2011年4月5日火曜日

085. 日本(カイロスとクロノス)





さて、どうしようか。

或る時を境にして、ガラッと世界が変わってしまうことがある。
日本語で言えば「節目」であり、
ギリシア語で言えば「カイロス」である。

アメリカ人にとって、9.11は「カイロス」であり、
日本人にとって、3.11は「カイロス」である。

ギリシア人には、もう一つの時間概念として、「クロノス」という観念がある。
これは、「連綿と続く時間」というもので、イメージとしては、まずクロノスがしばらく続き、或る瞬間、カイロスが生じて世界が一新され、その新しい世界観の中で、次のクロノスが続いていく、といった時間観念だ。
人類が経験する「時間」というものは、この二つの観念だけで説明される。

「クロノス」という観点から、今回の大震災を振り返ってみたときに、
知りたくなるのは、「これからのクロノスにどのような変化が現れてくるか」だ。
カイロスがカイロスである以上、それを境にして、その前後のクロノスは質的な変化を示すはずだからだ。

大震災、
巨大な津波、
多くの死者、
長引く放射能汚染の危機。

これらは日本に大きな「傷」を付けた。
精神的にも、社会的にも、経済的にも。
そして、この「傷」の大きさは、まだ完全には把握されていない。
恐らく、5年程度経たなければ、無理だろう。

ただ言えることは、これからの「クロノス」はこの「傷」に引っ張られる形で進行し、また、この「傷」そのものを癒す過程でもある、ということだ。

海外を旅していると、日本の漫画やアニメが地球の裏側に位置するような南米や、アジアの片田舎であっても受け入れられ、認知されている場面に度々遭遇する。
そのとき、僕は軽い驚きととともに、あることを疑問に感ぜずにはいられない。

「なぜ、この人たちは、自らそのようなアニメや漫画を生み出さず、はるか遠い国から輸入するのだろう?」

もちろん、その国にアニメや漫画を生み出すような経済的な余裕が無い、というのもあるだろう。ただ、「輸入」はできているのだ。
テレビもやっている。
お笑い番組もやっている。
映画館だってある。
ゲームセンターだってあるのだ。
そんな国なのに、果たして「経済的な理由で作れない」のだろうか?

僕が直感するのは、どちらかと言うと、「もしそのような経済的な余裕があっても、日本のような漫画やアニメを作ることには興味が薄く、結果として作れないのではないか?」ということだ。

「優劣」を言いたいのではない。
「個性」の話をしたいのだ。

地球上には、様々な民族がいる。
民族にはそれぞれ、個性がある。
もちろん遺伝的な側面としての個性もあるが、ここで問題にしたいのは文化的な個性だ。

それは、文化の端々に見られる「集団としての個性」である。
もっと言えば、「集団の意識」「集団の欲望」というものである。
その「集団の意識」「集団の欲望」が、その民族が住む国の建築物となり、料理となり、音楽となり、文化となる。

日本人の「集団の意識」や「集団の欲望」は、世界に発信できるような漫画やアニメやゲームを生んだ。食文化では、寿司やそばを生みだし、中国から輸入した「支那そば」は「ラーメン」という独自の麺文化に変容した。

これは日本人集団の「個性」だと思う。

さて、クロノスの話に戻そう。

まず、被災地の復興が最優先で行われる。
同時に、現在も続く福島の原子力発電所の問題を解決していく必要がある。
そして、計画停電の解消が続き、
この辺りから日本の経済が震災前と同じレベルに戻ってくるはずだ。

このような実体としての社会の再起動が、まず現実となってくる。

そして、それからしばらく遅れる形で、ゆっくりと「集団の意識」「集団の欲望」が大震災を境にして変わっていたことが明らかとなるだろう。
それは日本人の想像力の賜物である「著作物」、とりわけ漫画、小説、アニメ、ゲーム、映画に如実に現れてくるのではないかと思う。

なぜなら、僕たちは「恐怖」したからだ。

心底、恐ろしい思いをした。そして今もしている。

街が丸々粉々になるなんてことが、実在することを知ってしまった。
いっぺんに多くの人が命を落とす、そんな事態が実在することを知ってしまった。
寝たきりの奥さんを置いて、津波から逃れた老人が涙ながらにインタビューに答えているのを目撃してしまった。
「早く上に行けー!」と妻に呼びかけた瞬間に、津波に持ってかれてしまった夫と、二階に逃れたため助かった妻、そんな状況が実在することを知ってしまった。
放射能汚染の拡大がないことを日々祈るような生活が実在することを知ってしまった。
必死の作業にも関わらず、原子力発電所の危機的状況は長引いてしまうことを知ってしまった。
計画停電が1年以上続くような異常事態が実在することを知ってしまった。


このショックにも似た一次の恐怖と、
じわりじわりと蝕むような二次の恐怖、
そして、将来の経済縮小を予感して、感じてしまう微かな三次の恐怖。

これらは、とりわけ東日本に住む人の精神に「傷」を与え、
その思考方法に、それぞれ個々人として見れば小さな、しかし、集団として見れば大きな「変化」を与えるだろう。

その結果、日本人の想像力は、どのような変化を迎えるのか。

願わくば、筋肉繊維のようであればいい。
壊れたら、元以上に、強くなるような。

, listening to nothing.