2009年12月27日日曜日

044. さよならの前に(2009年の明細)


【事の顛末】
2回前の日記で、「インドにでも行こうかなぁ。」と考えていたが、
その後のリサーチで、インド行きの便は、33万円もするデリー行きの便しか残されていないことが判明・・・!(世界一周旅行券が47万円で買えるのに、インドで33万はないっしょー)
完全に機を逸していたのだ。年末年始の海外は今回が初めてだが、甘く見ていたとした言いようがない(格安航空券はのきなみsold out・・・日本から出れないかと思った)。
「連休を無事に取れるか取れないかは直前にならないと分からない」・・・とは言え、もう少し行き先を絞っておくべきだった(航空券購入まで、迷った時間が大きなロスだったと反省)。この反省は、今後の旅計画に生かそう。

というわけで、あえなく航空券が唯一取れた、タイ・バンコク行き(6万)となった。
と、いうわけで、今日からタイである(あと1時間で家を出る)。
ビーチリゾートには興味がないので(1人で行ってもつまらないっす)、北方の少数民族の村に行ってみることにした。微妙・・・かもしらんけども、、とりあえず、このサイトでもいずれ報告したい。



【本題】
さて、2009年も終わりを告げようとしている。
というわけで、2009年の手帳にお別れを告げて、2010年の手帳を持ち歩こうと思うのだが、ちょぉっと待ったぁあ!
せっかくなので、ここで2009年がどんな年だったか振り返ってみたい。

【旅の明細】
今年は「海外旅行強化年間」とも言える年であった。

3月:韓国へ(このサイトには未UPだけど実は行ってました。男三匹旅行。)
4月-5月:ペルー&ボリビアへ(一人旅。かろうじてUP済み。)
8月:インドネシア(一人旅、現地で友人2人と合流。これも未UP・・・。)
12月:タイ(一人旅。これから行きます。いつUPできるかは例によって未定☆)

それにしても・・・一体いくらかかったんだ?^^;
下世話な話ではあるが、考えてみると、、
韓国6万、ペルー&ボリビア35万、インドネシア8万、タイ14万で、63万くらいか。
これ以外に、撮影機材の準備を含めると・・・

やめておこう。


【イベント】
今年は何と言っても、写真サークル「ニーチ」への参加が大きかった!
このサークルのおかげで、「写真が好きな人たち」(=共通の興味がある人たち)と出会うことができた。それもたくさん!さらに、(なぜか)理系もいっぱい!(これ実際、すごく嬉しい。「生命と物質との違い」を真剣に小一時間論じられる人はなかなかいない。)
ほぼ同時期に入った人たち(通称「621」)との交流も増え、来年2月には撮影旅行も予定している。
今後も実に楽しみだ。

【本・マンガ・映画・音楽・美術展・写真展】
1月:随筆 俵万智/恋する伊勢物語
    映画「感染列島」(時期的に適切だったと言えるでしょう)
    映画「クローバーフィールド」(アメリカ「反省期」の作品。)
2月:小説 塩野七生/コンスタンティノープルの陥落
    漫画 奥浩哉/GANTZ (1〜25巻)
    漫画 新井英樹/8月の光
    映画「アレックス」(僕史上、最悪の映画。決して観てはいけない。)
3月:映画「TROY」(どうと言うことはない。)
    映画「マダガスカル2」(2としてはいいか。)
4月:ガイドブック:地球の歩き方 ペルー・ボリビア編(旅の予習)
5月:小説 小田実/何でも見てやろう
  漫画 小畑健・大場つぐみ/デスノート
        音楽 the HIATUS/Trash We’d love
6月:エッセイ 江川卓/夢ワイン
7月:ガイドブック:地球の歩き方 インドネシア編
8月:音楽 阿部真央/ふりぃ
9月:美術展:新潟妻有アートトリエンナーレ「大地の芸術祭」(621初撮影旅行)
    写真展:ニーチ/第6回ニーチ写真展 写本Vol.4
   写真展:田野晋一/「hernia」
10月:写真展:有元伸也/「ariphoto2009 vol.3/ WHY NOW TIBET」
   写真旅行:ニーチ合宿@初島
   写真展:森嶋一也/ 「巡」
   漫画:岩明均/ヒストリエ
11月:写真展:フォトコミニケーション展(朝海陽子、浅田政志、若木信吾)
   音楽: MORNING GROLY/ Everything
12月:沙絵・松村歩美/おくりもの展
   漫画:荒木飛呂彦/ジョジョの奇妙な冒険(第一部~第二部)(最高です) 
   音楽鑑賞:日本フィルハーモニー交響楽団 ベートーベン 交響曲第九番
        (指揮:小林研一郎)
うーん。
こう振り返ってみると、後半は写真展が多いなぁ。やっぱりニーチに参加したことで、急激に写真に対する興味、情報 (金沢さんいつもありがとうございます!)が増えたということなんだろうなぁ。
来年から、もっと写真にのめり込んでいきたい。もう後戻りはできないぜ!

