2012年11月23日金曜日

146. 写真の効能追加(区別をなくす)

ここに、祖父の形見の懐中時計がある。

僕は祖父がその懐中時計を片時も離さず持っていて、
夕暮れ時になると左胸の内ポケットからそっと出して、
老眼鏡をおでこの上に押しのけてから時刻を確認していた、
その少し猫背気味の姿を憶えているから、
これがただの懐中時計だとは思わず、祖父の形見であると認識できる。

「そろそろ帰ろうかね」

という優しい声と結びついているから、それが祖父の形見として、僕の中で機能する。

そのひんやりした感触や、ネジを巻くときの歯車の抵抗に、
「ああ、かつてこの感覚をおじいちゃんも感じた瞬間があったのだな」
と直感し、祖父と僕とが時間を越えて再会したような、そんな一瞬の夢を見ることができる。

しかし、この懐中時計が祖父の形見であるとは知らない人がやってきて、この懐中時計を見たら、なんのことはない、古い、すすけた懐中時計に過ぎず、誤って燃えないゴミの日に出してしまうかもしれない。


このように、モノに宿る記憶というものは、「ダイレクトに(=同じ時間と空間で)その記憶を共有した人」にしか生まれないという性質がある。

しかし、例えば、祖父がその懐中時計を見ているシーンを写真に撮っていたとして、その写真が懐中時計と一緒に保管されていたら、どうだろう?

少なくとも、この懐中時計が祖父に使われていたことは証明される。
少し想像力を働かせれば、この懐中時計が何の脈絡もなくこつ然と現れたものではなく、祖父と供に一定の時間を過ごしていたであろうことも分かる。
それは、例えば、言葉の通じない外国人にも、恐らく伝わるはずだ。

写真とはシーンであり、シーンには意味を持たせることができる。
写真は存在証明になりうる。
モノに与えられた記憶を、「その記憶をダイレクトに(=同じ時間と空間で)共有していない者」にも、伝える可能性を秘めている。

といったようなことが、写真の「古典的な性質」である。
こういったことは、既にロラン バルト等、古典的な写真論の中で語り尽くされたもので、その類いを読んだ方々には当たり前のことだろう。



ところで、冒頭に記載した「祖父の形見の懐中時計」なるものは、実在しない。


今しがた考えた、「たとえ話」なのだが、一瞬でも「そんな懐中時計があるのかもしれない」と思ってもらえたら、この記事としては成功だ。そして、その「誤認識」は昨今(と言っても15年くらい前から含めて)の写真作品に頻繁に認められる性質でもある。

先に記したとおり、写真にはシーンが固定されており、そのシーンが実在したという「存在証明」になりうる。この「存在証明」という性質を逆手に利用して、あるシーンを人工的に細工し再現し、そのシーンがあたかも実在するかのように見せる(つまり現実を捏造する)作品が数多く発表されている(特に海外で)。

なお、これら作品の本質的な命題は、「現実を捏造する行為」そのものよりも、捏造された現実を、鑑賞者が現実と(一瞬)誤認(し、その後、誤認であったことを自覚)するときに生じる、【現実とは何かという問いかけの視点/角度】であったり、【容易に捏造されうる現実の不確実性】であったり、【容易に捏造可能なアイデンティティーの不確かさ】であったりするのだが、個別の作家や作品にはここでは言及しない。

こういった「ストレートではない」写真は、いわゆる写真らしくはないし、カテゴライズすると「現代アートだよね」となってしまう。
特に日本では「写真」と「現代アート」は、奇妙なほど区別されているように見受けられる。

「これは写真じゃなくて、アートだよね。」

というのは、日本独特の写真文化的発想のように思う。
僕自身は、一観賞者として、両者を明確に区別する必要もないし、能力もない。
なので、無節操に「存在証明」と「存在偽造」を行き来してみようと思う。

そう思うと、写真がとても愉しくなってくる。

2012年11月20日火曜日

145. Welcome to the world !


「吾輩は人である。名前はまだ無い。」




本日(2012年11月20日)、10:45に僕たちの子が、この世界に仲間入りした。
3040g、49cmで、小柄な母親からすると、とても立派な体格。
とにかく、無事で良かった。
それが何より。何より。

さぁ、これからその目で何を見ていくのだろう?
僕は親として、何を見せられるのだろう?

