2008年11月30日日曜日

003. 本当にやりたいこと

 今日は本当は仕事に行くはずだったけど、家でやりたいことがあれやこれやと思い浮かんで結局出れず仕舞い。

やりたいこと、とは今度友人が家に遊びにくるので、掃除、洗濯、本棚の整理などだ。
最近、自分の生活を大分さぼっていて、改めて整理してみると気づく事がたくさんあった。

気づいたこと。

1)自分の本棚に読んだ事のない本がたくさんあった。まるで「本屋さんの本棚」のようだ。

2)本当に自分がやりたいこと、ってなんだろう?「深く、人生を感じる」ってよく言うけれど、それってもっと具体的には何なんだろう?


そんなことを思っている時、ふと、昔書いたメモが見つかった。
橋爪大三郎の「言語派社会学の原理」を読みながら取っていたメモだった。
そこには汚い字で、しかし、一生懸命、ロジックの変遷が書き留められていた。


そこに、自分の思考の痕跡を見る気がした。
しかし、メモは途中で止まっている。つまり、僕はまだこの本を読み終えてもいないのだ。

また、TOEICの勉強ノートも開いてみた。
久しぶりに開いてみたが、最初の頃は非常によく書いているのがわかる。


当時は、「統計的なゆらぎ」を自分の回答に見つけては、その補正こそが重要である、という仮説に基づいて勉強していた。

その当時の痕跡がよくわかる。

しかし、後半に行くと、どうも単語の羅列になってきてしまっている。
鮮やかなポストイットに、とにかくたくさんの単語とその意味が書かれているが、
もはや見直す気にもなれない。

恐らく、この頃から英語の勉強が「かったるいもの」になってしまっている。
英語の勉強もそうだが、「こなす」感覚になってしまうと、もはや「勉強」とは言えなくなるのではないか。
橋爪先生の本を読んでいるとき、僕は間違いなく「勉強」していた。

その痕跡を見て、僕はうれしく思う。
僕は確かに「考えていた」し、「一生懸命」だった。

気づいたこと1)と2)が教えてくれるのは、
これまで、勉強しようとして、その実、「こなすこと」にばかり気を取られていやしませんか?
ということと、

僕が本当にやりたいことは、「真っ当な勉強」だった。

ということだ。

僕は日々、タスクリストを作って、仕事をしている。
それは、やらなければならないことを忘れないようにするための予防線であったり、業務量や優先順位をつける際のツールになるのだが、
タスクリストに

「英語の勉強」

と書いてしまうと、なんだか、それは急に「こなすべきもの」に成り下がってしまう気がする。

僕は、英語を「勉強」したい。
「勉強」とは、習得までの「過程」である。
「過程」を急いで「こなして」しまっては、(もちろんそれで十分理解して目標が達成できるならいいのだが)、楽しめない。

こなすことは、楽しくないのだ。

これは、最近の自分の反省点だ。

・タスクリストにないことはやらなくなってしまう。
・タスクリストにレ線をつけることに捕らわれて、タスクを「こなす」ことに終始してしまう

この点をよくよく反芻して、これからはきちんと「勉強」しよう。

勉強のポイントは、愚直ではあるが、

・本を読む際、ノートを取る。トップポイントの記事を書くかのように、肝要な情報を抜き取る気持ちで。
・英語を聞く際、読む際、ノートを取る。同じトップポイントを模して。
・ノートは、キチンとした字で構成も踏まえて見直せるように書く。(見直す価値があるノートにする)
・ノートには、英語だろうが、社会学だろうが、国際情勢だろうが、なんでも書いてかまわない。ただひとつ、それが自分の「思考」の痕跡であることが条件だ。
・思考の痕跡であることが条件であるため、単なる単語の羅列などは、禁止。もし、単語の暗記に使うのなら、きちんと調べて、自分の思考が十分に行き渡ったものだけにすべきだ。
・思考の行き渡っていない、血の通っていない内容を書くと、その部分は「死んでしまう」だろう。というのも、書いていたことを思い出すことすらできないからだ。意味がない。


