2009年6月10日水曜日

023. ロボット工学と舞台芸術と。


去る5月30日。
僕は東京大学の駒場リサーチキャンパスに行っていた。
生産技術研究所が毎年やっているオープンキャンパスに参加するためだった。
僕は学生時代、この研究所で2年間研究をしていた。というわけで、古巣に遊びにいったということになる。
研究室の元メンバーに久々に再会し、お互いの状況の変化について話し合った。オープンキャンパス巡りは、実に4年ぶりのことで、雰囲気が随分と変わったことに驚かされた(昔は、かなり地味なものだったが、今年はブースも多く、お客さんも多く、ちょっとした学園祭のような賑やかさだった)。何より、普段は見る事ができないサイエンスの世界を肉眼で、音で、時には触って確認する事が出来る。かなり楽しいイベントなので、おすすめだ(特に理系の人には)。

さて、その中でも僕が特に興味を持ったのは、ロボット工学だ。
「踊りを物まねできるロボット」や「実物のリンゴを見て、模写するロボット」などが紹介されていた。僕の専門は生物なので、ロボットに関しては全くの素人なのだが、「脳科学」について個人的に興味があるため、ロボットがいかに現実世界を認識し、反応するかを考えることは非常にエキサイティングなことと言える。

もう三十年近く前に確立していたそうだが、対象物の「明るさ」から「奥行き情報」を抽出し、ロボットに認識させることができるそうだ。明るさ、というのは二次元平面上に与えられる情報(写真を想像していただきたい)であり、そこから三次元情報を取り出す事ができる、ということは(専門の人にしてみれば当たり前なのだろうが)かなり驚きである。適切な計算を施す事で、次元(自由度)を増やすことができるのだ。

さて、絵を描くロボットは、あらかじめプログラムされた軌跡に従ってラインを描くのではなく、対象物を人間のように「見て」、その輪郭情報を「認識」し、それを真似て「描く」。つまり、人間がやっているプロセスをそのまま行っていることになる。さらに面白いのは、その絵の出来は毎回異なるのだ。この「ゆらぎ」がまた人間らしさを醸し出していて面白かった。(ちなみに、ずう体は2m50cmはあろうかという巨人である)

「ゆらぎ」というのは、工学が追い求める「再現可能性」とは全く逆の現象だ。工学と芸術を対比する素晴らしい表現を僕はこのとき知った。

「工学は再現可能性を追求し、芸術は再現不可能性に独創性を見る」

素晴らしい説明だ。そして、互いに「ものを作る」という共通した目標があるにも関わらず、深い溝で隔てられていることを的確に表現している。

さて、「踊りを踊る」ということは、二足歩行するアシモが一般的になった今、そんなに目新しいものではないと感じる向きもあるかもしれない。確かにプログラムされた動きを再現するのでは、アシモとあまり変わらないかもしれない(手足の軌道計算と、倒れないようにする重心計算と、その一連のフィードバッグはかなり大変なのだが・・・)。

現段階では踊りの先生にモーションキャプチャー(動きを捉えるセンサーみたいなもの)を付けて、動きの情報をプログラムに起こして、それをロボットにインストールし、動かしているようだ(ちなみに、セガのバーチャファイターでは、モーションキャプチャーから取った動きの情報をCGで再現しているので、ロジックとしては全く同じである。現実世界でやるかCGでやるかの違いだけだ。)。

しかし、将来的には、目の前で踊る人を「見て」、その動きを視覚情報から解析し(つまり「認識」し)、全く同じ動きを(簡略化はするが)再現することを狙っているらしい。
これは、人間が踊りを覚えるプロセスをロボットがやってのけてしまうことを意味している。プログラムされた動きを再現するのとは、ずいぶん意味合いが異なる。
そのロボットは、現実世界とリアルタイムで対峙できるということを意味しているからだ。

これが高度に進んでいけば、ロボットのサッカーチームが生まれるのも夢ではないかもしれない(めちゃくちゃ大変なのは容易に想像がつくが)。

さて、昔の話をしよう。
僕は高校生の時に、モラヴェックというロボット研究者が書いた論文(というか空想科学小説?)を読んで、えらく感動したことがあった。彼が言うには、「『身体』が無ければ、『知性』は生み出すことができない」らしい。つまり、コンピュータを使って、「脳だけ」を再現することはできない!と言っているのである。

彼は、生物が知性を持つに至った過程を注意深く考察した。生物は、食うか、食われるか、というサバイバルの環境に生きている。そんな危険な世界では、自分が置かれた状況をより正確に「認識」し、適切な「アクション」を行った者が生き残っていく。

連綿と続く生物史の中で、「認識」の精度をより高め、動きの「自由度」をより多彩に、といった工夫が繰り返され、その副産物として「知性」が生じたというのだ。彼はこの身体に帰属する要因を「可動性(mobility)」と呼び、「可動性」こそが「知」の源泉であると主張したのだ。

