2012年3月7日水曜日

110. タイムカプセル(30歳のとき)

30歳になった。
自分に30代という年代がやってくることを、それほど意識していなかったけれど、迎えてみると、なんとなく感慨が湧いてくる。

20代をざっと振り返ってみると、

20歳:静岡県沼津市にある沼津高専から、東京工業大学へ編入。大学3年生。単位を取りきるのに精一杯。大岡山とすずかけ台の往復の日々。

21歳:大学4年生。東大の研究室へ入る。回転するタンパク質を顕微鏡で観察する日々。勉強の甲斐あって、主席で卒業。「一番」にこだわっていたのはこの時期が一番かもなぁ。

22歳:大学院1年生。就職活動。製薬企業の開発職で内定が決まる。内定者サークル結成。サークルと言っても、花見やスノボや遊園地、温泉を巡る、という只管に楽しいサークルだった。

23歳:大学院2年生。阪大へ研究室が移転し大阪へ移り住む。夏、初の海外旅行で台湾へ。海外旅行の魅力に気付く(何よりも、連続する日常から浮遊した自由感)。その後、学会でボストンへ。卒業旅行で、モロッコ、トルコ、スペインへ。写真にも凝り出し、RICOHのGR-Digitalを使い始める。

24歳:製薬企業への入社で、東京へ戻る。社宅のある大崎で一人暮らし。感染症分野でモニター(一担当者。一プレーヤー)として臨床試験を実施。この年、香港へ一人旅。

25歳:入社2年目。社宅を引き払い、目黒に引っ越した。完全な一人暮らしが始まった。感染症分野で2つ目の試験をモニターとして実施。この年、カンボジアとベトナムへ一人旅。このとき、初めて一眼レフを持っていく。絞りだとか、シャッタースピードだとかをようやく理解し始めた。

26歳:入社3年目。感染症分野で3つ目の試験をスタディーアシスタント兼モニターとして実施。徐々に試験のシステム作りに関与し始める。ジンバブエ、ザンビア、ボツワナ、南アフリカ共和国へ。

27歳:入社4年目。感染症分野で4つ目の試験をスタディーアシスタントとして実施。5〜6人のモニターに指示を出す立場に。この頃から仕事に慣れ始め、休暇もうまく取れるようになってきた。ペルー、ボリビア、インドネシア、タイ、ミャンマー、ラオスへ。恐らく、人生史上、最大限、自由な日々。撮った写真を見返す余裕もない程、テンポよく海外へ出ていた。

28歳:入社5年目。感染症領域での最後の試験をスタディーアシスタントとして完了。この年、今の奥さんとギリシアへ。花が咲き乱れるメテオラの風景やロードス島の何とも言えないリゾート感、日差し、街並、サントリーニ島の急斜面に張り付くように立ち並んだ白壁の街並、そこで昼間から飲んだビール、タコのマリネや青い手すりや乗りこなせなかったバギーや食べきれなかったカバブ、そんなものをちょっとした隙に思い出している。この年、恐らく最後と思われる一人旅として、エジプトへ。この年の終わり頃、今の奥さんと結婚し、二人暮らしが始まった。

29歳:入社6年目。慣れ親しんだ感染症分野から癌領域へ。分野の変化は大きいが、時代を反映した人事とも言える。抗がん剤は未完成であるからこそ、情報の更新が他分野より早く、こんがらかっている。その分、開発しがいのある分野だと思う。3月、東日本大震災が起こった。日本の、それまでの漠然とした地震への不安が顕在化し、色々な面で常識が変わってしまったと思う。自分は、地震の1週間後には中国桂林へ行っていた。中国の地方都市のホテルで、中国語のテレビを介して見る日本の状況。複雑な気持ちだったのを憶えている。言葉は分からないけれど、福島の原発が大きく取り上げられていたのはよく分かった。
このような、日本の大きな流れとはパラレルに、新婚旅行としてドバイとイタリアへ。ドバイの人工的で圧倒的なスケール感の街並もよかったけれど、やはりイタリアの、特にベネツィアとフィレンツェ、それからカプリ島には忘れられない良さがあった。美しい。燦々と降り注ぐ太陽、美味いピッツァ。美味いワイン。石造りの街並も、オリーブの木も、何気ない路面店も、どれも美しく映った。行けて良かったなぁと思う。