せっかく僕らのもとにやってきてくれたのだから、できるだけ愉しい世界を見せてあげたい。世界の愉しみ方を教えてあげたい。

この子のことをしっかり見よう。
そう思った。
そう誓った。

今日は記念日となる。

2012年11月11日日曜日

144. 写真展を終えて(写真について考える)

写真展を終えてみて、改めて「写真」というものを考えてみたい。
これまで基本的には「旅写真」と「日常スナップ」しか(いずれも記録を主目的とした写真)してこなかった自分にとって、「コンセプトを決めて作品を撮る」という行為自体が新鮮だった。最近読んでいる写真史や写真論とも相まって、自分の中で、写真の特性がより明確になったと思う。私論として、以下にメモしておきたい。


【写真の特性】


  • 写真はごく当たり前の事実として「シーンを固定」する。一方、私たちが普段体感している「ヒトの目を通した視界」は常に「動画」であり、「動き」を含めて外界を知覚している。写真の「静止状態」はごく当たり前のことだが、しかし、これが見過ごせない大きな特徴を形作っている。例えば、作品「 見 え な い 」で、両国国技館の観客を遠くから撮ったが、写真上の「ボケ感」はまさに視力0.02程度の自分の目が見た視界と同じ不明瞭さを携えていた。実際に裸眼でそのシーンを見た時、確かに人の輪郭が完全に消失し、斑の模様になっているように見えたことを記憶しているが、しかし、人々の「動き」は認識できていたため、そのシーンが「大量の人」を示していることに疑いはなく、容易に認識できた。しかし、そのシーンが「固定」された「写真」を見た人からは「これは何を写しているのか?」と聞かれることが何度かあった。繰り返すが、写真上に提示された「色情報」「輪郭情報」「明暗情報」は、僕の裸眼が捉えた視界と非常に近い。しかし、「動き」の情報が無くなるだけで、被写体が何か分からなくなってしまうのである。「動き」という情報は写真の特性上(松江泰治さんの「動く写真」は除く)、欠落を免れ得ない。結果、「写真で再構築した世界」は、通常の「ヒトの視界」から似て非なるものとなる。ニューバウハウスのモホイ=ナジは写真を「人間の視覚の拡張」に位置づけたというが、「人間の視覚」と「写真」は、「動き」の情報1点に関しては決定的に決裂関係にある。
  • しかしながら、逆に、この「固定」という作用によって写真には一種の「謎」が生じるというメリットがある。まず第一に「動き」がない分だけ、先の例のように「想像の余地」が生まれる(つまり、「これってなんだろう?」である。情報が少ない程、人は判断に迷う)。
  • また、「固定」によって、人は「同じシーンを何度も見る」ことができるようになる。普段の生活で、あるシーンを注意深く、何度も何度も見ることはほとんどない。また対象が人である場合、その人も動体であり、流動的なシーンを動画として認識していることの方が圧倒的に多い。それが、写真をひとつの「作品」にしうる一因となっている。これを表す好例に、「シャッターチャンス」と言われるものがある。世の中では動体が交差しており、その交わりによって、いわゆる「決定的な瞬間」というものが生起している。それを「良い構図(コンポジション)」で、シーンを「固定」できるかどうかが写真(一般的な)においては重要であるという概念である。つまり、動きをキャンセルする作業をする以上、「ちょうどよい瞬間」でやるべきであり、その「ちょうどよい瞬間のシーン」を人は見て、驚いたり、頷いたり、面白がったり、気味悪がったりするのである。しかし、仮にその鑑賞者の彼ら彼女らをその実際の瞬間に連れて行ったとしても、彼ら彼女らは「写真を通して」得たディテールまで感じることはできないだろう。無論、「体感としての情報量」は上だろうが(空気の振動、音、匂い、雰囲気全てが体感情報となる)、恐らく、写真で見たほどに「注意深くそのシーンを見ること」はない。例えば、事故車の写真があったとして、助手席のシートのカバーと、車線の向こう側にあるレストランの看板の色が似通っていて、あたかも「ここで事故するのが決まっていたかのような」シーンであったとしても、その現場ではなかなか気付かないだろう。そういうディテールは、写真によって初めて曝露される。そして、これこそが「固定」の効果と言える。
  • 「固定」には、さらに本質的な性質がある。それは、「時間を逆行すること」である。例えば、2010年に撮った写真があったとして、2012年現在からすれば、それは「2年前の写真」なわけだが、2014年になってから見返せば、「4年前の写真」であり、2110年に見返せば「100年前の写真」になる。当たり前のことかもしれないが、写真は常に「現在から過去に向かって、時速60分のスピードで遡っている」。これはつまり、「私たちは時速60分で未来に向かっている」のと同義である。この点で、「写真とは、錨(いかり)である。」とも言える。一定のスピードで無情にも流れ去ってしまう時間に対する、ささやかな抵抗と言える。また、人生が一度きりであるという残酷な一回性に対する大いなる反抗とも言える。それは、写真を繰り返し見ることで、過去を繰り返し再生する、というセンチメンタルな欲求を少なからず肯定する。
  • 写真は「過去」を収めている。私の写真管理ソフトLightroomにはおよそ82000枚の写真が収められているが、これら写真を戯れに見返してみると、過ぎ去った過去の世界をタイムマシーンにのって断片的に眺めているような不思議な感覚に陥る。8万枚もあるので、ちょっとやそっとでは見切れないし、いちいち懐かしい。懐かしく感じるのは、年をとったからかもしれないが(とはいえまだ30歳だが)、何より、経験的に「この瞬間はもう、ない」ということを理解しているからだ。「もう、ない」世界を、写真という「窓」によって、無理矢理こじ開けて垣間みている。そして、周辺の記憶が呼び起こされ、「懐かしい」という脳の状態が作り出される。これは「人生が一度きりであるという残酷な一回性に対する大いなる反抗」と言ってもいいような気がする。


