2012年11月23日金曜日

146. 写真の効能追加(区別をなくす)

ここに、祖父の形見の懐中時計がある。

僕は祖父がその懐中時計を片時も離さず持っていて、
夕暮れ時になると左胸の内ポケットからそっと出して、
老眼鏡をおでこの上に押しのけてから時刻を確認していた、
その少し猫背気味の姿を憶えているから、
これがただの懐中時計だとは思わず、祖父の形見であると認識できる。

「そろそろ帰ろうかね」

という優しい声と結びついているから、それが祖父の形見として、僕の中で機能する。

そのひんやりした感触や、ネジを巻くときの歯車の抵抗に、
「ああ、かつてこの感覚をおじいちゃんも感じた瞬間があったのだな」
と直感し、祖父と僕とが時間を越えて再会したような、そんな一瞬の夢を見ることができる。

しかし、この懐中時計が祖父の形見であるとは知らない人がやってきて、この懐中時計を見たら、なんのことはない、古い、すすけた懐中時計に過ぎず、誤って燃えないゴミの日に出してしまうかもしれない。


このように、モノに宿る記憶というものは、「ダイレクトに(=同じ時間と空間で)その記憶を共有した人」にしか生まれないという性質がある。

しかし、例えば、祖父がその懐中時計を見ているシーンを写真に撮っていたとして、その写真が懐中時計と一緒に保管されていたら、どうだろう?

少なくとも、この懐中時計が祖父に使われていたことは証明される。
少し想像力を働かせれば、この懐中時計が何の脈絡もなくこつ然と現れたものではなく、祖父と供に一定の時間を過ごしていたであろうことも分かる。
それは、例えば、言葉の通じない外国人にも、恐らく伝わるはずだ。

写真とはシーンであり、シーンには意味を持たせることができる。
写真は存在証明になりうる。
モノに与えられた記憶を、「その記憶をダイレクトに(=同じ時間と空間で)共有していない者」にも、伝える可能性を秘めている。

といったようなことが、写真の「古典的な性質」である。
こういったことは、既にロラン バルト等、古典的な写真論の中で語り尽くされたもので、その類いを読んだ方々には当たり前のことだろう。



ところで、冒頭に記載した「祖父の形見の懐中時計」なるものは、実在しない。


今しがた考えた、「たとえ話」なのだが、一瞬でも「そんな懐中時計があるのかもしれない」と思ってもらえたら、この記事としては成功だ。そして、その「誤認識」は昨今(と言っても15年くらい前から含めて)の写真作品に頻繁に認められる性質でもある。

先に記したとおり、写真にはシーンが固定されており、そのシーンが実在したという「存在証明」になりうる。この「存在証明」という性質を逆手に利用して、あるシーンを人工的に細工し再現し、そのシーンがあたかも実在するかのように見せる(つまり現実を捏造する)作品が数多く発表されている(特に海外で)。

なお、これら作品の本質的な命題は、「現実を捏造する行為」そのものよりも、捏造された現実を、鑑賞者が現実と(一瞬)誤認(し、その後、誤認であったことを自覚)するときに生じる、【現実とは何かという問いかけの視点/角度】であったり、【容易に捏造されうる現実の不確実性】であったり、【容易に捏造可能なアイデンティティーの不確かさ】であったりするのだが、個別の作家や作品にはここでは言及しない。

こういった「ストレートではない」写真は、いわゆる写真らしくはないし、カテゴライズすると「現代アートだよね」となってしまう。
特に日本では「写真」と「現代アート」は、奇妙なほど区別されているように見受けられる。

「これは写真じゃなくて、アートだよね。」

というのは、日本独特の写真文化的発想のように思う。
僕自身は、一観賞者として、両者を明確に区別する必要もないし、能力もない。
なので、無節操に「存在証明」と「存在偽造」を行き来してみようと思う。

そう思うと、写真がとても愉しくなってくる。

2012年11月20日火曜日

145. Welcome to the world !


「吾輩は人である。名前はまだ無い。」




本日(2012年11月20日)、10:45に僕たちの子が、この世界に仲間入りした。
3040g、49cmで、小柄な母親からすると、とても立派な体格。
とにかく、無事で良かった。
それが何より。何より。

さぁ、これからその目で何を見ていくのだろう?
僕は親として、何を見せられるのだろう?

