2014年12月26日金曜日

191. 最近のお気に入り

ARCTERYXのKhamski 38というモデル。日常でも使いたいため、Shortサイズ(30〜34L)にした。Lレンズと同じ配色で気に入っている。


nobisというカナダの会社のジャケット。Canada gooseと同じか、それより暖かい。普通の部屋で着ると汗が出てくるくらい。


このブランドのいいところは、手首周りが丁寧に造られていて、熱が逃げない構造になっているところ。

画像ではうまく説明できないのだが、左右のポケットにはサイドから手をつっこめるようになっていて、そこがフリースで覆われており、とても暖かい。
Hand warmerと店員が表現していたのだが、自分の体温で暖まったポケットに手を入れると確かに、その名の通りだと思う。

また、ジップがダブルジップで、下方のみ開けることも可能。身の丈が長いコートやジャケットはこの機能が絶対必要だと思う。(が、たまに無いものもある。)

他にも、首まですっぽり隠れること、フードにワイヤーが入っており形をある程度いじれること、前の留め具がマグネット式になっており、ジップを閉めた後はワンタッチで全面を閉められること、など小技が効いている。

普段、服装のことなどほとんど気に止めないのだが、これだけ趣向が凝らされると、いいなぁと思う。

恐らく、近々日本でも販売するはずなので(もしかすると既にしている?)、暖かくて実用的なコートやジャケットを必要とする人にはおすすめである。

190. 散々だったこと

去る12月13日(土)、Pennsylvania州に一泊二日の小旅行に出かけてみた。
初めてのドライブ旅行。
これまで毎日車で通勤し、2ヶ月半でおよそ4800km程走行した。
(毎日片道30miles 、往復で60miles = 96kmで、50日間)
いい加減車の運転も慣れてきて、よしそろそろ旅行かなと。

目的地は、Christmas Villageという村に定める。サンタの家があるとのことで、これはアメリカらしいクリスマスを満喫できるのでは、と期待を込める。

カーナビでは、片道約2時間半、134miles(214km)の距離だったが、2歳児を連れての行程ということで、途中で休憩を挟んだり、ご飯を食べたりで結局、高速を降りる頃には3時間半ほど運転していたことになる。

実は2日前から風邪気味で、少し無理を押して来てしまった。
喉が痛く、しゃべるのがつらい。
あの、水を飲むのも痛い感じである。

その上、高速を降りると残り時間表示が20分から急に45分に。
どうやら通行止めか渋滞が発生したらしく、予定していた道とは別ルートで行くことに。
すると程なくして、右へ左への山道を走ることになった。

子供は泣き出し、気持ちが悪くなってしまったようで、食べたものを吐いてしまった。
こちらも疲れがピークで、暗い山道を走るのもしんどい、
狭く真っ暗な林道を走る。
カーブを左に曲がったところで、

「あっ!!」

いきなり標識が目の前に。
可及的速やかに左にハンドルを切るも敢えなく激突。
右のサイドミラーが派手に音を立てて、窓ガラスに当たった。

ということで、保険会社に連絡し、事故処理 in Englishである。
前述の通り、喉が痛い。
喉が痛いのだが、もう話さない訳にもいかず。しゃがれ声で事故状況を説明する。
けが人の有無、他者の車の被害の有無、警察への連絡、事故を起こした場所の地名、路面の状況、制限時速、自分の車の速度、被害状況、運転ができる状態か、Repair shopの予約、車を運転できない期間のレンタカーの予約、等。

幸いけが人はおらず、また他損事故でもないので(標識は無傷)、大事には至らなかった。

しかし、事故処理で1時間喰ってしまい、再出発したのは、夜8時頃。9時にはChristmas Villageは閉まってしまう。ここから45分、少しでも見れるのなら・・・と向かったが、まさかの大渋滞である。
こんなに人気なのか。。
それでもめげずに列に並ぶ。

カーナビの地図では、この角を曲がって約1 mileでChristmas Villageだ、というところでパトカーが止まっている。
そして手旗信号を降る人。・・・?

【真っすぐ行け】というサインである。
窓を開けて聞いてみる。

「右には行けないの?」
「見りゃわかるだろう。行けないよ。今日はもうおしまいだ。駐車場に車が入らない。」


終 了 。

というわけで、ホテルで一泊し、風邪をこじらせ、僕のUS初ドライブ旅行は終わった。
翌日、家の近くのガソリンスタンドで給油をしていると、奥さんがぼそっと言う。


「なんか、ガソリン減らすために行ったみたいだね。」

Sore iu!?とつっ込んだが、よくよく考えてみると、

ガソリンが減り、サイドミラーが壊れ、信用を失って帰ってきたということになる。
散々である。

事故現場。左カーブ後に、さらに道が左に曲がっていたのに気づかず、直進してしまったため、この標識に激突。見た通り真っ暗な道で、くそ寒い(氷点下)。


被害状況。
右のサイドミラーがとれてしまい、電線でつながっている。この後、ホテルで透明のビニールテープを借りてぐるぐる巻きにし、帰り道を走った。VOLVO XC60という車で結構いい感じの車なのだが、傷つけてしまって申し訳ない限りだ。


さて、明日からNew Mexico州の砂漠地帯をドライブする予定なのだが、今度は気をつけなくては。

2014年11月30日日曜日

189.ニュージャージー州の運転免許取得試験

去る11月26日に、ニュージャージー州の運転免許試験(筆記試験)を受けて、無事免許を取得した。

翌日の木曜日はThanksgivingという祝日で、その翌日も会社が休み。

ということで、11月26日(水)に免許を取得できるのがベスト。

しかも、州の法律で、海外からの移住者は、入国から60日以内に免許を取得するよう定められている(国際免許の有効期限はあと10ヶ月くらいあるので、運転自体は一応許されるが、本来は60日以内に取得しないといけない)。自分は9月26日に入国したので、ぎりぎりのタイミングでもあった。

午前中9時半まで電話会議に出て、出発。

試験会場まで車で40分。

天候は、まさかの雪。

試験会場に着いて、6ポイントのID証明書を提出するのだが、既に30人ほど並んでいた。

20分ほど待った時点で、大声で警備員(?)のような男が話しだした。

「免許登録のためのシステムがダウンしてしまった。あなたたちは帰ってもいいし、残ってシステムの回復を待ってもいい。しかし、先週起こった際は復旧まで丸一日かかった。自分の判断で決めてくれ。」

自分の前に並んでいた男は、「ここはいつもシステムダウンしてばかりだ。先週も同じことがあって、俺は帰ったよ。」と悪態をついていた。

MVC(自動車協会)のオフィスは大体評判が悪い。

無愛想な係官に、手続きの手違い、無礼な対応、大声で文句を言われ、いらだつ受験者達、と相場が決まっている。(試しに Google MapでMVC New Jerseyと検索してみるといい。1点評価ばかりで、最悪の対応だった、これまでで最低の経験だった、というような内容のコメントをどうやって英語で書けばいいか学習できる)

なるほど、確かにそんな感じだ。
とはいえ、自分は冒頭の理由もあり、1時間は待とうと決めた。
オフィスの中とはいえ、コートを着込んでいないと寒い。

(思わぬところに落とし穴があったな。)

仕事と生活基盤の構築に時間を割いてきた結果、運転免許は後回しになってしまった。
しかもこの試験、意外と落ちることで有名なのだ。
また、受かったとしても、本来日本の免許を持っていれば免除されるはずの路上試験が、課されてしまう人もいる。


  • 試験に落ちる
  • 試験に受かったが、路上試験をやらされる


この辺りが嫌なシナリオだなと思っていた(それに加えて、会場に着けない、または会場に着いたが、受付を締め切られて受けられないというリスクもあったが、これらはこの時点で既にクリア)

しかし、まさかのシステムダウン。

前の男は、「天候のせいだ。」と言っていたが、天候に左右されるITシステムに支えられた社会というのは、どうなんだろう。

ただ、アメリカに来てから2ヶ月、こういうことにたまに出くわす。先日は、郵便局がシステムダウンを起こしてCloseしていた。

持参した柿の種をぼりぼり食べながら待つこと50分ほど。
会場の左の方で歓声が上がった。
システムが復旧したらしい!
やった!

なぜか受けられること自体に喜びを感じてしまう。
ある意味でアメリカに慣れてきた証拠かもしれない。

(アメリカでは、社会手続き系の対応が全体的に悪い。いわゆる「お役所仕事の上から目線」というのとはベクトルが異なる悪さで、具体的には「入れ墨を腕一杯にしたおばさんが、ガムをくちゃくちゃやりながら、大声でナンバーを呼び、無愛想に書類を点検した上で、9番窓口へ行け、と言うのだが、9番窓口は間違いで、また30分列に並ばされた挙げ句、途中の手続きが抜けていた、と後になって別の窓口で怒られる」というような、レベルの低いものだ。まずコミュニケーションスキルと言われるものが、ほぼないような人たちが雇われている。ここでは、「お客様は、単なる人」だし、「手続きをしてやっている」という世界だ。それでも誰も怒らないし、むしろ気遣って、「Have a nice day」と言っている受験者すらいる(皮肉かもしれないが)。ただ、なぜか、IDチェックを終えてから入るシステムの登録を行っている人たちはまともで、コミュニケーションもしっかりしていた。採用の段階で入り口が異なるのかもしれない。)

さて、自分は6ポイントのIDを以下のように提出した。

  • パスポートとI-94
  • Social Security Card
  • Union BankのATMカード

さらに、住所確認書類として、
  • Union BankのBalance Statement(現住所宛に郵送されたもの)
を提出した。
これですんなり通ることができた。
(色々な人の体験談を見るに、IDチェックで突き返されてしまう人も多いようだ。)
パスポートでは、L1ビザの確認もされたので、そのつもりでいた方がいい。
(念のためビザ関係の書類も持参したが、それは要求されなかった)
また、
  • 日本の免許証
  • 国際免許証
を持参した。人によっては、日本の免許証の英訳と英訳証明書を提出するよう求められる人もいるようだが、自分の場合は求められず、運が良かったのだと思う。
担当官は、有効期限の「平成XX年」を西暦に直すのに苦労していた。

