2013年4月29日月曜日

159.我が子の成長

現在、息子は5ヶ月と9日。
首は据わっているが、腰が据わっていない状態で、まだ寝返りはしていない。
ずり這いもまだなので、基本的には「自らの意志でどこかに移動する」ということができない。(バウンサーからずり落ちてしまうということはある)

とは言え、以前の記事(No.156)で書いたような感情レベルから確実に一歩先にいっており、完全に「嬉しい」、「楽しい」、「かまってほしい」、「さびしい」という気持ちをものにしている。
よく笑う。よく泣いて親を呼ぶ。
ありありと自分の気持ちを体現している。
朝起きて、目が合うと笑う。
会社から帰ってきて、じっと見つめると笑う。




こんな風に目が合うと笑うのは、一体いつまで続くだろう?
これだけ目を見返してくるのは、一体いつまでだろう?



自分の記憶が定かな時期には、つまり小学生頃には、既に親は興味の対象ではなかったように思う。もはやその目は、「外の世界」を見ていた。学校の友人や田んぼや畑、滑り台、プール、ちゃり、土器、隣町、テレビゲーム、漫画、アニメ、学校内でのハイラルキー、そんなものが関心事の中心となり、親そのものは興味の対象にはならなくなっていた。

そう思うと、こんな風に我が子から見つめられ、求められるのは今のうちなんだろうなと思う。

また、既に「外の世界」への興味は始まっているとも言える。
おもちゃ(鈴の入った積み木のようなもの、ぬいぐるみ、吊り下げられたカラフルな積み木、プレイマット)には1ヶ月前(4ヶ月頃)では、ほとんど反応しなかったが、最近は興味深く見て、触って、べろべろに舐めている。

















舐めるという行為も新しい。
とにかく、舐めて確認したいらしい。
この時期、触覚の中でも、舌での感覚が特に優れているそうだ。




また、最近は手をよく使えるようになってきた。
息子は肌がまだ弱く、かゆくて引っ掻いてしまうため、手袋(ミトン)を着用させているのだが、それを自分で取ってしまうくらいになった。

指を差し出すと握り返してくるのだが、握力も確かな強さになっている。
まだまだ不器用で自由に操ることはできていないが、自分以外のものを「掴む」ことができているのだ。
この手で何を掴んでいくのだろう?などとすぐに考えてしまう。これが親というものか。





大人に置き換えてみると、不思議な世界観だ。

動くことができず、
相手が話す内容を理解できず、
口の感覚が最も優れていて、
揺さぶられたり、振動があったりすることを好む。



日本語を解さないというのも、日本語が当たり前の存在になっている大人からすると、想像を絶する世界と言ってもいいくらいだ。
(元々は「そこ」にいたはずなのだが、人はあっさりと忘れてしまう。)

「意味」というものが存在しない世界。
「概念」というものもあいまいな世界。

その世界を想像するだけで、どこか日常とは違う所に、ぽーっんと放り込まれるような気分になる。それは素晴らしい体験だ。

しかし、徐々に「意味」という概念は芽生え始めているのだとも思う。
最近、たまに自分の意志を持って声を出していることがある。
何かをつぶやいているような、表現しているような声だ。
その自由な内発的表現(エロス)が、徐々に日本語という形式(ロゴス)に従い出し、社会的な世界の仲間入りを果たす。

自分の意志を伝えられる「精度」は、日本語の習得により増していくだろう。
「伝わらない」というもどかしさは、それによって癒される。
これこそが、言語を習得する原理そのものだと思う。


我が子の成長を、ひとつひとつ見ていくことで、
自分自身の人生を、ひとつひとつ追体験していく。


もしもこの子が、字を書けるようになったら、僕は泣いてしまうかもしれない。