せっかく僕らのもとにやってきてくれたのだから、できるだけ愉しい世界を見せてあげたい。世界の愉しみ方を教えてあげたい。

この子のことをしっかり見よう。
そう思った。
そう誓った。

今日は記念日となる。

2012年11月11日日曜日

144. 写真展を終えて(写真について考える)

写真展を終えてみて、改めて「写真」というものを考えてみたい。
これまで基本的には「旅写真」と「日常スナップ」しか(いずれも記録を主目的とした写真)してこなかった自分にとって、「コンセプトを決めて作品を撮る」という行為自体が新鮮だった。最近読んでいる写真史や写真論とも相まって、自分の中で、写真の特性がより明確になったと思う。私論として、以下にメモしておきたい。


【写真の特性】


  • 写真はごく当たり前の事実として「シーンを固定」する。一方、私たちが普段体感している「ヒトの目を通した視界」は常に「動画」であり、「動き」を含めて外界を知覚している。写真の「静止状態」はごく当たり前のことだが、しかし、これが見過ごせない大きな特徴を形作っている。例えば、作品「 見 え な い 」で、両国国技館の観客を遠くから撮ったが、写真上の「ボケ感」はまさに視力0.02程度の自分の目が見た視界と同じ不明瞭さを携えていた。実際に裸眼でそのシーンを見た時、確かに人の輪郭が完全に消失し、斑の模様になっているように見えたことを記憶しているが、しかし、人々の「動き」は認識できていたため、そのシーンが「大量の人」を示していることに疑いはなく、容易に認識できた。しかし、そのシーンが「固定」された「写真」を見た人からは「これは何を写しているのか?」と聞かれることが何度かあった。繰り返すが、写真上に提示された「色情報」「輪郭情報」「明暗情報」は、僕の裸眼が捉えた視界と非常に近い。しかし、「動き」の情報が無くなるだけで、被写体が何か分からなくなってしまうのである。「動き」という情報は写真の特性上(松江泰治さんの「動く写真」は除く)、欠落を免れ得ない。結果、「写真で再構築した世界」は、通常の「ヒトの視界」から似て非なるものとなる。ニューバウハウスのモホイ=ナジは写真を「人間の視覚の拡張」に位置づけたというが、「人間の視覚」と「写真」は、「動き」の情報1点に関しては決定的に決裂関係にある。
  • しかしながら、逆に、この「固定」という作用によって写真には一種の「謎」が生じるというメリットがある。まず第一に「動き」がない分だけ、先の例のように「想像の余地」が生まれる(つまり、「これってなんだろう?」である。情報が少ない程、人は判断に迷う)。
  • また、「固定」によって、人は「同じシーンを何度も見る」ことができるようになる。普段の生活で、あるシーンを注意深く、何度も何度も見ることはほとんどない。また対象が人である場合、その人も動体であり、流動的なシーンを動画として認識していることの方が圧倒的に多い。それが、写真をひとつの「作品」にしうる一因となっている。これを表す好例に、「シャッターチャンス」と言われるものがある。世の中では動体が交差しており、その交わりによって、いわゆる「決定的な瞬間」というものが生起している。それを「良い構図(コンポジション)」で、シーンを「固定」できるかどうかが写真(一般的な)においては重要であるという概念である。つまり、動きをキャンセルする作業をする以上、「ちょうどよい瞬間」でやるべきであり、その「ちょうどよい瞬間のシーン」を人は見て、驚いたり、頷いたり、面白がったり、気味悪がったりするのである。しかし、仮にその鑑賞者の彼ら彼女らをその実際の瞬間に連れて行ったとしても、彼ら彼女らは「写真を通して」得たディテールまで感じることはできないだろう。無論、「体感としての情報量」は上だろうが(空気の振動、音、匂い、雰囲気全てが体感情報となる)、恐らく、写真で見たほどに「注意深くそのシーンを見ること」はない。例えば、事故車の写真があったとして、助手席のシートのカバーと、車線の向こう側にあるレストランの看板の色が似通っていて、あたかも「ここで事故するのが決まっていたかのような」シーンであったとしても、その現場ではなかなか気付かないだろう。そういうディテールは、写真によって初めて曝露される。そして、これこそが「固定」の効果と言える。
  • 「固定」には、さらに本質的な性質がある。それは、「時間を逆行すること」である。例えば、2010年に撮った写真があったとして、2012年現在からすれば、それは「2年前の写真」なわけだが、2014年になってから見返せば、「4年前の写真」であり、2110年に見返せば「100年前の写真」になる。当たり前のことかもしれないが、写真は常に「現在から過去に向かって、時速60分のスピードで遡っている」。これはつまり、「私たちは時速60分で未来に向かっている」のと同義である。この点で、「写真とは、錨(いかり)である。」とも言える。一定のスピードで無情にも流れ去ってしまう時間に対する、ささやかな抵抗と言える。また、人生が一度きりであるという残酷な一回性に対する大いなる反抗とも言える。それは、写真を繰り返し見ることで、過去を繰り返し再生する、というセンチメンタルな欲求を少なからず肯定する。
  • 写真は「過去」を収めている。私の写真管理ソフトLightroomにはおよそ82000枚の写真が収められているが、これら写真を戯れに見返してみると、過ぎ去った過去の世界をタイムマシーンにのって断片的に眺めているような不思議な感覚に陥る。8万枚もあるので、ちょっとやそっとでは見切れないし、いちいち懐かしい。懐かしく感じるのは、年をとったからかもしれないが(とはいえまだ30歳だが)、何より、経験的に「この瞬間はもう、ない」ということを理解しているからだ。「もう、ない」世界を、写真という「窓」によって、無理矢理こじ開けて垣間みている。そして、周辺の記憶が呼び起こされ、「懐かしい」という脳の状態が作り出される。これは「人生が一度きりであるという残酷な一回性に対する大いなる反抗」と言ってもいいような気がする。