さて、その後、写真を撮影し、お金を払い、試験会場(別の建物)に移動し、目の検査を受けてからパソコンで試験を受ける。
パソコンでは日本語訳をつけることも可能で、念のため日本語訳付きで受けた。
実際は日本語訳が謎なことも多く7割英語、3割日本語という感じで解いたと思う。
50問出題されるが、分からない問題はどんどんスキップしていい(後になってもう一度出てくるらしい)。
40問正解した時点で合格。
10問不正解の時点で不合格。
一問解くごとに正解かどうか分かるので、分かりやすい。
自分は40問/40問で無事合格。(このためスキップした問題がリピートされるという仕組みは経験していない)

試験勉強をきちんとした甲斐があった。運転教習のテキストはMVCのHPからダウンロードできるのだが、200ページほどあり、試験問題はまんべんなく出題される。このため一通り読むことにしたのだが、大体3日くらいかかってしまった。

Webには練習問題と称するページが沢山あるのだが、いまいち的を射ていないものが多く、変に難しかったり、逆に簡単すぎたりする。また、古いページの場合、模範解答が古く間違っているケースもある(罰金などは頻繁に改訂されるので、古くなりやすい)。
ということで、以下、参考までに思い出せた問題を列記するが、もし参照する人がいたとしたら、これは2014年11月26日時点での問題である点に注意してほしい。

  1. GDLが運転できる時間は?(5:01AM - 11:00PM)
  2. 21歳以上のGDLが運転できる時間は?(時間の制約はない)
  3. GDLは監督下での運転練習が必要だが、この監督を行う人の条件は?(21歳以上、NJ州の運転免許を取得し3年以上の運転経験がある、前の座席に座っている)
  4. Special Learner Permitは何歳からか?(16−17歳)
  5. GDLのProbationary Licenseの有効期限は? (1年)
  6. Basic Driver Licenseは何歳から取得可能か?(18歳)
  7. Probationary License取得の条件は?(6ヶ月のsupervised drivingを行っており、その期間に違反なく、MVCの路上試験を合格し、17歳以上である)
  8. トラック等大型の車両の後ろを走るとき、車間距離を広めるとるべきなのは、なぜか?(トラックの運転手に自分が見えるようにするため)
  9. 路面の状況が悪いとき、普段より車間距離を広めにとるべきなのはなぜか?(can take to react)
  10. 消火栓から何フィート離れて駐車すべきか?(25フィート)
  11. 結婚等で氏名が変更になった場合、何日以内に届け出るか?(2週間以内)
  12. 他の州から引っ越してきた場合、車の届け出をいつまでに出せばいいか?
  13. アルコールの血中濃度(BAC )が0.05%のとき、リスクは何倍になるか(2倍)
  14. 1.5オンスのウィスキーは他のアルコールに換算すると?(12オンスのビール)
  15. 免許を偽造した場合、どのような懲罰を受けるか?
  16. スクールバスが学校の前で乗降をしている際、安全が確認できれば通り過ぎることができる。このとき、時速何マイル以下にしなければならない?(10mph)
  17. 上り坂で駐車するとき、車輪の向きはどちらに向けるべきか?(縁石と反対側 away from the curb)
  18. スケートボーダー、インラインスケーターは、何と同じ権利をもっているか?(動いている乗用車)
  19. 子供を乗せるときには、どこに乗せるべきか?(後部座席。後部座席がない車に限って、前の座席にすることが可能)
  20. 21歳以下のGDLはsupervised drivingを行う前に、何をもらうことになるか?(2枚のDecal(前後のナンバープレートに1枚ずつ貼付するステッカーみたいなもの))
  21. Uncontrolled intersectionで複数の車が来た場合、一般的なルールは?(自分から向かって右側の車に、優先権(RIght of way)を譲る(yield))
  22. 交差点にある横断歩道(Crossswalk)の近くで駐車する場合、何フィート離れるべきか?(25フィート)
  23. 交差点で道路と垂直に引かれている白い線では、どうすべきか?(白い線の手前で止まる)
  24. Turnする場合、何フィート手前でSignalを出すべきか?(100フィート)
  25. Railroad crossing when there flashing lights, ringing bells or flag signals, 運転者はどうすべきか?(15フィート離れて止まる)
  26. 路上で縦列駐車するときは、縁石から何インチまで離れてよいか?(6インチ)
  27. If a motorist is angry or excited, どうすべきか?(落ち着くまで車に乗らない)
  28. アルコールを体外に排出するのに効果的なものは?(時間をかける)
  29. Highway Hypnosisを防止するのによい方法は?(Not looking at one thing for more than a few seconds)
  30. 前の車との車間距離は時間にするとどのくらいが望ましいか?(3秒間)
  31. Skid(横滑り)を起こしたときは、どうするべきか?(gas pedal(アクセル)から足を離す。選択肢にはなかったが、その後、Skidを起こしている方向と同じ方向にハンドルを切る)
  32. Puddle(水たまり)に入ってしまった後、何をすぐにすべきか?(ブレーキのチェック)
  33. タイヤがパンクしてしまったとき(Tire blowout)、どうすべきか?(Gradually slowing down)
  34. NJ州では何年に1回車検をするか?(2年に1回)
  35. トラックの近くを運転する際に気をつけるべき点は何か?(広い死角(no zone)があること)
  36. 赤い逆三角形のマークは?(Yield)
  37. 夜間での走行では、いつでもどの程度の目安で止まれるように運転するか?(時速XXマイルでXXフィート以内)
  38. Signalを使うときはどんなときか?(曲がるとき、レーンを変えるとき、減速するとき、のすべて)
  39. コーナーを曲がるとき、車は自然とどの方向に行こうとするか?(真っすぐ)

ちなみに、MVCオフィスはLodiにあるオフィスである。

North Bergenのオフィスよりはまともである、との評判で、確かにシステムダウン等あったものの、結果として日本の免許で路上試験をパスできたので、相対的にはいい方なのだと思う。
大体滞在時間は4時間ほどだった。
帰る頃には、車に雪が積もっていた。

「免許取得初日から、雪道かー」

考えてみると、この日、人生で初めて雪道を運転したことになる。
無事に帰って来れてよかった。


これからニュージャージーは本格的な冬を迎える。

2014年11月10日月曜日

188. 位置を変えるということ




位置が変われば、視点が変わる。

それは物理的な意味でもそうだし、
人文科学的な意味でもそうだ。

ましてや言語、文化、政治、経済が異なる世界に身を置けば、
それは、そうなる方が自然だろう。

書きたいことが沢山生まれつつある。
(それは、主に、アメリカについてである)

理解したいことが沢山できた。
(これもまた、アメリカについてである。特に歴史と政治と人間について。)

また、新たに考える視点と支点が、次々とちらついている。
(アメリカを地域に分けてきちんと考えたい。モノクロニックとポリクロニックの対比も含めて、日本とアメリカを比較して理解したい。)

日本にいるときには、どうしても徹底できなかったことが、こちらでは自然とできる(というより、強制的にせざるを得なくて)ということもあった。
(車の運転が代表的で、次に酒量の減少と、体重の減少がある。また、当然ながら英語漬けの毎日で、夢を英語で見るようになってきた。)

組織への貢献と、自己研鑽は両立可能だ。
(これは、英語の運用能力という点で。また、自分自身の判断力、洞察力といった言語に属さないレベルの力もそうだ。)

また、異なる文化圏への適応は、一人旅でのノウハウがそのまま通用することも分かった。
(クレーム対応で何度電話をかけたり、店と交渉したりしたか分からない。粘り強さと、積極性は、旅でも海外での生活でも必須だと思う。)

日々がサバイバルで、気を抜けない。
まだ、仕事では確信が得られるような働きをしていない。
作戦を考えよう。ひとつひとつ実行しよう。
休むときには休もう。
旅に出よう。

今はまだEver Noteと頭の中にあるが、ぼちぼちここに出力していきたいなと思う。

2014年10月24日金曜日

187. Breaking News

本日、2014年10月23日―

New York Cityにて、初のEbola感染者が確認された。
ギニアで、「国境なき医師団」の一員としてEbola患者の治療に当たっていた、33歳の医師である。

先ほど、9:45頃よりNYCの公式会見があり、患者のこれまでの経過や他者との接触度合い等について、NYC市長のBill de Blasio、NY州知事のAndrew Mark Cuomo、そして患者が入院している病院の医師から説明があった。

このBreaking Newsを、NYCからハドソン川を挟んで対岸にある、West New Yorkという街で見ている。
それが現在の自分である。

9月26日にアメリカに入国してから、ほどなくしてTexas州のDallasにて米国で1例目となる Ebola感染者が確認された。リベリア人の彼は、その後、不幸にも死亡することになる。

次いで、2例目と3例目が、リベリア人の治療に当たっていた看護師から確認される。
このうち1名は、結婚式の準備中で、感染成立後にウェディングドレスを試着したり、移動が多かったため、連日ニュースではその行動範囲が取沙汰されていた。

その間にも、Kansas cityでEbola疑いの患者が報告されたり、
ペンタゴンの近くで嘔吐した人がEbola疑いで隔離されたり、
New Ark airportで嘔吐した乗客がEbola疑いで隔離されたり、
と各地でEbolaパニックが続いていた。

「やがてくるのだろうか?」
ニュースを見る度に、感じていた予感は、
現実となった。

アメリカに入国してから1ヶ月もたたないうちに、自宅からわずか30分の距離まで、近づかれてしまった。
これが、現代の感染症の怖さだ。人の移動のスピードが速い現代では、潜伏期間の長い感染症は急速に広まってしまう。Ebolaは21日間ほど潜伏するらしい。この間、人は自由に動けてしまう。

以前のような、西アフリカ限定的な「局所的流行」から、今回のような「世界的流行拡大」に至った最大の理由は、このような症状がない状態、もしくは弱い状態が伸びたため、と思われる。ある意味、症状が弱くなった結果として、拡散(=被害)が加速した、と言える。

Ebolaは基本的に接触感染するタイプで、患者の体液、吐瀉物、排泄物、患者本人の体などに触れなければ感染しないとされている。
このため、Ebola患者と接触する医師や看護師が、二次感染者となりやすい。
今回のNYCの感染者も医師である。