というわけで、性懲りもなく、またノートを買いに出かけるのである。

2008年11月28日金曜日

002. 城山三郎 「無所属の時間で生きる」

『慶弔積立金もいいが、それよりも友人にまつわるよい思い出を互いに積み立てておきたい。
人生にあぐらをかき、安定した話などは、どうでもよい。出世した話や金もうけの話は、ときに卑しくひびく。
結果はともかく、在るべき姿を求めて、いかに悩み、いかに深く生きたか。いかにさわやかに、いかに優しく生きたか。
よい思い出のためには、よいつき合いも要るが、よいつき合いとは何なのか・・・
学生時代に戻ったように、問いかけは果てしない。』


表面的なこと、はもういいよ。
もっと深く、人生を感じていたい。
と最近ふと思い出した自分には、ちょっとカチリとくるくだりだった。
ただ、最後に疑問形になるところが、また微妙な悩ましさがある。
或る意味、正直なのだけれど・・・正直とは何なのか。
学生時代に戻ったように、問いかけは果てしない。

2008年11月22日土曜日

001. 読書について


僕は読書をあまりしてこなかった。

というのも、文字を読むのが遅いからだ。苦手、とまではいかないけれど、実にゆっくり読むと言っていい。
例えば、少年ジャンプを普通の人なら30分程度で読み切ってしまうだろう。僕はその倍、1時間〜1時間半くらいかかって読む。
恐らく、文字を認識し、その意味を読み取るという機能が弱いのだと思う。

というわけで、これまで僕は読書というものに対して、積極的ではなかった。

自分の本棚(本棚を持っているだけで、多少は読む方かもしれないが)を見ると、大体4割が漫画、2割が英語の学習本(未読のもの多し)、2割が雑誌(内容は、るるぶのようなタウンガイドやダイヤモンドのような経済誌、それからラーメンとカメラの雑誌とPC関連)、1割が旅に関するガイドブック(主に地球の歩き方)、そして1割が小説といったところだ。漫画が圧倒的に多いのは、単純に好きだからだが、「文字を読むのが遅い」ということの証左である気もする。

また、内容としては、圧倒的に「知識型」が多い。
英語、旅、カメラ、ラーメン店、経済、知らない事を減らそうとする、もしくは好きな事をもっと知ろうとする、という意志の現れだろう。
しかし、
と最近少し思うようになってきた。

読書をもっと、もっと、意義深いものにしたい。
端的に言えばこういうことを思っている。

もう少し書くなら、

「知識を得る」ではなく、「知性を磨くため」の読書がしたい。
「知性を磨く」という言葉が多少抽象的ならば、「より深く考える」と換言してもいい。
「考えること」は「知識を得ること」と根本的に違う気がする。
これまでは、「考え方」を教わるのは嫌だと思っていた。

考えるのは、あくまでも僕である。
というのが言い分だ。

「考えるのは、自分でやるから、とりあえず新しい知識を仕入れよう。」

と思ってきた。『知識」を仕入れて、それから自分だけで考えよう、というのである。

しかし、最近は少し心持ちが変わってきたようだ。
人生26年生きてみて、「自分だけでは到底、到達できない極み」があることを経験的にわかっている。
その極みに到達した人の考えに興味がある。
その人がどんな風に感じ、何を大事に思い、どのように生きてきたか、を知りたい。

それを知る事が出来る、というのは最高に楽しいことではないか。
そんなことを思いながら、仕事を早く切り上げた水曜日に、僕は三冊の本を買った。

・五輪書 鎌田茂雄 著
・名短編、ここにあり 北村薫 宮部みゆき 編
・無所属の時間で生きる 城山三郎 著

さて、これをサクサク読んでいきたい。

2008年11月1日土曜日

000. 序





「思索」は内へ向かい、




「視覚」は外へ向かう。