【「いい写真」とはどんな写真か】

  • 優れた写真には「謎」がある。なぜこれを撮ったのか?その興味が人の目を引き、長時間眺められる可能性を備える。「長時間眺められる写真」は、即ち、「よい写真」である。(しかし、友人から教えてもらった写真家(鈴木理策さんか畠山直哉さんのどっちか)の言葉として、「しかし、答のない謎解きに人は付き合ってくれない。見ないという選択肢もある。」という主旨のものもあった。つまり、「謎」を「謎のまま」投げてしまうと、単なる「意味不明なもの」=「情報のないもの」=「価値のないもの」になってしまう。「回答のある謎」もしくは、「回答がなんとなく分かる謎」が望ましいのかもしれない。よくよく思い返してみると、確かに成功している写真家の作品には、そんな「うまい謎」が仕掛けられているようにも思える。
  • 優れた写真の撮影者には、いくつかのタイプがあるが、その中には「写真になったときに、このシーンはどう見られるか?面白いか?人をハッとさせられるか?」ということに敏感なタイプの人がいる。このようなセンス、感性、アンテナが良い人は、得てして写真が巧い。また、このようなタイプの人は、本能的か意識的かは分からないが、写真が「シーンを固定すること」、写真となった瞬間にそのシーンは「一枚の平面」になり、「一枚の平面を通して鑑賞者がシーンを見る」ことを、きちんと理解している。(その上で、「仕掛け」を練り込もうとしている。その「仕掛け」の良し悪しが評価を決める。これがなかなか難しい。ありきたりに堕ちると、「ストゥディウム」だけのカレンダー写真になってしまい、プンクトゥムを標榜してとんがってみても「実は先人がやっていた」ということも多く、やはり難しい。ま、これを自在にコントロール可能なら、写真家になれてしまうのだが。)
  • 写真は、基本的に指呼的な存在(「あれ、それ、これ」程度の情報量)である。写真一枚に文章のような情報や思想のような情報を伝達させようとしても(文章の書いてある本の写真とかは抜きとして)、それは伝わらない。しかし、「あれ」「それ」「これ」は、「あれだ!」「それだ!」「これだ!」にはなりうる(糾弾の作用)。そして、数枚の写真が組合わさると、「世界は(私には)こう見える!」という意図を伝えるまでに至る。(なお、本当に優れた写真は、一枚でも「世界はこうだ!」と示すことができる。アンドレア グルスキーやトーマス ルフやトーマス デマンドはそうだろう。人によっては、アラーキーかもしれないし、鷹野隆大やナン ゴールディンかもしれない。)
  • 写真が得意なことは、脈絡なき複数の世界を、一気に横断することである。例えば、イギリスの上流階級で生まれたばかりの赤ん坊と、エイズで死にいくジンバブエの中年男性は、全く異なる世界に属しているが、二人の写真を並べることも、あなたの自由である。この脈略ない縦横無尽さが、写真の特権とも言える。(なお、写真集として、「よい並び」であったり、写真展やスライドショーとして「よい並び」というのがあるのも事実で、「連続性による良さ」というのもある。しかし、元々写真というのは世界の「断片」であり、それを「構築」をしようなんていうこと自体煩わしいし、そもそも「構築」という行為そのものから自由でいたいんだ、と現代美術の始祖マルセル デュシャンが言い放ったように、「断片」であるが故の特質というのも同時に認めてしかるべきかと思う。)
  • 複数の写真には「振幅」が必要である。振幅がないと、人はすぐに飽きてしまう。なお、一見するとベッヒャー夫妻に端を発する「タイポロジー」はどうなんだ?という気もするが、実はタイポロジーも、厳密に決めた構図や被写体の内側に、振幅は存在している。撮影対象と条件(構図)を厳密に限定しているからこそ、個々の写真の差異が目だち(差異に頭が行き)、結果として「長時間見て」しまう。
  • 技術的に無理がある写真は、一瞬にして見破られてしまう。そして、一度はじかれると、人の関心は閉じてしまう。(ただ、全く「サラ」の人(一般の人)は違うかもしれない。ある程度写真を見慣れた人の方が、技術的なことにはうるさい。残念ながら自分も含む。)

