2011年3月27日日曜日

083. 歴史(と嫉妬)

歴史家または歴史を扱う小説家の、その丹念な調査と、その想像力に対して、僕は敬意を払うと同時に、一抹の嫉妬心を感じてしまう。
その故は、一に彼らが恣意的に選ぶ出来事、人物は、間違いなく「歴史的意味」を持つからであり、二に彼らはその出来事の結末を知った上で考察できるからである。

一方、我々は、あらゆる歴史の最前線にいながら、自らの行為が招く結末すら知り得ぬか弱き存在である。また、その大半は「歴史的存在」になり得ない卑小な存在でもある。ましてや、写真など、悠久なる歴史に対して芥に等しいほんの一断片に過ぎず、それに対して熱中することなど可笑しいことなのかもしれない。

しかし、冷静になって考えてみると、僕たちの「人生」というものは、いかに「写真的」であることだろうか。生きている限り、僕たちの人生に「結末」はなく、また、体感として存在するのは「一瞬一瞬」である。

その先は分からない。

それが体感する人生そのものであり、写真的である。
だからこそ、切実である。

, listening to nothing.