2009年11月15日日曜日

039. なんのために?(僕は知らない)


友人が面白いことを言っていた。
「町工場ってあるでしょ?自動車の部品とか作っている。」
「ああ、」
「そういう下請けのさらに下請けって、自分たちが『なにを作っているか?』知らされていないんだって。」
「へぇー。どんな車っていうことも?」
「そうそう。どんな車のどの部分を作ってるか?ってことは教えられずに、『こういう形のものを作ってください』って図面を渡されるだけなんだって。やっぱり、企業秘密とかノウハウとかあるからね。」
僕はこの話を、とても興味深く思った。
「なんのための製品か?」
それが分からないっていうのは、いかにも盲目的な労働のように感じる向きもあるかもしれない。それじゃ、ヤリガイがないじゃないか、と。
しかし、僕が興味を感じたのは、そういった側面に対してではなく、むしろこの事実が持つ「寓話性」の方だった。
「ははっ。じゃあ、もしかしたら、その部品はUFOの一部になったかもしれないね!」
僕は茶化して、そう言ってみたけれど、同時に、
(・・・でも、よくよく考えてみると、僕たちが生きているのだって、本当はこの話とそんなに変わらないのかもしれない。)
と思ってしまった。
別に人生に嘆いているわけではない。
ただ、事実として、僕たちは「自分が生きている理由を知らされていない」。
もちろん、こんな風に言うことは容易い。
「自分が生きる理由は、自分で見つけるものでしょ。」
さらに、酒でも入って熱を帯びて来ると、
「そういう『生きる理由』を探す『旅』が、『人生』そのものなんだよなぁ。」
なんて、哲学(っぽいドラマ的なパースペクティブ)を語ったりする。
それはそれで、実に真っ当だと思うし、そんなことを熱っぽく語る人を僕は好きだ。
むしろ、「ああ、よかった」とすら思う。
だって、そんな発想は、とても純粋だし、とてもストレートだし、とても人間味に溢れていて、居心地がいい。
だから僕は、
「うーん。確かにそれはそうだけど、それって思い込・・・ごにょごにょごにょ。」
と、語尾を飲み込んで、そんな発想を受け入れてきた。
また、ある人はこう言うだろう。
「なぜ生きるか?より、
 どう生きるか?の方が重要だ。」
確かに人生は一見すると短いし、その中でやらなければならない事はたくさんある。大体、「なぜ?(Why?)」より、「どうやって?(How?)」の問いの方が、機能性を追求した質問形態であるだけに、「お役立ち度」が高いのは自明だろう。
そういった立ち位置で物事や人生を考えた方が、よっぽど充実した人生につながることは、僕も分かっているつもりだ。
とはいえ、「Why?」の方が、意味性を追求した質問形態であるだけに、「ロマン度」はこちらの方が上。そして、僕は自称ロマンチストである。(と言ったら、友人全員に笑われるのは目に見えているが。恐らく、「どっちかって言えば、リアリストだろ。」と冷たくあしらわれるのが関の山だ。)
無論、僕だって「どう生きるか?」は大事な質問だと思う。
むしろ、毎日、割と真剣に「どう生きるか?」をブレイクダウンした「どうやったら今日という日を明日につながる意味のある一日にできるか?」「どうやったら、この仕事を完全なものにできるか?」「どうやったら効果的に、このプレゼンの主旨を伝えられるか?」「どうやったらチーム員全員がスムーズに仕事をできるか?」というようなことを考えている。
そういった点を考えてみると、「どう生きるか?」という問いは実に日常的なもので、より良い人生を追求する過程で必然的に通る道のようなものだと思う。
でも、たまには頭を、少年のような状態に戻してあげたい。
純粋に、「なんで?」っていう問いに向かい合いたい、というのは僕だけが感じる欲求だろうか。
それからもう一つ。
上のような発言には重大な欠陥がある。
「どう生きるか?の方が大切だ」と質問者の姿勢を批判することで、「なんで生きてるのかなぁ?」という質問そのものには全く答えていないのである。これは現実のディベートでは有効な戦略だが、純粋に答えを求める質問者には、がっかり感を与えるだけだろう。
一言で言えば、
「話を逸らすなよ。」
である。
またある人(特に大人の人)は、こう言うだろう。
「生きる理由や意味なんて、そんなものはねぇよ。
 お前は死にたいか?死にたくないだろ?痛いのは嫌だろ?
 だから、生きているんだ。死にたくないから生きている。それだけだ。」
立川談志あたりが、べらんめぇ口調で言い出しそうな台詞だ。
これは、思いっきり開き直っていて、リアリストに徹しているという点で好感が持てる答えだ。僕も、恐らく頭の80%くらいでは、この意見に賛成できるだろう。
でも、残りの20%の頭は、「この主張ってつまんないなぁ。」と思っている。
「Why?」というせっかく意味性に特化した質問を投げかけているのに、その「意味」(形而上学的な命題)には触れようとせず、「痛み」や「恐怖」と言った感覚(形而下学的な根拠)に立脚して答えてしまっているからだ。
もちろん、そんな「痛み」や「恐怖」といった感覚は、厳然として存在しているし、それを覆そうとは思わない。
とはいえ、僕の中学生のような頭は、
「なんかこう、もっと面白い答えはないの?」
と無邪気に不平を言ってしまう。
さて、そんな偏屈かつ幼稚な僕がむしろ興味を感じるのは、
「生きる理由?なにそれ食えんの?」
っていうくらい、この疑問に興味を持つこともなく、数十億の人々が生きているという現実だ(もちろん、宗教や家族、仕事といった拠り所を見つけて、生きる理由を「分かった状態」で生きている人々も数十億といるだろう)。
僕たちの日常は、どうという訳もなく忙しかったりする。
36協定?なにそれ食えんの?