この「医療従事者」という一定範囲から、社会的な接触レベルで感染が広まってしまうようになると、非常にまずい状況になる。

NYCの会見では、医師による経過の説明があった。
  • 患者は、10月17日にJFK国際空港に到着した。(実は、僕は前日の16日にJFK空港からDenverへと飛び立っている。1日違い(!)もちろん空港は広いし、ターミナルが違えば接触などありえない。とはいえ、これが現実なのだ)
  • 患者は医師であり、Ebola感染者と接触していたことから、自身がハイリスクにあることを認識していた。このため、一日二回体温を測定し、自らモニタリングしていた。
  • 患者が接触したのは、非常に限られた範囲の人間であり、フィアンセと、友人二人が直接的な接触があった。彼らは、現在隔離されている。
  • 患者のマンションも現在立ち入り禁止となっている。
  • 患者が最初に感じたのは、疲労感であり、Ebola対策センターのある当院に検査入院した。
  • Ebolaは症状が現れてから、他者への感染リスクが高まる。患者が発熱したのは、本日(10月23日)の朝が初めてである。従って、状況は幸運にもよくコントロールされていた、と考えられる。(本日朝、という点を強調していた。つまり、既に病院内に隔離された後に、感染可能状態になったので、公共へのウイルス暴露は事実上ほとんどないですよ、と言いたいのだ。)
会見に かじりつきながら、僕は2011年3月の福島原発事故後の政府会見を思い出す。
あの時も、パニックが起きないことを最優先とした会見が行われた。

「ただちに影響はない。」
繰り返し使われたこの言葉に、「じゃあ、いつかは影響があるのか?」と聞き返したくなったことを思い出す。

政府は、緊急事態に直面した際、混乱を避けるため、まずは「影響が深刻ではない」ことを発表する。次いで、「我々はコントロールできている」という説明をする。アメリカでは、さらに「我々は 自信を持っている」という台詞が加わる。
なるほど、これがアメリカか。

NY市長の Bill de Blasioは、英語での説明の後に、スペイン語で(恐らく同じ内容の)説明を繰り返した。彼の出自を知らないのだが、 ヒスパニックが非常に多い国であることを考えると、このような会見は効果的なのだろうな、などと冷静に思ったりする。

西アフリカでは既に4800人以上がEbola出血熱で死亡している。
事態は決して楽観できない。

富士フイルム(の小会社となった大正富山の)インフルエンザ治療薬が、Ebolaに有効かもしれない、というポジティブなニュースもあった。

しかし、本当に今後、どうなっていくのだろう?事態は無事収束していくのだろうか。
アフリカで恐らく数千人がEbolaに感染しているが、医療従事者が防護服を着ても防ぐことが難しい状況で、この数千人を治療するのに十分な、「勇敢な医師」は存在するのだろうか。

仮に、万が一、不足していた場合、どうなるのだろう?
想像には限界がある。

まずは、患者の医師の回復を祈るばかりだ。
そして、今後の三次感染が確認されないことを祈りたい。

2014年10月6日月曜日

186. New Jerseyにて その2

New Jerseyでは、車がないと生活できない、と言われている。
それは、お店が車でしか行けない距離に点在しているためだが、距離だけの問題であればバスを使えばクリアすることができるのでは、と考えていた。
また、お店に歩いていけるくらいの場所に住めばいいのでは、と考えていた。

しかし、どうやらそれだけではないようだ。
僕たちは、River Road沿いにあるHomewood Suiteというホテルに滞在しているのだが、ここから、日系スーパーとして有名なMitsuwaまで歩いて行ってみた。(ここはその昔、ヤオハンというスーパーだったらしい。ヤオハンは、僕の故郷 静岡県三島市にもあり、今となっては懐かしい存在だ。バブル期に海外展開も含めて過剰出店して、結果倒産してしまったのだ。しかし、NJ州では、その後継店が今でも大人気なのである。NJに住んでいる人でMitsuwaを知らない日系人はいないものと思われる。)

大体、25分かかって到着。
写真を撮りながら、1歳児を連れながら、ということで大人一人であれば15分くらいの距離かと思う。
車道にはところどころ切れているものの、歩道がある。
道沿いの店に入ってくる車に気をつけながら、それでも比較的苦労なく、Mitsuwaに到着。

しかし、そこで問題に気づいた。
お店に入ろうと思っても、歩道がお店まで通じていないのだ。
道路から店に向かって伸びているのは車道のみで、歩行者はどこから入っていいのか分からないような造りになっている。
(歩道が道路から店につながっていないため、一時的に車が出入りする車道を、1歳児をつれて、ベビーカーを引いて入る必要がある。とても危険だ)

なるほど、「NJでは、車がないと生活できない」と聞いていたが、それはもはや建物や敷地の造りにまで反映されていることがわかった。
こうなると、車生活を始める以外に選択はない。

会社の規定で、日本人赴任者は必ず運転講習を受けることになっている。
昨日早速受けてみた。

元々、日本でもペーパードライバーで、運転はうまくない方だ。
駐車では5〜6回切り返すのが平均である、と言えば大体程度は知れるだろう。
奥さんの方は、日本で免許をとりたてで、免許取得後に公道に出たのは1度だけという経験値である。

この二人が、15分ほどの説明後、いきなり公道を走ることになる。
まず、日本と比べて勝手が違うのは、

  • 左ハンドルである。
  • 結果、ワイパーとウィンカーのレバーが逆であり、左折、右折するたびに、ワイパーをまわしてしまう。
  • 右側通行である。
  • 結果、左折が対向車線を跨ぐことになり、日本で言う右折と同じような気の使い方になる。逆に、右折は日本の左折と同じで、最小半径で回るようなイメージである。
  • 危ないのは、左折したときで、このとき気をフッと許すと、日本と同じ左斜線に入ってしまい、対向車と正面衝突をするということだ。これをやった日本人がいた、と会社の先輩には聞いている。
といったところだ。
さらに、アメリカ特有と思われるのが、

  • Yieldというルールがある。これは、大きな道路に小さな道路から入るときに、ちょうど高速の入り口のように、道がカーブして接続しているところがある。ここに逆三角形のYieldという表示が出ている。これは、自分の道の方が優先権が低いため(正確には、yieldとは「優先権を相手の道路に譲れ」という意味であり、結果、この標識を見た側の優先権は相対的に合流する道路より低くなる)、合流する道路にいる車の動きを見て、車がいなければブレーキを踏まずそのまま合流していいが、車がいた場合は、徐行して合流するように、という意味である。このYieldの効用は、信号が不要であり、一時停止も車が少ない限り不要であることから、ガソリンと時間の節約になるというものである。ある種の合理性を感じるルールだが、運転が不慣れな自分にとっては、あまり嬉しくないルールだ。躊躇して一時停止してしまうと、後ろから衝突されるリスクがあるし、逆に合流する相手の道路状況を見間違えて行けると思うと、側面からぶつかるリスクがある。これを動きながら判断しなければならないので、運転の下手な自分としてはYieldサインを見るたびに、またか、と思うのである。
  • No turn on redという標識がある。これを理解するには、まずTurn on redという概念を理解しなければならない。NJでは(もしかすると全米でも?)、赤信号であったとしても、右折は可能なのである(!)前述の通り、米国での右折は日本の左折であり、対向車に邪魔されることなく曲がることができる。このため、交差点で自分から見て左から来る車がおらず、かつ歩行者が横断していないのであれば、例え赤信号であっても右折してよい、ということになっている。Turn on redのTurnとはTurn rightという意味なのだ。これは、運転教習の教官曰く、オイルショック後にガソリン節約のためにできた法律である、とのことだった。つまり、右折しても実質的に危険がない状態であれば、アイドリング(これがガソリンを無駄に喰ってしまう)をさせないで、曲がってしまってよい、というようにルールを変えてしまったのだ。日本では、アイドリングストップ車というように、「技術」でこのガソリンの無駄遣いを防いだわけだが、米国では、「法律」で防ごうとしたわけである。なんというか、こういうのをカルチャーショックというのかな?と思う。Turn on redはあくまで自己責任であり、歩行者を見落としてしまったら事故につながってしまうわけで、日本では、こんな改正法案は、改悪法案としてみなされてしまうだろう。ここらへんが、根本的に日本と異なる。背後には、「個の価値観の優先度」「安全への意識の違い」「合理性」などがあるように思う。さて、話を標識に戻すと、Turn on redという標識は存在しない。この概念は「標識に表示されていなくても、当たり前のこと」なのだ。このため、この常識が禁止されている箇所にだけ、No turn on redという標識を掲げている、ということになる。この標識がある交差点では、たとえ赤信号であっても、右折をしてはならない・・・!というのは、日本人からすると「いつも通りにしていればよい」ということだ。むしろ、この標識がない場所で、赤信号で自分が先頭で右折のウィンカーを出しているときに、歩行者もおらず、左から来る車もいない場合であっても、日本の感覚からすると、右折はしないのだが、そうすると、後続車から非難囂々なのだろうな、と思ったりする。

2014年9月27日土曜日

185. New Jerseyにて

今日から米国である。

9月26日 16:50に成田を出発し、同日の16:30頃にNYCのJFK空港に到着した。
フライトが大体13時間かかる上に、時差が13時間あるため、出発した日時とほぼ同日時に到着することになる。これが、アメリカ東海岸側の特徴だ。

通常家族帯同で赴任する場合、夫が先に出国し、家を決め、一通りの生活基盤を整えてから(1ヶ月後くらいに)妻と子供が出国し、現地で合流するというのが一般的らしい。

しかし、我が家はまだ手のかかる1歳児がいるため、「家族同時に出発」という道を選んだ。

結果、11箱の段ボールと衣装ケースを手荷物として移動させることとなった。かなり大荷物で、カート一つには載りきらない。成田空港でも、JFK空港でも、またホテルでもちょっとした引越作業の様相を呈していた。

ただ、いずれの場所でも、手助けしてくれる人はいて、特にJFKでは6ドルかかる手荷物カートを2台も貸してくれて、かつ、税関まで一緒に通ってゲートまで荷物を運んでくれた人までいた。(全日空所属と思われる白人の方だった。また、同じく全日空所属と思われる韓国人の方も荷物の積み込みに手を貸してくれた。この人たちがいなかったらと思うと、ぞっとする。最後に、Welcome to US! と笑顔で言っていただけたのが印象的であった。本当にありがとうございました。)