今回の経験で、撮影に対する認識が少なからず変わってきたように思う。
トーマス・デマンド展から続く「写真の再定義」が徐々に自分の中で腑に落ちてきた。
写真でもっともっと遊んでみたい。


143. 写真展を終えて(作品2)

前回に引き続き、写真展に出展した作品をアーカイブとしてここに残す。こちらの作品は、「オブジェ(立体物)」の形式を取っており、画面や誌面で伝えることが難しいが、平たく言えば、「箱」である。

箱の蓋部分に「写真1」があり、その蓋を開けると「写真2」がある。写真1と写真2は、ある「意図」を持って「対」にさせられている。この「意図」が、この作品のコンセプトである。

1枚目を見てから、2枚目を見るというワンテンポの遅れや、「開ける」という動作そのものが作品の一部であるため、安易に2枚をここで並べても残念ながら興ざめするだけだ。クリックして2枚目を表示させればWebでもそれなりに再現できるはずだが、時間もないので、とりあえずここでは、箱の外観や展示風景だけを残しておく。



+++







タイトル:Uncover it
 
私たちの多くは、「日常のベール」に包まれて生きている。
そのベールによって、本来あるはずの「事実」や「プロセス」を覆い隠し、 快適な日々を過ごしている。
つくづく、良くできた制度だなと思う。
この作品では、ベールが隔てる二つの世界を、写真によって強制的につなげてみた。
「ベールの存在」を剥いでほしい。あなた自身の手で。 


使用カメラ: 
キヤノンEOS-1V キヤノンEOS 5D Mark II フジフイルムFinePix X100 ペンタックスK200D アップルiPhone 4






+++ 作品について +++この作品は、二枚一組の写真と一つの箱で構成されている。通常、組写真は誌面や壁面など同一平面上に配置されることが多いが、本作品では、一枚目は箱の蓋表面に、二枚目は箱の中に据えられている。この結果、「蓋を開ける」という身体的な行為によって、初めて二枚目の写真が見られる構成となっている。是非、箱を手に持って、蓋を開けてみていただきたい。


Title:  Uncover it

Many people are living with ‘veils of daily life’.The veils can hide the inconvenient facts or processes for us, and give us comfortable daily lives instead.
This must be well-designed social and mental system, I think. At the same time, I also think the people look like anesthetized patients. The worlds that they’re perceiving seem to be ambiguous.
I tried to forcibly combine the ‘worlds partitioned by the veils’, by using 2 photographs.Please uncover the veils, by yourself with the box.
Camera:Canon EOS-1V, Canon EOS 5D Mark II, Fujifilm FinePix X100   Pentax K200D, Apple iPhone 4

+++ About the piece +++This piece is composed of 1 box and 2 photographs which are paired each other. Generally, paired photographs are placed on a same page of magazine or a wall, anyhow that is one plane. On the other hand, this piece has 2 layers. The first photograph is set on the cover of the box, and the second one is inside the box. Only the physical action, I mean your uncovering it, can show the second photograph to you.




