2009年7月10日金曜日

024. 追求。


仕事が楽しい。
それが、とてもうれしい。
でも、たまに自分のふがいなさに、嫌気がさす。
それも、またよし。か。
やっぱり、ちょっとは感情の起伏がないと。
熱くなって、失敗して、ぶつかって、負けて、凹んで、また考え始める。
そんな、いらだちと多少の痛みは、このとつとつと続いて行く道に、アクセントを加えてくれる。なーんて思えれば、きっと怖いものなんかないはずだ。
そう思えるには、しばらく時間がかかりそうだったけど、
あと少しでなれそうな気もするよ。
うむ。きっと少し強くなっている。

最近は、ちょっと欲が薄くなって来て、とても謙虚で、まともな、しごく平凡な青年をやっている。道徳的だし。無害だ(きっと)。
これがきっと僕の人生の日常なんだろう。
贅沢なんか言わないから、この日常が長く、できるだけ長く続けばいいなと思う。
いや、違うな。
きっと、この生活は既にちょっと「贅沢」なんだろうな。
なんであんなに身体が弱かったのだろう?と思う程、僕は幼少の頃から大学生の頃まで体調を頻繁に崩していた。
神経を張りつめて、体調に気を遣っていないと、すぐに風邪をひいていたっけ。
今は、結構適当に生きていても、風邪ひとつひかない。ここ1年くらい病気らしい病気もしていない。(ボリビアでの高山病とダラスでの腹痛と帰国後の虫歯を除く)
健康。
それだけで、もはや既に贅沢だ。

だから、僕はこの日常をありがたく過ごさせてもうことにするよ。
ちょっとつまらないけど、「つまらない」だけなら、まだ大分いい方だろう。
少しばかりの間、仕事に集中して、生きて行こうと思う。

生きる意味だとか、生まれて来た意味だとか、
そんな大それたものではなくて、
ただ、淡々と僕は僕にできることをひたすらに追求していこう。

そこには、一切の無駄がない。
純粋な透徹した意志の後先。
それだけを追い求めて、僕は歩みを進めて行く。
その後先がどこにつながっているか?
そんなことには一切目もくれず、ただひたすらに、意志のベクトルに忠実に。
そんな、ナイフの切っ先のような、人生を送っていきたい。

今の僕には、余裕がない。
悲しいくらいキャパが狭い。
他人をかまえる程の優しさや、冗談に付き合える心ののりしろ、そして後進を育てる器量の大きさも、残念ながら、ない。

今、ここ、の瞬間瞬間を徹底的に考えること。
その一点にしか、選択肢はない。
小さな小さな点のような自分。
弱くか細い思考力。
頼りない判断力と根拠。
圧倒的な無力感。

そのくらいの自己認識が、今の僕にはちょうどいい。
考えてみれば、いつだって、僕はそういう自己認識を土台にして成長してきた。
「弱き自分」
は、その実、成長への原動力だったりする。
そんな老獪な感覚がそこにはある。

「これでいい。
 これこそが、自分の成長パターンだ。」

そんな計算が脳裏で働いている。
そういった冷めた自意識も想定に入れながら、
みじめな自分に喝を入れ、日々を生きて行こう。

ただ1人。
それでも構わないから、僕は僕の信じる道を進む。
後先のことは、後先に立ったとき考えよう。

そんな了見の狭い今の僕を、きっと人は哀れに思うだろう。
もっと肩の力を抜いて、
楽しく、
明るく、
やっていけばいいじゃないか。
そんなに自分を追いつめても、しょうがないだろう?

それもまた真実だと思う。
見るからに今の僕は「小物」だし、光るものもないかもしれない。
でも、なぜか確信だけはある。

この薄暗い、たった1人歩むその先に、また一段高い世界があることが。
今は了見が狭いかもしれない。
今はキャパが狭いかもしれない。
今はたいしたことないかもしれない。

そんなことはどうでもいい。
どうだっていい。

「今」の僕は、常に「明日」の僕のプロトタイプだ。

僕には、今、たった1人で、突き詰めて物事を考える時間が必要だ。
徹底的な、他の追随を許さない思考。
それを追求していくことが、今の僕には必要なんだと思う。

いつか、きっと。

僕は追求の一手を緩めない。
ナイフの切っ先のように。
27歳のこの時期は、それでいいんだと思う。