壊れたラジオのように支離滅裂な文章になってしまうだろうが、今日思いついたアイデアを一通り書き残しておこうと思う。
1)言霊? (言葉のクオリアについて)
以下の言葉を5秒間見てほしい。
「おでん」
・・・いかがだっただろうか?
「おでん」である。
あの冬にコンビニで売っている、湯気のたった、大根やらチクワやらハンペンやらを和風のだし汁で煮込んだアレである。あの食べ物が頭に浮かんだだろうか?
もう一度やってみよう。
「おでん」
どうだろう?
さて次は、頭の中で「おでん」と繰り返し言ってみよう。
さんはーい!
(おでん)
(おでん)
(おでん)
(おでん)
(おでん)
いかがだろうか?
こいつ何言ってんだ?という気持ちがわきあがってくるのをとりあえず置いておいて。
心の中で「おでん」という単語を発すると、おでんのイメージが脳内に浮かび上がってこないだろうか?
「おでん」という単語をきっかけに、おでんのあのホカホカした平和的な姿が浮かび上がってきているなら、この実験は半ば成功したも同然だ。
さて、「おでん」のことを考えながら、今度は「戦争」をイメージしてほしい。
「戦争」
である。
・・・ものすごく、嫌ーな感じはしないだろうか?
というより、「おでん」と「戦争」を並列して考えること自体無理があるだろう?と思うだろう。
よし、わかった。
「おでん」から「戦争」へ。
頭を切り替えようじゃないか。
「おでん」
から、
「戦争」
へ。
一気に平和ムードが興ざめだ。
人がばたばたと死んで行く。
よく見知った街が燃えている。
近くで何かが爆発する。
気付くと、君の隣の人がいなくなっている。
君は無事か?
いやそうではない。
あそこに転がっているのは君の・・・
いかがだろう?
そんな世界が「戦争」だ。
さて、ここで「戦争」という言葉を脳内で繰り返し繰り返し言ってみてほしい。
もう嫌だ!なんて思わずに。
さぁ始めよう。
(戦争)
(戦争)
(戦争)
(戦争)
(戦争)
もしマジメにこの文章に付き合ってくれていたのなら、今頃あなたの脳内は、あたなの中にあった戦争に対するイメージで、一杯に満たされているだろう。
さて、ここで考えてみてほしい。
あなたの脳の「状態」は、戦争という殺伐とした「イメージ」で汚されてしまっているけれど、その「トリガー」って奴は何なのか?を。
「おでん」のときはあんなにリラックスできたのに・・・
「戦争」のときはなぜあんなに暗い緊張した気持ちになったのだろう・・・
そう、トリガーは「おでん」という「言葉」や、「戦争」という「言葉」である。
あなたの脳の状態が、「言葉」というありふれたものに支配されてしまった、おおげさに言えばそういうことになる。
なぜか?
それは、言葉が持つ「クオリア」のせいだ。
と僕は予想する。
クオリアというのは、Wikipedia先生によれば、
「簡単に言えば、クオリアとはいわゆる「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、世界に対するあらゆる意識的な体験そのものである。」
クオリアとは、以上のように外部の世界を見たり、聞いたり、触ったり、食べてみたり、嗅いでみたりしたときに、脳内に浮かび上がる「感覚質」そのものである。
つまり、五感の情報に付随した「脳内で沸き上がる感覚」がクオリアであると理解される。
さて、通常は、そのように理解されるけれど、実は「言葉」を読み取った際にも、その言語から沸き上がる「イメージ」を人間は感じられる。
そもそも、Wikipedia先生の引用のところで僕たちがやっていることは、まさにそれそのものである。
「空のあの青々とした感じ」
という「言葉」に対して、あなたは「あなたなりの青々とした空」を思い浮かべて、
「ああ、クオリアとはこういう【感じ】のことを言うのだな」
と合点したはずだ。
その間、あなたは一度も実物の「青い空」を見ていない。
それにも関わらず、あなたは「空のあの青々とした感じ」というクオリアを理解したのである。
つまり、慎重に考えれば(慎重に考えなくても)「言語」をきっかけとしても「クオリア」が発生することがわかる。
さて、先ほどの「おでん」と「戦争」の思考実験は、「言葉のクオリア」があなたの脳内の「状態」に与える影響を試す意味で行ったものである。
願わくば、「おでん」で平和的に、「戦争」で殺伐とした気持ちになってもらえたらいい。
というのも、それは即座に、「言葉によって脳内の状態をコントロールできるかもしれない」という可能性を示しているからだ。
古来、日本では「声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。」(Wikipedia先生)
こんなこと迷信や眉唾ものだ、と僕は思ってきたし、多くの人もそう思ってきたかもしれない。しかし、先ほどの「言葉のクオリア」の存在を考えると、あながち全くの迷信ではないのかもしれないという気がしてきた。
I’m not spiritual, but 「言葉のクオリア」という一種の「脳の機能」を意識的に活用したいだけだ。
というのも、不思議なことだが、
「ストラテジックに動こう」
と脳内で一人言を言っていると、本当にそんな風に考え始めるのである。
(注意したいのは、ストラテジックに考え始めてからそう言っているのではなく、ストラテジックに考えるのが「だるい・・・」ときに、あえて言ってみるのである。そうすると、脳内の状態が「ストラテジック」であろうとする。してくる(ここが言霊的であり、実体としては「ストラテジック」という言葉の「クオリア」が脳内に「戦略的な思考をする」というムードを発生させるのだ)。そのわずかな反発力のようなものがキッカケとなって、思考が「ストラテジックに。ストラテジックに。」と徐々に動き出す。「言語」ありきで、「思考」が開始するというのはなかなか面白いなぁと思った次第である)
他にも、
「無駄なものは捨てよう。」
と一人言を言うと、無駄なものがだんだん見えて来る。
気になってもいなかった不要品、不要な書類、無駄なこだわり、無駄な仕事等が見えて来る。
「シンプルに。シンプルに。」
そう言い出すと、短時間で本質だけを目指すようになって来る。
「無駄を削ぎ落とす。」
この「削ぎ落とす。」というストイックな響きが好きだ。
そう、
「ストイックに。」
これもキーワードになる。
そうだ、
「キーワード(Key word)」
という言葉はスゴい言葉だな、とつくづく感じる。
「Key=鍵、となるWord=言葉」である。
つまり、あなたの前には、容易には開けられない「扉」があって、
そこであなたは右往左往している。
一体この扉はどうやったら開けられるのか?