【コンクール】
そろそろ時間がやばくなってきたので、簡単にまとめましょう。
1月:短編小説「cut and paste」が超短編小説大賞で佳作をいただきました。
9月: 写真「見つかった!?」 が北都色いろいろ大賞でスタッフ賞をいただきました。

来年も、何らかの形でWorksのページに載せられるような作品づくりをしていきたいなぁ。

というわけでお時間がやってきました。
タイにいってきます。

手帳よ、1年間ありがとう。

listening to 「Everything / MORNING GROLY」

2009年12月17日木曜日

043. 新型インフルエンザについて(素人の戯れ言)


2009年4月26日、メキシコに端を発したブタ由来新型インフルエンザ(AH1pdm,または S-OIV)のヒト-ヒト感染は、瞬く間に全世界へと拡大し、
2009年6月11日、ついにWHOは新型インフルエンザの「パンデミック(世界的大流行)」を宣言した。

今回は、2009年に世間を騒がせたこの新型インフルエンザについて、ちょっとだけ、僕なりの考えをご紹介したい。

なお、僕は医師ではないし、薬剤師でもないし、疫学者でもなければ、自然科学の研究者でもない。つまりは、素人さんである。単なるサラリーマンである。このため、ここに書かれた内容には、何の科学的ないしは医学的根拠はないし、きちんとした疫学的な解析結果に基づいたものでもない。

(そういうきちんとした考察は、プロの研究者の論文を待つとして、ここでは「今、まさにここで起こっている事態」を素人なりに解釈してみたいというのが今回の主旨だ(一種の「遊び」である)。実を言うと、素人がこんなことに言及できるのは、「今この瞬間」にしかありえないのだ。というのも、現在進行形の新型インフルエンザの拡大に関して、きちんとした論文が出るのは恐らく早くても4月だ。今、研究者達はやっきになって論文のデータを集めている最中で、そのデータにきちんとした解析と考察を加えた上で、論文を執筆し、それが雑誌の査読を通り、掲載されるまでのプロセスにはあと数ヶ月を要する。ということは、「今この瞬間(2009年12月下旬)」では、世界の誰もが「2009年の新型インフルエンザの流行(北半球)」に対して、「これだ!」という解釈を与えることはできないのである。この点で、今こそ自由にこの話題を素人が語る(騙る?)ことができる!というわけで、日々、国立感染症研究所の感染症週報を眺めながら、密かに思い描いている「インフルエンザの今後」について、勝手気ままに書いてみたい。なにしろ、僕は素人なのだ。)

というわけで、「所詮は素人さんの戯れ言である」という点を承知の上で、「これからインフルエンザってどうなるの?」といった内容にご興味のある方は、以下読み進めていただきたい。


お題:季節性インフルエンザはこの世から消滅してしまうのではないか?

国立感染症研究所の「感染症週報」を見ていると、奇妙なことに気付く。
それは、本来11月〜12月になると流行り始めるはずの「季節性インフルエンザ」が全く見当たらないのだ。(季節性インフルエンザとは、平たく言えば、「従来型のインフルエンザ」である。つまりは旧型。季節性インフルエンザは、細かく分けると、AH1亜型、AH3亜型、B型の三タイプに分かれる。2009年に新型(AH1pdmやS-OIVなどと表記される)が加わり、現在、ヒトーヒト感染が起こっているのは、4タイプということになる。)

以下、週報から抜粋したインフルエンザウイルスの検出報告割合だが、2009年の28週(7月上旬)から49週(11月末)の流行状況は、 実に99.11%が新型インフルエンザによるものである。


以下のグラフを見てみると、2009年の35週以降(つまり、8月中旬)から、赤の新型インフルエンザのみが流行しているのがわかる。



さらに、過去10年間の流行状況と比較すると、今年がいかに異常であるかはっきりするだろう。

赤が2009年の流行状況である。
いつもは流行らない時期に、2009年だけが流行しているのである。それも、先述したとおり、ほとんどが新型。

通常、季節性インフルエンザは、47週(11月中旬)から流行が始まるが、今年に関して言えば、一向にその気配が感じられない。

医師の間では、つい1〜2週間前まで、
1月になれば、季節性インフルエンザが流行り出して、二峰性(ふたつのピークがあること)の流行となるだろう。」
という予想がまことしやかに(かつ、もっともらしく)流れていたが、12月も半ばを迎えて、一概にそうとは言えない状況になってきた。

さらに、参考までにすでにインフルエンザの流行シーズン(つまり冬季)を終えたオーストラリアの流行状況を調べてみた。

 出展元:オーストラリア厚生省HP
http://www.health.gov.au/internet/main/Publishing.nsf/Content/cda-surveil-ozflu-flucurr.htm

