2011年5月26日木曜日

090. 斑(ひとつのスタイル)

一日が24時間では足らない。
一日が48時間くらいあったら、ちょうどいいのに。
それが無理な願いなら、
代わりにこう願おう。
倍のスピードで全てをこなせないだろうか。
一日の時間は24時間でもいいから。

それくらい、もどかしい。

仕事も、プライベートも、どちらも僕にとっては重要で、
その両方で、僕が望むラインに到達するには、
時間が足らないか、
スピードが足らないか、
その両方か。

欲望は、倫理的な範疇から逸脱しない限り、
多ければ多い程いいと思っている。

欲望が、全てのラインを決めるから。
品質のラインも、そう。
成長のラインも、そう。
成熟のラインも、そう。

欲望が満たされた時点で、成長は止まってしまう。

例えば、とある民族の文化的な発展具合、というのは、
その民族の総意としての欲望が規定しているように捉えられる。
ベネツィア人は、ガラス工芸にここまで欲望を持っていたのか。
そんな風に、旅先の民芸品を観察している。

あらゆる宗教が説くように、
満足(足るを知る)は安心を与えるけれど、
それはもうちょい年を取ってからでいい。
半人前の今の自分には、それはまだ早いのだ。


欲望の設定が高い場合、
そこに到達するには、
バランスを崩す必要が出てくる。

普通にやっていたらだめだ。
普通の人の範囲では、そこには到達できない。

のめり込むこと。
一過性であってもよい。
のめり込んで、我を忘れてやる。
それくらいのバランスの崩し方をしないと、
目標は達成できない。

しかし、移り気な僕は、それをコンスタントに続けることができない。
僕は結構、忍耐弱い。
例えば今、僕は一切、英語の勉強はしていない。
ここ3ヶ月は確実に何もやっていない。

その分、今僕が熱中しているのは、中世イタリアに関する塩野七生の小説を読むことだ。
4月から5月にかけて、イタリアとドバイに半月程行ってきた。
新婚旅行である。
例によって、ツアーではなく個人旅行で、宿もその日その日に決めていた。
こういう旅は自由度が高く、自分でテーマ設定をできる点がいい。
今回は、塩野七生の小説をベースとした「追体験」がひとつのテーマとなった。

フィレンツェでマキアヴェッリの史跡を探す。
29歳から43歳までのマキアヴェッリが毎朝通ったであろう、通勤経路を追体験してみる。
グイッチャルディーニ通りからポンテヴェッキオを渡り、ヴェッキオ宮を目指す。
観光客でごった返すシニョリーナ広場は、
実はサヴォナローナが火刑に処された場所でもある。
そんなことをリアルに考えると、薄ら寒い気分になってくる。
あのヴィルトウ(力量・才能)とフォルトゥーナ(幸運)に満ちた、ロレンツォ・イル・マニーフィコもここを通ったであろう、と思いながら歩く。

そんなフィレンツェは、言うなれば、「歴史との交差点」のようなものだ。

ジョジョの奇妙な冒険第5部で、プロシュート兄貴は、

「探す発想を『4次元』的にしなくてはいけないんだ」

と意味不明な台詞を口走っていたが、
しかし、このような体験は、或る意味「4次元的」だ。

というのも、旅というのは、縦横高さのある三次元空間を自由に(高さは制限付きにせよ)移動するわけだが、歴史という時間軸を脳内で再生することで、さらに時間という軸(次元)が一つ加わることになる。
これを荒木先生流の跳躍的表現で喩えるなら、「4次元的」となるのだろう。
(※プロシュート兄貴の台詞はもちろんこんなことを想定してはない)

話が大分逸れてしまった。
いずれにせよ、こういった体験は、非常に「濃い」。
視覚や聴覚が、現実のフィレンツェのテクスチャーを僕の脳内にインプットすると同時に、
ほぼ同時に、
僕の海馬はポンプのように、そこで起こったであろう歴史的事件、そのときの当事者、その当事者の置かれた政治的状況、思想、思考、不安、期待、といったものを(小説を介した擬似的なものであるにせよ)大脳皮質に投影する。

外界からの刺激と、
内界からの記憶との
せめぎ合いが白波を立てる。

その界面に、
僕は立っている。
そんな感覚だ。

そういう濃い体験をしていたい。
そのためには、時間が足りない。


仕事で、周りの人々、チーム、会社、業界、医師、患者さんの役に立ちたい。
そのためには、期待される以上のパフォーマンスを常に出力し続ける必要がある。
集中することが必要で、
また、そう簡単には全容が把握できない仕事でもある。
周りの人たちもすごい。
タレント揃いだ。
その中で、パフォーマンスを出していくには、それ相応の時間を費やす必要が出てくる。
仕事が全て。
それくらいの覚悟が必要かもしれない。
それくらいの努力でようやく達成されるのかもしれない。

しかし、仕事だけ、で生きて行くほど、
私生活に魅力がないわけじゃない。
正直言って、私生活にも前述のようなキラリと輝く宝物のような時間が一杯詰まっている。

つまり、
仕事でも、
私生活でも、
全てが欲しい。

そのためには、時間がない。
スピードが足りない。

しかし、時間は伸びないし、
スピードも正直言って僕程度の能力ではこれが限界だ。

とすると、後は、集中するしかない。
集中、とは、差異を設けることだ。
「今は、ここに、力を入れる」
そう決めることだ。
つまり、一過性にバランスを崩すこととほぼ同義だ。

僕は16日間旅行に出ていたが、これは一般的な社会人からすると、バランスが崩れてしまっていると思う。
大分周囲の人にはあきれられたものだ。
でも、そのおかげで、「4次元的な」濃密な時間を過ごすことができた。
その後の仕事復帰は色々としんどいものがあったが、ようやく、馴染んできたように思う。

その間、僕は、かなり仕事仕事していたと思う。
私生活はとりあえず我慢して、
仕事に集中しようと決めた。

そうやって仕事に集中することで、先鋭化していく思考も感じることができる。
それはそれで濃密なのである。

「濃密な時間を体験すること。」

それが僕の根本的な欲求で、
高校生の頃から全く変わっていない。
ただ異なるのは、そのときそのときで対象がコロコロと変わっていることだけだ。

こんなやり方を繰り返して、
僕はこれからもやっていくのだろう。

その軌跡は、きっと直線的ではない。
滞留があり、横道があり、渦を巻いていたり、時には淀んだりしながら、複雑な模様になっていくだろう。

斑のように。

願わくば、その紋様一つ一つが濃密なものでありますように。