2011年7月19日火曜日

094. 写真メモその一:シャーマン的写真の見方

えー、写真をどのように見るのか?というのは、誰にどう教えてもらうものでもないわけで、自由に見ればいいわけですが、自分の理系的嗜好から、どうしても「因数分解」してしまいたくなるわけです。

「どうして、この写真がいいのか?」

被写体自体が美しいからか?その被写体が貴重だからか?自分が知らない世界が写っているからか?そこにドラマを読み取れるからか?色がいいから?雰囲気がいいから?ピントがきちんと合ってるから?主題が引き立つボケ感が出てるから?パンフォーカスで手前の桜から奥の富士山までキチッとはっきり写ってるから?中判写真特有の濃密感がいいから?アイキャッチが入っているから?光源の方向が順光+レンブラント光+補助光だから?シャドウのトーンが出ているから?フィルムスキャン時の設定が適切だから?構図が面白いから?なんとなく?運命だから?有名な写真家の作品だから?有名な写真家の有名な作品だから?


と、簡単にカオスってしまうので、自分の頭を整理したい。
というわけで、今日のテーマはこれ。


『写真をどう見ているのか?』


僕は写真論といえば、スーザン・ソンタグの「写真論」とホンマタカシの「たのしい写真」しか読んでいない。このため、以下の考察はほぼ僕の直感から生まれたもので(知らず知らずのうちに上記二つの写真論から影響を受けてしまっているかもしれないが)、世の中で認められた芸術論/写真論のバックボーンはない(つまり、いいかげん)。
そこを承知の上で、以下をご覧いただければ幸いである。



写真の見方(1)「世界を知る見方」

例)「こんなシーンがこの世界にあったんだ」

写真家の例) 
梅佳代(すごい表情、すごい状況)、米美知子(すごく美しい風景)、梶井照陰(波って怖いなぁ)、川島小鳥(こんな子いるんだ)、川内倫子(すごい透明感)、本橋成一(屠場って・・・うわぁ)、報道写真家(人ってこんなに醜いんだ。戦争ってこんなに悲惨なんだ。)


基本的には、被写体が持っている「力」を知覚させられることで、「世界を思い知らされる」、「新しい世界の見方を提示させられる」というような「見方」をしている場合。
(ここを書いていて思ったのだが、「見る」という行為は能動的でありながら、情報を読み取るという点からすると、受動的でもある。このため、「世界を知る見方」を能動的に行いつつ、主体である自分に対して起こる作用は、「世界を思い知らされる=受動」、「新しい世界を提示させられる=受動」といった受動的な作用となる。個である自分と、外である世界とが、「見る」という行為を通して繋がるようなイメージ。よくよく考えると、見る、とは不思議な行動だ。受動と能動の両面を持つ。)

人間には生存への欲求とともに、世界をより知りたい、という欲求も備わっている。(もちろん、生存への欲求の方がより根源的だ)
このため、写真が提示する「向こう側の世界」に興味を持つのは、ある意味本能レベルで普通のことで、その「向こう側」が見たことない世界だと、ははぁ〜っと感心してしまうわけである。


写真の見方(2)「絵を見る見方」

例)「ああきれいだな。」

写真家の例) 
アンリ・カルティエ・ブレッソン(ああ、いい構図。)、吉村和敏(すごく美しい風景)、米美知子(これまた、すごく美しい風景)、三脚立てて尾瀬で写真を撮っているおじいさん達(やっぱり構図はいいよね)、植田正治(シュルレアリスム的なバランスの良さ。いつまでも新しい)

ブレッソンと風景写真家をイッショクタニスルナンテ!とおしかりを受けそうだが、「構図の納まりの良さ」を求める=絵画的な良さを求める、という感性で考えると、これらの写真家の作品は押し並べて、「いい写真」となる。その点で、等価だと思う。初見で「ああ、きれいだな」という作品は、絵画的な要素を持っている。つまり、「ここに合ってほしい、この位置には船があって、この位置に夕日が来て、ここに灯台があって、、」というような要素の納まりが「いい」ものは、「いい」のである。
喩えて言うなら、「美人」と同じだろう。美人というのは、人によって色々あるけれど(そらそうだ)、一般的に(多数決で)美人と言われる人は、目と鼻のバランスが黄金比を満たしていることが多いそうだ。しかも、個々のパーツ自体には個性がない方が良く、むしろ問題は、その「配置」「バランス」にあるようである(※きちっとした考証はしていない。又聞きレベルの話である)。
さて、黄金比をなぜ美しく思うのか?というところまで掘り下げると、学者にでも聞いていただきたいのだが、少なくとも、「バランスがいいことを求める感性」というのがヒトに備わっている、ということは示しているように思う。
そして、そのようなバランスを求める感性を満たすとき、ヒトはソレを美しいと思う。写真が1枚の紙であり、平面上の図形であり、物であり、シーンであることを考えると、そんな絵画的な見方をしてしまうのも自然と言える。


