2012年8月3日金曜日

128. 父とのメール(70歳と30歳)

2012年7月11日、突然父からメールがあった。
件名: 分子について質問があるんだけど分子について質問があるんだけど。鎖状化合物、2エチルヘキシルセバケートは、非常に長い分子構造式を持っているけど、例えば外圧力などで、一分子の形、結合している外形、外側の形、分子状態の形が変わることがあるのか教えてほしいです。分子式や分子構造は変わらないことは、解るけど。ある現象で同じ化合物でも分子の形が変化すると考えると解釈できることに遭遇しています。一般に一分子の形は外乱によって変わることがあるのか?を教えてほしいです。海洋研究所でレポートを書こうと思うので、よろしく。お父さん



父は、機械工学系の人で、機械や電気系には強いが、化学系にはそれほどでもないらしい。一方僕は、高専では物質工学(化学)、大学では生物工学、大学院では生物物理学を専攻していた。このため、いくらか父よりは化学について知識がある(逆に、機械や電気には疎い)。ただ、正確な専門としては、一分子生理学であり、質問にあるような有機化合物というより、もっと高分子なタンパク質が専門だった。また、大学院を卒業してから6年以上も経っており、その間、実験は一切していない。臨床試験による薬剤開発は行っているものの、いわゆる研究者が行う実験と臨床試験は異質なものだ。(統計的な仮説検証という観点は同じでも、扱う対象が違いすぎる。)


化学は大学の学部レベルの知識しかないが・・・それでも、この命題について考えてみることにした。物理化学の基本的な知識を組み合わせれば、ある程度、考察できるのではないか。

以下は、僕の回答。



件名: Re: 分子について質問があるんだけどその化合物を直接扱ったことがないから特異的な性質のことは答えられないけど、一般的な話をすると、まずC-Cの共有単結合は、C=O等の二重結合と違って、自由に回転できます(参照http://books.google.co.jp/books?id=S3sEcX7Fbt0C&pg=PA42&lpg=PA42&dq=自由度+共有結合&source=bl&ots=85F-wtfEDp&sig=6sU43pWqfM-ohKpp6B9Dkxeq5yc&hl=ja&sa=X&ei=eVH9T5z3N4yHmQXF072xBQ&ved=0CFsQ6AEwBA)。なので、この化合物みたいに長鎖の化合物は、グニャグニャとブラウン運動にさらされて(熱揺動で)形を変えていて、そもそもかっちりした決まった形を取っていないと思う。滝つぼの中にビニールテープがあるイメージかな。時にS字になったり、時にくしゃくしゃに丸まったり、周囲の動き(ブラウン運動)によって形を変えている。ビニールテープは回転の自由度が低いけど、C-Cはかなり自由に回転できるからもっと色々な形になっていると思う。滝つぼは巨視的な流れがあるけど、もちろんこれはブラウン運動の比喩で、巨視的な流れのない(巨視的には静止した)液体の中でも、一分子レベルの微視的な世界ではランダムな方向に分子が振動して、曲がる部分は曲がり、回転する部分は回転している。この分子は油的な物性っぽいから、水の中ではなく、自分と同じ分子が周りにいて満員電車の中みたいになってるんだろうけど、いずれにせよ、ブラウン運動で個々の分子は振動してぶつかり合って、絡まりあって、形を変えていると思うよ。お父さんが「分子の形」と言ってるのがどこまでの形をイメージをしているか分からないけど(ご指摘の通りもちろん分子の化学構造は変わらない)、化学構造でなくていわゆる「立体的な形」であれば、ブラウン運動に左右されて、ゆらゆらした複数の形を取っているということだと思う。で、ブラウン運動は不規則な確率過程だから、分子の立体的な形も確率的に複数の状態が想定されるよね。周囲の分子との分子間相互作用と自身の立体障害(自由度にも限界がある)で、熱力学的に安定な立体構造はいくつかに絞られると思うけど、それがたった一つということはないはず(たった一つの形をとることは、エントロピーが下がり過ぎて、熱力学的にありえないよね)。さて、分子の立体的な形はブラウン運動に左右されるので、ブラウン運動そのものが制限を受けるような(超)高圧力なら分子の形も影響を受けるということになると思う。ただ、特定の形に収束する(トランジションする)というより、分子そのものの形は相変わらず確率的に揺らめきつつ(化学構造的に配向性はなさそうだし)、分子間の距離が変わる、っていうかんじかな。ここら辺はきちんと実験しないと分からないけどね。思考実験として、極端な例を挙げれば、液体窒素だよね。気体の窒素も高圧、低温で液体に変わるように、ブラウン運動が制限されるレベルまで圧力をかければ、分子の配列、分子間の距離は変わってきて、その結果、巨視的には物性の変化となって現れてくる。粘性とかも変わると思う。ただ、微視的には、窒素一分子の立体的な形が変わっているかというと、原子間の配置は変わらないし、立体的な形というのも変わらない(Å以下のNN結合の短縮はとりあえず除外して考える)。長鎖の場合は、登場する原子数が多いからもう少し複雑だろうけど、形が確率的な不定形を取っているだけで、同じようなロジックで考えられるんじゃないかな。一応、ぱっと頭に浮かんだのは以上なんだけど、間違ってたらごめんね。