っていうくらい、働いたりする。
そんな嵐のような日々の中で、立ち止まって、
「そういや、俺ってなんのために生きてるんだっけ?」
なんて考える時間は本当に一瞬だ。そんなことを考える暇もないくらい、僕たちは全力で生きている。それはそれで素晴らしい。
そんな素晴らしい人生の中で、
「俺は、妻と息子と娘のために働いている。生きている。」
っていうのも真実になりえるし、
「俺は、このとても優れた商品を世の中に広めるために生きている。」
っていうのもいいアイデアだろう。
僕も、今のプロジェクトを成功させたいし、この仕事でもしかしたら多くの人を少しでも癒せるかもしれないと信じて、今日もまた仕事をしている。
生きる理由は人それぞれでいいし、それが当たり前の現実だろう。
ただ、それでもたまにふっと思ってしまう。
「あれ?なんか大事なこと忘れてない?もっと別に、もっと根本的な、『知りたいこと』があったんじゃない?」
僕は、時間をかけて、経験を重ねて、なんとなく成長したような気になったりしながら、その実、本当の疑問の周囲をぐるぐると回っているだけに過ぎないのかもしれない。
こんな変てこな考えは、さっさと捨て去りたい。
でも、僕はやっぱり考えてしまう。
「生きる理由ってなんなんだろうねぇ。」
と。
例えば、こんなストーリーがあったりしたら、僕はとても満足するだろう。
「驚くなよ?実は地球ってスーパーコンピューターなんだぜ。」
「え?どういうこと?」
「地球っていう天体は造られたものだったんだ。ある高次な知的生命体が、『生命、宇宙、そして万物についての(究極の疑問の)答え』を見つけるためにね。」
「でも、天体である地球がコンピューターだったなんて信じられないよ。」
「そうかな?君は今、『生きる理由』ってのを考えているだろう?」
「ああ、」
「そんな疑問は、数百万年前から人類が考え続けた疑問なんだ。そして、その問いを続ける過程で、宗教が生まれ、科学が生まれた。そう、気付いただろ?俺たち人間は、地球というスーパーコンピューターの演算素子のひとつなんだ。」
なーんて事をダグラス・アダムスさんは「銀河ヒッチハイク」というSF小説でうそぶいたそうだ。
でも、そんな話が本当だったら、どんなにいいのになって思うときがある。
「そっかー」
と、納得してしまうように思う。
と言ったら、人によっては「なんで?」って思うかもしれない。
実際、数年前まで僕もそうだった。
上記のような銀河ヒッチハイクの話をある人にしたときに、その人は、
「本当にそうだったらすごいね。」
と非常に肯定的だった。その反応に僕はとても驚いて、
「え?そうかな。俺はやだけどなぁ。だって、自分の命が誰かに仕組まれたものみたいじゃん。」
と答えたものだ。
でも、先に挙げた「町工場の話」を持ち出したら、もう少し違った視点で理解できたかもしれない。
何を作っているか分からない従業員は、自分の仕事にヤリガイを感じられないでいた。
従業員はつぶやく。
「毎日、毎日、同じ部品づくり。なんて面白みのない単調な仕事なんだ。」
そんなある日、隣で働く友人がそっと耳元で囁いた。
「知ってるか?実は、俺たちが作っているこの部品って、レクサスの一部分なんだぜ。」
こんなことを知ったら、きっとその従業員は喜ぶに違いない。
「そっかー!あのレクサスを俺たちは作ってたのか!」
トヨタの高級車、レクサス(ハイブリット)は4ヶ月連続で販売増。2009年の10月には70%も増加したらしい。そんな日本最大企業の大本命の車を、今、自分たちの手で作っているなんて!
きっと、町工場の従業員達は、自分たちの仕事をある種、「崇高なもの」として感じられるに違いない。俺たちの仕事には意味があり、理由があるぞ!と。
上記の喩え話の「仕事」を「人生」に訳してやれば、そのまま銀河ヒッチハイクのくだりと符合するだろう。レクサスは、『生命、宇宙、そして万物についての(究極の疑問の)答え』だ。
僕がこの町工場のお話に「寓話性」を感じたというのは、そういうことだ。
なんだか訳も分からず生きてきた。
でも、その生には理由もあって、意味もあった。
その理由や意味が崇高なものだと感じられたなら、その生もまた崇高なものとなりえるだろう。
そう考えてみると、銀河ヒッチハイクが示したフィクションが、僕にとって非常に魅力的に映るのは自然なことのように感じられないだろうか?
でも、、
しばらくすると、僕はまたこう思ってしまうだろう。
「でも、その高次な生命体って何者さ?」
「その高次な生命って、誰が造ったんだろう?」
「なんのために?」
listening to 「トーキョーシティーヒエラルキー/Bankband」