2012年12月31日月曜日

152. 年末に思うこと2

【2013年のこと】

2013年にひとつのキーワードを設定するとしたら、「意志の力」だ。


生活を律し、やるべきことに集中する意志の力を高く持っていきたい。


ここ数年思ってきた「成長」や「継続」といった言葉は、今の状況には合いそうもない。
もちろん、「結果」として成長があるのであれば、それは喜ばしいことなのだが、僕にはやるべきこと、やりたいことが分かっていて、その〆切も見えているので、毎日が「本番」なのである。この本番をどうやって戦うか。その点を真剣に考えると、「意志を強く持ってやる」という至極シンプルな信条に収斂していく。


明確な成果が求められる特に30代以降は、実戦経験に特化し、戦いの中でスキルを伸ばしていくのが良いように思う。逃げずに、覚悟して、やるのだ。


その場合、意志の力は、何よりも優先される。


ツルゲーネフも言うように、「自由よりも重要なのは意志」なのである。



【人間の本能について】
子供が生まれてから1ヶ月と10日経った。
目が見えてきたようで、起きている間は目をくりくりさせ、色々な方向を見ている。

最近は、「泣き出せば大人がやってくる」ということも学習済みのようで、例えば目が覚めたとき、近くに人がいないと、とりあえず泣き出す。

母乳であったり、おむつ交換であったり、そういった具体的な要求がない場合も多く、初めは「一体何をしてほしいんだろう?」と考えたものだが、抱っこしてあげると途端に泣き止むのだった。

つまり、「抱っこしてほしい」、「近くにいてほしい」ということなのかもしれない。

確かに幼い頃の淡い記憶として、「スーパーで親が視界から消えたとき」途端に不安になった感覚がある。そのような感性を既にこの子は持っているのだろう。

考えてみると、自分が子供であり、親とともに生活をしていたときは、「さびしい」という思いをほとんど感じなかったように思う。
しかし、10代後半を迎え、特に寮で生活をしたり、一人暮らしを始めると、「なぜか」彼女がほしくなり、独り身でいることが嫌になってしまった。真っただ中にいるときは、その理由を「そういう年頃だから」とか「周りが付き合っているから」等と思っていたが、根本的には、「さびしいから」なのだなと今は思う。

親から生まれ、育まれ、常に誰かが一緒にいる状態から、
1人での生活に切り替えたら、
寂しくなるのも不思議ではない。

人は、根本的に寂しがりなのだ。
もちろんその度合いは人それぞれだけれど、根本的に寂しがりなので、幼少期は親がその隙間を満たし、青年期からはパートナーがそれを満たす。だから、パートナーが見つからないと不安定だし、何か虚ろでもの寂しいのだろう。

この子は、まだ言葉を解さない。
他の子供も知らない。
他人との比較、という概念もない。
純粋に、内発的な欲求に従って日々を送っている。

つまり、僕はこの子を通して、「純粋な人の本能」を見ることになる。
そして、自分が気付かずに通り過ぎてきた、もしくは置き忘れてきた、自分自身の本能にもう一度出会うことになる。

親になって一人前だ、なんて言われることがある。
いやいやそんなことはないでしょ。経済的に自立していれば、もう一人前でしょ。と信じてきた。それは今でも同じだが、しかし、一方で、親になってようやく「人の基本部分」を理解できるようになるのだなという気もしてきた。

できるだけ、この子を見て、かまっていたいと思う。



【家族を持つこと】
結婚して、子供が生まれると、自由な時間やお金が減るし、ましてや一人旅なんか行けなくなる。一個人としてのプライベートに強烈な制限がかかる。だから、結婚や家族を作ることには懐疑的だ。

正直に言って、僕は20代までこう思ってきた。
実際に結婚して、子供が生まれてみてどうか?