僕はL1ビザというもので入国したのだけれど、通常のimmigrationとほとんど変わらないような手続きで入国できた。聞いていた話では、通常のカウンターとは別にimmigrants用のカウンターでビザ関係書類の提出が必要とのことだったのだが、特に書類を提出することもなく通り過ぎてしまった。

担当官には書類の提出は不要かと確認したのだが、全く必要ない、とのことであった。
ルールが変わったのだろうか。謎である。

さて、米国には出張や学会で5回ほど来ている。そのうち、3回は支社のあるNJ州だ。
というわけで、ちょっとは地理や習慣を見知っているつもりになっていたのだが、やはりまだまだ全然であった。

今日学んだこと。

  • レストランでチップを払うときには、レシート(兼 支払い明細書)上にチップ代を明記しないといけない。普通のレストラン(というか、Bear's Burgerというハンバーガー屋)では、チップの相場は、15, 18, または20%であった(レシート上に選択肢と、それぞれの金額が印字されている)。サービスへの満足度に応じて選択する方式だ。僕は、チップ代を含めて多めに渡したのだが、レシートへのチップ代の記載をしなかったため(正確には、20%に丸をしたのだが、それでは通じないらしく)、見事にチップ分のおつりが返ってきてしまった。
  • 1ドル未満のコインの使い方が下手である。コインの種類を覚えた上で、少し練習しないと咄嗟に払えないように思う。これは聞き取りの問題も含まれる(さらりと言われる2桁の数字を正しく捉えないといけない)
  • 大抵、レストランでは食事中にEverything is OK?的なことをスタッフから聞かれる。このとき、つられてOKとかGoodとか言うのだが、アメリカ人を観察していると、Perfetct!とか、割と大きなリアクションでほめていた。なるほど、うまいと思っているときには、あれくらいのリアクションをしてもいいかもしれない。(今日行ったBear's Burgerという店は確かにうまかった。)

小さなこと、些細なことでも、勉強だ。
まずはアメリカ生活ってこんなかんじ、というのを自分の中で咀嚼できるよう、ひとつひとつ意識して理解していこうと思う。

2014年9月23日火曜日

184. Rockstar

A Great Big WorldのRockstarがとてもいい。
写真新世紀の会場でかかっていた曲で、あまりにいいので歌詞を聞き取り、検索して探し当てた。今日、それを聞きながら引越作業をしている。この時間サイクルの短さが、現代らしくて心地いい。

さて、明日には荷物を搬出し、金曜日9月26日には、いよいよ出国だ。

先日、米国支社で上司になるVice Presidentと1 on 1でミーティングをした。
相手のExpectationを確認するために自ら申し込んだものだ。

いろいろと聞いたけれど、何より心に残っているのは、
「Excitingしているか?」
という一言だ。

楽しめよ、ってことだろう。
そうだよなぁ。そういうものだってことだろう。

いろいろと不安はあったり、焦りはあったりするけれど、もうここまで来たら、やるしかない。

興奮と勢いで、あらゆるボタンを押してこよう。
前向きに、真剣に、そして楽しむ。
気分は、Learnerだ。何もかも、先生にしてしまおう。

突き抜けた先に、どんな世界があるのかは分からない。
けれど、踏み出そう。アクセル全開で。

(ただ、事故には気をつけないとなぁ。New Jersey州は事故が多くて有名だ。)

2014年9月13日土曜日

183. Farewell party

大使館面接も無事終わり、後はビザの発給を待つだけだ。
引越の準備はまだまだだが(自作の壁を壊さなければ)、不要品の回収は大体めどがつきつつある。
あとは、郵送の転送設定に、引越の荷造り、そして友人・知人へのお別れの挨拶である。

ここ最近、会社の同僚や同期、写真サークルの友人達とお別れ会を開いてきた。
今日は写真サークル仲間とのお別れ会だった。
このサークルの参加者も、徐々に代替わりしてきて、もう僕の年代はピークアウトしてしまっている。サークル本体に出ても、もう僕にとっての「いつものメンバー」は、あまりいない。

その点、今日の会は、「いつものメンバー」でほっとした。
天気もよくて、清々しい。
出国前に会えてよかったなと思う。

ふと、「人狼ゲーム」をやっていたことを思い出す。
まだ子供が生まれる前で、時間にゆとりがあったとき、
4年くらい前だろうか。最低でも8人程いないと成立しないゲームである。
みんな、時間があったのだ。
そういう人生の余暇の時期だったのだと思う。

やがて、結婚し、子供が生まれ、転勤があり、と大きな転機を迎え、場所を変え、時間の過ごし方も変わっていく。

人狼ゲームは疑心暗鬼になる心理を楽しむ、という緊迫感のあるカードゲームだが、今となっては、「懐かしい」と思う。

懐かしさは、「安心感」を伴う。なるほど、僕も随分と人間らしくなってきたものだ。

2014年9月8日月曜日

182. やってみよう。一生懸命。

10月1日より、米国に赴任することが決まった。
これから約20日後の9月26日には引越で、米国に向かうことになる。

世界的に見て、臨床開発が最も盛んで、進んでいるのは米国だと思う。
これは、9年前、今の会社に入社する前から知っていたことで、「いつかは米国で挑戦したい」と思っていた。
その小さな夢が叶いつつある。


いよいよ仕事人生、第二幕。
勝つか、負けるか。
五分五分といったところ。
不安と緊張で、息が詰まる。

実際に行くことが決まり、具体的にその日が近づくと、
こんな疑問がふと頭をよぎる。


「通用するだろうか?」


海外で活躍するスポーツ選手も、渡航前にはこんなことを思ったかもしれない。
なんて、そんなスター達に比べるにはあまりにも些末なサラリーマンだが、それでも、どうしたって重ねてしまう。別にいいだろう、脳内の話である。

非ネイティブで、留学経験なし。
帰国子女というわけでもない、純国産製の32歳。

英語は、この履歴から考えると、そこそこだと思う。
TOEICで900点は超えている。
しかし、実際のところ、どうだろうか。

冷静に「引き」で見てみると、恐らく、「スタートラインに立てているかどうか」という程度に過ぎないように思う。
英語に不安がない、と言えば嘘になる。
900点という点数はその程度だ。
きっと、例えば米国でMBAを取得した人などからするとよくわかるだろう。
TOEIC 900点は、その程度なのである。

仕事は、あちらでも、臨床開発を担当する。
新薬の開発である。

今と同じ種類の仕事だが、文化的な要因が強い職種でもあり、勝手が違うのは明らかだ。
また、非常に言語に頼った仕事である。
すごくざっくり言うと、20%がサイエンスで80%が言語で出来ている、と言っても過言ではないくらい、言語に頼った職種である。

アメリカ人同士の手加減の一切ない会話の中で、自分はついていけるだろうか?
なにがしかの貢献(つまり、米国人のチームに喜ばれる、よい働き)はできるだろうか?
組織の信頼を得ることはできるだろうか?

電話会議で、「日本人向けに手加減した英語」の中であれば、特段の不都合はない。
しかし、彼らの世界の中で、彼らと同じ土俵に立ったとき、自分はどこまで「通用するのだろうか?」というのは、本音のところではわからない。

恐らく、五分五分だ。

アメリカ人の中で、アメリカ人と比較される競争社会。
恐らく、始めは負けばかりだろう。
それで挫折してしまう人もいる。

うーん。
超微妙。
自分はどうだろうか?
お前はどうなんだ?

一朝一夕で突然成長することなんてない。
だからこそ、ある程度覚悟しておかなければならないのだろう。

答えは簡単だ。
自分の気持ちを、
心構えを整える。
そして、ベストを尽くす。
それだけだ。

なんだかスポーツ選手みたいなことを言っているな、と思う。
だが、しかし、結局根本のところは、スポーツと同じなのだ、とも思う。
(だからこそ、スポーツがこんなにも人の心をつかむのだろう。そういえば、2014年9月6日、錦織圭が、日本人というか、アジア人初のUSオーブン決勝進出を果たした(!)実はベスト16に進む試合は、アメリカで観ていた。と言っても、テレビだけれど。それでもリアルタイムだった。世界4大大会におけるベスト16進出は日本人としては96年ぶり、ベスト8進出は92年ぶりらしい。そして、決勝進出は、アジア勢初。なんという素晴らしさ。彼の「粘りのテニス」は、心を打つものがある。決してサーブが速いわけではない。「Marathon man」と言われるように、彼は長期戦に強い。なるほど、そういった点でも見習いたいなと思う。また、ボクシング、フライ級の八重樫の試合。こちらは負けてしまったが、それでも心を打つものがあった。彼は王者で、挑戦者を迎え打つ立場だったが、相手は、3階級制覇を狙う天才ローマン ゴンザレス。素人目に見ても、明らかに次元の異なる相手に、八重樫は、戦いに戦い抜いた。テクニックで勝てないと判断すると、打ち合いを選び、本当にふらふらになるまで戦い抜いた。その姿勢は、闘志そのもので、がんばれ、がんばれ!と応援せずにはいられなかった。八重樫は負けた。しかし、観客は惜しみない拍手を送った。僕は、別にボクシングのことは詳しくないけれど、これが特別な試合であることは理解できた。そして、八重樫という選手を覚えることになる。一つ下の彼に、心から敬意を表したい。)

気持ちがあって、
心があって、
努力をする。

このシンプルな連鎖を、丁寧に、本気でやる。
これは、スポーツでも、仕事でも、人生でも、全部に言えることなんじゃないか?
そんな風に思っている。


最近、自分の中で、「グローバルに通用するもの」は何だろうか?と考えている。

例えば、アメリカには日本人の美容師が少ない。
その現状を知り、「もし日本人の美容師がいれば、間違いなく通うのだが」と思ったとき、なるほど「美容師の技術は、国を超えるグローバルなものなのだな」と思った。
もちろん、顧客はアジア人が多くなるのかもしれない(その意味でどこまでグローバルかという議論はあるにせよ)が、少なくとも「髪を切る」その動作は、どんな国であっても再現可能であり、その点でグローバルなのだ。

また、経済から見ても、少なくとも、日本人コミュニティーがある地域においては、日本人美容師は確実に生き延びることができる。

例え言葉に問題があっても(英語が片言であったとしても)、日本人コミュニティー、韓国人コミュニティーなどに知られれば、安定的な顧客を見込むことができるからだ。
(なんせ、アメリカの美容師には、直毛をカットする技術がない。変な角刈りになる。そのことを分かっている日本人駐在員は、日本人に切ってもらいたいし、その人数は一つのマーケットを形成する。日本人美容師のみなさん、Come on!)