写真の見方(3)「技術目線の見方」

例)「絞ってるねぇ〜この写真。絞りいくつなの?」

写真の例)
カメラ雑誌の新製品レビュー時の作例

(※「写真家」としての例は該当なし。ここを書いていて思ったのだが、これは完全に「見る側」の話なので、写真家単位では例に出せない。絞る、絞らないの話で言えば、ニューカラーかそうでないか、くらいはあるかもしれないが、写真家自身にとっては、技術は「意志を昇華させるための手段」に過ぎないので、自分の望む表現が出来るレベルまで技術がつけば、どうだっていいことなのだろう。)


写真は、見方によっては「カメラという機械を操った先にある、アウトプット」とも言えるので、他人の作品を見た時に、「これどうやって撮っているんだろう?」と考えてしまうのも、人の性である。
なまじ、カメラの仕組みなどをあれこれ知り始めると、調子に乗って、考え出す。

「これは、フィルムだな。」
「これは、中判だな。」
「これは、カラーネガ。」
「これは、結構絞ってるなぁ。」
「粒状感、すごいなぁ。ISOいくつだろう?」
「ここまで波の動きを止めるってことは、1/2000くらい?1/1000かな?」
「雪がここまではっきりするのは、フラッシュを使っているからか?」
「とすと、ローライでフラッシュ?へぇ〜」
「これは、クローズアップレンズでも使っているのか?」
「アイキャッチがいい感じだけど、照明はいくつだろう?ひとつ、ふたつ・・・」
「この抜け感。レンズは何だろう?」

とまぁ、楽しい時間を過ごすわけである。
これも一つの見方だと思う。
ただ、全く「主題」に入り込んでいない点で、作家さんの努力とは無関係の見方をしている、とも言える。
楽しいこたぁ楽しいのだが。


写真の見方(4)「シャーマン的な見方」

例)「うわっ・・・この、シャッターを押しているとき、アラーキーは何を考えていたのだろう?」

写真家の例)
荒木経惟(「愛しのチロ」、「センチメンタルな旅・冬の旅」、「チロ愛死」を連続して見ると、もうだめだ)、川内倫子(「Cui Cui」はいい本です。)


「被写体を見る」よりも、
「被写体を撮っている撮影者を感じる」
そんなシャーマン(霊媒師)的な見方である。

このシーン、撮影者はどんな風に見たのだろう?どんな気持ちで見ていたのだろう?
そんなことを真摯に考え出すと、

写真とは、「視覚の共有」であることに気付く。

「写真を見ること」は、「撮影者と私が視覚を共有すること」と同義なのだ。

当たり前のことだが、写真を見ているとき、僕たちは、その写真の構図、画角、被写体、世界しか視覚情報を与えられない。

その視覚情報から何を読み解くのかは、個々人の感性に任されることになるが、間違いなく言えることは、撮影者がシャッターを押した「その瞬間」の「撮影者の視覚」と、今写真を見ている僕たちの「視覚」は、写真を通して(無理矢理にでも)一致させられているということだ。

これは、ある意味で、「見える世界の強要」であり、別の言い方をすれば、「撮影者との世界の共有」であり、また別の見方をすれば、「写真集を買うことは、作家の視覚を手に入れること」でもあるのだ。

写真の「手前」には、撮影者がいる。
その撮影者を強く意識してみよう。
何を思って、この瞬間にシャッターを押したのか。
何を感じて、この写真を選んだのか。

写真の被写体、ではなく、写真の撮影者を意識する見方。
それが、第四の見方、シャーマン的な写真の見方である。

このような見方をするとき、僕たちは、決して知ることのできない「撮影者の本当の気持ち」を想像している。
あたかも霊を降ろすシャーマンのように、撮影者になりきって、その写真の世界を知覚する。

このような見方ができる写真は少ない。
また、意図して撮れる類いのものでもない。


ただ、個人的な感想としては、このような見方をしたときに、僕は感動している。