2009年7月15日水曜日

025. やられた!(死神の精度と空飛ぶ馬の関係について)


「死神の精度」 伊坂幸太郎著



久しぶりに、「やられた!」と思わせられた作品だ。

作者の伊坂幸太郎を知ったのは、本ではなく、「鴨とアヒルのコインロッカー」という映画だった。元々小説だったこの作品を、中村義洋監督が瑛太の卓越した演技を加えて映画化したものだった。この映画に心底感嘆した僕は、諸処の事情もあって都合3回も映画館で見ることになる。連続3回は、僕の人生で初めての経験だった。それくらい、この作品は優れていたのである。

僕がここで改めて書くことでもないが、伊坂幸太郎は非常に卓越した「プロットセンス」を持っている。「鴨とアヒルのコインロッカー」の後に読んだ「チルドレン」でも、そのセンスを十二分に感じることができて、そのすこぶる爽快な読後感に酔いしれたことを思い出す。

さて、この「死神の精度」である。既に映画化もされているし、さらにDVDまで出ている(つまり、ちょっと前に流行ったということだ)。
特別な期待があったわけではなく、なんとなく「物語」が読みたくなって、ろくに立ち読みもせずに買ったわけだが、二日間で読んでしまった。(これは読書スピードが異常に遅い僕にとっては驚異的なスピードである)

さて、「死神の精度」は何が良かったか?
それを「ネタバラし」にならないように表現するのは、非常に難しい。しかし、あまりに素晴らしすぎたので、ちょっとだけここに残してみようと思う。


「死神の精度」は基本的には「短編小説集」のスタイルを取っている。しかし、伊坂幸太郎は「短編小説集」を単なる「独立した小作品の集合体」にすることを避ける質がある。「チルドレン」でも見られた形式だが、独立した世界だと思っていたものが、突如交錯する瞬間があるのだ。これは非常にユニークな読書経験だと思う(ちなみに、僕はそれほど小説を読む方ではないので、もしかすると、割と一般的に見られる作品形式なのかもしれないが、そこらへんは素人の戯れ言と思ってお許しいただきたい)。

この奇妙な読書経験は、まるで「初めて会った人が、実は小学校の担任の先生の娘だった」というような、「降り積もった人生経験」がもたらす「偶然のいたずら」を感じさせる味がするのである。

「チルドレン」は、この作品形式が存分に使用され、作者本人も「短編小説の顔をした長編小説」と表現をしているように、物語の根幹を担っている。

一方、「死神の精度」は、その作品形式が非常にさりげない形で使用されている。この「さりげなさ」が、作者が巧妙に配置した「文芸の罠」をちょっとやそっとじゃ見破れないものにしている。

そして、その「罠」にはまったとき、僕は「やられた!」と心底思ったのだ。

この「罠」とはどういうものだったのか?それをストレートに書いてしまうと、それこそ「ネタバラし」になってしまうので、もう少し遠回りしてみよう。


この「死神の精度」と非常に良く似た読後感を感じる作品がある。


「空飛ぶ馬」 北村 薫著



この作品も「短編小説集」であり、主人公の「一人称」でストーリーが語られる点で、「死神の精度」と共通している。(僕は「一人称」の文体が好きだ)

「空飛ぶ馬」は、伊坂幸太郎の作品ほど、短編小説間の「つながり」は重視されていないが、全ての作品で主人公が共通している点で、「死神の精度」と類似性があると言える。

また、両作品とも、「謎解き」の要素が物語にアクセントを加えているのも、共通している。(正確に言えば、「空飛ぶ馬」は真っ当なミステリー小説であり、「謎解き」がアクセントというより、本題である。一方、「死神の精度」は謎解きは、読者がページをめくりたくなるようにブーストする機能を果たすが、それそのものは本題ではない。あくまでも「物語性」あるいは「ドラマ」というものに主眼が置かれている。)

「一人称」
「相互に関連のある短編小説の集まり」
「謎解き」

これら類似性もさることながら、僕が最も興味を覚えるのは、その短編作品の「配置のさせ方」だ。

この2冊を読み始めると、恐らく、多くの人は「お、こんな世界観なんだな。だったら、結末はこんな展開かな。」という「期待」を無意識に持ってしまう。
それは、その作品が持つ雰囲気から、読者が紡ぎ出す「願い」に近い。

読み進めて、登場人物に愛着を感じるようになると、その「願い」は露骨なものになる。

「こうであってほしい。こんな展開ならハッピーになれる!」

その願いは、


短編1


を読むと満たされる。


短編2


を読んでも満たされる。

そこで、読者は、この作者は読者の「願い」を聞き入れてくれる「優しい人」に思えてくる。「願い」が満たされた時、読者は清涼な読後感を味わうことになる。その読後感は麻薬性を持っており、もっと!もっと!と、次の短編に進むと・・・


いきなり、冷や水を浴びせられるような、「裏切り」に見舞われる。


読者の切なる「願い」は無情にも拒絶され、作者に対して文句を言いたくなるような、そんな忸怩たる思いが突如胸に広がるのだ。


「たしかに、あっと言わせる展開ではあるけれど・・・あんまりじゃないか!」


そう叫び出したくなる展開が待っているのである。


そして、この「苦情を言いたくなる程の苦い思い」それこそが、作者の「罠」の始まりである。


これ以上説明するのはよそう。
後は、ご自分の目で、心で感じてほしい。

久しぶりに、心底面白い物語に出会えた。

伊坂幸太郎に感謝である。