2010年7月17日土曜日

056. 90年代とは何であったか?(極私的な近歴史観)


ミスチルが世を儚んで歌い、
村上龍が時代の閉塞感を小説にしていた。
あのとき。
クーラーの効いた書店で、
僕はミスチルを聴きながら村上龍を立ち読みしていた。
バブルの余韻は冷めきって、
失われた10年が経過し、
大人は自信をなくし、
女子高生は援助交際し、
オウム真理教がテロを行い、
小説や漫画では二重人格や猟奇性が流行り、
強いヒーローはいなくなり、
替わって弱いヒーローや等身大のヒーローがもてはやされ、
アニメではエヴァンゲリオンが流行った。
オタクという概念や、
ヒキコモリという概念が登場し、
甘えやモラルの低下が注目されていた時代。
受験を控えた漠然とした不安を背後に感じながら、
「とりあえず、期末テストでは数学を強化しよう。」
という直近の勉強の計画と、
「ノストラダムスの大予言は当たるんだろうか?」
というアホな不安と、
「童貞で死ぬのはやだな」
という青春特有の悩みを抱えながら(笑)
限られた時間を、限られた情報の中で、必死に「認識」しようとしていた。
「時代の音が鳴らされた」という触れ込みで買ったRage Against the Machineの「The battle of Los Angels」を意味も分からず聴きながら、
新井英樹の「The world is mine」を意味も分からず読んでいた。
当時流行っていたミニシアター系の映画「Buffalo ’66」を、これまた意味も分からず観ては、 それが「うん、カッコいい」と思っていた。
「トレインスポッティング」のポスターを部屋に貼って、意味もなく金髪にして、「やっぱハードコアだよな」と呟いていた。
黒い革パンを履いて、友人と連れ立って、道路に寝そべりながらタバコを吸っていた。
青空に消えて行く煙を見つめながら、
「自由になりたいな」などと思っていた(笑)
でも長期的に考えたとき、
別にやりたいことなんてなくて、
どんな人間になりたいかなんて決まっていなくて、
これからどんなハードルを何回越えれば楽になるのか、
全く分からなかったあのとき。
はっきり言えば、人付き合いもどうしていいか分からなくて、
どうしたら女の子と緊張せずに話せるのか皆目見当がつかなかった、あのとき。
自分はポケベルを持っていないにも関わらず、
公衆電話から当時好きだった子のポケベルにメッセージを送ったあのとき。
(相手にしてみたら返信しようがないメッセージを送られて相当困惑したと思う(笑)超一方通行なコミュニケーション。ストレートなアホっぷりに感心すらする。)
当時好きだった子の家に電話する前に、
母親が出た時→
父親が出た時→
弟が出た時→
本人が出た時→
という台詞のフローチャート(笑)を1時間かけて作っていたあのとき。
(今は携帯電話があるから、こんな努力はする必要がない。ある意味、「時代に強要された努力」である。)
つまり、90年代というのは、10代をそのときに過ごした僕にとって、
気恥ずかしくって、(内的要因)
自信がなくって、(内的要因)
社会も閉塞感で満たされていて、(外的要因)
常に不安感がつきまとっていた時代だったと思う。
気付いてみれば、2010年も後半である。
2000年代(2000年〜2009年)も終わってしまった。
確かに、「あのとき」から、時代は変わったと思う。
確かに、今だって日本経済はそれほど好転していない。
社会にも閉塞感があるだろう。
つまり、外的要因としては、それほど大きな変化はないかもしれない。
ただ、内的要因については、大きく変わってきたと思う。
こうでありたい自分。
やりたいこと。
それが射程距離にあるという密かな自信。
ようやく、整った。
例えこれらが、明日崩壊したとしても、
きっと僕はその瓦礫から、
また明後日の目標を再構築するだろう。
さて、今日も密度を上げていこう。
listening to BOLERO / Mr.Children