写真展を終えてみて、改めて「写真」というものを考えてみたい。
これまで基本的には「旅写真」と「日常スナップ」しか(いずれも記録を主目的とした写真)してこなかった自分にとって、「コンセプトを決めて作品を撮る」という行為自体が新鮮だった。最近読んでいる写真史や写真論とも相まって、自分の中で、写真の特性がより明確になったと思う。私論として、以下にメモしておきたい。
【写真の特性】
これまで基本的には「旅写真」と「日常スナップ」しか(いずれも記録を主目的とした写真)してこなかった自分にとって、「コンセプトを決めて作品を撮る」という行為自体が新鮮だった。最近読んでいる写真史や写真論とも相まって、自分の中で、写真の特性がより明確になったと思う。私論として、以下にメモしておきたい。
【写真の特性】
- 写真はごく当たり前の事実として「シーンを固定」する。一方、私たちが普段体感している「ヒトの目を通した視界」は常に「動画」であり、「動き」を含めて外界を知覚している。写真の「静止状態」はごく当たり前のことだが、しかし、これが見過ごせない大きな特徴を形作っている。例えば、作品「 見 え な い 」で、両国国技館の観客を遠くから撮ったが、写真上の「ボケ感」はまさに視力0.02程度の自分の目が見た視界と同じ不明瞭さを携えていた。実際に裸眼でそのシーンを見た時、確かに人の輪郭が完全に消失し、斑の模様になっているように見えたことを記憶しているが、しかし、人々の「動き」は認識できていたため、そのシーンが「大量の人」を示していることに疑いはなく、容易に認識できた。しかし、そのシーンが「固定」された「写真」を見た人からは「これは何を写しているのか?」と聞かれることが何度かあった。繰り返すが、写真上に提示された「色情報」「輪郭情報」「明暗情報」は、僕の裸眼が捉えた視界と非常に近い。しかし、「動き」の情報が無くなるだけで、被写体が何か分からなくなってしまうのである。「動き」という情報は写真の特性上(松江泰治さんの「動く写真」は除く)、欠落を免れ得ない。結果、「写真で再構築した世界」は、通常の「ヒトの視界」から似て非なるものとなる。ニューバウハウスのモホイ=ナジは写真を「人間の視覚の拡張」に位置づけたというが、「人間の視覚」と「写真」は、「動き」の情報1点に関しては決定的に決裂関係にある。
- しかしながら、逆に、この「固定」という作用によって写真には一種の「謎」が生じるというメリットがある。まず第一に「動き」がない分だけ、先の例のように「想像の余地」が生まれる(つまり、「これってなんだろう?」である。情報が少ない程、人は判断に迷う)。
- また、「固定」によって、人は「同じシーンを何度も見る」ことができるようになる。普段の生活で、あるシーンを注意深く、何度も何度も見ることはほとんどない。また対象が人である場合、その人も動体であり、流動的なシーンを動画として認識していることの方が圧倒的に多い。それが、写真をひとつの「作品」にしうる一因となっている。これを表す好例に、「シャッターチャンス」と言われるものがある。世の中では動体が交差しており、その交わりによって、いわゆる「決定的な瞬間」というものが生起している。それを「良い構図(コンポジション)」で、シーンを「固定」できるかどうかが写真(一般的な)においては重要であるという概念である。つまり、動きをキャンセルする作業をする以上、「ちょうどよい瞬間」でやるべきであり、その「ちょうどよい瞬間のシーン」を人は見て、驚いたり、頷いたり、面白がったり、気味悪がったりするのである。しかし、仮にその鑑賞者の彼ら彼女らをその実際の瞬間に連れて行ったとしても、彼ら彼女らは「写真を通して」得たディテールまで感じることはできないだろう。無論、「体感としての情報量」は上だろうが(空気の振動、音、匂い、雰囲気全てが体感情報となる)、恐らく、写真で見たほどに「注意深くそのシーンを見ること」はない。例えば、事故車の写真があったとして、助手席のシートのカバーと、車線の向こう側にあるレストランの看板の色が似通っていて、あたかも「ここで事故するのが決まっていたかのような」シーンであったとしても、その現場ではなかなか気付かないだろう。そういうディテールは、写真によって初めて曝露される。そして、これこそが「固定」の効果と言える。
- 「固定」には、さらに本質的な性質がある。それは、「時間を逆行すること」である。例えば、2010年に撮った写真があったとして、2012年現在からすれば、それは「2年前の写真」なわけだが、2014年になってから見返せば、「4年前の写真」であり、2110年に見返せば「100年前の写真」になる。当たり前のことかもしれないが、写真は常に「現在から過去に向かって、時速60分のスピードで遡っている」。これはつまり、「私たちは時速60分で未来に向かっている」のと同義である。この点で、「写真とは、錨(いかり)である。」とも言える。一定のスピードで無情にも流れ去ってしまう時間に対する、ささやかな抵抗と言える。また、人生が一度きりであるという残酷な一回性に対する大いなる反抗とも言える。それは、写真を繰り返し見ることで、過去を繰り返し再生する、というセンチメンタルな欲求を少なからず肯定する。
