2009年9月25日金曜日

034. Sudden


以下の文章には、過激な表現が含まれています。気分を害されたくない方は、是非戻るボタンを押してお戻りください。
そして、この文章を最後まで読んでしまったあなた。このような文章を書かざるを得ない弱い僕をどうかお許しください。

---

その日、僕には朝から任された仕事があった。
連休明けの木曜日。
連日、AM3:00まで起きていた僕は、結局仕事の前日も眠ることができず、4時間程の睡眠で家を出ることになる。
僕は毎日、会社まで歩いて通っている。僕はこの習慣が好きだった。朝の光の中で、硬いコンクリートを踏みしめて歩くうちに、心拍数も上がり、頭がだんだん冴えて来る。街を足早に歩く通勤者を横目に見ながら、

「今日も街が動き出したな。」

といつも思う。これが、普段の生活、つまりは「日常」である。会社に向かう途中に、僕は今日やっておきたい仕事を頭の中で整理した。35分の通勤時間は、その整理に十分だった。8:22に会社に到着。すぐさま作業へと取りかかった。そのままの勢いで、僕はあの日、非常に濃密な業務時間を保てたと思う。頭で描いた設計図をひとつひとつ実現していくように、メールでチーム員に指示を出し、取引先に電話を5〜6本かけ、関連部署との調整を行い、下請け業者とのミーティングを行い、書類のひな形をいくつか完成させ、上司からの指示をこなし、取引先の失態を指摘し、その改善の要望を出し、いくつかの正式書類をリリースした。

その中に、無駄があったとは思わない。
その一つ一つが、今のプロジェクトの推進に必要なことで、1日の遅れも許さないものだったと今でも思う。

今、僕が担当しているプロジェクトは動き出しているのだ。その動きを止めることは、僕が最も望んでいないことの一つだ。チームが一つとなり、その共同作業の歯車を、誰かが回す必要がある。僕はその歯車の取っ手をしっかりと握り、呼吸を止めながら思い切り回している。

気付くと、既に夜の9時だった。
ディスプレイを見過ぎた僕の目はとても疲れていて、視力が悪くなっていることに気付かされた。辺りを見渡すと、数人を残すのみ。まだやるべき仕事は残っていたが、今日やるべき仕事か?これ以上残業してまで急ぐ仕事か?を考えた結果、僕は帰宅することを選んだ。

「明日もがんばるか。」

僕は夜の街に出た。帰りも当然、徒歩である。朝来た道を逆走する形で、僕は目黒川を横目に見ながら、次はどのような写真を撮ってみようかと構想を練っていた。大崎から五反田までの間、目黒川沿いには高層マンションが建ち並び、現代的な街並を形成していた。そこは人影が極端に少なく、街路樹が設計されたとおりに等間隔に植わっており、間接照明で照らされている。

「まるでCGみたいだな。」

僕は、その風景をいつもそんな風に思っていた。夜の間接照明が、建物の質感、テクスチャーをそのように見せるのは、写真を撮る者であればおおよそ想像できるだろう。その建築物が現代的で、巨大で、美しければ美しい程、「CG感」は強くなる。

分譲マンションが売り出される前に、完成予想図としてCGが使用されることがある。そのイメージ図では、空は透明な程に青く、建物の壁面に汚れはなく、人はまばらで、街路樹は計算し尽くされたようにその枝葉を真っすぐと伸ばしている。高級感や重厚感を感じさせるそのCGは見事に、ここ五反田にダウンロードされていた。

「現実感が希薄だな。」

僕は恐らく一生かかっても買えない高級マンションを横目に、人の匂いが極端に少ないその場所を通り過ぎた。

東急池上線の高架を通り過ぎると、賑やかな街の光に包まれた。僕は最近、腹の調子が悪い。消化が十分にできていないらしく、腹部に膨満感を感じていた。しかし、そういった身体の反応とは裏腹に、昼食から9時間以上経過した脳は、食欲のパルスを大量発生させていた。

「脳と身体がちぐはぐだな。」

そう思いながらも、食欲は今晩のささやかな晩餐を想起させ、「何を食べてやろうか?」という思考で僕を一杯にする。昨日新宿で食べたインドカレーはなかなかだった。そうだ今日も少しスパイシーなものにしようか。しかし、タイ料理屋は少し遠いし、あのスープカレー屋も遠い。四川料理屋もいいが、遠い上に1人では入りにくい雰囲気だったな。ああいう店は少なくとも3〜4人で行きたい。そんなことを考えながら、僕は中原街道を五反田駅から離れる方向へと歩いて行く。ふと見上げると、「三田製麺所」という看板が出ていた。どこかで見たことがあるラーメン屋だ。店先に「辛つけ麺」と看板が出ており、少しスパイシーとは異なるが、ここにすることにした。