茶色が新型インフルエンザ、緑が新型とも季節性とも同定できていないもの、そして青が季節性インフルエンザである。
緑の「どちらとも同定できていないもの」を新型と考えるか季節性と考えるかで解釈が異なってしまうが、仮に半々であったとしても、少なくとも「ピークが二つになることはなかった」ということが分かる。
さらに、ラジカルではあるが、仮に緑が全て新型インフルエンザであると仮定すると、「季節性インフルエンザはほとんど流行しないまま冬季を終えてしまった」ということになる。

僕はこれらデータが、

「今まさにこの瞬間が、インフルエンザの淘汰の歴史そのものを現しているのではないか?」

と考えている。
生物界に「自然淘汰」というものがあるのはご存知だろう。それがまさに、今、ここで、起こっている。(のかもしれない)

もともと、季節性インフルエンザと呼ばれているインフルエンザウイルスは、パンデミックを起こしてきた。
1918年に「スペインかぜ」が流行し、世界で5億人が感染、4千万人以上の死者を出したが、この「スペインかぜ」とは、実を言うと、季節性インフルエンザのAH1亜型なのだ(正確には、その後1977年にソ連を中心として再流行したウイルスが現在のAH1の直系であるが。なお、参考までに言うと、今年の新型インフルによる全世界の死者は、1万人程。スペインかぜの1/4000である。そういった意味では、スペインかぜの時よりも被害は少なかったと言える。とはいえ、1万人が死亡しているのはとてつもないことだが)。

また、1968年にアジアを中心として「香港かぜ」が大流行を起こしたが、これも現在では季節性インフルエンザとして定着しているAH3亜型によるパンデミックであった。

つまり、これまでの歴史から言えることは、

「パンデミックを起こした新型のインフルエンザは、その後、季節性インフルエンザとして定着し、毎年流行を繰り返す」

ということになる。

僕は素人であるから勝手気ままに以下のように予想(空想)している。

・少なくとも、季節性インフルエンザのうち、AH1亜型はこの世界から淘汰され、消えてなくなる。(そもそも、新型インフルエンザとは、このAH1亜型がさらに変異したもので、親戚に近い存在である。素人考えとしては、AH1亜型と新型インフルエンザは、非常に近い感染特性(流行時期がかぶっている&感染しやすい人がかぶっている)を持っており、その結果、お互いに淘汰し合う間柄ではないかと考えている。これ、超テキトーだけど(笑))
AH3亜型とB型は、その抗原性が新型インフルエンザとは異なることから生き残るものの、二峰性のピークを出現させるほど流行はしない。(これも、明確な根拠なし。おいおい(笑))
・上記の結果、早晩、WHOは「新型インフルエンザ」という呼称を撤廃し、次のような宣言を出すだろう。
「新型インフルエンザは、季節性インフルエンザになりました。これから毎年流行るので、みなさん、うがい、手洗いを励行しましょう!」

そして、日テレの朝の番組「スッキリ」で、テリー伊藤はこう言うのである。

「新型インフルエンザって何だったんでしょうねぇ(笑)」

と、まぁ素人考えをつらつらと述べてきたが、もしこの予想が当たったのなら、実は人類にとって非常に幸運な淘汰の歴史が行われたことになる。

というのも、こんな嫌なシナリオだって考えつくのだ。

・季節性のAH1は、淘汰されることなく、流行する。
・季節性のAH1は、2008-2009シーズンで、99%近くタミフル耐性(H274Y変異があったウイルス。H274Yとは、ノイラミニダーゼというタミフルが標的としている酵素の274番目のアミノ酸がヒスチジンからチロシンに変異している、という意味。この変異が耐性を生む。)であったことから、季節性AH1と新型インフルとが混合感染したヒトの体内で、「タミフル耐性の新型インフルエンザ」が出現する。
・新型かつ、タミフル耐性の「超新型インフルエンザ」は、遺伝的に見て、増殖能力が高い(通常、薬剤耐性ウイルスは、増殖能力が低く、出現しても一瞬で淘汰されて問題にならないが、上記のような掛け合わせだと、増殖能力を一定に保持したまま、タミフル耐性になりうる)。
・新型インフルエンザは、次の冬季(2010年-11年シーズン)にも大流行を起こすはずだが(というのも、「アジアかぜ」という過去のパンデミックでは、2シーズンの大流行があり、かつ、2シーズン目の方が死者が多かったという歴史がある)、そのときに「タミフル耐性」の「超新型インフルエンザ」となって、さらなる猛威を振るうだろう。
・現在、抗インフルエンザウイルス薬としては、70〜80%程度がタミフルで、20〜30%がリレンザという薬剤が使われているが、タミフル耐性を忌避して、リレンザの使用量が急速に増加する。しかし、リレンザの生産量は、前年の生産量を参考に設定されているため、一気に需要が供給を上回り、医療現場では混乱が生じる。(ただし、今のところ、H274Y変異のみでは、タミフル耐性になるものの、全く臨床的な効果がなくなるわけではない。タミフルを使用したとしても、一定の効果は得られるのである(タミフル耐性、とは「タミフルが効きにくくなっている」という意味ではあるが、全く効かないわけではない。タミフルを服用した場合の血中濃度は大体500〜1500nMと言われているが、仮に野生株のAH1が耐性を獲得して300倍タミフルが効きにくくなっても、まだ効果は望めるというデータがある))。

