2012年12月16日日曜日

149. 体感としての遺伝子



11月20日に子供が生まれて、
僕たちの生活は、この子の時間をベースに動き始めた。

分かったことがいくつかある。
まず、僕たちは突然親になるのではない。
この子を抱いて、おむつを換えて、沐浴をして、ミルクをあげて、
せっせ、せっせと、行動を積み重ねていくうちに、
徐々に親の自覚が湧いてくるということだ。

そして、初めにこの子を見た時よりも、
今の方がもっと大事に感じている。
何かを愛おしいと思う気持ちは、
ある日突然湧いてくるのではなく、
重ねられる行動の内に芽吹いてくるのだ。

泣いている。
どうした?どうした?
と抱き上げて、
ゆっさゆっさと揺らしていると、
だんだん落ち着いてくる。
口を尖らせて、舌を出し、
ミルクが欲しいとねだってくる。
哺乳瓶を差し出すと、すごい勢いで飲みまくる。
ゲップして吐き出して、
それをガーゼで拭く。

そんなことを日に何度も繰り返している。
どうした?どうした?
と何度も語りかける。

その度に、僕は目を開かれるような、首の後ろから熱くなるような、不思議な充実感を感じる。

なるほど。
これが親の気持ちなのか。

もう一つ分かったことがある。
この子は、僕を父親にしてしまったと同時に、
僕の父をおじいちゃんに、
僕の母をおばあちゃんにしてしまった。
漏れなく、押し出し式に世代が一段上に上がってしまった。

父は70歳で、母は58歳。
「もうそんな世代だよ」と明るく言った。
そうか、もうそんな年なのか。

僕は、多分中学生くらいから、精神年齢は変わっていないと思うけど、
僕も30歳。
そんな年なのだ。

腕の中で、あやしながら、
顔をよく見る。

なんとなく、自分の幼い頃の写真に似ているような気がする。
目を細めたときは、父に似ているような気がする。
目をぱっと見開いたときは、嫁さんに似ているような気がする。
何か思案気にしている表情は祖父を思わせる。

遺伝。

この子は、僕たち家族の遺伝子が混ざり合い、
今この場に存在している。

ありありと、それが分かる。
体感する遺伝子。その権化に会ったように思う。


人と人とが出会うことは、そう珍しいことではない。
日常的に、僕たちは出会いを経験している。

しかし、僕や彼女が存在して、初めて存在する者と出会うことは、
めったにない。

もしかすると、僕たちが世界に対して行える、最も大きなことは、この出会いなのかもしれない。