父の言う「分子の形」がそもそもどういったことを指しているのかが分からなかったが、通常考えられることとしては、「外圧力では分子の形は変わらない」だろう。ただ、液体窒素の例のように、気体→液体や液体→固体といった相転移は、外圧力によっても引き起こされる(当然、温度変化によっても引き起こされる)。このような相転移の最中に、分子の形(立体的な形)はどのようになっているのだろう?基本的な理解としては、このような相転移は分子と分子との距離が変わるだけであり、分子ひとつひとつの形までは変形しないというものだろう。ただ、「形」という言葉は難しく(抽象的で)、そもそもC-C単結合が多い分子では、厳密に言えば「複数の形」の間をブラウン運動によって行ったり来たりして揺らいでいて、「この形」という特定のものがない。このため、「形が一切、少しも変化しない」とも言い切れない。そもそも揺らいでいるものだからだ。
とは言え、例えば圧力がある場合には形Aになり、圧力がない場合には形Bになる、といった方向性のあるような変化はしないはずだ(少なくとも双極子のような電荷の非対称性があるような分子でない限り)。ただ、相転移レベルの外圧がかかった場合、ブラウン運動の制限も出てくるだろうから、「ランダムに取りうる形のバリエーションの幅が狭くなる」といった程度の変化は出てくるだろう。僕が上記の長いメールで伝えたかったのは、そういうことだ。
なお、ブラウン運動で分子の形が揺らぐ、というのは例えばDNA等では常識的な話で、一分子生理学の基本的な知識として知られている。DNAを引き伸して1本の線のようにするのは相当なエネルギーが必要で(ピンっと張った分子の形はエントロピー最小なので(=本来あるはずの自由度を許さない)、エネルギー的に不利すぎる)、通常、水溶液中のDNAは丸まった毛玉のような恰好をしている。この水溶液を超高圧下に置いた場合、どうなるだろうか?水が凍る程の高圧であれば、DNAの形もひしゃげてしまうだろう。ただ、DNAの形が、ある特定の形に収束するかというと、それはないだろうと思う。
さて、父からの返信は以下のようなものだった。


件名: Re: 分子について質問があるんだけどありがとう。やっぱり分子はその形を変えることがあるんだ。というのは、例の2エチルヘキシルセバケートは、鎖状化合物で分子量426程度で細長い形にもなると思います。表面張力が小さく、濡れ接触角は殆どゼロと考えられる。例えば、少しセバケートを机上にこぼすと次の日には、机上一面に広がってしまう。20MPaとか68MPaの圧力を印加すると最初はリークが止まっていても、1日とか2日経つとリーグがわずかにはじまる。いわゆる分子レベルでの分子流リーグが発生するんだ。これは、分子の形が例えば、ある程度丸まっていた、外圧力や自己凝縮力などで、リークが止まっていても、それが自然な細長い分子の形になり、表面張力が小さいこともあり、時間遅れリーグの原因だと思うのです。リークが始まると分子流リークはとめどもなく継続するんだ。明らかに。対策として継手の圧力封じ込め部分にセバケート に溶けない安定な環状化合物分子量3500ばはかりのシリコングリースを塗布したら、時間遅れリークは止まった。最初は確実に止まっていたリークが時間遅れ持ってわずかな分子流リークを始めるのは分子の形が変わってくるとしか推論できないように思います。この考え方に関連推論いくつか現象が他にあるけど、携帯メールは時間がかかって疲れます。パソコンから連絡したいのだけど。お父さん