+++展示の様子+++









この作品は6個の箱から成っており、それぞれにナンバーが振られている(1〜6)。
展示している台(これも自作で、大変だった)は少しずつ高さを上げており、順番に見てもらえるように誘導する役割と、ナンバー毎にレベルが上がっていく寓意を与えていた。
写真の「順序」(=ストーリー)は以下のような意図に基づき決定した。


1箱目はこちらの意図を分かりやすく伝えるストレートなものを。
2箱目は少しテーマをずらし、余白を与える。
3箱目はドスンッと一回たたき落とし、軽い恐怖を味わってもらう。
4箱目は3箱目の余韻を引きずって、作者の意図に否が応にも気付かせる。
5箱目にさらなるショックを与えて、視覚的に追い打ちをかける。

僕が想定(期待)していたのは、「6箱目を開けることが怖い・・・」という心理状態だ。
1箱目から5箱目で、見る人は「開けたら何かがある。予期していない何かがある。」ということを悟ることになる(そうあってほしい)。

その上での6箱目。

ある程度覚悟して、開く。

そこに待っていたものはーー

ここでは触れないが、展示の様子の写真にあるように、ある人は苦笑いし、またある人は不快感を露にし、またある人は無言で立ち去った。

その様子を見ながら、僕はつくづく「写真って面白いなぁ」と思う。写真は視覚を共有できる。世界を切り貼りして、意味を与えることができる。何の脈絡もない組み合わせだってできるし、因果関係を無視することも、また跳躍して間の時間をすっ飛ばすこともできる。実際、この作品に使った写真は、2009年〜2012年までの4年間のもので、時間的な意味で言えば大いに「跳躍」している(間がすっ飛んでいる)。また、場所もインドネシア、中国、タイ、埼玉、神奈川、東京とこれまた「跳躍」している。この節操のない、飛び方が写真を組み合わせる面白さのひとつだと思う。

これ以外にも今回は写真の面白さや特性について色々と考えることがあった。(「写真」が自分にとってちょっとしたブームなのだ。今更だが。)
それについては、次の記事に書こうと思う。

142. 写真展を終えて(作品1)

去る2012年10月9日から14日まで、所属する写真サークル「ニーチ」の写真展に作品を出展していた。

渋谷にあるギャラリー「ルデコ」で、2階と3階の2フロアに渡って、計33名が作品を出品した。来場者は、各階で大体370人ほどで、アマチュアがやる写真展としては多かったほうだと思う。
(とは言え、700人ほどの年もあったらしいので、メンバーとしては少ない方とのこと)

普段、他人に写真を見せる機会など(Web上を除いて現実世界で)あまりない自分としては、これだけ多くの人に自分の写真を見てもらえる機会は他に無い。
ありがたいことだ。


このグループ展は今年で9回目だそうで、自分としては2回目の出展だった(前回は一昨年)。
2回目ということで、今回は、多少実験的な要素を入れて、作品を制作してみることにした。特に以下のようなことを意識していた。


  • 初めにコンセプトを決めて、それから写真を撮る。
  • コンセプトをベースに、写真を選ぶ。
  • 主観的になりすぎない。客観的に、突き放す。
  • 人によく思われようとしない。やりたいことに忠実になる。
  • 見る人を「傷つける」くらいのつもりでやる。

特に最後のものは理解しにくいと思うが、オブジェ作品の方(今回はいわゆる「壁掛けの写真展示」と、「写真を使ったオブジェの展示」の2種類の展示を行った)を見ていただけた方にはいくらか伝わったと思う。

(「トラウマになりそうです」という感想までいただけた。こちらのスタンスが真っすぐ届いた証拠であり、とても嬉しい。ショックを受けた方には申し訳ないような気もするが、コンセプトとストーリーが決まった時点で、あれ以外の終わり方はあり得なかったと今でも思っている。)

製作途中では、少し手加減しようかと思ったりもしたのだが、出し切って良かったと思う。
今回は作品を見た見ず知らずの人から何度か声をかけられることもあった。こういうのは、なかなかないことなので、「ああ、やってみてよかったなぁ」と思っている。