【「いい写真」とはどんな写真か】

  • 優れた写真には「謎」がある。なぜこれを撮ったのか?その興味が人の目を引き、長時間眺められる可能性を備える。「長時間眺められる写真」は、即ち、「よい写真」である。(しかし、友人から教えてもらった写真家(鈴木理策さんか畠山直哉さんのどっちか)の言葉として、「しかし、答のない謎解きに人は付き合ってくれない。見ないという選択肢もある。」という主旨のものもあった。つまり、「謎」を「謎のまま」投げてしまうと、単なる「意味不明なもの」=「情報のないもの」=「価値のないもの」になってしまう。「回答のある謎」もしくは、「回答がなんとなく分かる謎」が望ましいのかもしれない。よくよく思い返してみると、確かに成功している写真家の作品には、そんな「うまい謎」が仕掛けられているようにも思える。
  • 優れた写真の撮影者には、いくつかのタイプがあるが、その中には「写真になったときに、このシーンはどう見られるか?面白いか?人をハッとさせられるか?」ということに敏感なタイプの人がいる。このようなセンス、感性、アンテナが良い人は、得てして写真が巧い。また、このようなタイプの人は、本能的か意識的かは分からないが、写真が「シーンを固定すること」、写真となった瞬間にそのシーンは「一枚の平面」になり、「一枚の平面を通して鑑賞者がシーンを見る」ことを、きちんと理解している。(その上で、「仕掛け」を練り込もうとしている。その「仕掛け」の良し悪しが評価を決める。これがなかなか難しい。ありきたりに堕ちると、「ストゥディウム」だけのカレンダー写真になってしまい、プンクトゥムを標榜してとんがってみても「実は先人がやっていた」ということも多く、やはり難しい。ま、これを自在にコントロール可能なら、写真家になれてしまうのだが。)
  • 写真は、基本的に指呼的な存在(「あれ、それ、これ」程度の情報量)である。写真一枚に文章のような情報や思想のような情報を伝達させようとしても(文章の書いてある本の写真とかは抜きとして)、それは伝わらない。しかし、「あれ」「それ」「これ」は、「あれだ!」「それだ!」「これだ!」にはなりうる(糾弾の作用)。そして、数枚の写真が組合わさると、「世界は(私には)こう見える!」という意図を伝えるまでに至る。(なお、本当に優れた写真は、一枚でも「世界はこうだ!」と示すことができる。アンドレア グルスキーやトーマス ルフやトーマス デマンドはそうだろう。人によっては、アラーキーかもしれないし、鷹野隆大やナン ゴールディンかもしれない。)
  • 写真が得意なことは、脈絡なき複数の世界を、一気に横断することである。例えば、イギリスの上流階級で生まれたばかりの赤ん坊と、エイズで死にいくジンバブエの中年男性は、全く異なる世界に属しているが、二人の写真を並べることも、あなたの自由である。この脈略ない縦横無尽さが、写真の特権とも言える。(なお、写真集として、「よい並び」であったり、写真展やスライドショーとして「よい並び」というのがあるのも事実で、「連続性による良さ」というのもある。しかし、元々写真というのは世界の「断片」であり、それを「構築」をしようなんていうこと自体煩わしいし、そもそも「構築」という行為そのものから自由でいたいんだ、と現代美術の始祖マルセル デュシャンが言い放ったように、「断片」であるが故の特質というのも同時に認めてしかるべきかと思う。)
  • 複数の写真には「振幅」が必要である。振幅がないと、人はすぐに飽きてしまう。なお、一見するとベッヒャー夫妻に端を発する「タイポロジー」はどうなんだ?という気もするが、実はタイポロジーも、厳密に決めた構図や被写体の内側に、振幅は存在している。撮影対象と条件(構図)を厳密に限定しているからこそ、個々の写真の差異が目だち(差異に頭が行き)、結果として「長時間見て」しまう。
  • 技術的に無理がある写真は、一瞬にして見破られてしまう。そして、一度はじかれると、人の関心は閉じてしまう。(ただ、全く「サラ」の人(一般の人)は違うかもしれない。ある程度写真を見慣れた人の方が、技術的なことにはうるさい。残念ながら自分も含む。)

今回の経験で、撮影に対する認識が少なからず変わってきたように思う。
トーマス・デマンド展から続く「写真の再定義」が徐々に自分の中で腑に落ちてきた。
写真でもっともっと遊んでみたい。


143. 写真展を終えて(作品2)