というわけで、季節性AH1が淘汰されて、新型インフルエンザが流行するのは、実は「タミフル耐性」の新型インフルエンザを出現させないためには、「いいこと」なのだ。

さて、つらつらと素人考えを述べてきたが、本当に恐ろしいシナリオは別にある。
しかし、もう深夜1時20分。
今日の所はこころらへんで筆を置こうと思う。

僕は、またしばらく空想に耽ることになるだろう。

listening to 「Nothing」

2009年12月9日水曜日

042. 出会ってしまった。(そして僕は旅に出る)


想像を絶するスピードで、担当プロジェクトは進行した。
そのおかげもあって、今年の年末はかなり早い時期から休めそうである。
22日で仕事納め、という夢のような現実が、現実となりそうな予感である。
23日から1月3日まで。
実に12日間。
12日間あれば、地球上の大部分が「射程距離内」だ。






さて、  と。

そうとなれば、行くしかあるまい。
また、僕は旅に出ることにした。
今度は、そうだな。
インドにでも行ってみるか。

電脳バックパッカーを自称する僕にとって、旅の入り口はいつも、インターネットだ。
お気に入りのサイトを覗いては、未知の旅先へと思いを巡らせる。
この行為は、ときに楽しく、またときにしんどいものでもある。

その理由は簡単で、
「探し物」
をしているからだ。

「ここだ!」という目的地を探すこと、
それはある意味で、「この人だ!」という恋人を探すのに似ている。
そうやすやすと見つかることはない。

「探すこと」というのは、本質的に実に忍耐を強いられる行為なのだ。
今回も例に漏れず、目的地探しは難航している。

インドという国は、どうやら「やっかいな国」らしい。
やみつきになるくらい熱狂的に好きになる人もいれば、
もう二度と来たくはない、と断言する人もいる。
それは、日本のクリーンで整然とした日常から、180°逆転した混沌と熱気がそこにあるから、と思われる。

「日本にはないもの」に魅力を感じる人もいれば、
あまりの違いに、「ひいてしまう」人もいるということだ。

インドの旅行記を見ると、強烈な客引きの話や、騙そうとする人の多さや、実際に被害にあった悲しい話が、他の国よりも格段に多い。

これは、正真正銘、「やっかいな」部類だろうなぁ。
僕はモロッコでの苦い経験を思い出しながら、旅行記サイトを読みあさっていた。

僕のお気に入りのサイトに、
「さまよいの地球」
http://www15.plala.or.jp/samayoinohoshi/
というサイトがある。

僕が海外に旅することになったキッカケは、このサイトが作ってくれたと言っても過言ではない。
そのサイトの管理人Sammyさんは、インド、モロッコ、カナダ、アラスカ、アメリカ、カンボジア、ペルー、ボリビア、キューバ等、かなり旅の経験がある方で、写真の腕も素晴らしい。
この人の旅行記と写真から、僕は多くのことを学んだと思う。

今やっているこのサイトも、「さまよいの地球」が無ければ誕生しなかっただろう。

さて、そんなSammyさんをして、「インドには振り回されっぱなし」だと言う。
インドというのはいかなる国なのか。
僕はますますもって、インドに行きたいのか?どうなのか?
分からなくなってきた。
とはいえ、ガンジス川沿いにあるバラナシという街の風景、そこに佇む人々の様子は、写真撮りにとって非常に魅力的に映るのも事実だ。
夜明けのガンジス川を撮影したい。
そんな思いも感じる。

「行ってみたい」という衝動と「自分には合わないのでは」という予感を感じながら、僕は「さまよいの地球」に紹介されていたあるサイトに行き着いていた。

「たびそら写真家・三井昌志が撮る素顔のアジア—」


このサイトは、 すごい。


僕は、一見して「とんでもないサイトを見つけてしまった!」という感覚に襲われてしまった。

写真が、生きている。

のである。
こんな生き生きとした写真を、僕はこれまで一度も撮ったことがない。
管理人の三井さんと同じ国、例えばカンボジアやモロッコに、僕も行ったことがある。
しかし、僕が撮った数千枚を重ね合わせても、三井さんの1枚には及ばないのではないかと真剣に考えてしまった。


「出会ってしまった。」


僕は、2005年に「さまよいの地球」を見つけたときに感じた思いを、2009年の今日、「たびそら」に対して感じている。

「三井さんのような写真が撮りたいなぁ。」

僕は無理なお願いをする駄々っ子のように、素直に憧れている。

「たびそら」に登場する国を見ているうちに、
インドに行きたくなってきた。
バングラディッシュにも行きたくなってきた。
うーん。

あと2日間だけ、考えよう。

listening to 「Everything / MORNING GROLY」

2009年12月5日土曜日

041. 悩ましいイメージ(脳内あそび)