確かに、自由な時間もお金も減るし、ましてや一人旅なんか行けやしない。
しかし、もともと「一人旅」をなぜしたかったのかと考えれば、「自分の日常にはない新しい何かを発見したい」という欲求があったのだと思う。

そして、この「新しい何かを発見したい」という欲求は、「子供」によっても多いに満たされることに最近気付き始めた。

家の中に、「新たな発見」がある毎日。
日常には「新しいことなんか一つもない」と信じて疑わなかった日々から、「日常の中に新たな発見が散りばめられている」と信じる日々へ。

なるほどなぁ。

こういうことをもっと早く知っていれば、また、若い世代にも共有できれば、少子高齢化も少しは緩和されるように思う(もちろん経済的な要因も解決しなければならないが、現実的に考えて、経済的な要因を解決することは非常に難しい。また、そもそも制度でできることと、精神的な変革を起こすことは根本的に異なるし、実は両面での改革が必要なんだと思う。制度でできること(意図的にインフレを起こす、税制を変える、子育て支援制度を充実させる、保育園を増やす)だけをやっていても駄目で(経済的に豊かになった→「じゃあ子供を作ろう」となるだろうか?経済的に豊かになった→「じゃあ何か買おう」となるのが普通だし、その世代内で経済的な余剰分が遣われてしまえば、少子には何の効果もない(国内経済的な効果はあるが)。「保育園が少ないから子供を作らない」というのも聞いたことがない。もちろん保育園は十分に作るべきなのだが、「結婚をする」「子供を作る」という「決断」には)精神的な部分でも変わっていかなければならないと思う。大家族が維持されていた高度経済成長期以前であれば、家族を作ることになんらの躊躇もなく、それが当たり前のものとして精神的に育まれてきた。しかし、核家族が大半を占める世界になると、世代間の連携が弱くなり、家族を作ることに対して意識が弱まってくる。ましてや親は高度経済成長を遂げるために仕事仕事で、家庭が家庭として機能を果たすのが難しいという状況まで揃ってしまった。さらに、ネットの普及から、個人が情報に直にアクセスする機会が増え、マスメディアがマスとして機能しにくくなり、「個の時代」が到来している。つまり、国全体をコントロールすることが非常に難しい社会だ。これは社会としては成熟段階にあるので、「自由意志に基づく人間観」としては究極の状態かもしれないし、実際、一個人としては快適なのだが、一方で、世代内に閉じた利己性を存分に発揮してしまうと、その世代で経済(具体的にはお金)を消費し尽くしてしまい、次の世代が生まれなくなってしまう。この現象を見るに、僕は毎回宮沢賢治の「なめとこ山の熊」を思い出す。漁師から獲物を買いたたく町中の荒物屋の主人を指して、宮沢賢治は「こんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく」と書いた。その通りで、「ずるい人間」は少しずつ世界から排除されていく。有限のエネルギー(食料、金、資源)を世代間で分け合う必要がある世界が規定された時点で、そう決まってしまうのだ。そして、当然、世界のエネルギーは有限だ。「個の時代」は文化の成熟という意味では賞賛されるべき時代かもしれないが、一方で、「ずるい人間(利己的な人間)」が多くなる傾向にあるように思う。僕もその一人なので、自己批判になるわけだが・・・。いずれにせよ、「個人の幸せ」の追求と、「国や社会(つまり集団)としての幸せ」の実現が相関しなくなってきており、そのズレが無視できないレベルまで来てしまっている。時代背景にせよ、経済的な背景にせよ、そういった言い訳はたくさんある。しかし、現実問題としては、個人個人の人生における「決断」がより合わさって社会や国の有り様を形作っているので、その「決断」に関与する精神的な下支えがなくてはならないだろうと思う。精神的な下支えというのは、「そうしたい」と本人が思える「価値観の下地」ということである。平たく言えば、「家族っていいもんだよ。」と心から信じられるということだ。僕は残念ながら、かなり長い間、「家族って厄介なもんだよな。」と思ってきたので、今となってようやくそう思えるようになった。大きな変わり様で、また、大変な幸運である。)


みなさん、良いお年を。