中に入ると、ラーメン屋とは思えない程、二人席が多く、また活況であった。店員に1人と告げると、右奥のカウンター席に通された。カウンター席の一番右に座り、辛つけ麺の並盛り200mgを注文した。普段は、つけ麺であれば300mgを選ぶ。しかし、今日は調子が悪い。消化への負荷を考慮した上での200mgだ。しばらくすると、「辛つけ麺」が運ばれて来た。一目見て、

「そうか、恵比寿にあったあの店か。」

と気付いた。極太麺が特徴的で、魚介豚骨とおぼしきスープは、とろりとしていて流行の六厘舎を彷彿とさせる。恵比寿店は昔、「味噌丸」と名乗っており、味噌ラーメン専門店だった。それがいつしか屋号を変え(オーナーが変わったのかもしれないが)魚介豚骨+極太麺の流行に乗った店に変わっていた。ただし、僕が注文した「辛つけ麺」は、真っ赤である。その鮮やかな赤が明らかに通常のつけ麺と異なっていた。極太麺を丁寧に箸ですくい、真っ赤なスープに浸す。口に含むと、想像していたよりも辛くはなく、麺の食感も「製麺所」と名付けるだけあって十分に弾力あるものだった。

僕は辛つけ麺を完食し、三田製麺所を後にした。五反田の繁華街を抜け、五反田駅から北西にある桜の並木道を行くと、街のにぎやかさは次第に遠ざかり、店も減り、人も少なくなる。もうしばらく、そう、あと10分もしないうちに、我が家だ。

首都高の高架の下で、僕は信号を待った。
道の向こうの信号を眺めると、赤いランプが上下にフレア(逆光の写真に写る光のにじみのような現象)を起こしている。先日、僕は不覚にも眼鏡をつけたままサウナに入ってしまった。サウナ程度の熱さでは特に支障はないものと思い込んでいたが、どうやらレンズのコーティングが少し溶けてしまったらしい。レンズ自体の膨張率とコーティング素材との膨張率は当然異なり、結果として、室温に戻った時にコーティングが波打ち、微細なひび割れを起こしてしまった。
そんな微妙に壊れた眼鏡を通してみると、強い光源を中心にフレアが発生してしまう。光源が均一な明るいオフィスや、パソコンの画面を見ているときには気にならないが、一度夜の街に出ると、街灯や信号、店の看板等、強い点光源が嫌でも目に入り、街中がフレアで満たされることになる。その様子は一種ロマンチックでもあり、また同時に、現実とは異なる世界のようにも映る。

「僕は今、現実をまともに見れていないのかもしれないな。」

と思った。しかし同時に、

「いや、現実なんてまともに見えるもんじゃないか。」

とも思った。僕が見ている「現実」だって、地球という天体のごくごく限られた領域に限定された、局所的な世界に過ぎない。その局所かつ限定された空間を持って、「まとも」や「まともでない」という判断を下すことは、一体誰ができるんだろう?やけに冷静に、また同時に少しペッシミスティックに、僕はそんなことを考えていた。

信号が変わった。
僕はゆったりと横断歩道を歩く。そのまま道沿いに右へと進むと、山手線の高架が僕を待ち構えていた。僕はこの高架の下を通る時、いつも洞窟を思い出す。薄暗くて、ひんやりしていて、少しだけ、怖い。
高架を抜けた先には、サンクスがある。今日は何の酒を買って帰ろうかな?ビールは腹が膨らんでしまうし、日本酒にしようか。いや、日本酒なら家に浦霞が残っていたからそれでいいか。今日は何も買わず































その瞬間、僕は一瞬、何が起こっているのか分からなかった。
横断歩道の真ん中に、人が2人立っていた。
信号は青だ。
それなのに、2人は一向に渡る気配を見せず、その場に立っている。
まるで、車をせき止めるかのように。
横断歩道の向こうには、小さな人だかりが出来ていた。
何かがおかしい。

