2009年2月7日土曜日

012. 思考する水


ユキノシタの苔玉に、水を上げているときに思いついた。
たっぷりと張った水の中に苔玉が沈んでいて、その中に手を入れる。
手は水の冷たい感触や抵抗を受けながらも、滑らかに水の中に入る事ができ、
そして苔玉を手にして、取り出す事ができた。
当たり前のことだが、水にはその「形」があるようで、ない。
水の「形」は容器に依存して変わり、水「固有の形」というものは存在しない。しかし、その「存在」は確実にある。気体ほど希薄ではなく、固体ほどに凝集していない。その適度な「柔らかさ」こそが、液体の水が持つ類い稀な性質といえる。

我々人類は、未知の惑星に到達した時、まず探すのは「水」だろう。水が存在するのならば、その惑星に生命が存在する可能性があるからだ。このロジックは恐らく誰もが疑いようのない、ある意味で当たり前の感覚だろう。しかし、その感覚の裏には、「水」を生命の根源として見る、科学とそして人類の歴史を通してきた経験知が潜んでいるように思う。つまり、人類は「水」が生命に先立つ要件、つまり必須条件であることを知っている。

ここで僕は空想をする。
水が生命の「条件」ではなく、「生命」そのものだったら?
水自体は、疑いようもなく「物質」に過ぎない、というのが西洋科学を経験してきた僕たちの常識だ。しかし、その常識をここでは一切無視してみよう。


水は、長い歴史をかけて、その「分布」を非常に巧妙に変えてきた。
初め、水は地球の表面にできた巨大な凹みにただ漫然と居た。
つまり、海である。

40億年前、その海に変化が起きる。海底火山の噴出口付近で、1μmほどの球体が発生する。海のサイズに比べると、ほとんど「無」と言っていい程小さな小さなその球体は、しかし、海と明確に別物であることを主張するように、脂質でできた薄い膜で確実に海と自己とを隔てていた。球体の内側にも外側でも水が満たされているが、その球体は、自己を複製し仲間を増やした。原始的な生命の誕生である。

生命に内包された水は、生命の「舟」に乗って、40億年の旅に出る。「舟」は原核生物、真核生物、原生生物、藻類、魚類と海の中で形を様々に変えた。そして、その「舟」が高等植物になった頃、水は初めて地球の凹みから自らを脱出させることに成功する。つまり、上陸である。

植物はそのライフサイクルの中で大量の酸素を放出し、その結果、大気中の酸素濃度が上昇。酸素を効率的に利用するエネルギーサイクル(電子伝達系)を獲得した両生類という「舟」に乗った水が上陸を果たす。両生類は、さらに外皮を強化し、外部に水の少ない環境であっても生存が可能な爬虫類へと進化し、水はさらに海から遠く離れたところへと分布できるようになる。

爬虫類は、巨大化し恐竜と呼ばれる巨大な容積を持つ「舟」になる。恐らく、隕石の衝突と気候の急激な変化、氷河期の訪れ、等によってエネルギー効率の悪かった恐竜は死滅するが、体表面を毛皮で覆った小さなネズミはその苦境を乗り越えた。我々哺乳類の始祖である。

また、恐竜の中で生き延びた者の中には、上肢の構造を揚力の発生に適した形に変えた鳥類がいた。こうして、水は、鳥類という乗り物により、夢にまで見た天空を舞うことができたのである。

さて、小さく卑しいネズミは、その後、その旺盛な繁殖力を武器に、その数を、その種類を増やして行く。地表の環境に合わせて、自らの形を少しずつ、時に大胆に変えて行き、様々な動物のバリエーションが生まれた。

300万年程前、アフリカの大地で大きな地殻変動が起きる。引き裂かれた大地の東側では、土地が乾燥し、森が死滅し、そこに分布していた猿は餌の豊富な森という「楽園」から閉め出されてしまう。しかし、猿は生き延びるために、枯れた大地で道具を作り、火を使い、上手に獲物を捕らえるようになる。つまり、人類の誕生である。

人類の環境適応能力は凄まじかった。わずか300万年のうちに、狩猟から農耕、集落、村、街、国を発生させた。石器、青銅器、言語、鉄器、 紙、文字、羅針盤、船、火薬、 蒸気機関、自動車、電力、電気信号、トランジスタ、集積回路、通信技術、インターネットを発明した。 村会議、王政、民主主義、共産主義、司法、立法、行政の分立等、社会機能を巧妙に組織化した。 衣服、食、家、建築、それぞれの分野で芸術性を発展させた。詩、短歌、俳句、小説、漫画、映画、アニメーション、CG、ゲームなど自らの「感覚の限界」を引き延ばす装置を開発した。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ギリシア正教会、ロシア正教会、仏教、ヒンドゥー教、など神の概念を発生させ、集団の意志統一を行った。
 このように様々な方法で、その「舟」は自らが生き伸びやすいように、地表面で多くの物質と情報の再配置を行った。街には水道が引かれ、下水道も引かれ、自然の循環を遥かに越えるスピードで水を自らの社会へと組み込むことに成功した。水の組成にも気を使い、フランスの山奥からペットボトルに水を詰めて東洋の国まで運び、飲み、下水へと流すという、自然現象では非常に時間のかかるプロセスをわずか2週間程度の期間でやってのけている。

このように、水は、今、非常に多様な経路で、自らの位置を、分布を変えて楽しんでいる。さしずめ「地球規模の遊園地」にいるような気分なのだろうか?

水という物質に、「人格」を与えるという空想をしてみると、水は自らの意志で様々な舟を作り、世界中を長い時間かけて探索しているように思える。さらには、この星からも脱出しようと試みているように思える。
今、地球上に分布している人類の「総意」は、ない。ように見える。それぞれがそれぞれの立場で、自由に、その生を全うしているように見える。しかし、その生自体が実は、水が自由闊達にこの世界を歩き回るための「手段」に過ぎなかったら?自分自身がそのためのパーツに過ぎなかったら?この世界は、水の知的興味によってのみ構成されていることになる。

そんな空想をなんとなく思いついて書いてみた。
僕の空想レベルは中学生の頃からあまり変わっていないようだ。