さて、上記のようなことを考えたとき、美容師の仕事の大半は、「非言語の技術」で構成されていることに気づく。
この点でスポーツや音楽に近いと言えるだろう。
そして、スポーツや音楽に国境がないように、美容師の技術にも国境はないのだ。
従って、彼らの職能は、グローバルに通用する、ということになる。


さて、翻って、自分はどうだろうか?
英語は、通用すると胸を張って言えるほど大したレベルではない。
(入り口に手をかける資格くらいはあると思うが)

臨床試験の知識も、国が変われば、規制も変わり、ビジネス習慣も異なる。
(もちろんベースの部分では、共通であるが)

そうなってくると、後は、「一生懸命さ」「勤勉さ」「仮説思考」という、本当に根本の部分しか残っていないことに気づく。

これは大変なことである(!)
まるで、一回生まれ変わるような、そんな変化と言ってもいいかもしれない。

しかし、だ。
言わせてもらおう。
これこそ、自分が望んでいたことなのだ。

繰り返す毎日、
刺激の少ない日々、
退屈な時間。
そんな時間を吹き飛ばすような刺激を!

安寧の日々から、
激動の毎日へ。
やってやろうじゃないか。

まずは、できることを一生懸命しよう。
初めはバカにされるかもしれない。
恥ずかしいことなんてたくさんあるんだろう。

・・・ちくしょう。
今に見てろよ。

僕は、いつだって、負け犬からのスタートだ。
そう思ってきた。
静岡の片田舎で、ちくしょう、とつぶやいていた頃から、
僕は変わっていないことに気づいた。
そうだ、そうだ、そうだった。
これこそが、自分のスタイルだ。
負け犬であり、挑戦者だ。

負け戦、最後には絶対勝つ。
これが、僕本来の信条である。


のんだ

2014年8月13日水曜日

181. 今更ながらEvernote

世の中の流れについていっていない証拠のようで恥ずかしいのだが、今更ながらEvernoteにはまっている。
既に利用している人にとってはつまらない情報だが、以下が概要。


  • Evernoteは、クラウドベースのメモアプリ
  • iPhoneでも、iPadでも、iMacからでもアクセスでき、入力も閲覧もシームレスにできる
  • メモをとる(テキストを入力する)だけでなく、メモに写真を挿入することが容易にできる
    • アプリ上でできるのがミソ。このため、例えばラーメンの写真を撮るときに、ラーメン店の名前を入力し→写真を撮って→食うというワークフローが実現する。これまでは、写真を撮って→食って→後日ラーメン店の写真を見ながら店名を思い出して、しかるべき場所にUpするという行程だった。当然完結まで時間がかかるし、めんどうで、やり忘れて、写真だけがたまっていく。
  • チェックリストがすごい便利。日々、手帳で管理していたaction itemがすべてiPhoneでできるようになった。
  • いつでも持ち歩ける安心感。ID関連の備忘録にも威力を発揮。(ただしセキュリティ面でやや不安なので、暗号で記録している)
  • 写真とテキストの組み合わせで、デジタルスクラップが容易にできる
    • 雑誌で気になったページだけ撮っておき、捨てることができる
  • 英語の勉強でも効力を発揮。手書きでメモったノートを写真で撮っておく。要点はテキスト入力でまとめておく。見返しやすいし、なくさない。まだやっていないけど、音声メモも添付可能。
  • 専用のメールアドレスにメールを送るだけで、Evernoteにノートを作れる。どこからでも、「とりあえずEvernoteに入れとくか」のような使い方が可能。
  • 結果、Evernoteは第二の海馬として、機能する。


これぞクラウドサービスというアプリだなとつくづく思う。
これに、スケジュール管理のアプリ「SnapCal」を組み合わせることで、紙の手帳が完全に不要になってしまった。

結果、これまで8年以上愛用してきた、フランクリン手帳と決別することとなった。
最近は、紙媒体の書籍も極力買わないようにしている。
iPadで電子書籍を読み始めると、紙より快適であることに気づいたからだ。
また、クラウドベースで利用できるので、いつでもどこでも身近にある、という感覚がある。

ここ数ヶ月で急速に身の回りが電子化されてきた。
こうして、少しずつ、身の回りのモノを減らしていきたいと思う。
目指すは、現代のノマドのような、ミニマルな生活だ。

(しかし、他方で、デジタルデータへの依存度が高まれば、その分だけ、デジタルデータのバックアップが問題になる。今は写真については、外付けHDD 2TB ×3台体制で、ある意味力づくでバックアップしている。また、Mac自体はタイムマシーンで常にバックアップしている。これに加えて、クラウドストレージを利用すればさらにリスクは抑制されるだろう。結局、根本的な思想として、ノマド的な発想までには至っていないのが実情だ。
それにしても、もっとスマートな方法はないのだろうか。。)

2014年6月29日日曜日

180. レンズが欲しい。

7月に山形の実家に帰省する。
こういった機会(旅行)にかこつけて、レンズが欲しくなってしまうのは、もう持病みたいなものだ。

今、メイン機種はCanon EOS 6Dで、以下のような布陣をとっている。

標準ズームレンズ(24-70mm F2.8L USM)
広角ズームレンズ(17-40mm F4.0L USM)
望遠ズームレンズ(70-200mm F4.0L USM)

旧型の大三元と、小三元の組み合わせ。
単焦点は、

ULTRON 40mm F2.0
EF 40mm F2.8
EF 50mm F1.8
EF 50mm F1.4

と標準域に偏ってしまっている。

さて、焦点距離としては、17mm - 200mmまで一応カバーできているので、大抵のものには対応できるのだが、複数のLレンズを1歳7ヶ月の子供を抱っこしながら持つのは正直しんどい。

かと言って、フォーマットをフルサイズから下げるつもりもない。

最近、Lightroomで管理する上で、「カメラは一つ」にすることが大事だと思っている。
複数のカメラからばらばらに写真を読み込むと、一度セレクトを終えたはずのフォルダにまた新しい写真が入り込んできてしまい、三途の河原状態になってしまうのだ(何度も何度も写真の選別を繰り返すことに)。

ということで、「One Camera」を優先するとすると、カメラを使い分けるという選択肢がなくなってくる。例えば、最近流行の大型撮像素子(1型以上)のコンデジでズームをまかない(つまりズームで撮るものは、そこそこ品質で我慢する)、フルサイズ機にはコンパクトな単焦点をつける(メイン機種は画質重視)、という戦略は取りづらい。

カメラを一つにしなさい、と言われたらやっぱりフルサイズのデジタルカメラとなってしまうのだ。
(撮像素子が大きいほど画質としては望ましいが、中判は価格的にフイルム機以外は手を出せない(60万円〜)。しかし、フイルム機をメインにするのは、今のワークフローから考えるとかなり難しい。となると、デジタルで手を出せる最大サイズのフルサイズがメインとなる)

となると、EOS 6Dにつける「レンズ」を工夫するという方向になる。
これが、レンズ交換式カメラのビジネス原理であり、かつマウントによる制約を受けた購買行動となる(と分かっていてもやめられないのが・・・)。


さて、最近タムロンから、28-300mmのフルサイズ対応レンズが発売された。
いわゆる高倍率ズームで、画質を重視すると最も選択されないレンズなのだが、上記のようなニーズには完璧に合致している。

先日ヨドバシカメラでニコン用ではあったが、触る事ができた。
実は過去、タムロンの高倍率ズームレンズを使用していたことがある。まだ、PENTAXのK200Dをメインで使用していた時期だ。
(余談だが、今はタムロンがPENTAXのOEMとして高倍率ズームレンズを出しているので、「PENTAX機でタムロンの高倍率ズームレンズ」という組み合わせ自体が今となっては昔の話である)。

店頭で久しぶりにタムロンのレンズを触ると、そのときの感覚がよみがえってきた。

「そうだった、そうだった。こんな感じで軽くて、伸びて。」

似ている部分もあるのだが、当然進化も感じられた。
昔(2008年頃)のように、下を向けるとレンズがだらしなくズルズルと伸びてしまう、というようなことはなくなっていた。簡易防滴とあるように、鏡筒の組み込みはきっちりしている印象だ。また、トレードマークの金の輪っか(これが如何ともしがたかった・・・これが嫌で手を出さなくなってしまった)が、やや黒っぽいグレーとなり、全体としてシックな印象になった。

つまり、確実に質感性能・デザイン性能はアップしているということだ。
AFも悪くないし、手振れ補正も効いていると思った。

ただ、欲を言うと、なんというか「高揚感」のようなものがないのだ。
軽いレンズを求めておきながら、矛盾しているのだが、レンズが軽いとどうしても「いいレンズ感」が下がってしまうのだな、となんとなく思ってしまった。

(なお誤解を避けるために書くと、タムロンのこのレンズは大ヒット中である。ヨドバシカメラでは6/26入荷〜6/28の三日間で全店で完売になってしまったとのことだ。特にキヤノン向けは、純正の28-300mmが1.6kgを超える巨漢レンズであり、値段も25万を超えるという「一般市民にとっては事実上存在しない」という状況であることから、フルサイズ機のライトユーザー(自分も含む)には待望のレンズとなっている。この焦点距離をカバーして、かつ、フルサイズのイメージサークルもカバーして、その上540gと計量で、6万円台というのはやはりすごいCPだ。従って、総じて「いいレンズ」なのである。)

と、そこで、手に取ったのがSigmaの35mm F1.4 DG HSMである。
新生SigmaのArt line(芸術作品での使用を意図した光学性能重視ライン)の一番頭として登場したレンズだ。フラッグシップと言われ、「最高」の概念を覆すとまで喧伝された。

現在Art lineには標準域の50mm F1.4 DG HSMもラインナップされている。こちらも光学性能ではカールツァイスのOtus(40万円超のMF専用レンズ。標準域のレンズではほぼ世界トップクラスのレンズ)と、光学性能で、そこそこいい勝負をすると評判だ。