1人は携帯を握って何かを話していた。
中年の男だった。
その横を通り過ぎようとした瞬間、僕は横目ですべてを悟った。

人が倒れている。
顔がぐしゃぐしゃで、鼻があるのかないのかも分からない。
目が開いているのかも分からない。

頭蓋を中心に、水たまりのようなものができていた。
血だった。
頭がパックリと割れている。
間違いなく、「壊れてはいけない部分」が壊れてしまっていた。

「自転車の人が倒れているんです。」

中年の男が話す声。その声はやけに冷静で、その場に全くそぐわなかったが、救急車を呼んでいるのは間違いなかった。


「これは、・・・ひどいな。」


人だかりの中の誰かが言っていた。
僕は振り向くこともできず、歩く速度も全く緩めず、そのまま現場を通り過ぎた。

あんな状態になった人を見たことはなかった。
擦り傷や切り傷ではおよそ見ることはない、大量の血。
どこをどんな風に傷つけたらあんなにも大量の血が出るのか。
一瞬考えそうになって、すぐさま思考のスイッチを切った。
恐ろしかった。

あんな状態になった人を、蘇生できるのだろうか。
助かってほしい。
助かってほしい。
僕はそう願えば願うだけ、それとは裏腹に、




という言葉、その概念、その質感、その重量が頭の中に充満していくのを感じた。

数秒のはずだった。
僕がその現場、空間、時間に居合わせたのは、横断歩道を渡るほんの数秒だった。
その日は、僕にとって、普段の忙しい、日常の1コマになるはずだった。
その1コマが、ある人にとっては生死を決する壮絶な時間になっていた。




僕は毎日、会社まで歩いて通っている。僕はこの習慣が好きだった。朝の光の中で、硬いコンクリートを踏みしめて歩くうちに、心拍数も上がり、頭がだんだん冴えて来る。街を足早に歩く通勤者を横目に見ながら、

「今日も街が動き出したな。」

といつも思う。そんな平和な路上で、壮絶な瞬間が突然発生する。僕の頭をゆっくりと冴えさせてくれた街のコンクリートは、時に人の頭を割ってしまう程の凶暴さを隠し持っている。


僕は今日、8:22に会社に到着した。すぐさま作業へと取りかかった。そのままの勢いで、「頭」で描いた設計図をひとつひとつ実現していくように、メールでチーム員に指示を出し、取引先に電話を5〜6本かけ、関連部署との調整を行い、下請け業者とのミーティングを行い、書類のひな形をいくつか完成させ、上司からの指示をこなし、取引先の失態を指摘し、その改善の要望を出し、いくつかの正式書類をリリースした。

その中に、無駄があったとは思わない。しかし、その全ての連なりが、今日、僕をこの現場に引き合わせたと言っても過言ではない。


気付くと、既に夜の9時だった。
ディスプレイを見過ぎた僕の目はとても疲れていて、視力が悪くなっていることに気付かされた。辺りを見渡すと、数人を残すのみ。まだやるべき仕事は残っていたが、今日やるべき仕事か?これ以上残業してまで急ぐ仕事か?を考えた結果、僕は帰宅することを選んだ。

「明日もがんばるか。」

この判断が間違っていたとは思えない。しかし、その判断がこの現場へと向かう第一歩だったのかもしれない。


大崎から五反田までの間、目黒川沿いには高層マンションが建ち並び、現代的な街並を形成していた。そこは人影が極端に少なく、街路樹が設計されたとおりに等間隔に植わっており、間接照明で照らされている。

「まるでCGみたいだな。」

この日常化した感覚に、僕は微塵も噓がないと断言できる。しかし、そんなCGのような世界はれっきとした現実で、この現実に入場してくる者もいれば、退場させられてしまう者もいる。

分譲マンションが売り出される前に、完成予想図としてCGが使用されることがある。そのイメージ図では、空は透明な程に青く、建物の壁面に汚れはなく、人はまばらで、街路樹は計算し尽くされたようにその枝葉を真っすぐと伸ばしている。高級感や重厚感を感じさせるそのCGは見事に、ここ五反田にダウンロードされていた。

「現実感が希薄だな。」

僕が感じる「現実感」は、僕が平和に、穏やかに生活した上で感じたものに過ぎない。その「現実」では、実は同時進行で人の力ではどうすることもできない巨大な不幸が発生している。

東急池上線の高架を通り過ぎると、賑やかな街の光に包まれた。僕は最近、腹の調子が悪く、消化が十分にできていないらしい。腹部に膨満感を感じる。しかし、そういった身体の反応とは裏腹に、昼食から9時間以上経過した脳は、食欲のパルスを大量発生させていた。

「脳と身体がちぐはぐだな。」

脳と身体がつながった状態。円滑に十分に有機的に、脳と身体がつながっている状態。そんな当たり前の状態は、実は、あらゆる全ての強大な不幸から幸運にも免れた奇跡の賜物なのかもしれない。