前回に引き続き、写真展に出展した作品をアーカイブとしてここに残す。こちらの作品は、「オブジェ(立体物)」の形式を取っており、画面や誌面で伝えることが難しいが、平たく言えば、「箱」である。

箱の蓋部分に「写真1」があり、その蓋を開けると「写真2」がある。写真1と写真2は、ある「意図」を持って「対」にさせられている。この「意図」が、この作品のコンセプトである。

1枚目を見てから、2枚目を見るというワンテンポの遅れや、「開ける」という動作そのものが作品の一部であるため、安易に2枚をここで並べても残念ながら興ざめするだけだ。クリックして2枚目を表示させればWebでもそれなりに再現できるはずだが、時間もないので、とりあえずここでは、箱の外観や展示風景だけを残しておく。



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タイトル:Uncover it
 
私たちの多くは、「日常のベール」に包まれて生きている。
そのベールによって、本来あるはずの「事実」や「プロセス」を覆い隠し、 快適な日々を過ごしている。
つくづく、良くできた制度だなと思う。
この作品では、ベールが隔てる二つの世界を、写真によって強制的につなげてみた。
「ベールの存在」を剥いでほしい。あなた自身の手で。 


使用カメラ: 
キヤノンEOS-1V キヤノンEOS 5D Mark II フジフイルムFinePix X100 ペンタックスK200D アップルiPhone 4






+++ 作品について +++この作品は、二枚一組の写真と一つの箱で構成されている。通常、組写真は誌面や壁面など同一平面上に配置されることが多いが、本作品では、一枚目は箱の蓋表面に、二枚目は箱の中に据えられている。この結果、「蓋を開ける」という身体的な行為によって、初めて二枚目の写真が見られる構成となっている。是非、箱を手に持って、蓋を開けてみていただきたい。


Title:  Uncover it

Many people are living with ‘veils of daily life’.The veils can hide the inconvenient facts or processes for us, and give us comfortable daily lives instead.
This must be well-designed social and mental system, I think. At the same time, I also think the people look like anesthetized patients. The worlds that they’re perceiving seem to be ambiguous.
I tried to forcibly combine the ‘worlds partitioned by the veils’, by using 2 photographs.Please uncover the veils, by yourself with the box.
Camera:Canon EOS-1V, Canon EOS 5D Mark II, Fujifilm FinePix X100   Pentax K200D, Apple iPhone 4

+++ About the piece +++This piece is composed of 1 box and 2 photographs which are paired each other. Generally, paired photographs are placed on a same page of magazine or a wall, anyhow that is one plane. On the other hand, this piece has 2 layers. The first photograph is set on the cover of the box, and the second one is inside the box. Only the physical action, I mean your uncovering it, can show the second photograph to you.




+++展示の様子+++









この作品は6個の箱から成っており、それぞれにナンバーが振られている(1〜6)。
展示している台(これも自作で、大変だった)は少しずつ高さを上げており、順番に見てもらえるように誘導する役割と、ナンバー毎にレベルが上がっていく寓意を与えていた。
写真の「順序」(=ストーリー)は以下のような意図に基づき決定した。


1箱目はこちらの意図を分かりやすく伝えるストレートなものを。
2箱目は少しテーマをずらし、余白を与える。
3箱目はドスンッと一回たたき落とし、軽い恐怖を味わってもらう。
4箱目は3箱目の余韻を引きずって、作者の意図に否が応にも気付かせる。
5箱目にさらなるショックを与えて、視覚的に追い打ちをかける。

僕が想定(期待)していたのは、「6箱目を開けることが怖い・・・」という心理状態だ。
1箱目から5箱目で、見る人は「開けたら何かがある。予期していない何かがある。」ということを悟ることになる(そうあってほしい)。

その上での6箱目。

ある程度覚悟して、開く。

そこに待っていたものはーー

ここでは触れないが、展示の様子の写真にあるように、ある人は苦笑いし、またある人は不快感を露にし、またある人は無言で立ち去った。

その様子を見ながら、僕はつくづく「写真って面白いなぁ」と思う。写真は視覚を共有できる。世界を切り貼りして、意味を与えることができる。何の脈絡もない組み合わせだってできるし、因果関係を無視することも、また跳躍して間の時間をすっ飛ばすこともできる。実際、この作品に使った写真は、2009年〜2012年までの4年間のもので、時間的な意味で言えば大いに「跳躍」している(間がすっ飛んでいる)。また、場所もインドネシア、中国、タイ、埼玉、神奈川、東京とこれまた「跳躍」している。この節操のない、飛び方が写真を組み合わせる面白さのひとつだと思う。

これ以外にも今回は写真の面白さや特性について色々と考えることがあった。(「写真」が自分にとってちょっとしたブームなのだ。今更だが。)
それについては、次の記事に書こうと思う。

142. 写真展を終えて(作品1)