そもそも開けられるようにできているのか?
鍵穴はどこだ?
鍵はどこだ?
そうやって見つけた、「鍵となる言葉」。
それがキーワードだ。
言葉が鍵になる。
まるで、言霊のような発想を前提としているようにも思える。
さて、言葉の効用が分かってきたところで、あとはどのような自分でありたいか?
今日をどう過ごしたいか?
である。
それらの願望に応じて、望ましい言葉を選べばよいだけである。
当面は、
「ストラテジックに動こう。」
「無駄なものは捨てよう。」
「シンプルに、シンプルに。」
「無駄を削ぎ落とす。」
「ストイックに。」
あたりが僕にとってのキーワードになりそうだ。積極的にクオリアを活用させてもらおう。
2)アイツの中の俺。(混成体)
僕は思う。
「アイツの写真にかける情熱は、俺以上に俺だからなぁ。」
「アイツの論理性は、俺以上に俺だからなぁ。」
「アイツのプレゼンは、俺以上に俺だからなぁ。」
どういうことかと言うと、
僕も写真に対する情熱を持っている。
しかし、僕の友人のアイツにはちょっと敵わない。
僕の「写真に対する真剣な自分」の側面を、さらに強くしたような存在が、僕の友人のアイツなんだよな。と僕は認識する。
僕も論理性を持っている(方だと思いたいだけかもしれないが)。
しかし、僕の友人のアイツにはちょっと敵わない。
僕の「論理的であろうとする自分」の側面を、さらに強くしたような存在が、僕の友人のアイツなんだよな。と僕は認識する。
僕はプレゼンが結構好きだ(客観的にうまいかどうかは置いておいてくれ)。
しかし、僕の友人のアイツのうまさにはちょっと敵わない。
僕の「うまいプレゼンをやろうとする自分」の側面を、さらに強くしたような存在が、僕の友人のアイツなんだよな。と僕は認識する。
と、いうように、僕は他人の中に、「僕のような部分」、それはおおげさに言えば、「僕の片鱗」を見つけることができる。
また、逆に、自分自身の「言動」や「行動」や「判断」や「思考」に対して、僕の友人や知人や先生や同僚や上司や先輩の「一部のようなもの」を感じとることもできる。
「あれ?こんな言い方、まるでアイツみたいだな」
とか、
「あれ?こんな行動、まるでアイツみたいだな」
とか、
「あれ?こんな判断の仕方、まるでアイツみたいだな」
とか、
「あれ?こんな思考、まるでアイツみたいだな」
とかである。
つまり、「混ざっている」なぁと。
僕は、恐らくある側面で見たら、友人Aのようであるし、別の側面で見たら友人Bのようにも見えるだろうし、また別の側面で見たら友人Cのようであるかもしれない。
色に喩えるなら、下から見たら青だけど、上から見たら緑で、右から見たらピンクだった、というような複雑な多面体をしているのかもしれない。
しかし、どの側面をとっても、それはやはり「僕」なのだ。
僕は幸いにも、多重人格を有していないので、多面体的な側面はあったにせよ、それは有機的に、しなやかに、ひとつの形を造っていて、それらの集合体—それは混ざり物の混成体かもしれない—が、僕という一個体の実体なのだろう。
そんなことを思った。
3)何かが分かると、またひとつ世界はクリアに見える。
そして、それは分かった気になっただけのことなのかもしれないが。
しかし、何かひとつを学ぶこと、気付くこと、思いつくことで、僕の世界はまたひとつクリアになる。その感覚は本物だ。
そして、僕はもっと、もっとクリアな世界を見てみたいと望んでいる。
貪欲にも。
listening to 「My Foolish Heart/Bill Evans」