うーん、勘違いしている。
僕が伝えたかったことは残念ながら伝わらなかったらしい。
「リークが時間遅れを伴っているから、分子の形が変化している」というのも、ロジックとして飛躍があるように思う。仮に、万が一分子の形が変化するのだとしても、その形の変化が圧力をかけ始めてから「時間をかけてゆっくりと」起こらなければ、そのような時間遅れを伴うリークは発生しないはずだ。しかし、加圧により、分子の形がどの程度時間をかけて変化するのだろう?これが短時間だったら、時間遅れを伴ったリークの原因にはなり得ない。つまり、父のロジックは「加圧による分子の形の変化は遅い」という憶測が前提となっているわけだ。そして、その憶測を支持するようなデータは得られていないように見受けられる。
また、そもそも、丸まっている分子では通らず、ピンッと細長くなった分子なら通るような穴ってどんだけ小さいんだろう?恐らく、第二世代シーケンサーに使われるようなナノポアレベルだろう。そんなレベルの工作精度っていうのも逆にすごすぎる。実際は、高分子の拡散にかかる時間が長く、時間遅れが発生しているだけなのではないか。
ということで、再度説明するメールを打ってみた。
件名: Re: 分子について質問があるんだけどうーん、ちょっと誤解があるみたいなんだけど、、前のメールで言いたかったのは、圧力で「分子間の距離」は変わるけど、「分子の形」そのものは大枠で変わらないということなんだよね。液体窒素のように。まず、確認したいのは、リークが起こる箇所のサイズってどれくらいなのかな?5nm以下のようなレベルかな?それとも、100nmクラスかな?分子量が500程度の分子が丸まったときのサイズと、細長くなったときのサイズはどれくらい違うと想定してるかな?ざっくり考えると、多分、丸まっているときは大きく見積もっても5~8nm、細長くなったときの短辺は2nmくらいかなと思う(この値は本当にあて推定なので、もし論文を書いたり対外発表するなら、きちんと実測するか、分子シミュレーションできちんと推定しないといけない)。で、形が変わったとして、8nm→2nmという、わずかな差でリークするか、しないかの差が出てくるのは、リークする箇所(穴)のサイズが5nmとか、相当小さくないといけないと思う。これを検証するなら、例えば、今流行りのナノポアを使って圧力あり、なしでリーク量の差を見るとかしないといけないと思う。
もし、リークする箇所のサイズがそこまで小さくないのなら、分子の形が変わって抜け出してきたというより、表面張力の弱さで、拡散に従って、徐々に漏れてきたということだと思う。1-2日かかるのは、高分子の拡散にかかる時間がそれくらいだったということかなと思う。

少しセバケートを机上にこぼすと次の日には、机上一面に広がってしまう。
1-2日後にリークすることと、1日後に机一面に広がってしまうのは、ともに「分子の形」が変わったからではなくて、表面張力が弱く、徐々に「拡散」で広がっていったと考えられると思う。

まぁ、これは実験系を見てないから一つの考え方ってことで。論文のピアレビュー対策として、ご参考までに。

このメールでどうやら父は理解してくれたようだ。父からの返信は以下の通り。
件名:ありがとう。表面張力ありがとう。大いに参考になりました。分子の形状を考えるより、非常に小さい表面張力による拡散であり、拡散の時間遅れと考えれば、ロジカルな説明になります。海洋研究所のドクターとその点で合意しました。他に、八つ程の要因がありますが、これらは既にメカニズムとして説明できる状況にあり、これで今までの現象・事象が全て説明できると考えています。 レポートは、試験装置の改善ということで、地震・津波・防災研究の研究テーマとは別に行う付随レポートにする予定です。

というわけで一件落着したのだが、今回の一件で改めて考えてしまうのは、
70歳を越えた自分は果たして同じレベルの質問を繰り出せるだろうか?
ということだ。

父は70歳にして、国の海洋研究所で実験をしている(装置の実験)。
70歳のとき、僕はまだ科学的な思考を駆使するような仕事をしているだろうか?
そして、自分の息子に、このような、ある意味挑戦的な質問を投げかけられるだろうか?

願わくば、いつまでも知性を磨き続けたいものである。