その昔、研究室のテクニシャン(実験のお手伝いさん)にN嶋さんという人がいた。
僕は、そのN嶋さんと一緒に、自転車で買い出しに出かけたことがあった。
快調に下北沢への道を飛ばしていたのだが、突然、前を走っていたN嶋さんが急ブレーキをかけて停止した。

僕はぶつかりそうになって、「ちょっ、どうしたんですか?」と慌てて尋ねると、N嶋さんは「しっ!」と静かにするよう合図した。そうして、しばらくすると、おもむろにこう言った。

「ブルセラ好きなおじさんがね。」

「はい?」

「ブルセラ好きなおじさんっているじゃない?そんな人が、女子高生を見てるような気分なの。」

「あの~、・・・全然意味わかんないですけど。」

と言いながら、見つめている方向を見ると、一匹の猫が実に気持ち良さそうにひなたぼっこをしていた。
あーそうだった。N嶋さんは無類の動物好きだった。
当然、猫も例外じゃないわけだ。
しかも、その好きっぷりは尋常じゃなく、「ブルセラ好きなおじさん」並らしい。変態である。

「猫、好きなんですね?」
と静かに聞くと、

「そう・・・」
と言ったN嶋さんは、一瞬どこか寂しそうに、ポツリとこう言った。


「でも、猫アレルギーなんだよね。」


悩ましいっ。
とてつもなく悩ましい。
N嶋さん曰く、

「抱きしめたい!もう、すぐさま抱きしめたいんだけど、できないのよ。だって、すごい蕁麻疹でるから。」

昨日僕は、外勤先の街をもそもそと歩きながら、突然そんなことを思い出していた。

(あれはつらいよなぁ。【猫好きなのに、猫アレルギー】って。神が与えた試練かよっ!ていうか、むしろジョークだよな(笑))

と、5年近く前のそのエピソードに、思わず「思い出し笑い」をしてしまった。不覚である。

さて、僕の職種は外勤や出張が多く、南は沖縄から北は北海道まで、街から街へとかなり移動する。その結果、「移動する時間」というのが一般的なサラリーマンよりもかなり長くなっている。
大抵は、音楽を聴いたり、本を読んだり、新聞を読んだりして、移動時間をやり過ごすわけだが、たまに音楽プレーヤーの電池が切れていたり、本を家に忘れてきたり、満員電車で新聞を広げるスペースがなかったりと、なんとなく手持ちぶたさな時間が生じてしまうことがある。

そんなとき、僕は脳内で一種の「遊び」をすることにしている。
それはとても簡単なものだ。
例えばこんな感じ。

「夜。」

という言葉を脳内で発声してみる。
すると、僕の脳は、「夜のイメージ」を脳内に作り出す。
暗い、どこまでも暗い夜。
それが例え、煌煌と明るい朝の山手線の中であってもだ。
次に、僕は

「冷たい空気。」
と頭で言ってみる。

すると、僕はピーンと張りつめた冬の夜を感じることができる。
それが例え蒸し暑い満員電車の車内であってもだ。

「雪。」
とたんに、景色はスキー場の夜の景色に変わる。シャリシャリと踏みしめる雪の感触。吹雪いてよく見えない視野。分厚い手袋で感覚が鈍った両手。寒さで鼻頭がぴりぴりと痛み出す感覚。
そんな「感触に溢れた世界」が、「言葉」を引き金にして数珠つなぎになって僕の頭にダウンロードされる。

これは一種の連想ゲームだ。
「言語」から「イメージ」へ、「イメージ」から「言語」へ、そしてまた「イメージ」へと綱渡りをするように、幻想の世界を無作為に彷徨って行く。

一言で言えば「言葉遊び」だが、よくよく考えてみると、脳科学で言う「クオリア」(明確な質感/特質を持つ感覚データ)を積極的に使った頭の体操になっているな、と思う。

言葉というのは不思議なもので、一度習得してしまうと、その言葉が持っているイメージ(クオリア)がタイムラグなく脳内に現出するという性質を持っている。

これはとても便利だ。
本や音楽がなくたって、僕らには脳内に格納された無数の「言葉」がある。それを脳内でランダム再生させてやるだけで、現実の退屈な時間から、自分の感覚と心を切り離して自由に遊ばせてやることができるのだ。

「最高の遊び道具かもなぁ。」

と、しみじみ思ってしまう。(こんなことってみんなやっているんだろうか?それとも、僕が変なだけなんだろうか?^^;)

さて、N嶋さんの悩ましいエピソードを思い出した僕は、



【猫好きなのに、 猫アレルギー】

という、「悩ましさ」を内蔵した「ねじれのあるフレーズ」というのに興味を持ってしまった。これは、ひょっとすると「言語クオリア遊び」に、また一つスパイスを加えられるかもしれない。

ということで、外勤の移動中に、

「嗚呼!悩ましいっ。」

という、胸キュンなフレーズを考えてみた。(どこまで暇なんだ)
以下、僕が考えついた悩ましいフレーズを余す所なくご紹介しよう。(なぜなら暇だからだ)

