2012年10月19日金曜日

139. 半形而上学的な君へ(父親未満のひとりの男)





子供ができた。
もちろん、奥さんに。
11月中旬に出産予定で、どきどきしながら経過を見守っている。

先日、初めて産婦人科に付き添って、エコーで「我が子」を見た。

モニターに目が映った。

二重だった。

くっきりと。

エコーの画面越しに、
目が合った気がした。

その瞬間、
「ああ、生きている。」
と思った。

そして、何と言えばいいのだろう?
空想上の生き物だった「我が子」が、
一気に現実の、
自分の延長線上に出現したような、
それはとても鮮烈な体験だった。


「ああ、ここにいる。
 新たな世界が始まりつつある。」

僕が率直に思うのは、そういうことだ。
なんと、素晴らしいことだろうか。


それでもまだ、僕は十分な実感を伴ってはいないのだろう。
熱心に出産や子育ての本を読む奥さんを横目に、僕は写真論の本に没頭していたりする(おい)。


父親未満のひとりの男。

それが今の僕なのだろう。
子供がもしもできたなら・・・という空想は、これまでにも何度かしたことがあった。それは、まさしく「空想」であり、「形而上学的な」ものだったろう。

正直に言うと、この記事は、随分前に一度書こうとしたことがある。

そのときのタイトルはこうだ。

「形而上学的な君へ。」

しかし、あのエコーの事件があって以来、僕は君のことを純粋に「形而上学的」な存在にはできなくなっている。もっと実体を伴った、リアルな存在として、既におぼろげながら、僕の精神の中にいる。

しかし、まだ生まれてきてはいない。
実体はあるが、君は子宮の中に留まり、現前してはいない。
その結果、

「半形而上学的な君へ」

というタイトルとなった。

さて、父親未満である僕は、むしろ積極的に「一個人」として思いを巡らせている。

まず、何よりエキサイティングなことは、

僕とは違った「知性」が、生まれつつあるということだ。

一体、君は30年後、何を考えているのだろう?
僕が到達できなかった、知の地平を切り開いているのだろうか?
何を悩み、何に頭を使い、何に喜びを見い出しているのだろうか?
人生の目標は何で、どんな研鑽を積んでいるのだろう?
そして、その胸に抱く「君の世界」はどんな広がりを持っているのだろう?

僕は純粋に、一個人として(それは父親というよりも、1人の人間として)これらに興味がある。

そして、その将来を指向したワクワク感は、20代の頃には想像もしなかったものだ。
僕は「一個人」の時代から、「父」の時代へと移り変わろうとしているのだろう。
父性というものを、まだ僕はおぼろげにしか感じることができないが、その片鱗を自分の中に見い出しつつある。
僕自身も成長していかなければならないだろう。


次にエキサイティングなことは、「生命」が正に今、形作られているということだ。
僕は、高校生くらいの頃から、「生命」というものを、正確に理解したいと思っていた。
熱力学第二法則は、「宇宙の万物は、エントロピーが増大する方向に向かって行く。」と言い切った。
エントロピーとは、「乱雑さ」であり、「無秩序さ」である。
山肌にある大きな岩は、やがて転がり落ち、川に流され、細かくなり、小石となり、砂利となり、砂となる。全ての物質は、拡散していく。混ざり合い、複雑になり、境界を失っていく。それが自然の摂理である、と。

しかし、と高校生の僕は思った。

「じゃあ、生命の進化については、どう説明をつけるのだ?」と。

単細胞生物から、真核細胞生物へ。
魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類、人類と、むしろ身体機構は複雑さを増し、意識という曖昧なものが芽生え、知性が生まれた。

そして、僕たちは地上に立って、思考している。

この知性を備えた人類というものは、いや、それだけではなく、その他のあらゆる生命というものは、あたかも熱力学第二法則に抗い、無秩序さから秩序を作り出し、発展させているように見える。これはとても不思議なことだ。

生命の生命たる理由を解明してみたい。
理解してみたい。
熱力学のあらゆる法則に矛盾しない形で、生命が存在していいことを、自分なりに明かしてみたい。
そして、願わくば、生命を自らの手で作り出してみたい。
生命を一から作り出せるということは、生命を理解した何よりの証拠だろう、と思った。

そういった欲求から、生命理工学部の道を選び、生物物理学の研究を行った。
しかし、僕が生物物理学の世界で理解できたのは、ほんの僅かなことだった。

ATPaseというタンパク質は、回転機構を持っており、その物理的な挙動は一切、熱力学の法則と矛盾しない。ただし、水の熱揺動によるエントロピックな力をも利用して、非常に高い効率で回転運動を行っている(ATPの化学的なエネルギーがほぼ100%の効率で、γサブユニットの回転という力学的な反応に置換されている)。
そんなことくらいだ。(とはいえ、それはそれで結構面白い発見だったのだが)

結局、「生命の生命たる理由」を解明することのないままに、僕は大学院を卒業し、今は抗がん剤の分子標的薬を開発している。

(なお、熱力学第二法則と生命との共存については、修士課程でそのカラクリをある程度確からしく理解することになる。熱力学第二法則が予言しているのは、「宇宙」のことなのだ。つまり、地球という小さな惑星の中でたとえいくら生命が高度に組織化したとしても(無秩序さを減らしたとしても)、宇宙規模で見れば、宇宙の大部分は物質でできており、シンプルな物理学に従って、乱雑さを増している。宇宙の中の全ての乱雑さの総計から比べれば、地球上で起こる生命の進化など、容易にキャンセルされてしまうだろう。高校生の僕は「生命」に着目し過ぎていたわけだ。対象とする系が宇宙規模まで拡大された場合、生命とは微小空間に巻き起こった渦に過ぎないのだろう。その渦だけを見て、「熱力学第二法則は成り立たないんじゃないか!?」と言っていたわけだ。ああ、恥ずかしい。)

僕は自身の研究で生命を作り出すことはできなかったが、しかし、今、それは自然な形で実現しつつある。

内蔵ができ、心臓が拍動し、手が形成され、目や耳ができ、といった人類が解明したい「生命の神秘」が正に進行している。

こういった「形態形成」というのは、今の生命科学の中で重要な位置を占めているはずだ。元は、まん丸い一つの受精卵だった細胞は、分裂を繰り返すうちに、「俺は心臓をやるから、お前は手な、お前は目で、お前は足。」というように、自分の位置を把握して、立体的なヒトの形を形成していく。

外から見て、ここらへんに目で、ここらへんに腕で、とやっているわけではない。「内発的」に自分の位置を探知し、自らをトランスフォームしていくわけだ。それは中心から「湧き上がる」ようなものだ。

これは大変なことだと思う。
ちょっと考えただけでも、簡単なプログラムでは実現できないことを直感する。何より「形態」とは、「三次元」なのだから。

三次元の座標を正しく把握して、自らの役割を決め、変容していく。
そのプロセスは、「神の御業」としか言いようがない。

それが、今、進行しているのだ。
「科学」では到達できなかったことが、「自然」によって実現される。

これを奇跡と呼ばずに何と呼ぶのだろう。
僕はつくづく、そんなことを思っている。