去る2012年10月9日から14日まで、所属する写真サークル「ニーチ」の写真展に作品を出展していた。

渋谷にあるギャラリー「ルデコ」で、2階と3階の2フロアに渡って、計33名が作品を出品した。来場者は、各階で大体370人ほどで、アマチュアがやる写真展としては多かったほうだと思う。
(とは言え、700人ほどの年もあったらしいので、メンバーとしては少ない方とのこと)

普段、他人に写真を見せる機会など(Web上を除いて現実世界で)あまりない自分としては、これだけ多くの人に自分の写真を見てもらえる機会は他に無い。
ありがたいことだ。


このグループ展は今年で9回目だそうで、自分としては2回目の出展だった(前回は一昨年)。
2回目ということで、今回は、多少実験的な要素を入れて、作品を制作してみることにした。特に以下のようなことを意識していた。


  • 初めにコンセプトを決めて、それから写真を撮る。
  • コンセプトをベースに、写真を選ぶ。
  • 主観的になりすぎない。客観的に、突き放す。
  • 人によく思われようとしない。やりたいことに忠実になる。
  • 見る人を「傷つける」くらいのつもりでやる。

特に最後のものは理解しにくいと思うが、オブジェ作品の方(今回はいわゆる「壁掛けの写真展示」と、「写真を使ったオブジェの展示」の2種類の展示を行った)を見ていただけた方にはいくらか伝わったと思う。

(「トラウマになりそうです」という感想までいただけた。こちらのスタンスが真っすぐ届いた証拠であり、とても嬉しい。ショックを受けた方には申し訳ないような気もするが、コンセプトとストーリーが決まった時点で、あれ以外の終わり方はあり得なかったと今でも思っている。)

製作途中では、少し手加減しようかと思ったりもしたのだが、出し切って良かったと思う。
今回は作品を見た見ず知らずの人から何度か声をかけられることもあった。こういうのは、なかなかないことなので、「ああ、やってみてよかったなぁ」と思っている。


見に来ていただけたみなさま、どうもありがとうございました。


+++

さて、ここでは、自分の作品が忘却の彼方に追いやられてしまう前に、作品概要、キャプション、製作意図についてアーカイブを残しておこうと思う。

写真作品とは、本来「物質的」なもので、プリントとして提示された「そのもの」でなければ、本当の意味でのアーカイブはできないのだが、ここでは割り切ることにする。

(一方で、厳密な話をすれば、彫刻や絵画のように、その「一回性」や「テクスチャ」や「サイズ」がよりモノを言う芸術に比べれば、写真は「複製技術時代の芸術」であり、「物質的な制約」からは、これら他の芸術媒体よりも遠い存在である。そういう意味においては、むしろ節操もなくここに作品のサムネイルを載せることは、写真の特権を行使しているとも言える。ただ、いかんせん、オブジェ作品の方だけは、鑑賞者の身体的な操作も加わって初めて作品となるので、Web上での再現が難しい。本当にドライなのはオブジェの方なのだが、残念だ。)

まず、壁掛け展示した方の作品から。

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タイトル: 見 え な い 

私の体重は69kgで、眼鏡の重さは16g。重量としてはわずか0.03%にも満たないが、眼鏡なしでは出歩くことすらままならない。 目を凝らしても、見えない。
そのもどかしさを、写してみようと思った。
眼鏡をはずしたとき、私はこんな世界に放り込まれる。

使用カメラ: フジフイルムFinePix X100



+++ 製作プロセス +++製作では、「視野の再現」を念頭において各パラメータを決定した。まず、裸眼で焦点の合う距離を測定したところ、目の表面から約17cmだった。ヒトの眼球は平均で直径およそ2.4cmであり、内径を2cmと仮定すると網膜から焦点の合致する距離までは約19cmとなる。このため、カメラの焦点距離を19cmに固定することとした。次に、ヒトの視界の縦横比を測定したところ約1:1.37であり、A3サイズの紙(1:1.41)に近いことが分かった。一方、カメラの撮像素子(APS-Cサイズ)の縦横比は1:1.50であったため、プリントの段階で左右を裁ち切りA3サイズに合わせることとした。ヒトの中心視野の画角は焦点距離43mmのレンズ(35mm換算)に近いとされているが、プリント段階で左右の裁ち切りがあることを考慮して、やや広い35mmのレンズを用いることとした。以上の条件を満たすカメラとして、フジフイルムのX100(35mmレンズ(35mm換算)、最短撮影距離10cm、APS-Cサイズセンサー)を選択した。なお、ヒトの目が虹彩による自動絞りを採用していることから、絞りは任意の値(F4-11)とし、撮影時に眼鏡をはずして実際に見えたボケ感に最も近い絞り値を選択した。

Title:  can’t see My body weight is 69kg and my glasses are 16 g, this means my glasses are only <0.03% in weight. However, the value of my glasses must be greater than the weight. I cannot go out without my glasses. I can’t see, even if I look hard at.
I came up with an idea to capture my feeling in the blurred world. When I take off my glasses, I am put into such a blurred world.
Camera: Fujifilm FinePix X100