自分は50mmの方が、主題を明らかにしやすいという意味で、好きだ。
50mmには詩的なものを感じる。
しかし、家族との写真となると「やや狭いな」と感じてしまう。

(なお、広角になるほど、多くの景色が画面に入り込み、結果状況説明的となり、記録的となってくる。もちろん、建築や室内空間など広い対象を主題にした写真であれば問題ない。一方、より望遠になると、メインの被写体以外が入り込む余地がなくなり、主題を際立たせることができるが、一方で、状況が分かりづらくなり、家族写真としては微妙になる。標準域(40〜50mmくらい)はその間を取り持ち、状況と主題の双方に手を出せるが、結果、中途半端になりやすいという面も持つ。)


例えば、テーブルを挟んで家族を撮ることを考えると、50mmの場合はまずテーブルが入らない。どこにいるのかあまり分からない写真になってしまう。一方、35mmの画角の場合、テーブルの上が入り、料理と一緒に撮る事ができる。
撮る被写体が変わってきたということか。

また、既に50mmは2本持っているということもある。
これらを考え合わせると、自然と、35mmが気になってくる。

触れてみると、鏡筒の造りが非常にいいことに気づく。
高級感がある、滑らかな表面処理。
また、フォントも含めて、プロダクトとして美しいと感じるデザイン。
そして、開放から安定して使える芯のあるピント面。
なるほど、確かにDxO mark scoreでも高評価を得るだけあるなぁなどと思う。
やや彩度の低い写りをする、渋みのある絵作り。
華やかさよりも、透明感を重視している印象だ。
30cmまで寄れる最短撮影距離。これならテーブルフォトにも十分使えるだろう。

総じて「使ってみたいと思わせる何かがある」と言える。
Sigmaは現在の山木社長になってからか、随分と変わったなと思う。
何か一つ吹っ切れたような印象がある。

Productへのこだわりや誇りに溢れ、
また、それが思想として立ち現れているような。

Foveonセンサーを搭載した、DPシリーズもそうだ。
最新機種のQuattroは、現代彫刻のような造形をしており、未来のカメラのようで好感を持てる。(ただし、エルゴノミクス的に握りやすい形状かと言うと、そうでもない)

このQuattroとSigmaの新シリーズのレンズ群は、確かに並べてみると、「ある一つの設計思想に基づいた作品群」という気がしてくる。
端的に言えば、Apple製品に近い。

一つ一つの形状は異なっても、共通する何かがある。
それは、Sigmaが提唱するGlobal Visionというものなのだろう。
いやはや変わった。改めて思う。

さて、35mm F1.4 DGは665gである。
35mmでおおよそのことは撮れるとしても、やはり広角と望遠を用意したくなる。
羽黒山の杉林に五重塔がそびえ立つ様子は、35mmではやや狭いだろうし、日本海に沈む夕日は150mm以上で撮りたいだろう。それが人間というものである。

となると、
広角ズームレンズ(17-40mm F4.0L USM)475g
望遠ズームレンズ(70-200mm F4.0L USM) 705g
と併用することになるだろう。
総重量、1.84kgか。6Dが電池込みで755gなので、約2.6kgか。
これに計量の三脚など諸々をつけると、4kgは超えてしまう。

あれ、なんで新しいレンズを買おうとしていたのだっけ?(→ 一行目に戻る)

2014年6月2日月曜日

179. 嵐が去って

怒濤の1ヶ月だった。
突発的な出来事と、それに引き続く事後対応に追われ、追われ、追われに追われた。
そして、ようやくここに来て普通の土日を過ごせるようになった。
とりあえず、お疲れさま。>自分とチームのみなさん

それにしても、自分の仕事人生(と言っても、まだ8年と少しに過ぎないが)で一番集中していたように思う。朝4時まで仕事・・・というのも初めての経験だった。

こうしたピークをなんとかしのぎ切って、一段落すると、
まるで「受験生の受験後」のように、精神にぽっかりと空白が生まれる。
それは、心身ともに疲れ切った証でもあるし、一種の「集中の反作用」でもある。

「集中と弛緩」の弛緩だ。
これはこれで、必要なのだろう。

さて、そんなときには、いろいろな事が大脳新皮質に去来し、支離滅裂に「〜って、〜なんだよな。」としみじみ思ったり、納得したりする。おそらく、自分の記憶のハードディスクをデフラグ(領域整理)しているのだと思う。
今日は、そんな心に去来した話を、アトランダムにつらつらと書こう思う。


  • 今日は、1歳半になった息子と、児童館に行ってきた。

子供の遊具で、三角や四角のブロックを、その形に合った穴に入れる、というものがあるが、これがようやく出来るようになってきた。
ただし、3つの穴があったとして、それぞれに対して全部入るか試してようやく入れられる、という状況ではある。(頭を使うというより、試してガッテンというかんじ)


とは言え、少なくとも、この遊具のコンセプト(形合わせ)は理解しているようだ。
そして、それは、「形」(トポロジー)という概念が既に備わっているということを暗示している。成長したもんだ。


  • ここ最近の怒濤の業務で、2週間で3kg痩せた。

しかし、その後、2kg太って、結果としてあんまり変わっていない。
(基本、ストレスがあると食べてしまう方なので。ただ、昼飯を食べ忘れて気づいたら夜10時だった・・・というようなアホみたいな忙しさは初めてだった。)

しかし、今日は暑いな。
今年一番の夏日らしく、地域によっては35℃を記録したらしい。
東京は29℃くらい。
ビールがうまい。こんな日は、ベトナム式に氷を入れて飲むといい。
グラスは薄はりのものが最近のお気に入りだ。
ビールは、よなよなエール。もしくは、麒麟一番搾り。


  • 仕事は彫刻のようなもの
仕事は、いい。
最近しみじみ思う。
もちろん、死ぬほど忙しいのが続くのはしんどいが、やればやるほど、結果、わかる事が増えてくる。

「ここは、もっとこうすべきだ。」
「ここは、こうして。」
「そこは、こうだ。」

仕事は立体的なもので、集合的なもので、そして、「あるべき姿」があるはずのものだ。
それは、喩えるなら、彫刻家が大理石の塊に相対しているような、そんな状況に似ている。

彫刻家には、彫るべきラインが見えている。
完成形が見えている。
それは彼の頭の中にあって、彼の手足は、それを実現するための道具だ。

しかし、腕のよくない彫刻家は、すばらしい完成形を具現化することができない。
想像の世界では、あんなにすばらしいものだったのに!
しかし、研鑽を積む事で、彼の手足はより理想に近づいていく。
完成形を実現する精度が増してくる。

「ここは、もっとこうすべきだ。」
「ここは、こうして。」
「そこは、こうだ。」

そうやって、彫刻刀を入れるべきラインを正確に見いだし、あるべき角度で、あるべき溝を作る。その溝の集合が、表面の凹凸を成し、形を成し、全体は完成形に近づいていく。

(なお、頭にそもそも完成形を描けないというのが最も悪いパターン。次に、頭には完成形が描けているのに、それを具現化できないというパターンが来る(上記の例はこちら)。また、具現化はできるけど、そもそも完成形が凡庸な場合もあり、別の悩ましさがある。ここら辺は、写真の作品作りにも通じる部分があるなぁ。)

ちなみに、僕の仕事は、医薬品の臨床開発で、科学的思考、論理的思考、規制要件への理解、チームワーク、コミュニケーション能力、そして言語運用能力(英語、日本語両方)が必要とされる。「スーツを着て、チームで行う科学」が、臨床開発だと思う。彫刻とは一見すると、かけ離れた職業だ。

しかし、それでも「あるべき姿」があるという1点において、両者はつながっている。
(と、なんとなく確信している)

さて、その性質に着目すると、「スーツを着て、チームで行う科学」なのだが、一方で、量的側面に注目して振り返ってみると、この仕事は、大半が「言語」で行われているということに気づく。
90%が言語である、と言ってもいい。

チームでの情報共有、上司への説得、当局への説明、医師とのディスカッション、海外支社とのミーティング、他部署との打ち合わせ、プレゼン、報告書の作成、外注会社への指示、すべては言語で成立している。(もちろん、その内容は、科学(医学と統計学がメイン)に立脚し、規制要件を踏またものでなければならない。)


そのように考えると、言語(書き言葉、話言葉)は、彫刻家の一刀一刀に相当するものに思えてくる。
そうであるなら、言語運用能力というのは、鍛えても鍛えても足りないのだろう。
そういった意識が重要なのだと思う。

また、言語を運用する以前に、「何を書くか」の方がさらに重要と言える。
それを決めるのは、内容に直結する、科学と規制に関する知識だ。それにさらに、テクノロジー(臨床開発であれば、Risk Based ApproachやQuality by Designといった新しい概念に根ざした手法など)が加わる。

こういった専門分野の各領域には広がりがあり、ある程度散策し、知識を収集する必要がある。こういったことを怠ると、前提としている知識が古びてしまい、結果として、アウトプットの精度が落ちてしまう。

そうやって彫刻刀の原料を仕入れて、言語で成形し使用する、ということが繰り返される。
その繰り返しに、一種の面白さがある。
よく切れる彫刻刀もあれば、そうでもないものもある。
さて、また異常なくらいの数の刀をこさえよう。

  • 生活の中心に写真を据えてみる
4月初旬にiMacを初期化するという事態に遭遇し、「所有物の価値」について考え直すことになった。
購入したアプリケーションは、比較的簡単に復旧できた。シリアル番号さえわかっていれば、手間ではあるが、再度インストールすれば元どおりだ。
また、音楽ファイルも、iTunesから購入したものは、iCouldから再度落としてくればすぐに元通りになる。

つまり、既製品、商品といったものは一旦失われてしまっても、復元可能であると言える。
また、それは例えば机や椅子といった家具であってもそうだろう。それそのものが仮に修復できなくても、代替品を別途購入する事はできる。
さらに拡張すると、住居であってもそう言える。特に、賃貸の場合、地震で大破してしまったとしても、代替品を用意できる。一旦失われても、再生可能なものは案外多い。