見に来ていただけたみなさま、どうもありがとうございました。


+++

さて、ここでは、自分の作品が忘却の彼方に追いやられてしまう前に、作品概要、キャプション、製作意図についてアーカイブを残しておこうと思う。

写真作品とは、本来「物質的」なもので、プリントとして提示された「そのもの」でなければ、本当の意味でのアーカイブはできないのだが、ここでは割り切ることにする。

(一方で、厳密な話をすれば、彫刻や絵画のように、その「一回性」や「テクスチャ」や「サイズ」がよりモノを言う芸術に比べれば、写真は「複製技術時代の芸術」であり、「物質的な制約」からは、これら他の芸術媒体よりも遠い存在である。そういう意味においては、むしろ節操もなくここに作品のサムネイルを載せることは、写真の特権を行使しているとも言える。ただ、いかんせん、オブジェ作品の方だけは、鑑賞者の身体的な操作も加わって初めて作品となるので、Web上での再現が難しい。本当にドライなのはオブジェの方なのだが、残念だ。)

まず、壁掛け展示した方の作品から。

+++







タイトル: 見 え な い 

私の体重は69kgで、眼鏡の重さは16g。重量としてはわずか0.03%にも満たないが、眼鏡なしでは出歩くことすらままならない。 目を凝らしても、見えない。
そのもどかしさを、写してみようと思った。
眼鏡をはずしたとき、私はこんな世界に放り込まれる。

使用カメラ: フジフイルムFinePix X100



+++ 製作プロセス +++製作では、「視野の再現」を念頭において各パラメータを決定した。まず、裸眼で焦点の合う距離を測定したところ、目の表面から約17cmだった。ヒトの眼球は平均で直径およそ2.4cmであり、内径を2cmと仮定すると網膜から焦点の合致する距離までは約19cmとなる。このため、カメラの焦点距離を19cmに固定することとした。次に、ヒトの視界の縦横比を測定したところ約1:1.37であり、A3サイズの紙(1:1.41)に近いことが分かった。一方、カメラの撮像素子(APS-Cサイズ)の縦横比は1:1.50であったため、プリントの段階で左右を裁ち切りA3サイズに合わせることとした。ヒトの中心視野の画角は焦点距離43mmのレンズ(35mm換算)に近いとされているが、プリント段階で左右の裁ち切りがあることを考慮して、やや広い35mmのレンズを用いることとした。以上の条件を満たすカメラとして、フジフイルムのX100(35mmレンズ(35mm換算)、最短撮影距離10cm、APS-Cサイズセンサー)を選択した。なお、ヒトの目が虹彩による自動絞りを採用していることから、絞りは任意の値(F4-11)とし、撮影時に眼鏡をはずして実際に見えたボケ感に最も近い絞り値を選択した。

Title:  can’t see My body weight is 69kg and my glasses are 16 g, this means my glasses are only <0.03% in weight. However, the value of my glasses must be greater than the weight. I cannot go out without my glasses. I can’t see, even if I look hard at.
I came up with an idea to capture my feeling in the blurred world. When I take off my glasses, I am put into such a blurred world.
Camera: Fujifilm FinePix X100


+++ Method +++I determined each parameters in order to recreate my viewing field. First, I measured the distance between the surface of my eyes and the focal plane with my naked eyes. That was approximately 17 cm. The diameter of human eye is reportedly about 2.4 cm on average. Assuming that the internal diameter of eye is 2 cm, the distance between the retina and the focal plane is 19 cm. So I fixed the focus of the camera as 19 cm. Next, I tried to measure the aspect ratio of the human view, the result was about 1:1.37, which was close to A3 size paper(1:1.41). Meanwhile, the aspect ratio of imaging sensor (APS-C size) is 1:1.50, so I decided to cut the right and left side of photographs to make it A3 size. Generally the central viewing field of human is reportedly close to the view which captured by 43 mm lens converted in Leica format) in terms of field angle, however, I selected 35 mm lens in consideration of cutting process. To meet these requirements, I selected the Fujifilm X100 (35 mm lens(in Leica format), minimum shooting distance = 10 cm, APS-C sized sensor). Additionally, human eyes use automatic diaphragm, I set the aperture as certain range (F 4-11), and then I selected the best aperture by comparing the photos and the real view with my naked eyes.