これは、当時流行していた「コンピュータプログラムで人工知能を作れるのではないか?」という潮流に真っ向から反した主張だった。時は、ディープブルーが、チェスの世界王者を下し、一定の条件下ではコンピュータプログラムの演算能力が人間を上回ることが証明された時代だった(はず)。

そんなご時世だったから、その延長で、コンピュータプログラムによって、人間のような「自分で考えることができる独立した知性」を構築できるのではないか?と信じられていたのだ。しかし、2009年を生きる僕たちはもう知っている。残念ながらプログラムでグーグルは出来ても、人間のような「自ら考え、想像力・創造力を持った知性」は生み出すことが出来なかった(決してグーグルを否定しているのではない。方向性が異なることを言いたいのだ)。そして、モラヴェックが正しければ、これからもコンピュータプログラムだけでは、「知性」は生まれないのだ。

そうなると、一時は下火になったロボットにベースを置いた「知性」の研究が再び脚光を浴びることになる。(と、どこかで読んだ気がするのだが、記憶違いだったろうか?)
ま、とにかくここで言いたいのは、僕がロボット工学を考える際に持つ文脈は、「ロボットでどこまで知性に近づけるか?」である、ということだ。

そして、科学というのは、僕がやろうとやらまいと、誰かが推し進めてくれるもので(笑)今回のように「踊るロボット」や「絵を描くロボット」といった、モラヴェックが想定していた方向に進化していることを確認できた。
これは僕の知的冒険(言い過ぎか(笑))にとって、大きな収穫と言える。
よしよし。
どんどん発展して、「知性」を人の手で生み出してほしい。

宇宙レベルで考えてみると人間は、孤独な存在だ。今のところ、地球外からの意味のある「信号」は探知できていないし(つまり電波を発する装置を作れるレベルの知的生命体はいないことを意味する)、月にも火星にも宇宙人はいなかった。つまり、「知的生命体」という観点から言えば、僕らはとっても孤独な、宇宙でひとりぼっちの存在なのだ。

ロボットが知性を持ち、学習をし、工夫をし、人間とのコラボレーションで、創造的な働きを生み出すパートナーとなったのなら、それは初めて自分たちとは異なる「良き友」ができたと言えるのではないか。

(これは極めて日本人的感覚である。奴隷制度を持たなかった日本人には人型ロボットに対して「奴隷」のイメージはなく、むしろ鉄腕アトムやドラえもんのような「友達」のイメージを無邪気に持つ事ができる。一方、奴隷制度を経験した国では、どうしてもロボットに対して、奴隷のイメージが重なり、タブー視されることが多い。この文化的背景の違いが日本での先進的な人型ロボット研究の下支えになっている。)

さて、そんなことを考える機会にもなったオープンキャンパスだが、もう一つ大きなことがあった。それは僕が学生時代、実験を教わっていたフランス人のヤニックさんと再会したことだ。彼は一度フランスに戻っていたので、実に4年ぶりの再会だった。また、ヤニックさんのパートナーであるヘミさんとも再会する事ができた。ヘミさんは舞台俳優で、今度、舞台があるという。僕はしばらく舞台を観に行っていなかったので、早速出かけることにした。


それが本日、というわけだ。
「僕らは生まれ変わった木の葉のように」と題された公演は、「日仏の演劇文化交流」を指向したプロジェクトの一部である。このプロジェクトでは、日本の劇作家「清水邦夫」氏の作品とフランスの劇作家「ジャン=リュック・ラガルス」氏の作品を、日本とフランスの両方で公演する。

このプロジェクトには、「ジャン=リュック・ラガルスと清水邦夫の書簡交換」というサブタイトルがついている。「書簡交流」とは、実に考えられた言い方だと思った。舞台演劇という身体言語を通して、二人の劇作家が、「交流」する様を、「書簡交流」という表現に還元しているのだ。確かに、演劇には「シナリオ」という「書物」が根底にあるのだから、二人の作家は「書簡交流」を果たしているのかもしれない。

そして、この書簡交流は「時を超えて」行われている点も興味深い。ジャン=リュック・ラガルスは95年に他界している。

死してなお交流を続けられる・・・それも、生身の人間を介在した交流だ。天国のジャン=リュック・ラガルスは、喜びを噛みしめているに違いない。

僕は演劇のことはド素人だから、その内容に踏み込んで意見を言えるものではないが、少なくともこの「時を超えた交流」というコンセプトにはいたく感動した。
そして、こういった交流の源泉である、類い稀なる人間の「知性」が、如何に創造性に満ちた素晴らしいものであるか、よくよく考える事になったのである。

8月には、「ジャン=リュック・ラガルス」の「ただ世界の終わり」が日本で披露されるらしい。こちらも是非行ってみたい。