- 写真は「過去」を収めている。私の写真管理ソフトLightroomにはおよそ82000枚の写真が収められているが、これら写真を戯れに見返してみると、過ぎ去った過去の世界をタイムマシーンにのって断片的に眺めているような不思議な感覚に陥る。8万枚もあるので、ちょっとやそっとでは見切れないし、いちいち懐かしい。懐かしく感じるのは、年をとったからかもしれないが(とはいえまだ30歳だが)、何より、経験的に「この瞬間はもう、ない」ということを理解しているからだ。「もう、ない」世界を、写真という「窓」によって、無理矢理こじ開けて垣間みている。そして、周辺の記憶が呼び起こされ、「懐かしい」という脳の状態が作り出される。これは「人生が一度きりであるという残酷な一回性に対する大いなる反抗」と言ってもいいような気がする。
【「いい写真」とはどんな写真か】
- 優れた写真には「謎」がある。なぜこれを撮ったのか?その興味が人の目を引き、長時間眺められる可能性を備える。「長時間眺められる写真」は、即ち、「よい写真」である。(しかし、友人から教えてもらった写真家(鈴木理策さんか畠山直哉さんのどっちか)の言葉として、「しかし、答のない謎解きに人は付き合ってくれない。見ないという選択肢もある。」という主旨のものもあった。つまり、「謎」を「謎のまま」投げてしまうと、単なる「意味不明なもの」=「情報のないもの」=「価値のないもの」になってしまう。「回答のある謎」もしくは、「回答がなんとなく分かる謎」が望ましいのかもしれない。よくよく思い返してみると、確かに成功している写真家の作品には、そんな「うまい謎」が仕掛けられているようにも思える。
- 優れた写真の撮影者には、いくつかのタイプがあるが、その中には「写真になったときに、このシーンはどう見られるか?面白いか?人をハッとさせられるか?」ということに敏感なタイプの人がいる。このようなセンス、感性、アンテナが良い人は、得てして写真が巧い。また、このようなタイプの人は、本能的か意識的かは分からないが、写真が「シーンを固定すること」、写真となった瞬間にそのシーンは「一枚の平面」になり、「一枚の平面を通して鑑賞者がシーンを見る」ことを、きちんと理解している。(その上で、「仕掛け」を練り込もうとしている。その「仕掛け」の良し悪しが評価を決める。これがなかなか難しい。ありきたりに堕ちると、「ストゥディウム」だけのカレンダー写真になってしまい、プンクトゥムを標榜してとんがってみても「実は先人がやっていた」ということも多く、やはり難しい。ま、これを自在にコントロール可能なら、写真家になれてしまうのだが。)
- 写真は、基本的に指呼的な存在(「あれ、それ、これ」程度の情報量)である。写真一枚に文章のような情報や思想のような情報を伝達させようとしても(文章の書いてある本の写真とかは抜きとして)、それは伝わらない。しかし、「あれ」「それ」「これ」は、「あれだ!」「それだ!」「これだ!」にはなりうる(糾弾の作用)。そして、数枚の写真が組合わさると、「世界は(私には)こう見える!」という意図を伝えるまでに至る。(なお、本当に優れた写真は、一枚でも「世界はこうだ!」と示すことができる。アンドレア グルスキーやトーマス ルフやトーマス デマンドはそうだろう。人によっては、アラーキーかもしれないし、鷹野隆大やナン ゴールディンかもしれない。)
- 写真が得意なことは、脈絡なき複数の世界を、一気に横断することである。例えば、イギリスの上流階級で生まれたばかりの赤ん坊と、エイズで死にいくジンバブエの中年男性は、全く異なる世界に属しているが、二人の写真を並べることも、あなたの自由である。この脈略ない縦横無尽さが、写真の特権とも言える。(なお、写真集として、「よい並び」であったり、写真展やスライドショーとして「よい並び」というのがあるのも事実で、「連続性による良さ」というのもある。しかし、元々写真というのは世界の「断片」であり、それを「構築」をしようなんていうこと自体煩わしいし、そもそも「構築」という行為そのものから自由でいたいんだ、と現代美術の始祖マルセル デュシャンが言い放ったように、「断片」であるが故の特質というのも同時に認めてしかるべきかと思う。)
- 複数の写真には「振幅」が必要である。振幅がないと、人はすぐに飽きてしまう。なお、一見するとベッヒャー夫妻に端を発する「タイポロジー」はどうなんだ?という気もするが、実はタイポロジーも、厳密に決めた構図や被写体の内側に、振幅は存在している。撮影対象と条件(構図)を厳密に限定しているからこそ、個々の写真の差異が目だち(差異に頭が行き)、結果として「長時間見て」しまう。
- 技術的に無理がある写真は、一瞬にして見破られてしまう。そして、一度はじかれると、人の関心は閉じてしまう。(ただ、全く「サラ」の人(一般の人)は違うかもしれない。ある程度写真を見慣れた人の方が、技術的なことにはうるさい。残念ながら自分も含む。)
今回の経験で、撮影に対する認識が少なからず変わってきたように思う。
トーマス・デマンド展から続く「写真の再定義」が徐々に自分の中で腑に落ちてきた。
写真でもっともっと遊んでみたい。