2011年4月17日日曜日

088. 自浄作用(不完全さの中で生きる)

時として、
突如として、
僕は自分自身の不完全さを思い知らされ、
打ちのめされてしまうことがある。

茫然としてしまい、
恥ずかしくなり、
自分自身が無価値な人間であるかのように思えてきてしまう。
そんなことが、ある。

その対象に心を奪われているときは、
どうやってそのような心境から抜け出せばいいのか、
皆目見当もつかない。

しかし、例えば、
妻と話したり、
友人と話したり、
写真を撮ったりしていると、
つまり、その対象とは全然関係のないことに心を傾けていると、
いつの間にか、
その対象から少し離れた位置に自分の心を置けるようになる。

それは一種の忘却でもあるわけだが、
少なくとも、その対象を客観的に見られるくらいの冷静さを
与えてくれる作用がある。
(僕には、土日という二日間の休日がそのために与えられているとしか考えられない)


そうすると、
nativeな積極性や主体性やpositiveな思考回路が、
徐々に、半自動的に働き出す。

「弱い部分があるのは、仕方ないじゃないか。
その部分を認識して、そこを潰す方策を考え、
それを具体的に実行していく。
それしか自分にはできないし、
それをやり続けていく以外に、いい方法は思いつかない。
スナップショットの自分を取り上げられて、
その不完全さを非難されたとして、
それが一体どんな意味を持つのだろう。
それよりもむしろ、将来にわたって発展的であることの方が
よほど重要だ。」


不完全さの中で生きなければならない。
そういった条件を与えられたとき、
完全さのみをひたすら求めてしまうのは
恐らく正しい態度ではないのだろう。
むしろ、それは危険ですらある。
精神衛生上、よろしくないからだ。

繰り返す経験の中で思うことは、
完全さを求めるのであれば、
むしろ不完全さを見つめる事の方が重要である、ということだ。

不完全な、不十分な部分をいかに補うか。
考えて、考えて、
一つ一つ歩を進めて行く。

不完全であることを責める必要もないし、
気に病む必要もない。
どう補うか。
それに集中するだけで精一杯。

不完全であり続ける人生を生きるのには、
この方がよっぽど気楽だろう。