスチックボディーと比べると、本体はマグネシウムボディーなので、金属ボディー好きの自分としてはうれしい。
というわけで、50Dに気持ちが傾きつつ在る今日この頃。
あと3日ほど、新型の発表を待って、(発表があればさらに値下がりするので)、発表がなければポチッとしてしまおう。
それにしても、Kissシリーズにせよ、50Dにせよ、7Dにせよ、電池パックが異なるのだなぁ。これでは、2台持ちする場合に、電池を使い回せず、充電器も電池も二個持たなければならなくなる・・・。
このあたり、乾電池を使用可能なペンタックスは良かったなぁと思う次第である。
(ま、結局、2台持ちする人なんてマイナーな存在だろうから、こういう部分は置き去りにされてしまうんだろうけど。。)
それにしても、旅がやってくる度に、カメラを買い足していくこの癖をどうにかしなきゃなぁ。。リアルにカメラ貧乏になってしまう。
listening to ABOT KINNEY / LOVE PSYCHEDELICO  

2010年7月17日土曜日

056. 90年代とは何であったか?(極私的な近歴史観)


ミスチルが世を儚んで歌い、
村上龍が時代の閉塞感を小説にしていた。
あのとき。
クーラーの効いた書店で、
僕はミスチルを聴きながら村上龍を立ち読みしていた。
バブルの余韻は冷めきって、
失われた10年が経過し、
大人は自信をなくし、
女子高生は援助交際し、
オウム真理教がテロを行い、
小説や漫画では二重人格や猟奇性が流行り、
強いヒーローはいなくなり、
替わって弱いヒーローや等身大のヒーローがもてはやされ、
アニメではエヴァンゲリオンが流行った。
オタクという概念や、
ヒキコモリという概念が登場し、
甘えやモラルの低下が注目されていた時代。
受験を控えた漠然とした不安を背後に感じながら、
「とりあえず、期末テストでは数学を強化しよう。」
という直近の勉強の計画と、
「ノストラダムスの大予言は当たるんだろうか?」
というアホな不安と、
「童貞で死ぬのはやだな」
という青春特有の悩みを抱えながら(笑)
限られた時間を、限られた情報の中で、必死に「認識」しようとしていた。
「時代の音が鳴らされた」という触れ込みで買ったRage Against the Machineの「The battle of Los Angels」を意味も分からず聴きながら、
新井英樹の「The world is mine」を意味も分からず読んでいた。
当時流行っていたミニシアター系の映画「Buffalo ’66」を、これまた意味も分からず観ては、 それが「うん、カッコいい」と思っていた。
「トレインスポッティング」のポスターを部屋に貼って、意味もなく金髪にして、「やっぱハードコアだよな」と呟いていた。
黒い革パンを履いて、友人と連れ立って、道路に寝そべりながらタバコを吸っていた。
青空に消えて行く煙を見つめながら、
「自由になりたいな」などと思っていた(笑)
でも長期的に考えたとき、
別にやりたいことなんてなくて、
どんな人間になりたいかなんて決まっていなくて、
これからどんなハードルを何回越えれば楽になるのか、
全く分からなかったあのとき。
はっきり言えば、人付き合いもどうしていいか分からなくて、
どうしたら女の子と緊張せずに話せるのか皆目見当がつかなかった、あのとき。
自分はポケベルを持っていないにも関わらず、
公衆電話から当時好きだった子のポケベルにメッセージを送ったあのとき。
(相手にしてみたら返信しようがないメッセージを送られて相当困惑したと思う(笑)超一方通行なコミュニケーション。ストレートなアホっぷりに感心すらする。)
当時好きだった子の家に電話する前に、
母親が出た時→
父親が出た時→
弟が出た時→
本人が出た時→
という台詞のフローチャート(笑)を1時間かけて作っていたあのとき。
(今は携帯電話があるから、こんな努力はする必要がない。ある意味、「時代に強要された努力」である。)
つまり、90年代というのは、10代をそのときに過ごした僕にとって、
気恥ずかしくって、(内的要因)
自信がなくって、(内的要因)
社会も閉塞感で満たされていて、(外的要因)
常に不安感がつきまとっていた時代だったと思う。
気付いてみれば、2010年も後半である。
2000年代(2000年〜2009年)も終わってしまった。
確かに、「あのとき」から、時代は変わったと思う。
確かに、今だって日本経済はそれほど好転していない。
社会にも閉塞感があるだろう。
つまり、外的要因としては、それほど大きな変化はないかもしれない。
ただ、内的要因については、大きく変わってきたと思う。
こうでありたい自分。
やりたいこと。
それが射程距離にあるという密かな自信。
ようやく、整った。
例えこれらが、明日崩壊したとしても、
きっと僕はその瓦礫から、
また明後日の目標を再構築するだろう。
さて、今日も密度を上げていこう。
listening to BOLERO / Mr.Children

2010年7月8日木曜日

055. 創造的に壊しましょう(最近の変化)


創造的破壊。

という言葉がある。J・A・シュンペーター(1883〜1950年)が提唱した概念である。

既存の枠組み(パラダイムとか言われているもの、既成概念、既製品、既成市場、既成システムなんでもあり)はいつの間にか飽和して、陳腐化して、行き詰まり、停滞する。

そんな現状を打破するときには、「破壊」が必要だ。
既存の枠組みをどっかーんと破壊してやる。
そんな新しい概念(破壊的イノベーションでもパラダイムシフトでも好きなように呼ぶがいい)が担うことは、「創造」である。
新しい技術、新しい生活、新しい考え方、新しい世界、そんなものを「創造」するベクトルを持った「破壊」。
実はシュンペーターの原著を読んでいないので、不正確かもしれないが、僕はそんな風に「創造的破壊」という言葉を理解している。


「さぁ、破壊しよう。」


それがここ最近の大きなテーマである。
もはや、センチメンタルに世界の不均一性、不平等性、自己の限界、脆弱な論理性、少ない経験値、などなどを嘆いている場合ではない。また、趣味の世界に耽溺している暇もなくなってきた。
もう雨はやんだ。
これからは、本腰を入れなくてはならない。


選択と集中。
それを本来の意味で実行すべきときだと思う。


目的と手段。
合理的な手段を講じているだろうか?それは目的の達成に効果的だろうか?


Simplify
その方法はシンプルか?無駄はないか?無駄は「無駄(ゴミ)」であり、今の状況を考えると、愛すべき存在ではなく、憎むべき存在である。(無駄を愛せる「ゆとりある時間」は終わった)


知性の持久力
一日の中で、できるだけ長く、長く、クリアな思考で考えていたい。持久力を持ちたい。考え抜く力が欲しい。


28歳という年は、人生の中でも最も頭がクリアな時期らしい。
なんだ、もう半分終わってしまったじゃないか。
これから焼き切る程、脳を酷使してやろう。

listening to  nothing