中に入ると、ラーメン屋とは思えない程、二人席が多く、また活況であった。店員に1人と告げると、右奥のカウンター席に通された。カウンター席の一番右に座り、辛つけ麺の並盛り200mgを注文した。普段は、つけ麺であれば300mgを選ぶ。しかし、今日は調子が悪い。消化への負荷を考慮した上での200mgだ。しばらくすると、「辛つけ麺」が運ばれて来た。一目見て、

「そうか、恵比寿にあったあの店か。」

と気付いた。そんな小さな気付きに注意を向けられる世界は、幸せそのものだ。そんな世界を享受できる幸せに、僕はもっと真摯に感謝しなければならない。


そんな微妙に壊れた眼鏡を通してみると、強い光源を中心にフレアが発生してしまう。光源が均一な明るいオフィスや、パソコンの画面を見ているときには気にならないが、一度夜の街に出ると、街灯や信号、店の看板等、強い点光源が嫌でも目に入り、街中がフレアで満たされることになる。その様子は一種ロマンチックでもあり、また同時に、現実とは異なる世界のようにも映る。

「僕は今、現実をまともに見れていないのかもしれないな。」

と思った。しかし同時に、

「いや、現実なんてまともに見えるもんじゃないか。」

とも思った。
その通りだった。
僕は、その数十秒後に、痛い程それを思い知った。

僕には、何もできなかった。

僕は、僕が考えていた「現実」が、僕が「非現実」と考えていた世界と不意につながることを知ってしまった。
その恐ろしさに、ただただ怯えていた。

僕に出来た唯一のことは、「助かってほしい」と願うことだけだった。

,listening to  my  breath sound

2009年9月23日水曜日

033. ああうれしい。(速報でご報告。)


>みなさま。

シルバーウィークもあと数時間。
若干、ブルーになりかけていたところに、吉報が舞い込みました。

「第15回 北都色いろいろ大賞コンテスト」
http://iro-award.com/iro_awards/index.html

に写真作品を一点応募していたのですが、
その作品が、

「北都スタッフ賞」を受賞いたしました!!

やったー!!
もうすごい嬉しいです!!
本当に感謝感激。


今まで、何度か写真雑誌の公募に作品を送っていたんですが、入賞どころか入選したことすらなく、最高でも「次点」どまり。
今回が、初入賞なので、本当に、本当に嬉しい。
ああ、写真やっててよかったー。

北都さんのホームページによると、

『「緑」をテーマにした今回の色いろいろ大賞は、県内外より2,241点の応募がありました。 去る9月16日に弊社本部にて、中橋富士夫氏、天野尚氏による厳正なる審査が行われ、入賞・入選の方々が決定されました。』

プロの方に作品を見ていただけたこと自体、本当にありがたいです。
そして、2241点の中でよくもまぁ生き残ったなぁアイツ・・・と作品に対してもなぜか「戦友」に対するような敬意の念を抱いてしまいます。
ああ、ビールがうまい(笑)

この作品を撮った瞬間のことは、とても印象的でよく憶えています。
非常に焦点の合わせにくい被写体(今は内緒(笑))で、僕の愛機PENTAX K200Dのオートフォーカスでは、完全に捕捉範囲外。
ウィンウィン言うばかりで、まったく焦点が合いません。

PENTAXは大好きなメーカーなんですが、昔からオートフォーカスが弱いと言われているんですよね。でも、現時点のハイエンド機「K-7」ではかなり改良された模様。欲しいです。欲しいんです。ご褒美に買ってしまおうか。いや、しかし、次は広角気味の単焦点レンズって決めているし・・・って話題それました(笑))

当時は(と言っても去年の9月くらいですが)、手動でフォーカスを合わせることをようやく始めた段階で、マニュアルフォーカスに切替えることに一瞬の「戸惑い」と「焦り」があったことを記憶しています。

ただ、相手が相手なだけに(今はやっぱり内緒(笑))、時間の猶予はそれほどなく。
ファインダー越しに見る世界との格闘。
マニュアルフォーカスに切り替えてから撮れた写真はわずか4枚でした。
そのうち後半の3枚は完全に機を逸ししていて、結局、最初の一枚のみが「撮れている」写真となりました。

初めの一枚のシャッターが開いていた時間は1/15秒でした。
つまり、あの「瞬間」は、初めの1/15秒しか許されなかったということになります。
改めて写真が「瞬間の芸」であることを実感しました。

