怒濤の1ヶ月だった。
突発的な出来事と、それに引き続く事後対応に追われ、追われ、追われに追われた。
そして、ようやくここに来て普通の土日を過ごせるようになった。
とりあえず、お疲れさま。>自分とチームのみなさん
それにしても、自分の仕事人生(と言っても、まだ8年と少しに過ぎないが)で一番集中していたように思う。朝4時まで仕事・・・というのも初めての経験だった。
こうしたピークをなんとかしのぎ切って、一段落すると、
まるで「受験生の受験後」のように、精神にぽっかりと空白が生まれる。
それは、心身ともに疲れ切った証でもあるし、一種の「集中の反作用」でもある。
「集中と弛緩」の弛緩だ。
これはこれで、必要なのだろう。
さて、そんなときには、いろいろな事が大脳新皮質に去来し、支離滅裂に「〜って、〜なんだよな。」としみじみ思ったり、納得したりする。おそらく、自分の記憶のハードディスクをデフラグ(領域整理)しているのだと思う。
今日は、そんな心に去来した話を、アトランダムにつらつらと書こう思う。
子供の遊具で、三角や四角のブロックを、その形に合った穴に入れる、というものがあるが、これがようやく出来るようになってきた。
ただし、3つの穴があったとして、それぞれに対して全部入るか試してようやく入れられる、という状況ではある。(頭を使うというより、試してガッテンというかんじ)
とは言え、少なくとも、この遊具のコンセプト(形合わせ)は理解しているようだ。
そして、それは、「形」(トポロジー)という概念が既に備わっているということを暗示している。成長したもんだ。
しかし、その後、2kg太って、結果としてあんまり変わっていない。
(基本、ストレスがあると食べてしまう方なので。ただ、昼飯を食べ忘れて気づいたら夜10時だった・・・というようなアホみたいな忙しさは初めてだった。)
しかし、今日は暑いな。
今年一番の夏日らしく、地域によっては35℃を記録したらしい。
東京は29℃くらい。
ビールがうまい。こんな日は、ベトナム式に氷を入れて飲むといい。
グラスは薄はりのものが最近のお気に入りだ。
ビールは、よなよなエール。もしくは、麒麟一番搾り。
最近しみじみ思う。
もちろん、死ぬほど忙しいのが続くのはしんどいが、やればやるほど、結果、わかる事が増えてくる。
「ここは、もっとこうすべきだ。」
「ここは、こうして。」
「そこは、こうだ。」
仕事は立体的なもので、集合的なもので、そして、「あるべき姿」があるはずのものだ。
それは、喩えるなら、彫刻家が大理石の塊に相対しているような、そんな状況に似ている。
彫刻家には、彫るべきラインが見えている。
完成形が見えている。
それは彼の頭の中にあって、彼の手足は、それを実現するための道具だ。
しかし、腕のよくない彫刻家は、すばらしい完成形を具現化することができない。
想像の世界では、あんなにすばらしいものだったのに!
しかし、研鑽を積む事で、彼の手足はより理想に近づいていく。
完成形を実現する精度が増してくる。
「ここは、もっとこうすべきだ。」
「ここは、こうして。」
「そこは、こうだ。」
突発的な出来事と、それに引き続く事後対応に追われ、追われ、追われに追われた。
そして、ようやくここに来て普通の土日を過ごせるようになった。
とりあえず、お疲れさま。>自分とチームのみなさん
それにしても、自分の仕事人生(と言っても、まだ8年と少しに過ぎないが)で一番集中していたように思う。朝4時まで仕事・・・というのも初めての経験だった。
こうしたピークをなんとかしのぎ切って、一段落すると、
まるで「受験生の受験後」のように、精神にぽっかりと空白が生まれる。
それは、心身ともに疲れ切った証でもあるし、一種の「集中の反作用」でもある。
「集中と弛緩」の弛緩だ。
これはこれで、必要なのだろう。
さて、そんなときには、いろいろな事が大脳新皮質に去来し、支離滅裂に「〜って、〜なんだよな。」としみじみ思ったり、納得したりする。おそらく、自分の記憶のハードディスクをデフラグ(領域整理)しているのだと思う。
今日は、そんな心に去来した話を、アトランダムにつらつらと書こう思う。
- 今日は、1歳半になった息子と、児童館に行ってきた。
子供の遊具で、三角や四角のブロックを、その形に合った穴に入れる、というものがあるが、これがようやく出来るようになってきた。