---※以下、あなたの貴重な時間を無駄にする駄文が続きますのでご注意ください---




フレーズ.1
【不器用なのに、 脳外科医】

嫌だ。とてつもなく不安になる。
「先生!手術の成功確率はどれくらいなんですか!?」
「ご安心ください。一般的にはほぼ100%、成功しますよ。」
「ああよかった。」
「でも私、・・・不器用ですから。」
辞めろよ!
いくら医者役が渡哲也であったとしても、嫌だ。




フレーズ.2
【口下手な、 弁護士】

これも不安だ。
「ちゃんと弁護してくれよ!」っていう被告人の叫びが聞こえる。




フレーズ.3
【シャイな、 検察官】

事件を追及できるのか?非常に不安である。
「照れてないで、しっかり質問しろ!」という被害者家族の叫びが聞こえる。




フレーズ.4
【早とちりな、 裁判官】

ここまで来ると、法廷はカオスである。




フレーズ.5
【悪人面の、 被告人(無実)】

えん罪くらいそう。
「私、本当に何もやってないんです!(ニヤリ)」




フレーズ.6
【機長が、 高所恐怖症】

「えー、ただいま高度1万2千メートルを順調に運行中です。
 そして、
 ・・・私の手は震えております。」




フレーズ.7
【看護婦が、 どS】

「いつもより太めの針を用意しましたからね。」
「え!そんな必要あるんですか!?」
「いいえ。でも行きます。(ニヤリ)」




フレーズ.8
【占い師なのに、 不運】

「今年の私の運勢は~・・・また天中殺か!
 ちょっと待て。
 3年連続ってどういうこと!?」




フレーズ.9
【ボクサーだけど、 どM】

「馬鹿野郎!パンチもらい過ぎだ!ガードをあげろ!あげるんだジョー!!」
「へへ、おやっさん。だめだ。」
「何がだめなんだ!ジョー!」
「あいつのパンチ、   ・・・気持ち良すぎるんだよ。」




フレーズ.10
【慌てん坊の、 建築士】


フレーズ.11
【うっかり者の、 大工】


「お客様、非常にラッキーですよ!
 本来、お客様がご購入された住宅は施行に8ヶ月かかるところでしたが・・・」
「予定より早くできたんですか?」
「そうです。慌てん坊の建築士が6ヶ月前倒しで図面を完成させまして。」
「えー?」
「その上、うっかり者の大工が適当に作った結果、僅か2ヶ月で出来上がりました。」
「あほかー!」


っていうか、
こんな駄文を夜中の3時半まで書いている僕こそ、

「あほかー!」

って思います。はい。
もう寝ます。
おやすみなさい。

listening to 「Insomnia/ the HIATUS」

2009年11月15日日曜日

040. どっかのだれかが(生活をつくるもの)


僕は、

どっかのだれかが作った服を着て、
どっかのだれかが作った道を歩き、
どっかのだれかが穫った魚を、
どっかのだれかが作った店で食べる。

このガードレールは、どんな成分で出来ているのだろう?
鉄とニッケルの合金だろうか。
この白い塗装は、酸化チタンだろうか。

仮にそうだとして、
この鉄とニッケルと酸化チタンは、どっからやってきたのだろうか?
オーストラリアだろうか。
ロシアだろうか。
ボツワナだろうか。
ボリビアだろうか。

いずれにしても、
はるばるとこの国までやってきて、
ガードレールの形に変えられて、
アスファルトの大地に埋め込まれて、
今は、ガードレールとして、歩道と車道を分ける働きを、この街で行っている。

僕が着ているこの服は、
きっと中国で作られた繊維を、ベトナムで縫製したものだろう。
この繊維を染め上げているカーキ色、その染色の作業は、中国在住のだれかがやったことになる。

僕たちの生活は、「どっかのだれか」の仕事によって構成されている。
「どっかのだれか」の存在は、僕たちの日常から物理的には遠く離れていても、
確実に僕たちの日常を支える支柱となっている。

そんな無数の支柱が張り巡らされた世界が、
今の社会だ。

僕はそんなことを思いながら、外勤先の街を眺めている。
さて、仕事をしよう。
いずれこの仕事の後先が、どっかのだれかの日常の「支柱」」になることを信じて。

listening to 「PADDLE/ Mr.Children」

039. なんのために?(僕は知らない)