--(以下、ちょっとマニアックな話ですので、読み飛ばしてください。)--

ちなみに、焦点距離は250mmでした。
これは今考えると、かなり無茶な撮り方をしていたことがよく分かります。
通常、手ぶれを起こさないシャッタースピードは、「焦点距離の逆数」秒になると言われています。すると、今回の写真は1/250秒のシャッタースピードを確保する必要があるんですが、シャッタースピードで8段分遅い1/15秒で撮っていたとは・・・写真をされる方にしてみれば、かなり非常識な奴だと思われると思います。実際、僕もそう思います(笑)
ただ、被写体が被写体なだけに(やっぱり内緒(笑))、ISOを変えている余裕がなかったんです。しかもISOはすでに800で、1600に上げると今度はノイズが気になる・・・ということで、やっぱりあの瞬間は、「気合い」と「根性」で撮るしかなかったのかなぁと思っています。
カメラやレンズの性能によって、絞り優先モードで「手ぶれを防ぎつつ、ノイズは少なめな」シャッタースピードの「安全域」をかなりの程度確保することができるようになっていますが、実は「ここぞ!」という時は本当に一瞬で、結局うまく撮れるかどうかは撮影者当人の「気合い」と「根性」に委ねられているのかもしれません。この辺りが、写真撮影の中に潜む「人間臭さ」であり、「面白さ」であるのかなぁという気がしています。)

--(以上、ちょっとマニアックな話でした)--



脇をがっちり締めて、呼吸を止めて、左手でフォーカスリングを操り、合焦した瞬間にシャッターを切る・・・

あのときの緊張感。
忘れがたい、思い出です。

まるで、第五使徒ラミエルをポジトロンライフルで迎撃していたかのような(笑)
この辺りの表現が完全にアレですよね(苦笑))

さて、もし新潟に在住している方、または新潟に行く用事のある方でお時間の許す方がいらっしゃいましたら、北都色いろいろ大賞の入賞・入選作品の展示が以下のように行われますので、一目ご覧いただけたら幸いです。

平成21年10月3日(土)~10月12日(月・祝) 朱鷺メッセ
平成21年10月14日(水)~11月30日(月) 北都ギャラリー(新潟市中央区笹口)


最後に、この被写体を気付かせてくれた方に感謝させていただきます。
ありがとう。

,listening to 「K/BUMP OF CHICKEN」

2009年9月13日日曜日

032. Disconnection, Root,Bond(人と人との間にあるもの)


山手線のホームで、僕は扉が閉まろうとする電車を見送った。
そのわずかな瞬間に、僕の視力の悪い眼球は、少なくとも20数名の乗客を捕捉していた。

「たくさんの人がいるなぁ。」

振り向くと、ホームには電車を待つ人で一杯になっている。
ここは、新宿駅。
恐らく、日本で最もヒトが集まる場所の一つだ。
その中に身を置いて気付くことは、

「この中で、僕が知っている人間は0.001%もいないだろう。」

ということだ。
今、ここ、にいるヒトの中で、99.999%の人間は、「他人」である。
その当たり前の事実に、なんだか突然、空恐ろしくなった。
ヒトの群れにいながらにして、僕はとてつもなく「孤独」なのだ。
人口密度が示すのは、「今、ここ」にいるヒトの「数」がいくらか?ということに過ぎない。その数は、決して、ヒトとヒトとの「交流の密度」を示すものではないのだ。

見ず知らずのヒト(個体)が、「今、ここ」を偶然にも共有している。
それが現代の「都市」というものである。
この「ごく当たり前」のことが、「ごく自然」であるかというと、そうではないような気がしてしまう。

300年程前だっただろうか?
まだ、東京が「江戸」と呼ばれていた時代。
人々は、多くの場合、生まれた土地で育ち、結婚し、子供を産み、老い、死んでいった。自分たちの居住区(多くの場合、それは村単位)のメンバーは、ほぼ固定されていて、その全てのメンバーは互いに見知った仲であった。
知っている者しかいない世界。
眼球に写る100%のヒトが、知り合いである世界。
そんな安住の世界が、確かにあった。
俗にいう、「村社会」というものだ。

この村社会は、明治以降の近代化で解体されることになる。
工場をベースとした雇用の形態が発展し、人々は、村から都市へと出稼ぎに出ることになる。企業が発展し、人々が働く場所は日本全国、そして世界へと広がって行くことになる。
この結果、人々が生まれ育った地から、見知らぬ土地へと移り住むことが常態となる。もはや「何何村の何兵衛」では、自己を説明することができなくなってしまった。土地に起因したアイデンティティーの喪失である。

近代化を経ることで、日本は豊かになった。
中産階級も誕生した。
それはそれで、素晴らしいことだったと思う。

第二次世界大戦を経て、東京大空襲で焼け野原になった東京は、その後、驚異的なスピードで再生した。米国との契約の下、国民の全精力を経済発展につぎ込み、それはやがて「高度経済成長」へと結実する。GDP世界第二位、「Japan as No.1」とまで言われるようになった。

