2011年2月1日火曜日

067.偶然と必然(物活説との決別)

Jacques Lucien Monod(以下、ジャック・モノー)の「偶然と必然」を読んだ。
実に、面白かった。




内容をごく単純に言えば、「分子生物学上の発見を使って、哲学界に渦巻いている議論(生命とは何か?や進化は何が起こさせるのか?やマルクス主義における「科学性」の定義の誤りや宗教が前提とする世界観自体の誤り等々)を整理してみた。」というものだ。

モノーは、ノーベル賞を受賞した分子生物学者であるが、同時に、哲学者でもあった。
この本が発行されたのは、1970年(昭和45年)で決して新しくはないし、モノーが前提とする分子生物学上の「発見」は、2000年代に生物学を専攻していた僕たちの世代からすると「古典」に近い。しかし、そのような「古典的知見」から端を発する形而上学的な言説(そもそも進化に上方の指向性があるのはなぜか?何らかの「意志」のようなものが働いているのだろうか?など)の数々は、実に面白い。

よくよく考えてみると、この1970年というのは実に「ちょうどいい時代だった」と思える。
というのも、世は「社会主義と自由主義」の対立軸を中心として構成されており、それを反映した米ソの冷戦が厳然として存在していた。この時代では、「思想」というものにまだまだ「社会的な力」が残っており、学生運動が起こったり、ヒッピーやフラワーボム等の文化的なムーブメントが散発的に発生し、「音楽が世界を変えられる」と本気で信じていた若者が大勢いたし(事実、信じられる程、音楽自体にもパワーがあった。ビートルズは当時、キリストよりも人気があった)、その上、社会主義国の明白な失敗が明らかになっていなかったため、自由主義に対する対立軸を作り出せるマルクス主義者達がそれなりに自信を持って闊歩できた。
このように、思想を取り巻く環境が流動的で、決定されたものがなく、それゆえに自由に議論でき、ちょっとした知識層は互いに思想的な議論を交わせる、そんな時代であった。
つまり、「思想を語るのにちょうどいい時代」だったのだ。(とか断定的に書いておきながら、僕自身は1982年生まれなので(笑)本来は、「だったらしいのだ。」である。もちろん、間違っている部分もあるかもしれない。所詮は一介のサラリーマンの妄言なので、その辺りは適当に聞き流していただければ幸いである。)

話はそれるが、ちょうどこの頃、米軍専用の通信網「アーカネット」(だったと思う)が民間に払い下げられ、インターネットの基礎が作られた。
当時、このインターネットの原始版は会員制の通信網で、せいぜい短いメールを双方に飛ばし合う程度のことしかできなかったが、その目的(理念)はすごかった。

曰く「一切の商業主義を排除した、人種、外見、性別の差別を一切排除した、真に理想的な魂の交流」、つまり「精神的なユートピアの実現」だったのである。
しかし、それが今となっては、排除しようと心に決めていた「商業主義」がネット界には蔓延し(僕はそれをちっとも悪いこととは思わないが)、2chなどの巨大掲示板では差別的な発言が(ネタだととしても)日々量産されている。

ネットは、確かに顔も見えなければ、声も聞こえないため、純粋に「言語」に翻訳した「魂」(「精神」や「心」などと読み替えていただいても結構)が表出している空間だが、結局「魂」になっても、ひとは人。そこには必然的に、商業主義や差別が生じてしまう、ということなのかもしれない。

(ちなみに、当初は会員制の通信網だったが、そのままでは立ち行かなくなり、商業利用(つまり広告の表示と、物品の販売経路としての活用)への開放を決定したという経緯がある。歴史は決断を迫り、その当時の管理人はそのように決断をした、ということだ。)

おおう。
随分話がそれてしまった。
ただ、いずれにせよ、インターネットがこれだけ身近なものとなり、個人が自身の考えや感想を自由に(まさにこのサイトのように)発信できるようになり、また、「検索」によって自分の「興味」や「目的」を前提として情報を「能動的」に取りに行くようになると(テレビのように自分の興味とは無関係に一方的に情報が発信され、それを受動的に曝露されるという情報環境とは根本的に異なる環境である)、必然的に、「個の時代」がやってきてしまう。
それはそのまま、「思想」の力が弱められることを意味している。
思想とは、多くの人に信じられる程、強くなる。
しかし、これだけ個人個人がその趣味、趣向、消費行動力に従って自由に運動(社会的な意味での「運動」である)してしまうと、思想が形成される前に分散化してしまい、ムーブメントが起きる程のきちんとした思想が形成されない。
つまり、70年代のように、世界を二分するほど、大きな思想は今では非常に生まれにくいということになる。

