2013年3月3日日曜日

156. ヒトの感情形成

今日は自分が主催していた、とある会合が無事終わって、ひとまず一安心している。
とは言っても、明日からまた走り出さなければならない。

ここ4ヶ月程、大規模な試験の準備で、張りつめた空気の中、朝から晩まで働き通している(朝6時45分に出発し、8時から業務開始、22時半〜24時くらいに帰宅する)。

あーもう疲れた。

と何度も思っているが、やらなければならない。
自分がやらなければ、ならない。
代わりはいそうでいない。
というのも、他のチーム員も一杯一杯なのだ。

全員が120%を出し切って、それでも終わらない。
知らなかったのだが、労働基準法の上限を超える残業申請は連続4ヶ月までらしい。
もう4ヶ月も前の記憶などないに等しいので(毎日の上書きっぷりがすごい)、いつもの通り2月も申請したら却下されてしまった。

素直な気持ちとして、「あれ?そんなに連続して申請してたっけ?」と思った。
確かに11月(息子が生まれ一月前頃)から、忙しくなった気はしていたのだが、いつの間にか4ヶ月も経っていたというのが実感だ。
(というわけで冒頭で、「ここ4ヶ月程」と書いているのは、この申請却下でようやく知った事実である)

仕事は比較的好きな方なのだが、難しい取引先を任されることが増えてきて、正直しんどいと思うことも多くなってきた。
タイムラインがしんどいところに、難しい仕事が3種類以上同時に進行すると、かなり追い込まれてしまう。

最近はストレスからか、一日が終わると「顎」が疲れていることに気付くことがある。
どうやら、知らず知らずのうちに、「歯を食いしばって」いるらしい。
そのことに気付いてから、意識的に口を開けて、凝りをほぐすようにしている。
ストレスで顎関節症になってしまうことがあるらしい(嫁さんはなったことがある)。

夜も、寝たら寝たで、結構な確率で仕事をしている夢を見る。
それは、存外正確なもので、「現実世界でやらなければならない仕事」を必死でやっているのだ。

下手をすると、まるで翌日は夢をトレースしているような気がするほどだ。
仕事のタスクリストが頭から離れていないということだろう。
ちょっと病んでいるのかもしれないが、「それくらいがちょうどいい」という話もある。

ギッタンギッタンに仕事してやるぜ。
っていう、無茶苦茶な勢いが、まだ自分の中にある。
それが、ちょっと嬉しくもある。

ただ、実際はやっぱり疲れていて。
夜にもなると、ディスプレイの文字が見えづらいことも多い。

考えてみると、先週の土日も会社で、昨日は家で仕事して、さらに今日は会合本番だったので、ここ2週間まるで休んでいないことになる。

うーん。
そして明日も・・・いや、やめておこう。

さて、前置きが長くなってしまった。

こんな状態にはあるが、帰ってきたらなるべく息子を抱いて、あやして、話しかけて、こちょこちょして、とふれ合いを持つように心がけている。


最近は本当によく笑うようになった。
(現在、生後3ヶ月と10日)

それも、ちょっと前までは「笑っている」=「楽しい」ではなかったように思うのだが(つまり、楽しいから笑うのではなく、筋肉の動かし方を学んでいる過程でたまたま「笑っているように見える表情」になっているだけで、「感情」が伴っていないように思えたのだが)、最近は「笑っている」=「楽しい」という図式が成り立ってきているように思える。

そもそもこの「楽しい」という感情も、生まれてから2ヶ月まではあるのかないのか判別できないくらいだった。

冒頭のように、僕は息子と触れ合う時間が残念ながら短いので、間違っているかもしれないが、息子を介して見る「感情」や「感覚」の成長には以下のような順番があるように思える。


  1. 不快さを感じる(お腹が空いた)
  2. 恐怖を感じる(お風呂でお湯が顔にかかると息ができない→お湯が怖い)
  3. 寂しさを感じる(自分がかまわれていないと泣いて呼ぶ)(ミルクを与えられたり、熟睡したりといった満たされた「快」の状態が「当たり前(ベースライン)」なため、感情の発露として初期段階に発信されるのは基本的にネガティブなものばかりになると考えられる。残念ながら「快」の感情は、なかなか表に出てこないのが現実だ。)
  4. 揺さぶられることを好む(表情からは読み取れないが、抱き上げて揺らすと泣き止む。きょろきょろと周りを見渡す。恐らく、揺られている状態が好きなのだ)
  5. 自らの肉体を意識する(手をしげしげと見る。指をおしゃぶりする)
  6. 自らの声を意識する(最近になって、自分から意図的に声を発するようになった。それをそっくり真似して繰り返してあげると、喜ぶ。)