その結果、都市には何が起きたか?
それは、さらなる人口の移動である。
職のある土地には、労働者と家族を受け入れるべく、多摩ニュータウンに代表されるような、新興の住宅地がぞくぞくと形成されて行き、人口の局所集積がさらに進んで行った。
そこには、食料品店やドラッグストア、衣料品店、クリニック等、都市に実装されるべき機能が配置され、快適な住空間が実現された。
そして、僕たちは、機能的な都市の中で、経済の歯車を一生懸命回している。

それはそれで素晴らしいことだと思う。

しかし、ここではたと気付くのは、「今、ここ」にいる人々は、「仕事場から近い」という理由のみで同じ空間、時間を共有しているに過ぎない、ということである。

つまり、現代の都市に住む人々は、前近代の村社会のように、「自分の先祖が住み続けたこの場所に、自分もいる。(なぜなら、自分のルーツがここにあるからだ)」「自分には、はるか昔から続く起源があり、また、自分の次の世代もその起源を共有して行く。(自分は、歴史的にも、空間的にも、人間的にも、「つながっている」と思う)」という、「ルーツ感覚(自分の生まれ育った土地やその場所の人々、文化との感情的な結びつき、所属感)」が極めて希薄にならざるを得ない。

これは、社会構造の変化が引き起こした一種の副作用だと思う。

(脱線するが、この社会構造の変化は、文学にも多いに影響している。例えば、ミステリー小説が発生したのは、イギリスの産業革命によって村社会が解体され都市社会が発生したため、と言われている。ミステリー小説というのは、「隣人を疑う(俗にいう「この中に真犯人がいます!である)」ことがストーリーのバックボーンになるが、そもそも登場人物全員が旧知の仲であっては疑いようがない。一方、都市社会では、「隣人は見知らぬ人、何をしでかすか分からない人」という想像の余地がある。このような「都市ゆえの不安」がミステリー小説を発生させる原動力となったと言われている。)

さて、1980年代生まれの僕もまた、そのような現代の人々の一部である。
僕のルーツというものを考えると、実に薄弱で、まるで「根無し草」のような頼りない存在と言わざるを得ない。生まれは東京(らしい)、その後、仕事の関係で、埼玉、千葉を経由して(いたらしい)、最終的に静岡県は三島市に落ち着いた。記憶があるのは三島からで、その後、大学2年に当たる歳までを過ごす。しかし、その後は、家族は山形へ、自分は大学のある東京へと移り住み、もはや三島には家すらなくなってしまった。
もともと、三島に親戚がいた訳ではなく、結局は「親の仕事場が近いから」住んでいたに過ぎなかったのだ。

この結果、僕の感覚としては、「故郷」は「三島」であるが、そこに自分の「血縁」は存在せず、さらには「帰る家」もない、ということになってしまった。また、家族がいる山形には、自分自身は縁も所縁もなく、行ったところで家族以外に知り合いは1人もいない。

この「浮遊感」は、ある意味で「自由」そのものでもあるが、一方で、「生涯を通じて、所在無さげに佇まざるを得ない」という宿命を暗示している。
こんなことを書くと、多くの人は、こんな風に思うかもしれない。

「何、たいしたことは無い。
 自分が選んだ土地に住めば良い。
 そこで新しく、「つながり」を作って行けばいいじゃないか。」

そう、その通りなのだ。
僕は「根無し草」であり、どこも所属しない「浮遊した存在」であり、ひょっとすると「寂しい存在」なのかもしれない。
しかし、そこでいくら感傷に浸っていても、どこにも行き着かないだろう。

人は産まれた瞬間から、「自分の人生を引き受ける」という大きな大きな仕事を任される。この仕事は、生きている限り、投げ出すことは出来ない。その大きさに、ときに怯んでしまったり、ときに嫌になってしまったりすることはあっても、しかし、少し深呼吸して考えてみれば、投げ出すには惜しい魅力的な仕事でもある。

その前提に立って考えるなら、後は、「どういう風にその仕事を、どれだけ楽しくやり遂げられるか?」ということに尽きると思う。

さて、これまでの記述で、僕は「都市が内包する孤独」から「ルーツを失った現代人の浮遊感」について話してきた。思うに、この「孤独感」や「浮遊感」が、僕が「人生という仕事」をやるに当たって、ひとつのキーワードになるんじゃないかな?と感じている。