そんな「思想が弱ってしまった時代」が今の時代なのである。

さて、思想的に熱かった70年代の落とし子である本書は、
実は、生前の祖父が唯一勧めてくれた書籍でもある。
祖父は、植物の形態形成を研究する研究者だった。

祖父はこの本のことを、「一言で言うのは、難しいねぇ。」と言って内容を教えてくれなかったのだが、確かに読んでみると、「一言で言うのは、難しい。」のである。

だからと言って、じゃあ読んでみて。と簡単には勧められない本でもある。
というのも、前提としている分子生物学上の知識が、大体、生物系専攻の大学3年生程度の知識レベルで、一般の人が読むには若干難解なところがある。

生物系の人も読んでいるかもしれないので、大体の目安を言うと、
ヴォートの生化学の上下巻をそれぞれ1/3程度ずつ、薄ーく、ざっくりと読んだくらいの知識は必要である。

加えて、大学2年生までの熱力学の知識はあった方が、より楽しめる。
熱力学の第二法則、と聞いて、「ああ、エントロピー増大の話か。」と分かる程度の知識は要求される。
(もちろん、日本語で書いてあるので、知らなくてもそれなりに読めるのだが、多分、ピンとこない。ちなみに、この熱力学の第二法則というのを単純な言葉に換言すると、「自然のままにおいておくと、世界(孤立した系の内部)はどんどん乱雑さが増す方向に進んで行く。その逆はありえない。」ということを予言している。例えば、お風呂一杯に張った水に墨汁を一滴静かに垂らしたとすると、当然、特にかき混ぜなくても、熱をかけなくても、墨汁は大量の水と混ざる。逆に墨汁の色素が一カ所にとどまり続けることはありえない(仮に水に溶けない色素であっても、ある程度の塊となって分散していくはずだ)。ここで、墨汁の色素の「位置」に注目すると、着水直後の色素同士が隣り合っていた「秩序だった状態」から、水と混ざり合った「乱雑な状態」へと自然に移行していることがわかる。このように、熱力学の見地から考えると、特にエネルギーをかけない「自然な状態」にある系でも、「乱雑さ」が増す方向に全ての分子は動いており、その中から「秩序」は自然には生まれない。しかし、生物というものは非常に秩序だった分子、細胞内小器官(オルガネラ)、細胞、組織、器官、個体を有する。このような有機的なネットワークは研究すればする程精巧に作られていることがわかり、驚嘆に値する。例えば、生命活動の主役を担う種々のタンパク質は、微視的にはオングストローム単位の精度で立体的に作られており、水分子による熱揺動により確率的な変形は常に受けているものの、その立体特異性に基づく触媒機構は忠実に保たれており、実に「秩序だって」いるとしか言いようがない。このような「秩序の塊」と言えるような生物の存在は、熱力学第二法則を侵害しているように思われる。なぜなら、生物は、「自然と発生してきた」のだから。これは僕が高校3年のときに持っていた疑問であり、かつ、大学4年の時に解決した疑問でもあるが、その上、本書においても取り上げられており非常に驚いた。と同時に、僕がまるで自分で発見したかのように思っていたこの疑問がとっくの昔の70年代には当たり前のように解かれていたということに少なからずショックを受けた。まぁ、凡人が考えられる程度の疑問は科学者の誰もが考えついてしまうのだろう。)

そして、これは僕にはなかったので非常にくやしいのだが、マルクス主義、弁証法的唯物論、またプラトン、ヘラクリトス、ヘーゲル、カント、デカルト等の思想の論理体系とイデオロギーの勘所や代表的な特徴、くらいは知っておきたかった。
それがあると、この本はより楽しいに違いない。

というのも、モノーがやっているのは、「分子生物学の知見を使って、これらの思想をぶっ飛ばす」ということだからだ。
「これらの思想」自体に不慣れであるため、どの程度、痛快にやっつけているかが僕自身としてはいまいちピンときていないのが残念だ。

とはいえ、本書によって多くの形而上学的な疑問がある程度すっきりとした。
また、生物系を専攻すると「当たり前」と言える、DNAの複製機構や、タンパク質の立体構造に由来する触媒反応や、そのタンパク質を作り出す翻訳→合成の過程や、タンパク質の一次構造とその折れたたみによる立体構造の形成(とともに、一次元から三次元に「情報」が増えるというパラドクス)や、確率論的にDNAの複製が間違われることなどの分子生物学上の古典的知見が、一見関係ないような「弁証法的唯物論にもとづく史的予言主義」の批判になりうる、というのは実にいい頭の体操になった。
「その事実をそう使うのか!」という発見である。

というわけで、こう限定するかたちで本書をお勧めしよう。

大学3年生程度の生物の知識を有する方で、
かつ、哲学的な(ある意味思春期に誰もが持ちうる答のないソフィーの)疑問に付き合うくらい精神的な余裕のある方には、本書はお勧めである。


そして、今考えてみると、祖父は僕のそんな性質を見極めていたに違いないのだった。


, listening to ハイウェイ/くるり