しかし、写真データの場合、そうはいかない。

オリジナルは、自分の手によって生成される。
このオリジナルデータが失われた場合、それはもう、本当にそこまでなのだ。
そういった意味で、写真やそのデータを私生活の中心軸に置いてもいいように思う。

幸いにも、今回は、写真データはほぼすべて外付けHDDに入れていたので大事には至らなかったが、一部、加工した写真のオリジナルデータをiMacに入れていたため、失われてしまったものもあった。

さしあたっては、バックアップをきちんと取ることだろう。
既に2台体制でバックアップしているのだが、頻度を多くする必要があると思う。
また、大事な、これといった写真は、プリントしておきたい。

  • 萬馬軒のはなし
約4年ほど前まで、目黒駅のすぐ近くで一人暮らしをしていた。
そのとき、萬馬軒というラーメン屋が近くにあって、ものすごく旨いというわけではない(食べログで3.1〜3.3くらい)のだが、それでも、「町の中華ラーメン屋さん」という気楽なかんじが好きでよく行っていた。
特にネギ味噌ラーメンと、ごまの担々麺が旨かった。

昔を思い出しつつ、先日、会社から目黒のその店まで歩いて行ってみた。
すると、全然違うラーメン屋になっているではないか。

「つぶれたのか・・・」

ショックを感じながら、そのラーメン店に入ってみる。

麺屋 航(わたる)

という店で、つけ麺や煮干し系のラーメンが揃えられていた。
濃厚つけ麺を選ぶ。
「六厘舎」や「中華蕎麦とみ田」といった魚介+動物系の濃厚ダブルスープを指向したスープで、六厘舎のようにほぐれた豚肉が入っており、また、もみじの軟骨成分のようなトロミもあった。臭みもなく、うまく処理されているなと思う。麺の風味は「津気屋」のような小麦の風味を感じるつるつるとした中太麺だった。
丁寧に仕事しています、という感があり、とても好ましい。

「これは、萬馬軒よりうまいわ・・・」

という別のショックを感じながら、スープ割りを頼む。
出汁で薄めるだけでなく、ゆずの皮を少し入れるのは、六厘舎ライク。でも、もはやこれは伝統的・正統派と言ってもいいのかもしれない。
それくらい広まったし、実際に合うのだ。
さて、食べログを見てみると、確かに高評価で3.51をマークしている。なるほど、確かに旨いわけだ。

しかし、店舗の移り変わりは激しい。
人の行う営みこそ、移ろいやすいもので、こういった「久しぶりの来訪でショックを受ける」現象を「ウラシマ現象」と呼んでいるのだが、今回もウラシマ現象を感じてしまった。それは、決して嬉しいことではなく、なんとなく、寂しいものだ。

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後日談。

実は萬馬軒はつぶれたわけではなかった!
今は桜上水に移転しているらしい。2012年2月に移転したそうだ。

しかも今見てみたら、食べログで3.5をキープしている。(3.5以上で星の色が変わり、高評価であることがわかる。経験的に3.5以上なら万人に勧められるレベル)

今では、「桜上水の名店」として知られているらしい。

目黒のときから味がさらにブラッシュアップされたのか?(目黒時代は3.1~3.3だった)
それとも、場所が変わって相対的に当該地域の他店より高く評価されているのか?

今度確かめに行こうと思う。
いや、違うな。

どちらにせよ、結局問題じゃない。

「萬馬軒が今もある」という事実が嬉しいのだ。
また、ネギ味噌ラーメンや担々麺を食べられる、ということが素直に嬉しい。
またお邪魔させてもらいたい。
」ようy

2014年5月10日土曜日

178.  うなずけるが、少々かなしい

このブログは、もともと旅行記をまとめていたWebサイト(7billionth.com)の一部として始まった。
しかし、本体の方のサイトは2011年が最終更新で、今はこのブログの更新がRSSで表示されるだけになってしまっている。

最近、このページを作ったときにリンクを張った、同じく旅行記を主題としていたページに行ってみた。いや、正確には行ってみようとしたら、行けなかった。

「サーバーが見つかりません。」

とのことだ。どうやら、サイトを閉鎖してしまったらしい。
残念なことだ。

同じように、お気に入りに入っていた写真系のサイトでも、結構な割合で閉鎖が見受けられる。3割くらいはなくなってしまっている印象だ。

中には、保存しておけば良かったと思えるサイトもあり、残念で仕方ない。

無料のブログサービスと違って、個人のWebサイト運営には、ドメインを取って、サーバーにスペースを借りる必要がある(もちろん、独自ドメインを取らない方法もあるが、アドレスを自由に決められない、サイトの構成に制約がある、などの条件がついてしまう)。これらには、大体年間数千円〜1万円くらいかかってしまう。

以前も同じようなことを書いたように思うが、

個人がHTMLでサイトを運営(1999年くらいから2006年くらいまで全盛)
→ブログサイトで日記を書く(2004年くらいから)
→SNS(2005年くらいからmixiに始まり、2008年頃からFacebookへ)
→Twitter(2009年頃から)

のように、個人でWeb siteを運営するというのは、完全に流行から外れてしまった。
コストもかかるし、手間もかかる。リアルタイム感がないし、大体、HTML編集用のアプリケーションが売られなくなってしまった(AppleだとiWebはもう更新されていない)。

考えてみると、どんどん「リアルタイム感」のある形態が選択されて行っているように思える。また、クライアントPCからサーバーへ、システムの中心が移動してしまった。
腰を落ち着けて、サイトを構築する、というのは(商売でやる以外では)受けないのだろう。

そして、旅サイトというのも、継続が難しい理由の一つだろう。
旅を自由にできるのは、多くは、大学生〜社会人(20代)〜社会人(30代結婚・出産前まで)といった時期に限られるのだろう。
自分の場合も、「結婚しても、子供ができても、海外旅行に年1回は行きたい」と思っていたが、実際に、そういった状況になってみると、かなり夢を見ていたなぁと思う(まだ完全に諦めたわけではないが)。

仕事で求められる役割も、20代からは確実に一段上がってくる(それはもちろんいいことだ)。
プライベートで求められる役割も、変わってくる。今は父親としての役割がある。(それももちろんいいことだ)。

アドラーの言う「人生のタスク」にまともに取り組んで、歩みを止めなければ、経験することになるはずの、何の変哲もない、この変化。

これらと旅の両立は、なかなかできない。
それは、それでいいことだ。
そして、新しい楽しみを見つけていく。状況に応じて、柔軟に、自分を変えていく。

休日の公園、シートの上に寝転んで、子供がハイハイする様子を眺める。
天気がいいなぁと、写真を写す。日常に根ざした楽しみ。
そういった新しい時間の過ごし方をするようになる。
僕は、「家族連れ」になったのだ。

こういった変化は、他の旅サイトを運営していた人たち(おそらく運営当時は20代後半だったはず)にも訪れているのだろう。

そして、多くの人生の選択の中で、「自分の軌跡を記す」という行為そのものが、優先順位の低いタスクになったのだろう。主語は、「自分」から徐々に「自分たち」になっていくものだ。

それはとても自然な成長である。賞賛されるべき、成長だと思う。


僕は、7billionth.comをいつまで続けるだろう?

サイトを始めた2008年には世界人口は68億人くらいだった。先を見越して「70億分の1の世界」という名称にしたわけだが、現実は想定を簡単に追い越して、今や世界人口は71億8千万人らしい。

名前が時代に追い越されても、まだしばらくは続けていたいと思う。第二章、みたいになったらいいのにな。

2014年1月26日日曜日

177. こたえあわせ(X-T1のペンタ部)



2013年12月25日の記事「ハイレベルコミュニケーション」で、富士フイルム Xシリーズの一眼レフスタイルの新型機について書いた。


http://7billionth-essay.blogspot.jp/2013/12/167.html


この記事で注目していたのは、ペンタ部(実際にはEVFなのでペンタプリズムは入っていないが慣例としてそう書くことにする)のロゴだ。

そこでは、

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もしも「ボディーがFUJICA様の直線基調デザインであった場合」という前提条件において、あり得るパターンは、


FUJIFILMという通常の社名ロゴでくる
他のXシリーズ同様、全面には社名なしで、ペンタ部にも何も書かれない
FUJIFILMという社名は入るが、字体を直線基調に変える
FUJICAブランドの復活で、FUJICAというロゴが入る

くらいかと思う。

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と予想していた。
答合わせをすると、









画像引用元:デジカメ info http://digicame-info.com/2014/01/x-t1-4.html

ご覧の通り、「1.通常の社名ロゴ」となった。(とはいえ、この画像自体は正式発表されたものではないので、プロトタイプの可能性は残っている)

このロゴについては、予想通り賛否両論あり、引用元であるデジカメinfoのコメントを見ると大変面白い。自分と同じように、このロゴについて熱く考える人達が多くいると思うと、なぜか不思議と勇気づけられる(笑)

中には、すごい熱心な人達がいて、ロゴをニコンDfのようにレトロなフォントに変えた合成画像や、FUJICAブランドにした画像を投稿されている。




ジェイコプスラダーさんによる合成画像(引用元 ttp://digicame-info.com/2014/01/x-t1-4.html


ジェイコプスラダーさんによる合成画像(引用元 ttp://digicame-info.com/2014/01/x-t1-4.html



R.Tさんによる合成画像(引用元 ttp://digicame-info.com/2014/01/x-t1-4.html


元のリーク画像では、やや富士フイルムのロゴが小さく、余白が多い。このため、R.Tさんはロゴを18%拡大して納まりのいいサイズに変更している。
なるほど、同じフォントであっても、印象は大分異なっている。

さて、みなさんはどれがいいだろう?

