ここに、祖父の形見の懐中時計がある。
僕は祖父がその懐中時計を片時も離さず持っていて、
夕暮れ時になると左胸の内ポケットからそっと出して、
老眼鏡をおでこの上に押しのけてから時刻を確認していた、
その少し猫背気味の姿を憶えているから、
これがただの懐中時計だとは思わず、祖父の形見であると認識できる。
「そろそろ帰ろうかね」
という優しい声と結びついているから、それが祖父の形見として、僕の中で機能する。
そのひんやりした感触や、ネジを巻くときの歯車の抵抗に、
「ああ、かつてこの感覚をおじいちゃんも感じた瞬間があったのだな」
と直感し、祖父と僕とが時間を越えて再会したような、そんな一瞬の夢を見ることができる。
しかし、この懐中時計が祖父の形見であるとは知らない人がやってきて、この懐中時計を見たら、なんのことはない、古い、すすけた懐中時計に過ぎず、誤って燃えないゴミの日に出してしまうかもしれない。
このように、モノに宿る記憶というものは、「ダイレクトに(=同じ時間と空間で)その記憶を共有した人」にしか生まれないという性質がある。
しかし、例えば、祖父がその懐中時計を見ているシーンを写真に撮っていたとして、その写真が懐中時計と一緒に保管されていたら、どうだろう?
少なくとも、この懐中時計が祖父に使われていたことは証明される。
少し想像力を働かせれば、この懐中時計が何の脈絡もなくこつ然と現れたものではなく、祖父と供に一定の時間を過ごしていたであろうことも分かる。
それは、例えば、言葉の通じない外国人にも、恐らく伝わるはずだ。
写真とはシーンであり、シーンには意味を持たせることができる。
写真は存在証明になりうる。
モノに与えられた記憶を、「その記憶をダイレクトに(=同じ時間と空間で)共有していない者」にも、伝える可能性を秘めている。
といったようなことが、写真の「古典的な性質」である。
こういったことは、既にロラン バルト等、古典的な写真論の中で語り尽くされたもので、その類いを読んだ方々には当たり前のことだろう。
ところで、冒頭に記載した「祖父の形見の懐中時計」なるものは、実在しない。
今しがた考えた、「たとえ話」なのだが、一瞬でも「そんな懐中時計があるのかもしれない」と思ってもらえたら、この記事としては成功だ。そして、その「誤認識」は昨今(と言っても15年くらい前から含めて)の写真作品に頻繁に認められる性質でもある。
先に記したとおり、写真にはシーンが固定されており、そのシーンが実在したという「存在証明」になりうる。この「存在証明」という性質を逆手に利用して、あるシーンを人工的に細工し再現し、そのシーンがあたかも実在するかのように見せる(つまり現実を捏造する)作品が数多く発表されている(特に海外で)。
なお、これら作品の本質的な命題は、「現実を捏造する行為」そのものよりも、捏造された現実を、鑑賞者が現実と(一瞬)誤認(し、その後、誤認であったことを自覚)するときに生じる、【現実とは何かという問いかけの視点/角度】であったり、【容易に捏造されうる現実の不確実性】であったり、【容易に捏造可能なアイデンティティーの不確かさ】であったりするのだが、個別の作家や作品にはここでは言及しない。
こういった「ストレートではない」写真は、いわゆる写真らしくはないし、カテゴライズすると「現代アートだよね」となってしまう。
特に日本では「写真」と「現代アート」は、奇妙なほど区別されているように見受けられる。
「これは写真じゃなくて、アートだよね。」
というのは、日本独特の写真文化的発想のように思う。
僕自身は、一観賞者として、両者を明確に区別する必要もないし、能力もない。
なので、無節操に「存在証明」と「存在偽造」を行き来してみようと思う。
そう思うと、写真がとても愉しくなってくる。
僕は祖父がその懐中時計を片時も離さず持っていて、
夕暮れ時になると左胸の内ポケットからそっと出して、
老眼鏡をおでこの上に押しのけてから時刻を確認していた、
その少し猫背気味の姿を憶えているから、
これがただの懐中時計だとは思わず、祖父の形見であると認識できる。
「そろそろ帰ろうかね」
という優しい声と結びついているから、それが祖父の形見として、僕の中で機能する。
そのひんやりした感触や、ネジを巻くときの歯車の抵抗に、
「ああ、かつてこの感覚をおじいちゃんも感じた瞬間があったのだな」
と直感し、祖父と僕とが時間を越えて再会したような、そんな一瞬の夢を見ることができる。
しかし、この懐中時計が祖父の形見であるとは知らない人がやってきて、この懐中時計を見たら、なんのことはない、古い、すすけた懐中時計に過ぎず、誤って燃えないゴミの日に出してしまうかもしれない。
このように、モノに宿る記憶というものは、「ダイレクトに(=同じ時間と空間で)その記憶を共有した人」にしか生まれないという性質がある。
しかし、例えば、祖父がその懐中時計を見ているシーンを写真に撮っていたとして、その写真が懐中時計と一緒に保管されていたら、どうだろう?
少なくとも、この懐中時計が祖父に使われていたことは証明される。
少し想像力を働かせれば、この懐中時計が何の脈絡もなくこつ然と現れたものではなく、祖父と供に一定の時間を過ごしていたであろうことも分かる。
それは、例えば、言葉の通じない外国人にも、恐らく伝わるはずだ。
写真とはシーンであり、シーンには意味を持たせることができる。
写真は存在証明になりうる。
モノに与えられた記憶を、「その記憶をダイレクトに(=同じ時間と空間で)共有していない者」にも、伝える可能性を秘めている。
といったようなことが、写真の「古典的な性質」である。
こういったことは、既にロラン バルト等、古典的な写真論の中で語り尽くされたもので、その類いを読んだ方々には当たり前のことだろう。
ところで、冒頭に記載した「祖父の形見の懐中時計」なるものは、実在しない。
今しがた考えた、「たとえ話」なのだが、一瞬でも「そんな懐中時計があるのかもしれない」と思ってもらえたら、この記事としては成功だ。そして、その「誤認識」は昨今(と言っても15年くらい前から含めて)の写真作品に頻繁に認められる性質でもある。
先に記したとおり、写真にはシーンが固定されており、そのシーンが実在したという「存在証明」になりうる。この「存在証明」という性質を逆手に利用して、あるシーンを人工的に細工し再現し、そのシーンがあたかも実在するかのように見せる(つまり現実を捏造する)作品が数多く発表されている(特に海外で)。
なお、これら作品の本質的な命題は、「現実を捏造する行為」そのものよりも、捏造された現実を、鑑賞者が現実と(一瞬)誤認(し、その後、誤認であったことを自覚)するときに生じる、【現実とは何かという問いかけの視点/角度】であったり、【容易に捏造されうる現実の不確実性】であったり、【容易に捏造可能なアイデンティティーの不確かさ】であったりするのだが、個別の作家や作品にはここでは言及しない。
こういった「ストレートではない」写真は、いわゆる写真らしくはないし、カテゴライズすると「現代アートだよね」となってしまう。
特に日本では「写真」と「現代アート」は、奇妙なほど区別されているように見受けられる。
「これは写真じゃなくて、アートだよね。」
というのは、日本独特の写真文化的発想のように思う。
僕自身は、一観賞者として、両者を明確に区別する必要もないし、能力もない。
なので、無節操に「存在証明」と「存在偽造」を行き来してみようと思う。
そう思うと、写真がとても愉しくなってくる。