2008年12月20日土曜日

005. 井上靖「考える人」と仮想と言語派社会学について



 井上靖の「考える人」という短編小説を読んだ。


感銘を受けた。


井上靖が書いた言葉が、僕の脳の中で再生され、その情景を、その主人公の感覚を、ありありと感じる事ができたこと、にだ。


この話は、主人公がコウカイ上人という出所不明の即身仏(ミイラ)と出会い、その十数年後、再度出会おうと東北を歩き、コウカイ上人の人生を推理する、という筋だが、


興味深いのは、全てが「推測」と「想像」で構成されているという点だ。


まず、コウカイ上人という名前も、正確には漢字も分からない。


しかし、「即身物の大半は出羽三山出身であり、そこの僧は「海」の字を好んで使う。まず、カイは海だね。そして、真言宗では弘法の「弘」の字を使うから、コウカイは弘海だろう。」として、弘海上人である、という「仮想」を前提として話が進む。


そして、主人公達が酒田、鶴岡周辺の山間のT部落に来た際には、「私は自分でも理解しがたい感動に襲われ始めていた・・・私にはなぜかこの部落に弘海上人は生まれ育ったのではないかという気がしてならなかった」という主人公の直感より、その後、弘海上人はT部落で育った、という仮想が真実であるかのように話が進む。


全ては、主人公達の「推測」と「想像」を軸として、弘海上人というミイラの人生が解き明かされて行く。しかし、そこに正答はない。ついに真相は明かされる事なく、物語は終わってしまう。しかし、その想像のみで、僕はぐいぐいと引っ張られ、時に、手に汗にぎり、時に息をのんだ。


充実した読書の時間を愉しめた。


読み終わって、外に出た.12月の乾いた空気と葉の散ったイチョウの並木を通り過ぎながら、ふと、「この気持ちは、どうやって説明がつくのだろう?」と思った。


学生時代に、「言語派社会学の原理」という橋爪大三郎の本を読んだ。


社会は行動の集積で構成されており、行動は「言語」「性」「権力」の3要素のみから成立している。という大胆な発想で、社会をロジカルに解説した本だ。(ちなみに、まだ途中までしか読んでいない)「言語」「身体」「性」の要素で説明できない社会の構成要素はない、と書いてあった。


その際の読書メモに、「芸術はどうか?」との走り書きがあったことを思い出す。


小説もどうか?


小説は、当然「言語」の行使の固まりであるし、その点は賛成だ。


しかし、問題なのは、例えば、井上靖の「考える人」を読んだ僕の感想と、恐らく、別の人が読んだ感想は全く異なるものになっていたに違いないということだ。


面白い、という人もいれば、よくわからないという人もいるだろうし、


僕のように、「考える人」が引き金となって、このような感想文を書く人もいれば、何事もなかったかのように日常生活に戻る人もいるだろう。


つまり、言語の「作用」が、各人の「認識の違い」によって変わってきてしまう、という点が実に面白く思えた。


茂木健一郎が提唱する「仮想」という概念を支持する形になるが、脳の個体差が、言語という行動の結末を大きく変えてしまうわけだ。


特に、紙に書かれた言語は、その再生を読み手側の脳に依存することになる。このため、言語の作用が脳の個体差(その人の人生経験も含め)に大きく影響を受けてしまうのだろう。


そして、その「個体差」を感じることこそが、人生を生きる上で、楽しいことの大きな柱であるような気がしてきた。


経済は、「誰もが好きな、より多くの人に愛される商品、サービス」を指向する。それが、結果的に、その商品の、その企業の「生存」につながる。つまり、経済の原理とは「最大公約数の幸せの追求」と言える(うわぁ、大胆なこと言ってしまった(笑))。


それはそれで重要なことだと思うが、「私個人」という個体レベルで人生を俯瞰するときに、重要と思えるのは、むしろ、「私の感覚」であり、「私の仮想」であり、「私のクオリア」である。つまり、この脳がどのように作用したか?である。


言語派社会学が解明しようとするのは、「社会」である。


しかし、僕が考えるに、より正確に記載するのなら、「現実」である。


現実に厳然として存在する人間が構成する生活空間の総体を「社会」と言っているようである。


しかし、その内側、またはその根底には、人間の心理があり、そこには、「仮想」と「クオリア」がある。さらに、「仮想」と「クオリア」は、ひとつの現実の前に、「脳の個体差」に応じて無数に存在する事になる。なんとも複雑な、不思議な世界だ、と僕は思う。


と、色々考えて、まだ「言語派社会学の原理」を読み終えていないことにいささかの焦りを感じた。(よくわかっていないうちに批判しているようで)


この正月にきちんと読もう。