僕は直線的なフォントを用いたFUJIFILMが好みだ。
しかし、以下のように色々と思案した末、現行のロゴでもいいような気がしている。


このロゴについて、富士フイルム社内でどれだけ議論があったかは分からないが、どうやらこの新型機X-T1は、「富士フイルム80周年」の記念モデルらしい。
そのような文脈で考えると、現行の社名ロゴ以外にありえなかったように思う。

写真のフイルム自体は、もはや慈善事業のような、収益を生み出しにくい事業になってしまっている。それでもフイルムという名称が入った社名を変える事無く、フイルム事業の対極にあるデジカメ事業や、撮像センサーの開発や、化粧品や医薬品、医療機器といった異分野へも積極的に挑戦している。確か、富士フイルムの売上げのうち、フイルムが占める割合は5%程度に縮小していたと思う。つまり、残りの95%は、新たな挑戦によって生まれた。(そして、その挑戦が実を結ばなかったら、この企業は倒産していたか、かなり縮小していた)

コダックのように倒産することなく、今でも写真のフイルムを作り続けている(銘柄は減ったが)。こう考えると、写真文化への貢献度という意味で、他のカメラメーカーとは違った立ち位置にいると思う。

「フイルムも含めた写真文化の継承者」として、FUJIFILMというロゴを掲げるのであれば、それでいいように思っている。

さて、後は正式発表と、質感性能だ。
触れたときに「凝縮感」を感じられるような造りを願いたい。大変楽しみである。

2014年1月13日月曜日

176. テクノロジーがつなぐ絆(Eric Whitacre)

Eric Whitacreによる「2000人のバーチャル合唱団」

I wanted to be a rock star. I dreamed of it, and that's all I dreamed of. To be more accurate, I wanted to be a pop star. This was in the late '80s. And mostly I wanted to be the fifth member of Depeche Mode or Duran Duran. They wouldn't have me. I didn't read music, but I played synthesizers and drum machines. And I grew up in this little farming town in northern Nevada. And I was certain that's what my life would be.
And when I went to college at the University of Nevada, Las Vegas when I was 18, I was stunned to find that there was not a Pop Star 101, or even a degree program for that interest. And the choir conductor there knew that I sang and invited me to come and join the choir. And I said, "Yes, I would love to do that. It sounds great." And I left the room and said, "No way." The choir people in my high school were pretty geeky, and there was no way I was going to have anything to do with those people. And about a week later, a friend of mine came to me and said, "Listen, you've got to join choir. At the end of the semester, we're taking a trip to Mexico, all expenses paid. And the soprano section is just full of hot girls." And so I figured for Mexico and babes, I could do just about anything.
And I went to my first day in choir, and I sat down with the basses and sort of looked over my shoulder to see what they were doing. They opened their scores, the conductor gave the downbeat, and boom, they launched into the Kyrie from the "Requiem" by Mozart. In my entire life I had seen in black and white, and suddenly everything was in shocking Technicolor. The most transformative experience I've ever had -- in that single moment, hearing dissonance and harmony and people singing, people together, the shared vision.And I felt for the first time in my life that I was part of something bigger than myself. And there were a lot of cute girls in the soprano section, as it turns out.
I decided to write a piece for choir a couple of years later as a gift to this conductor who had changed my life. I had learned to read music by then, or slowly learning to read music.And that piece was published, and then I wrote another piece, and that got published. And then I started conducting, and I ended up doing my master's degree at the Juilliard School.And I find myself now in the unlikely position of standing in front of all of you as a professional classical composer and conductor.
Well a couple of years ago, a friend of mine emailed me a link, a YouTube link, and said, "You have got to see this." And it was this young woman who had posted a fan video to me, singing the soprano line to a piece of mine called "Sleep."
(Video) Britlin Losee: Hi Mr. Eric Whitacre. My name is Britlin Losee, and this is a videothat I'd like to make for you. Here's me singing "Sleep." I'm a little nervous, just to let you know. ♫ If there are noises ♫ ♫ in the night ♫
Eric Whitacre: I was thunderstruck. Britlin was so innocent and so sweet, and her voice was so pure. And I even loved seeing behind her; I could see the little teddy bear sitting on the piano behind her in her room. Such an intimate video.
And I had this idea: if I could get 50 people to all do this same thing, sing their parts -- soprano, alto, tenor and bass -- wherever they were in the world, post their videos to YouTube, we could cut it all together and create a virtual choir. So I wrote on my blog, "OMG OMG." I actually wrote, "OMG," hopefully for the last time in public ever. (Laughter)And I sent out this call to singers. And I made free the download of the music to a piece that I had written in the year 2000 called "Lux Aurumque," which means "light and gold."And lo and behold, people started uploading their videos.
Now I should say, before that, what I did is I posted a conductor track of myself conducting. And it's in complete silence when I filmed it, because I was only hearing the music in my head, imagining the choir that would one day come to be. Afterwards, I played a piano track underneath so that the singers would have something to listen to. And then as the videos started to come in ...
(Singing) This is Cheryl Ang from Singapore.
(Singing) This is Evangelina Etienne
(Singing) from Massachusetts.
(Singing) Stephen Hanson from Sweden.
(Singing) This is Jamal Walker from Dallas, Texas.
(Singing)
There was even a little soprano solo in the piece, and so I had auditions. And a number of sopranos uploaded their parts. I was told later, and also by lots of singers who were involved in this, that they sometimes recorded 50 or 60 different takes until they got just the right take -- they uploaded it. Here's our winner of the soprano solo. This is Melody Myers from Tennessee. (Singing) I love the little smile she does right over the top of the note -- like, "No problem, everything's fine."
(Laughter)
And from the crowd emerged this young man, Scott Haines. And he said, "Listen, this is the project I've been looking for my whole life. I'd like to be the person to edit this all together." I said, "Thank you, Scott. I'm so glad that you found me." And Scott aggregated all of the videos. He scrubbed the audio. He made sure that everything lined up. And then we posted this video to YouTube about a year and a half ago. This is "Lux Aurumque" sung by the Virtual Choir.
(Singing)
I'll stop it there in the interest of time. (Applause)
Thank you. Thank you.
(Applause)
Thank you. So there's more. There's more. Thank you so much.
And I had the same reaction you did. I actually was moved to tears when I first saw it. I just couldn't believe the poetry of all of it -- these souls all on their own desert island,sending electronic messages in bottles to each other. And the video went viral. We had a million hits in the first month and got a lot of attention for it. And because of that, then a lot of singers started saying, "All right, what's Virtual Choir 2.0?" And so I decided for Virtual Choir 2.0 that I would choose the same piece that Britlin was singing, "Sleep," which is another work that I wrote in the year 2000 -- poetry by my dear friend Charles Anthony Silvestri. And again, I posted a conductor video, and we started accepting submissions.This time we got some more mature members. (Singing) And some younger members.
(Video) Soprano: ♫ Upon my pillow ♫ ♫ Safe in bed ♫ EW: That's Georgie from England. She's only nine. Isn't that the sweetest thing you've ever seen?
Someone did all eight videos -- a bass even singing the soprano parts. This is Beau Awtin.(Video) Beau Awtin: ♫ Safe in bed ♫
EW: And our goal -- it was sort of an arbitrary goal -- there was an MTV video where they all sang "Lollipop" and they got people from all over the world to just sing that little melody.And there were 900 people involved in that. So I told the singers, "That's our goal. That's the number for us to beat." And we just closed submissions January 10th, and our final tally was 2,051 videos from 58 different countries. Thank you. (Applause) From Malta, Madagascar, Thailand, Vietnam, Jordan, Egypt, Israel, as far north as Alaska and as far south as New Zealand.
And we also put a page on Facebook for the singers to upload their testimonials, what it was like for them, their experience singing it. And I've just chosen a few of them here. "My sister and I used to sing in choirs together constantly. Now she's an airman in the air force constantly traveling. It's so wonderful to sing together again!" I love the idea that she's singing with her sister. "Aside from the beautiful music, it's great just to know I'm part of a worldwide community of people I never met before, but who are connected anyway." And my personal favorite, "When I told my husband that I was going to be a part of this, he told me that I did not have the voice for it." Yeah, I'm sure a lot of you have heard that too. Me too. "It hurt so much, and I shed some tears, but something inside of me wanted to do this despite his words. It is a dream come true to be part of this choir, as I've never been part of one. When I placed a marker on the Google Earth Map, I had to go with the nearest city, which is about 400 miles away from where I live. As I am in the Great Alaskan Bush,satellite is my connection to the world."
So two things struck me deeply about this. The first is that human beings will go to any lengths necessary to find and connect with each other. It doesn't matter the technology.And the second is that people seem to be experiencing an actual connection. It wasn't a virtual choir. There are people now online that are friends; they've never met. But, I know myself too, I feel this virtual esprit de corps, if you will, with all of them. I feel a closeness to this choir -- almost like a family.
What I'd like to close with then today is the first look at "Sleep" by Virtual Choir 2.0. This will be a premiere today. We're not finished with the video yet. You can imagine, with 2,000 synchronized YouTube videos, the render time is just atrocious. But we do have the first three minutes. And it's a tremendous honor for me to be able to show it to you here first.You're the very first people to see this. This is "Sleep," the Virtual Choir.
(Video) Virtual Choir: ♫ The evening hangs ♫ ♫ beneath the moon ♫ ♫ A silver thread on darkened dune ♫ ♫ With closing eyes and resting head ♫ ♫ I know that sleep is coming soon ♫ ♫ Upon my pillow, ♫ ♫ safe in bed, ♫ ♫ a thousand pictures fill my head ♫ ♫ I cannot sleep ♫ ♫ my mind's aflight ♫ ♫ and yet my limbs seem made of lead ♫ ♫ If there are noises in the night ♫
Eric Whitacre: Thank you very, very much. Thank you. (Applause) Thank you very much. Thank you. Thank you.
(Applause)


プレゼンがどうこうというよりも、この「現象」を目の当たりにすること自体に意味を感じる。You Tubeを介して、2000人以上の人が、58カ国から参加して、一つの合唱曲を歌う。この「現象」は、テクノロジーによって、人々が絆を持てることを証明している。

インターネットは、元々軍事用のネットワークが払い下げられたものから出発しているが、その黎明期においては、「心と心との会話」が重視され、商業用途は固く禁じられていた時代があった。

しかし、ユーザーが増え、大規模サーバーが必要になり、維持管理が難しくなったとき、インターネットはスポンサーを受け入れ、結果、広告媒体としての存在に堕ちてしまった。

以上のようなことを12年ほど前に、大学の社会学の講義で聴いたことがある。
「崇高な理念は、商業主義に負ける。」
当時、そう思ったことを思い出した。
所詮人間だもんな、と。

ただ、こういう現象を見てしまうと、「なかなか人間も捨てたもんじゃないなぁ」と思う。