+++ Method +++I determined each parameters in order to recreate my viewing field. First, I measured the distance between the surface of my eyes and the focal plane with my naked eyes. That was approximately 17 cm. The diameter of human eye is reportedly about 2.4 cm on average. Assuming that the internal diameter of eye is 2 cm, the distance between the retina and the focal plane is 19 cm. So I fixed the focus of the camera as 19 cm. Next, I tried to measure the aspect ratio of the human view, the result was about 1:1.37, which was close to A3 size paper(1:1.41). Meanwhile, the aspect ratio of imaging sensor (APS-C size) is 1:1.50, so I decided to cut the right and left side of photographs to make it A3 size. Generally the central viewing field of human is reportedly close to the view which captured by 43 mm lens converted in Leica format) in terms of field angle, however, I selected 35 mm lens in consideration of cutting process. To meet these requirements, I selected the Fujifilm X100 (35 mm lens(in Leica format), minimum shooting distance = 10 cm, APS-C sized sensor). Additionally, human eyes use automatic diaphragm, I set the aperture as certain range (F 4-11), and then I selected the best aperture by comparing the photos and the real view with my naked eyes.

2012年10月28日日曜日

141. 外部刺激(並行世界)

医師でMBAホルダーの友人から、

「会社を一緒にやらないか?」

と誘いを受けた。
今日、その事業内容や、技術について話を伺ってみたのだが、これがもう何とも刺激的で。

今の医療や治療概念、医薬品産業そのものをひっくり返すような、インパクトのあるものだった。

データの詳細を吟味するまでには至らなかったが、
「筋もいいし、追い風も吹いている。」
そう感じた。


CEOにも会うことができた。
これまで今の会社で、自分なりに描いてきたキャリアプランを話した。

返ってきた言葉は、

「それって楽しいですか?」


そう来たか。
こういう反応がある人は初めてだ。
しかし、彼のミッションから考えると、「確かにな」としか言いようがない。

参加するにせよ、しないにせよ、このベンチャーが成し遂げようとしていることは、日本の未来を変えうるものだ。産官学が一体となって、金とエネルギーを存分につぎ込んで、つぎ込んで、つぎ込んでもおつりがくるくらいのものだと思う。


これまで、比較的大きな企業体の中で、一歩一歩、地道に階段を積み上げてきた。
それはまさに、「積み上げる」作業と言ってよかった。

その階段が、いきなり大波に飲まれるような。
そんな衝撃を感じて、目眩がした。

正直に言うと、短期的な回答としては、
「No」だ。

しかし、仮にここで「Yes」と言ったら・・・

世界は分岐する。
そういう類いの選択肢と言える。



Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world?


スティーブ ジョブズがペプシコーラのスカリーを引き抜く際に言い放った台詞だ。

2012年10月20日土曜日

140. 理想のカメラ(実現できるのは・・・)

ニコンのD800は、2012年3月22日に発売された。
3680万画素の35mmフルサイズセンサーを搭載しており、2012年現在としては、「高画素機」と目されている。

質実剛健な造りと、圧倒的な高画素(当時ライバルと目されていたキヤノンのEOS 5D MkIIIは2230万画素なので)、そして、何よりその安価な価格設定(2012年10月20日現在で最安値は23万6千円。一方5D MkIIIは27万円)で大ヒットしている。

3680万画素について、発表当時は「そんなに画素数はいらない。」「画素数が多過ぎると画素ピッチが狭くなり、結果、ノイズが乗りやすくなる。画素数は据え置きで高感度耐性を上げてくれ。」と否定的な意見が多かったが、蓋を開けてみれば、「案外高画素でも、縮小して(といってもA3ノビ程度)印刷する分にはノイズが見た目上キャンセルされ、むしろディテールを残す良い効果を発揮する」ということが次々と示されていった。

一方、「画素数据え置きで、高感度耐性を上げる」という方向(ある意味、世間一般の支持する常識的な方向)に進んだライバル機5D MkIIIはDxO Mark scoreなどで先代の5D MkIIから十分な進化を示せず、さらにスコア上でD800に大きな差をつけて負けてしまった。
(ただし、DxO のスコアは画素数が大きい程有利な傾向にあり、必ずしも全てではないということを付け加えておく。)

5D MkIIIはそれ単体としてはいいカメラだが、価格設定がD800より4万円程高いということもあり、結果として、「思ったよりヒットしなかった」というのが本音なところだ。先代のMkIIの評価が高かったため、ファンの期待が大きすぎたというのもあるかもしれない。(という自分もMkIIを使っているため、正直言ってこの結果はつらい)

さて、巻き返しを図るキヤノンは、4700万画素の高画素機を開発中、と噂されている。一方で、ニコンにセンサーを供給しているSONYは、5000万画素の高画素機を開発中と言われている。

まず、キヤノンはニコンと並び一般的には一眼レフの王者と見られがちだが、ことセンサー(撮像素子)の市場から考えると、むしろ挑戦者に近い。
というのも、センサー市場では9割近くがSONY製だからだ。