まだ、構想は獏としていて、ここに書ける程にはなっていないが、これからしばらく、「孤独感」や「浮遊感」を解決する仕組みづくりについて考えていきたい。
それは、都市が必然的に失ってしまった「ルーツ感」を取り戻す「力」を見つけることに他ならない。

僕は直感的に、その「力」の起点には、ヒトとヒトとの「結びつき(bond)」があるように思っている。そのbondというものは、家族内の結びつきではなく、また、友人間の結びつきでもない、もう少しメタ的なもの(既存のカテゴリーを飛び越え、それを集約するようなもの)になるだろう。得たい結果を考慮する限り、必然的に、世代や職種を超える必要があるからだ。
僕は夢想の中で、そのbondを生み出す条件にも気付きかけている気がする

実現できるかは分からないけれど、久しぶりに楽しい空想が始まっている。

,listening to 「天国と白いピエロ/EGO-WRAPPIN'

2009年9月6日日曜日

031. ワクワクする構想(こっそりと)


インドネシアから戻って来て2週間。
ようやく本調子に向かいつつある今日この頃。

さて、昨日と今日は、写真サークルの仲間達と、越後妻有「大地の芸術祭」に行ってきた。
「大地の芸術祭」は3年に一度のアートイベント(ということで、「トリエンナーレ」と称されている。ちなみに「ビエンナーレ」というのは2年に一度)で、「東京23区より広い」というとてつもなく広大な里山が会場となる。この里山に、様々な現代アート作品が点在しており、参加者は地図を頼りに作品を訪ね歩くことになる(正確には車での移動だが)。

廃屋や廃校を丸々作品にしたものも多く、作品の「中」に入ることができてしまうのが、この芸術祭に出展される作品の特徴だと思う。このような「参加型」の作品では、特に強いアート体験をすることができる。それこそ、日常から「異世界」に踏み込んでしまったような。

今回は、写真好きの仲間達と一緒だったので、これでもか!というくらい、アートだけでなく、写真も楽しめた。これが何よりうれしかった。
僕は今まで基本的に1人で写真を撮ってきたので、誰かと(しかも複数人で)撮ることがこんなに楽しいとは思っていなかった。感謝感謝である。
また今後も、写真仲間達と何かしらの撮影ツアーをできたらなぁと思う。

さて、そんな芸術祭を終えてみて、今、2つの構想が僕をワクワクさせている。

1)「趣味の雑誌社(仮)」構想
【動機と背景】
・色々な人と話をしてみたい。
例えば、お気に入りのラーメン屋の店主に、ラーメン人生について聞いてみたい。
例えば、売れていないインディーズのロックバンドに、音楽に賭ける情熱について聞いてみたい。
・しかし、現実には、「街ですれ違う大部分の人とは会話をしないのがルール(一種のマナー?)」であり、人口が過密している東京であっても、「本当にコミュニケーション可能な人」というのは意外と少ない。というか、驚く程少ないのではないか?
・話をしない/できない、という「目に見えない壁」はどうやったら超えられるのだろう?本当は、その壁の向こうには、僕の知らない楽しい世界が待っているのかもしれない・・・!


【方法】
Webベースの「雑誌」を作る。そのための会社を作る。会社と言っても、利益は出さないので、厳密にはNPO法人?か。
・僕はその会社の特派員として、インタビューを行う。(あくまで「仕事」として、が重要。)
・インタビューは、一般的にはまだ注目されていない人(若手のアーティスト、ミュージシャン、写真家などのクリエイター系の人々や、家具店、古着屋、ラーメン屋、喫茶店などのご主人、工事現場のおっちゃんなど労働者)に行う。
・このため、若手のクリエイターには「作品の宣伝になる」というメリット、お店の主人には「お店の宣伝になる」というメリット、労働者には「注目されることの嬉しさ」というメリットがある(人に依るが)。
・一方、僕には、「今まで知らなかった世界」「考え」「目線」を知ることが出来る、というメリットがある。
・ただし、金銭のやり取りは一切発生させない。あくまでも、「興味の報酬」がこの会社の売り上げであり、製品の「雑誌」そのものが、その報酬の塊でもある。