ただし、3つの穴があったとして、それぞれに対して全部入るか試してようやく入れられる、という状況ではある。(頭を使うというより、試してガッテンというかんじ)
とは言え、少なくとも、この遊具のコンセプト(形合わせ)は理解しているようだ。
そして、それは、「形」(トポロジー)という概念が既に備わっているということを暗示している。成長したもんだ。
- ここ最近の怒濤の業務で、2週間で3kg痩せた。
しかし、その後、2kg太って、結果としてあんまり変わっていない。
(基本、ストレスがあると食べてしまう方なので。ただ、昼飯を食べ忘れて気づいたら夜10時だった・・・というようなアホみたいな忙しさは初めてだった。)
しかし、今日は暑いな。
今年一番の夏日らしく、地域によっては35℃を記録したらしい。
東京は29℃くらい。
ビールがうまい。こんな日は、ベトナム式に氷を入れて飲むといい。
グラスは薄はりのものが最近のお気に入りだ。
ビールは、よなよなエール。もしくは、麒麟一番搾り。
- 仕事は彫刻のようなもの
最近しみじみ思う。
もちろん、死ぬほど忙しいのが続くのはしんどいが、やればやるほど、結果、わかる事が増えてくる。
「ここは、もっとこうすべきだ。」
「ここは、こうして。」
「そこは、こうだ。」
仕事は立体的なもので、集合的なもので、そして、「あるべき姿」があるはずのものだ。
それは、喩えるなら、彫刻家が大理石の塊に相対しているような、そんな状況に似ている。
彫刻家には、彫るべきラインが見えている。
完成形が見えている。
それは彼の頭の中にあって、彼の手足は、それを実現するための道具だ。
しかし、腕のよくない彫刻家は、すばらしい完成形を具現化することができない。
想像の世界では、あんなにすばらしいものだったのに!
しかし、研鑽を積む事で、彼の手足はより理想に近づいていく。
完成形を実現する精度が増してくる。
「ここは、もっとこうすべきだ。」
「ここは、こうして。」
「そこは、こうだ。」
そうやって、彫刻刀を入れるべきラインを正確に見いだし、あるべき角度で、あるべき溝を作る。その溝の集合が、表面の凹凸を成し、形を成し、全体は完成形に近づいていく。
(なお、頭にそもそも完成形を描けないというのが最も悪いパターン。次に、頭には完成形が描けているのに、それを具現化できないというパターンが来る(上記の例はこちら)。また、具現化はできるけど、そもそも完成形が凡庸な場合もあり、別の悩ましさがある。ここら辺は、写真の作品作りにも通じる部分があるなぁ。)
ちなみに、僕の仕事は、医薬品の臨床開発で、科学的思考、論理的思考、規制要件への理解、チームワーク、コミュニケーション能力、そして言語運用能力(英語、日本語両方)が必要とされる。「スーツを着て、チームで行う科学」が、臨床開発だと思う。彫刻とは一見すると、かけ離れた職業だ。
しかし、それでも「あるべき姿」があるという1点において、両者はつながっている。
(と、なんとなく確信している)
さて、その性質に着目すると、「スーツを着て、チームで行う科学」なのだが、一方で、量的側面に注目して振り返ってみると、この仕事は、大半が「言語」で行われているということに気づく。
90%が言語である、と言ってもいい。
チームでの情報共有、上司への説得、当局への説明、医師とのディスカッション、海外支社とのミーティング、他部署との打ち合わせ、プレゼン、報告書の作成、外注会社への指示、すべては言語で成立している。(もちろん、その内容は、科学(医学と統計学がメイン)に立脚し、規制要件を踏またものでなければならない。)
そのように考えると、言語(書き言葉、話言葉)は、彫刻家の一刀一刀に相当するものに思えてくる。
そうであるなら、言語運用能力というのは、鍛えても鍛えても足りないのだろう。
そういった意識が重要なのだと思う。
また、言語を運用する以前に、「何を書くか」の方がさらに重要と言える。
それを決めるのは、内容に直結する、科学と規制に関する知識だ。それにさらに、テクノロジー(臨床開発であれば、Risk Based ApproachやQuality by Designといった新しい概念に根ざした手法など)が加わる。
こういった専門分野の各領域には広がりがあり、ある程度散策し、知識を収集する必要がある。こういったことを怠ると、前提としている知識が古びてしまい、結果として、アウトプットの精度が落ちてしまう。
そうやって彫刻刀の原料を仕入れて、言語で成形し使用する、ということが繰り返される。