まず僕が思ったのは、ネガティブな感情の方が根源的だということだ。
不快さや恐怖というのは、生まれてから真っ先に感じる、天性の、最も基本的な感情なのだと思う。
この感情が支配的な、新生児の時期は、

「ぼーっとしている時間」と「ミルクを飲んでいて満たされた時間」が最も多く、その合間に時々、「不快や恐怖を感じる時間」があるというような、認識の中で生きている。

例えば、小さな子が喜びそうなぬいぐるみや音を出しても、まるでそれが何か分からないといった感じで、喜んだり、はしゃいだり、楽しがったりは一切しない。

ただ、快と不快の間を漂うような意識のレベルなのだ。

息子を見る限り、「楽しい」という感情は、かなり遅れてやってくるようだ。
「楽しい」「面白い」という感情は、3ヶ月くらいになってようやくその片鱗が見えてきたという印象である。
だからこそ最近は、「あやし甲斐」が出てきて、とても楽しい。


また、一方でネガティブな感情に紐づく「複雑な感情」は早くから備わるもののようだ。

僕が驚いたのは1週間くらい前だったと思うのだが(つまりちょうど3ヶ月を過ぎた頃)、僕が仕事から帰ってきて、すぐにお風呂に入り、
嫁さんは夕飯の支度をしていて、息子をかまってやれない時間が30分程続いてしまったことがあった。
風呂から出てみると、大分泣いていたようで、涙が顔を伝っており、声もひっくひっく言っている。可哀想になってすぐに抱き上げてあげたのだが、口を真一文字に閉じて、目を合わせようとせず、身体を固くしている。その様子は明らかに、「すねている」のだった。

「構ってくれないならいいよ!ほっとけよ!」

という、見事なすねっぷり。
全身から、そういうオーラが出ている。

「すねる」という感情は、結構高度な感情かと思っていたのだが、既に3ヶ月時点でそういった感情も発生するようだ。

この「すねる」という態度の前には、

「構ってもらえなくて寂しいな。」
「こっちに来てよ!(泣く)」
来ない
来ない
「ちくしょう、こんなに呼んでるのに来やしない!」
「もういいもん!」

というような感情の動きがあったわけで、そういう感情の連続性や論理性が既に彼の意識下に存在しているということになる。
3ヶ月でここまで育つのだ。
もうこれは、すごいとしか言いようがない。


僕は、すねてしまった息子を抱きかかえて、ゆっさゆっさと揺らしたり、話しかけたり、色々と気を引こうとしたがその日はなかなか心を開いてくれなかった。
それだけ「意志」というものがあったということだ。

これもよく考えるとすごいことだ。
「意志」というのは「心の持続性」を意味しているので、「すねる。すねてやる!」と決めた、その心が、少なくとも僕がなんとか気を惹こうとした数十分間、持続していたことになる。
(なお、その後はめそめそしつつも、ミルクを飲み、静かに寝入ったのだった。つくづく子供らしい、100%子供らしい子供だ。うん、いいね。とてもいい。)

他にも変化はある。
これまでは、外に連れて行くと必ずと言っていい程、眠っていたのだが(それは外界をシャットアウトするかのような、ものすごい落ちっぷりだった)、それも、最近は変わってきた。

これは嫁さんが言っていたのだが、今日などは、外に連れて行くと抱っこ紐の間から外をきょろきょろと眺め、外界に興味を示していたようだ。

最近、自分の手を見つめることが多くなっていたのだが、

自己
外界

の境界線や、その多様性を理解しつつあるということだろう。
それは、とても重要なことだ。
一生のテーマにもなりえる。

好奇心一杯に、世界を見て、闊歩するようになってほしい。
親としては、その初めの数歩をともに歩んでいきたい。
そういう気持ちである。

この子の成長を見ることは、どこかに忘れてきた幼少時代の自分を見つめ直すことでもあるのだと思う。そうやって、ヒトは人になるのかもしれないな。
などと、ベタなことを考えながら、僕は今日を生きている。

(最近は、ベタなことの「力強さ」を信じるようになってきた。ベタなことは、大方正しい。そして、フラットな気持ちで考えると、心地よい。ベタなことを真っ正面から、言える人でありたい。)