SONYは、ニコンにも、OLYMPUSにも、ペンタックスにもセンサーを供給している。SONY自身もカメラを製造しているので(正確に言うとセンサーを作っている会社はSONYの子会社だが)、これらカメラメーカーはライバルではあるわけだが、同時に、顧客でもあるわけである。

つまり、「他社が儲かれば、自社も儲かる」というおいしい仕組みをSONYは持っており、センサーを中心に見ると、SONYこそが王者なのである。

一方、キヤノンはあくまで自社製造路線を崩しておらず、また例えば台湾のOEMメーカーへの外注も極端に少ない(ただし、台湾の小会社へは依存している)。センサー市場では、キヤノンとパナソニック、それからAptina社などがSONYに対抗しているが、それらを足しても10%程度。

これはPCのプロセッサでインテルが一人勝ちしているのとほぼ同じ状態だ。


さて、話を元に戻すと、王者SONYは5000万画素で、挑戦者キヤノンは4700万画素。
このような高画素化はどこまで進展して行くのだろう?


僕は、「2億画素」くらいまで行ってもいいと思っている。

いやむしろ、理想的な、究極的なカメラというものには、2億画素程度は必須だとすら思っている。

こう言うと、大方のカメラ好き(カメラオタク)の諸先輩方には一笑にふされるだろう。

もちろん、現時点では、画像処理エンジンの処理速度が追いつかず、連射速度に問題があるだろうし、ノイズも十分に制御できないだろう。そもそも、2億画素の35mmフルサイズセンサーには、レンズ自体の解像力が追いつかない、という意見もあると思う。(3680万画素のD800でさえ、レンズを選ばなければその解像力を十分には発揮できない)

しかし、あくまで「2億画素が理想的である」と考えるには以下のような理由(と仮定)がある。

  • まずセンサーのサイズは36mm×36mmの正方形センサーとする。(理由は後に述べる)
  • ファインダーは、リフレッシュ速度が十分高いEVFとする(どの程度の動体を被写体とするかによって「十分なリフレッシュ速度」は変わってくるが、とりあえず細かなスペックは置いておく)。
  • まず大事なポイントとして、2億画素まで高画素であれば、モアレを除去するためのローパスフィルターが不要になるということが挙げられる(レースのような高周波の被写体であっても、干渉縞が発生しないほど画素ピッチが狭い。このため通常のRGBベイヤー配列のセンサーでもモアレを気にしなくていい)。結果として、解像力が単なる画素数の増加以上に向上する。
  • 次に大事なポイントは、通常の撮影時では、デモザイク処理(RAW→JPEG処理)の段階で9画素を1画素に統合する画素統合処理を行い、2000万画素程度のJPEGを生成するという機能を付けることである。(これがかなり重要。つまり、2億画素=一枚で200Mbというアホらしい容量を通常時は抑制できる。そして風景撮りなどとにかく解像力を活かした撮影をしたいときに、2億画素開放(35mmフルサイズの領域だと1.3億画素だが)で、エッジの効いた超弩級の高解像写真を生成する。)
  • さらに大事な点は、デジタルズームを1インチセンサーサイズくらいまで可能とすることである。正方形センサーは36mm×36mm=1296、1インチセンサーは13.2mm×8.8mm=116で面積比で大体10倍くらいの差があるが、もとのセンサーが2億画素もあればトリミングした1インチセンサーの面積であっても2000万画素程度保たれることになる。つまり、デジタルトリミングをしても、十分写真になるのだ。
  • デジタルズームを1インチセンサーまで可能とすると、レンズの焦点距離は2.7倍まで伸ばせることになる。例えば、28mmの単焦点レンズ1本で、75mmまでデジタルズームが可能である。28mmのF2レンズなど小型軽量で安価なわけで、それが75mmまでF2通しのスペシャルなズームレンズになるのだ(現在そんなレンズは存在しない!※1)。キヤノンの大三元レンズの一本EF24-70mm F2.8Lレンズは大体17万くらいで950gくらいの重量があるが(2年前から愛用しているが重い)、これよりも(若干広角は負けるにしても)明るくて小さなズームレンズが4〜5万円で手に入ることになる。なんと素晴らしいことか。そして、これは「レンズで儲ける」という商売を得意とする老舗メーカー、キヤノンやニコンには手痛い話となる。
  • 画素統合は、デジタルズーム中も連動することとする。つまり、35mmセンサーサイズ時にも2000万画素、APS-Cサイズ時も2000万画素、フォーサーズサイズでも2000万画素、1インチセンサーサイズでも2000万画素と最終のJPEGサイズは常に2000万画素となるようにアルゴリズムを組むのである。
  • 同時に、ファインダー上の画像もデジタルズームに追従して拡大することが必須である。このため、必然的に、光学ファインダー(OVF)ではなく、電子ビューファインダー(EVF)を搭載することが必須となる。
  • また、縦横のフレーミングの回転も、これまではカメラそのものを持ち替えて行っていたが、センサー上のトリミング範囲を縦横交換することによって可能となる。これが、36×36mmの正方形センサーを搭載する所以である。こうすることで、フラッグシップ機にあるような「縦位置グリップ」というスタイルが不要になる。縦位置グリップには周囲のカメラマンを威圧する力があるが(もちろん縦位置も横位置も同様に違和感なく交換できるという本来の良さもあるが)、大きく重くなるというマイナス点も大きい。正直、キヤノンから高画素機が出るとしてもEOS 1DX系の縦位置グリップが付いているような大きなモデルであれば、全く欲しいとは思わない。普段使いに、アレは大袈裟過ぎる。
  • そして、画素数を最大限使いきるには、30×30mmの真四角領域(対角線長43mmで、35mmフルサイズセンサー用のレンズがギリギリカバーできる最大のイメージ範囲)で撮影するという選択肢がある。これは、およそ1.38億画素で、正方形の比率から中判の6×6写真のような印象を与えるだろう。