その繰り返しに、一種の面白さがある。
よく切れる彫刻刀もあれば、そうでもないものもある。
さて、また異常なくらいの数の刀をこさえよう。
- 生活の中心に写真を据えてみる
購入したアプリケーションは、比較的簡単に復旧できた。シリアル番号さえわかっていれば、手間ではあるが、再度インストールすれば元どおりだ。
また、音楽ファイルも、iTunesから購入したものは、iCouldから再度落としてくればすぐに元通りになる。
つまり、既製品、商品といったものは一旦失われてしまっても、復元可能であると言える。
また、それは例えば机や椅子といった家具であってもそうだろう。それそのものが仮に修復できなくても、代替品を別途購入する事はできる。
さらに拡張すると、住居であってもそう言える。特に、賃貸の場合、地震で大破してしまったとしても、代替品を用意できる。一旦失われても、再生可能なものは案外多い。
しかし、写真データの場合、そうはいかない。
オリジナルは、自分の手によって生成される。
このオリジナルデータが失われた場合、それはもう、本当にそこまでなのだ。
そういった意味で、写真やそのデータを私生活の中心軸に置いてもいいように思う。
幸いにも、今回は、写真データはほぼすべて外付けHDDに入れていたので大事には至らなかったが、一部、加工した写真のオリジナルデータをiMacに入れていたため、失われてしまったものもあった。
さしあたっては、バックアップをきちんと取ることだろう。
既に2台体制でバックアップしているのだが、頻度を多くする必要があると思う。
また、大事な、これといった写真は、プリントしておきたい。
- 萬馬軒のはなし
そのとき、萬馬軒というラーメン屋が近くにあって、ものすごく旨いというわけではない(食べログで3.1〜3.3くらい)のだが、それでも、「町の中華ラーメン屋さん」という気楽なかんじが好きでよく行っていた。
特にネギ味噌ラーメンと、ごまの担々麺が旨かった。
昔を思い出しつつ、先日、会社から目黒のその店まで歩いて行ってみた。
すると、全然違うラーメン屋になっているではないか。
「つぶれたのか・・・」
ショックを感じながら、そのラーメン店に入ってみる。
麺屋 航(わたる)
という店で、つけ麺や煮干し系のラーメンが揃えられていた。
濃厚つけ麺を選ぶ。
「六厘舎」や「中華蕎麦とみ田」といった魚介+動物系の濃厚ダブルスープを指向したスープで、六厘舎のようにほぐれた豚肉が入っており、また、もみじの軟骨成分のようなトロミもあった。臭みもなく、うまく処理されているなと思う。麺の風味は「津気屋」のような小麦の風味を感じるつるつるとした中太麺だった。
丁寧に仕事しています、という感があり、とても好ましい。
「これは、萬馬軒よりうまいわ・・・」
という別のショックを感じながら、スープ割りを頼む。
出汁で薄めるだけでなく、ゆずの皮を少し入れるのは、六厘舎ライク。でも、もはやこれは伝統的・正統派と言ってもいいのかもしれない。
それくらい広まったし、実際に合うのだ。
さて、食べログを見てみると、確かに高評価で3.51をマークしている。なるほど、確かに旨いわけだ。
しかし、店舗の移り変わりは激しい。
人の行う営みこそ、移ろいやすいもので、こういった「久しぶりの来訪でショックを受ける」現象を「ウラシマ現象」と呼んでいるのだが、今回もウラシマ現象を感じてしまった。それは、決して嬉しいことではなく、なんとなく、寂しいものだ。
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後日談。
実は萬馬軒はつぶれたわけではなかった!
今は桜上水に移転しているらしい。2012年2月に移転したそうだ。
しかも今見てみたら、食べログで3.5をキープしている。(3.5以上で星の色が変わり、高評価であることがわかる。経験的に3.5以上なら万人に勧められるレベル)
今では、「桜上水の名店」として知られているらしい。
目黒のときから味がさらにブラッシュアップされたのか?(目黒時代は3.1~3.3だった)
それとも、場所が変わって相対的に当該地域の他店より高く評価されているのか?
今度確かめに行こうと思う。
いや、違うな。
どちらにせよ、結局問題じゃない。
「萬馬軒が今もある」という事実が嬉しいのだ。
また、ネギ味噌ラーメンや担々麺を食べられる、ということが素直に嬉しい。
またお邪魔させてもらいたい。
」ようy