30歳。今日からはじまる30代。

最近は、忙しい。
大規模な試験の準備で、2月の残業時間は自分史上最多だった。平日は帰宅するのが11時〜12時過ぎ。自己研鑽に時間を取れない(取る心の余裕がない)日々。行き帰りの電車では、疲れて寝てるか、バナナマンのバナナムーンゴールドを聴いているか(ポッドキャストをiPhoneに落とし、初回から今ままで4年分くらいをぶっ通しで聴いている)。音楽もあまり聴いていない。聴くとしても、すでに持っているものばかり。英語の勉強らしいことは、ほとんどしていない。業務上、他国も絡むため、英語で文書を書く機会が多くなったこともあるけれど、どちらかと言うと、「業務でも疲れるくらい見ているのに、空き時間にまで見ていたくない」というのが本音。ポジティブに言うならば、その空き時間を休んで、業務時間中に集中して、英語もやっつけている、という感覚。とはいえ、やっぱり仕事には相当なエネルギーを注ぐ必要がある。それだけの必要性があるし、それだけの価値もある。仕事は、全体的には面白い。個別の事案で辟易することもあるけれど、それは、どこだってそうだろう。受けとめられない程のストレスではないし、状況は徐々に好転しつつあると思っている。あとは、自分次第。そうやって集中して仕事仕事していると、一週間が「アッ」という言う間に過ぎて行く。
それは、仕事の能率としては非常にいい状態である証拠で、「暇で暇でしょうがない」といった状況よりは断然いいのだけれど、あまりに「アッ」という間過ぎて、「時間を感じる能力が欠如してしまったのではないか」と疑いたくなるほど。特に夜7時から10時までが異常に早い。一仕事を終えると、いつの間にか10時になっている。そこから、もう一仕事、と思っているとそろそろ終電や寝る時間を考え始める時間帯になってくる。

ようやく、仕事で「判断ができる」経験が積めてきて、そのような「立場」になってきて、周りも自分なりに見えてきて、やるべきことも分かってきて、という立ち位置。
過大でも過小でもなく、それが現実の自分と思う。

仕事は、自分が決められる範囲が広ければ広いほど、面白いと思う。
それは僕が「決めたい人」だからだろう。

ようやく、各ファンクションの役割や考えやテンポや置かれている状況が分かってきて、それでもなお、組織の中でどのように協調(恊働)すべきか、問われる日々。思ったよりもリーダーシップを要求されることが多いように思う。こちらがリーダーシップを張らないと、なかなか動き出さないこともよく分かった(年齢とか役職とかそういうのは思ったより関係ない)。餅は餅屋かもしれないが、餅屋の集まりだけでは仕事(プロジェクト)は動き出さない。誰かが旗を振る必要がある。一方で、旗ふり役が餅を作り始めてはいけない。餅はやはり餅屋の仕事だ。餅屋には餅屋のプライドがある。その一方で、そのプライドばかりを優先してしまうと、仕事が進まないこともある。プライドを守りつつ、餅屋に協力してもらう。餅屋に気持ちよく協力してもらう。そういう微妙なラインを、うまくやっていく。そういうことが、人が集まる組織では重要だと思う。僕もある意味、餅屋側なので、それはお互い様なのだろう。

新入社員が、若く思えるようになってきた。
がんばっているなぁ。と思う。
それが段々、角が取れてくる。肩肘張っていたのが、段々とすんなりしてくる。一生懸命想像で話をしているのが分かる。
僕もそうだったのだろう。

逆に、今出された問題が、いつか見たことのある問題のような気がしてくる。自分の過去に参照するデータがあるように思える。きっとどうにかなるはずだ、とやる前から確信できる。これからやるべきことを、ブレイクダウンすることができる。どうチームが動くべきか、おぼろげながら、見えてくる。
僕は入社6年目が終わる今、ようやくそうなってきた。

中堅社員、ということなのだろう。
これからも仕事はきちんとやっていきたい。
と同時に、家族との時間も、きちんともっていきたい。
写真やカメラのことも、きちんときわめたい。
英語だって、まだまだのばしていきたい。

こうした意欲が、まだ自分の中にあることを感じている。
ただ、その意欲は、やはりちょっと10代の頃よりも、静かなものになってきているのも事実だ。無鉄砲な熱量ではなく、静かなる歩み。そういう変化が、自分の中にある。

東日本大震災を経て、また、首都直下型地震への警鐘が鳴らされる中、「日常が続くこと」への願いは増すばかりだ。
「日常」を望む人は、「大人」だと思っていた。
僕はその「大人」になってしまったんだと気付いた。
また、同時に、それをすんなり受け入れている。

この忙しくも愛おしい日常が続きますように。