友人が面白いことを言っていた。
「町工場ってあるでしょ?自動車の部品とか作っている。」
「ああ、」
「そういう下請けのさらに下請けって、自分たちが『なにを作っているか?』知らされていないんだって。」
「へぇー。どんな車っていうことも?」
「そうそう。どんな車のどの部分を作ってるか?ってことは教えられずに、『こういう形のものを作ってください』って図面を渡されるだけなんだって。やっぱり、企業秘密とかノウハウとかあるからね。」
僕はこの話を、とても興味深く思った。
「なんのための製品か?」
それが分からないっていうのは、いかにも盲目的な労働のように感じる向きもあるかもしれない。それじゃ、ヤリガイがないじゃないか、と。
しかし、僕が興味を感じたのは、そういった側面に対してではなく、むしろこの事実が持つ「寓話性」の方だった。
「ははっ。じゃあ、もしかしたら、その部品はUFOの一部になったかもしれないね!」
僕は茶化して、そう言ってみたけれど、同時に、
(・・・でも、よくよく考えてみると、僕たちが生きているのだって、本当はこの話とそんなに変わらないのかもしれない。)
と思ってしまった。
別に人生に嘆いているわけではない。
ただ、事実として、僕たちは「自分が生きている理由を知らされていない」。
もちろん、こんな風に言うことは容易い。
「自分が生きる理由は、自分で見つけるものでしょ。」
さらに、酒でも入って熱を帯びて来ると、
「そういう『生きる理由』を探す『旅』が、『人生』そのものなんだよなぁ。」
なんて、哲学(っぽいドラマ的なパースペクティブ)を語ったりする。
それはそれで、実に真っ当だと思うし、そんなことを熱っぽく語る人を僕は好きだ。
むしろ、「ああ、よかった」とすら思う。
だって、そんな発想は、とても純粋だし、とてもストレートだし、とても人間味に溢れていて、居心地がいい。
だから僕は、
「うーん。確かにそれはそうだけど、それって思い込・・・ごにょごにょごにょ。」
と、語尾を飲み込んで、そんな発想を受け入れてきた。
また、ある人はこう言うだろう。
「なぜ生きるか?より、
 どう生きるか?の方が重要だ。」
確かに人生は一見すると短いし、その中でやらなければならない事はたくさんある。大体、「なぜ?(Why?)」より、「どうやって?(How?)」の問いの方が、機能性を追求した質問形態であるだけに、「お役立ち度」が高いのは自明だろう。
そういった立ち位置で物事や人生を考えた方が、よっぽど充実した人生につながることは、僕も分かっているつもりだ。
とはいえ、「Why?」の方が、意味性を追求した質問形態であるだけに、「ロマン度」はこちらの方が上。そして、僕は自称ロマンチストである。(と言ったら、友人全員に笑われるのは目に見えているが。恐らく、「どっちかって言えば、リアリストだろ。」と冷たくあしらわれるのが関の山だ。)
無論、僕だって「どう生きるか?」は大事な質問だと思う。
むしろ、毎日、割と真剣に「どう生きるか?」をブレイクダウンした「どうやったら今日という日を明日につながる意味のある一日にできるか?」「どうやったら、この仕事を完全なものにできるか?」「どうやったら効果的に、このプレゼンの主旨を伝えられるか?」「どうやったらチーム員全員がスムーズに仕事をできるか?」というようなことを考えている。
そういった点を考えてみると、「どう生きるか?」という問いは実に日常的なもので、より良い人生を追求する過程で必然的に通る道のようなものだと思う。
でも、たまには頭を、少年のような状態に戻してあげたい。
純粋に、「なんで?」っていう問いに向かい合いたい、というのは僕だけが感じる欲求だろうか。
それからもう一つ。
上のような発言には重大な欠陥がある。
「どう生きるか?の方が大切だ」と質問者の姿勢を批判することで、「なんで生きてるのかなぁ?」という質問そのものには全く答えていないのである。これは現実のディベートでは有効な戦略だが、純粋に答えを求める質問者には、がっかり感を与えるだけだろう。
一言で言えば、
「話を逸らすなよ。」
である。
またある人(特に大人の人)は、こう言うだろう。
「生きる理由や意味なんて、そんなものはねぇよ。
 お前は死にたいか?死にたくないだろ?痛いのは嫌だろ?
 だから、生きているんだ。死にたくないから生きている。それだけだ。」
立川談志あたりが、べらんめぇ口調で言い出しそうな台詞だ。
これは、思いっきり開き直っていて、リアリストに徹しているという点で好感が持てる答えだ。僕も、恐らく頭の80%くらいでは、この意見に賛成できるだろう。
でも、残りの20%の頭は、「この主張ってつまんないなぁ。」と思っている。
「Why?」というせっかく意味性に特化した質問を投げかけているのに、その「意味」(形而上学的な命題)には触れようとせず、「痛み」や「恐怖」と言った感覚(形而下学的な根拠)に立脚して答えてしまっているからだ。
もちろん、そんな「痛み」や「恐怖」といった感覚は、厳然として存在しているし、それを覆そうとは思わない。
とはいえ、僕の中学生のような頭は、
「なんかこう、もっと面白い答えはないの?」