というわけで、まとめると「2億画素のカメラ」によって、

  • 明るい単焦点レンズを夢のズームレンズに変換することができる。この結果、大きく高価なF2.8通しのズームレンズが一切不要になり、レンズも含めたカメラ全体の大きさを小型化できる。
  • ローパスレスによる解像度の向上をベイヤー配列センサーでも(特別なアルゴリズムを必要とせず)実現できる。
  • 36mm角の正方形センサーによって、縦位置への変換をボタン一つで行えるようになり、縦位置グリップが不要になる。
  • 30×30mmという新しいフォーマットが副産物として生まれる。なお、この場合、1.38億画素であり、いわゆるフルサイズの36×24mmでは1.33億画素である。


以上が、「理想的な、究極的なカメラには2億画素が必須」と考える理由だ。

こんなカメラが出てきたら、既存の高価な交換レンズを主体とする一眼レフの市場は完璧に過去のものになるだろう。


さて、こんなラディカルで素敵なことをできるメーカーはあるだろうか?

キヤノンには絶対できない。
(仮にやれたとしても、しないだろう。また、これまでEVFの技術を軽視し過ぎてきた。これからよほどの巻き返しをしなければ追いつけないだろう。さらにレンズビジネスまで取り上げられたらと思うと、もう進めないはずだ。)

ニコンにもできないだろう。
(レンズビジネスとOVFがある。)

結果として、僕は、SONY以外にはあり得ないと思っている※2。

SONYには、

  • 2億画素を実現する技術基盤が既にある。
  • レンズのビジネスモデルを守る理由がない。(むしろ、カメラ本体を売ってなんぼの商売をしている。というか、カメラ出し過ぎ。)
  • エントリー機からハイエンド機まで、徹底してEVFを搭載している(むしろ、OVFの銘機だったα900シリーズを潰してしまったという因縁すらある)

さて、今後5年間くらいの間で、どれだけ僕の理想(妄想)に、カメラメーカーが追いついてくれるだろう?

上記の理想(妄想)は、あくまでベイヤー配列のセンサーを軸に考えているが、もう一つの方向として、FOVEONのような三次元の積層型センサーという方向や有機センサーの方向もあるかと思う。こちらの方向にも期待大だ。

両者が融合して、結果として5年以内に僕の妄想が追いつかれ、追い抜かれたら、これはもう言うことなしだ。
10年以内でもOKだと思う。

いずれにせよ、高画素不要論は2012年10月時点では多いものの、各メーカーには頑張ってほしい。特に画素統合など、ソフトウェア側の進化が実はボトルネックになりそうだ。こちらの開発も抜かり無くやってほしいと思う。

理想のカメラができることを、楽しみに待っている。

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後日追記(2012年10月22日)
※1:すまん、存在していた。不明を恥じるばかりだ。
OLYMPUS ズイコーデジタル ED 14-35mm F2.0 SWDである。
フォーサーズは2倍するとフルサイズ換算の焦点距離になるので、このレンズは28-70mmの開放F値2.0ということになる。フォーサーズはフルサイズやAPS-Cに比べると小さな撮像面でボケ量は少ないのだが、その分、レンズの中心部分の一番密度の高い光を受光できる。恐らく、撮像素子が小さな分だけ、またμフォーサーズに比べてフランジバックが長く余裕がある分だけ、明るいズームレンズを作りやすいのだと思う。

※2:あともう一社、可能性がある会社があった。サムスンだ。日本では販売されていないので余り知られていないが、サムスンは既にミラーレス一眼レフを販売しており、世界的には割と知られている。コンデジでは、既に世界シェアで10.7%取っており、富士フィルム(9%台)を抜いている。サムスンが、本当に本気でハイエンドカメラを狙ってきたら、これくらいの理想は達成されてしまうかもしれない。個人的には、SONYに達成してほしいが。