この「仕事ベースでコミュニケーションのきっかけを作る」というのは、真面目な日本人にとっては「見えない壁を取り払う」のに有効だと思う。


2)「格安ガイドで東京の観光力と日本人の英語力を活性化させよう!」プロジェクト
【動機と背景】
・英語を話す機会がほしい。
・半年程前、東京のゲストハウスに潜入して、外国人のバックパッカーと無理矢理知り合ってみた(Learningのコーナー参照)。実際にやってみると、日本にいながらにして「留学体験」ができる上に、外国人と友達になれるのでとても楽しい。さらに、日本の様々な慣習/風物詩/歴史/文化/建築等を説明しなければならないため、「日本という国」を再認識することもできる。まさに、「一石三鳥!」。
・今日も、たまたま新潟の電車の中で、イタリア人とメキシコ人の建築家と知り合った。新潟での新幹線の手配や、東京から渋谷までの案内をしてみて、喜ばれたのが単純にとても嬉しかった。(本当はめちゃくちゃ疲れてたけど、意外とすんなりできてしまうものなんだなぁと再確認)
・こんなに、効用のある行動なら、きっとやりたいと思う人もいると思う。特に、英語を本当にできるようになりたい!けど、留学は出来ない・・・と考えている悩ましき若者はたくさんいると思う。そんな人に、「国内での留学体験」をさせてあげたい。それで、英語が話せる若者がもっと増えたら、日本人の英語力を上げるとてもいいことだと思う。
・さらに、そんな若者によって、外国人は「格安で」東京をディープに観光できることになれば、きっと外国人旅行者にとっても嬉しいことに違いないと思う。そうすると、東京の観光力もちょっとは上がるんじゃないか?

【方法】
・「英語学習者が外国人旅行者をガイドして、英語力と観光力を一気にあげちゃいます!」という趣旨のNPO法人を作る。
・東京にあるゲストハウスと提携し、ゲストハウス内にガイドが出入りすることを許してもらう。(ガイドは、ゲストハウスに宿泊することにする。このため、ゲストハウスにはガイドの宿泊代が入るというメリットがある。その代わり、ゲストハウスにはポスターを貼らせてもらい、宣伝させてもらう。)
・外国人が支払うガイド料は、ゲストハウスの宿泊代の半分(大体1500円〜2000円くらい)。
・ガイドは泊二日丸々行う。(なので、1500円〜2000円はかなり安いと言えよう。)つまり、外国人旅行者には、「格安でガイドが手に入る」というメリットがある。
・一方、ガイドとなる日本人の英語学習者にとっては、「プチ国内留学」というメリットがある。つまり、ガイドは、「東京観光案内」というサービスを提供しつつも、自身としては、「英語の練習機会」という貴重な時間を享受している、とも言える。このため、ガイドも「一泊二日の英語の練習機会」に対する対価として、宿泊費の半分を支払うことにする。これで、ゲストハウスに支払われるガイド自身の宿泊代はまかなわれることになる(外国人が支払うガイド代+ガイドが支払うプチ留学代=ガイドの一泊分の費用=ゲストハウスのメリット)。一泊二日の英語合宿など、通常、1万円はかかるので、これは英語学習者にとっても大変魅力的だろう。
・つまり、みんなハッピーなのである。利益は出さなくていい。もし理想を言っていいのなら、「教育は無料であるべきだ」と思う。しかし、実際には雇用が発生するため、無料というわけにはいかないし、それどころか、英会話教室の隆盛を見ると、「教育は金になる」というのが社会の常識らしい。しかし、この仕組みでは、それを真っ向から否定してみたい。つまり、学習者は本当に最低限の費用(自身の宿泊費の半額だけ。)で、実践的な学習機会を与えられるのだ。もちろん、この学習というやつは、講義を聴くような「受動的なサービス教育」ではない。自らがガイドとして、外国人旅行者に素敵な思いでを作ってもらう、という(一見)過酷な使命を担わされるものである。しかし、これはすなわち「自発的な学習」を自ずと実現してしまう仕組みでもある。そして、言わずもがな、「受動的なサービス学習」よりも「自発的な学習」の方が、はるかに身に良くつく!のである。

この構想は以前から考えていたことではあるが、ここまで具体的に思い浮かんだのは、大地の芸術祭でボランディアとして会の運営を手伝っていた「こへび隊」の存在によるところが大きい。

こへび隊は、金銭的なメリットはほとんどないが(ボランティアなので)、
期間中、様々なアート作品に触れられるという「無形の報酬」を得ている。
それで、あの巨大なフェスティバルの運営が行われているのである。
これには恐れ入った。

しかし、僕たちは、「無形の報酬」であっても、それが自分にとって「本当に価値がある」と思えたら、行動を起こすのである。
これは、非常に魅力的なことだと思う。
人は「金銭ではない他の何か」によっても、「動きたい」と思える。
素晴らしいではないか。
経済学が前提とする「経済主体としての人間観」から、確実に逸脱した「人間像」を、僕はそこに見ることができる。
そして、そこに、大きな可能性を感ぜずにはいられない。

何かを起こしてやろう。

,listening to 「ハイウェイ/くるり」