と無邪気に不平を言ってしまう。
さて、そんな偏屈かつ幼稚な僕がむしろ興味を感じるのは、
「生きる理由?なにそれ食えんの?」
っていうくらい、この疑問に興味を持つこともなく、数十億の人々が生きているという現実だ(もちろん、宗教や家族、仕事といった拠り所を見つけて、生きる理由を「分かった状態」で生きている人々も数十億といるだろう)。
僕たちの日常は、どうという訳もなく忙しかったりする。
36協定?なにそれ食えんの?
っていうくらい、働いたりする。
そんな嵐のような日々の中で、立ち止まって、
「そういや、俺ってなんのために生きてるんだっけ?」
なんて考える時間は本当に一瞬だ。そんなことを考える暇もないくらい、僕たちは全力で生きている。それはそれで素晴らしい。
そんな素晴らしい人生の中で、
「俺は、妻と息子と娘のために働いている。生きている。」
っていうのも真実になりえるし、
「俺は、このとても優れた商品を世の中に広めるために生きている。」
っていうのもいいアイデアだろう。
僕も、今のプロジェクトを成功させたいし、この仕事でもしかしたら多くの人を少しでも癒せるかもしれないと信じて、今日もまた仕事をしている。
生きる理由は人それぞれでいいし、それが当たり前の現実だろう。
ただ、それでもたまにふっと思ってしまう。
「あれ?なんか大事なこと忘れてない?もっと別に、もっと根本的な、『知りたいこと』があったんじゃない?」
僕は、時間をかけて、経験を重ねて、なんとなく成長したような気になったりしながら、その実、本当の疑問の周囲をぐるぐると回っているだけに過ぎないのかもしれない。
こんな変てこな考えは、さっさと捨て去りたい。
でも、僕はやっぱり考えてしまう。
「生きる理由ってなんなんだろうねぇ。」
と。
例えば、こんなストーリーがあったりしたら、僕はとても満足するだろう。
「驚くなよ?実は地球ってスーパーコンピューターなんだぜ。」
「え?どういうこと?」
「地球っていう天体は造られたものだったんだ。ある高次な知的生命体が、『生命、宇宙、そして万物についての(究極の疑問の)答え』を見つけるためにね。」
「でも、天体である地球がコンピューターだったなんて信じられないよ。」
「そうかな?君は今、『生きる理由』ってのを考えているだろう?」
「ああ、」
「そんな疑問は、数百万年前から人類が考え続けた疑問なんだ。そして、その問いを続ける過程で、宗教が生まれ、科学が生まれた。そう、気付いただろ?俺たち人間は、地球というスーパーコンピューターの演算素子のひとつなんだ。」
なーんて事をダグラス・アダムスさんは「銀河ヒッチハイク」というSF小説でうそぶいたそうだ。
でも、そんな話が本当だったら、どんなにいいのになって思うときがある。
「そっかー」
と、納得してしまうように思う。
と言ったら、人によっては「なんで?」って思うかもしれない。
実際、数年前まで僕もそうだった。
上記のような銀河ヒッチハイクの話をある人にしたときに、その人は、
「本当にそうだったらすごいね。」
と非常に肯定的だった。その反応に僕はとても驚いて、
「え?そうかな。俺はやだけどなぁ。だって、自分の命が誰かに仕組まれたものみたいじゃん。」
と答えたものだ。
でも、先に挙げた「町工場の話」を持ち出したら、もう少し違った視点で理解できたかもしれない。
何を作っているか分からない従業員は、自分の仕事にヤリガイを感じられないでいた。
従業員はつぶやく。
「毎日、毎日、同じ部品づくり。なんて面白みのない単調な仕事なんだ。」
そんなある日、隣で働く友人がそっと耳元で囁いた。
「知ってるか?実は、俺たちが作っているこの部品って、レクサスの一部分なんだぜ。」
こんなことを知ったら、きっとその従業員は喜ぶに違いない。
「そっかー!あのレクサスを俺たちは作ってたのか!」
トヨタの高級車、レクサス(ハイブリット)は4ヶ月連続で販売増。2009年の10月には70%も増加したらしい。そんな日本最大企業の大本命の車を、今、自分たちの手で作っているなんて!
きっと、町工場の従業員達は、自分たちの仕事をある種、「崇高なもの」として感じられるに違いない。俺たちの仕事には意味があり、理由があるぞ!と。
上記の喩え話の「仕事」を「人生」に訳してやれば、そのまま銀河ヒッチハイクのくだりと符合するだろう。レクサスは、『生命、宇宙、そして万物についての(究極の疑問の)答え』だ。
僕がこの町工場のお話に「寓話性」を感じたというのは、そういうことだ。
なんだか訳も分からず生きてきた。
でも、その生には理由もあって、意味もあった。
その理由や意味が崇高なものだと感じられたなら、その生もまた崇高なものとなりえるだろう。
そう考えてみると、銀河ヒッチハイクが示したフィクションが、僕にとって非常に魅力的に映るのは自然なことのように感じられないだろうか?
でも、、
しばらくすると、僕はまたこう思ってしまうだろう。
「でも、その高次な生命体って何者さ?」
「その高次な生命って、誰が造ったんだろう?」
「なんのために?」
listening to 「トーキョーシティーヒエラルキー/Bankband」