3.11は日本人にとって「カイロス」である。
と、書いたのは今年の4月5日。
(カイロスとは、その前後で世界観が変わってしまうような「節目」という意味。古代ギリシャ人の時間観念は、「連綿と続く時間」=「クロノス」と「連綿と続く時間を分断する節目」=「カイロス」から成り立っていた。分かりやすい例は、9.11はアメリカ人にとって「カイロス」である。)
東日本大震災。
その後の福島原子力発電所の破綻と、まき散らされた恐怖。
恐怖、というものを直接的に脳内に届けられた経験は、
そう多くない。(幸いにも)
それも、多くの人が、比較的長い期間、そのような感情に曝露された、ということが非常に重要だ。
その結果、日本という国の、いろいろな部分が変容していくだろう、というのはズブの素人の占い師であっても、寝起きの馬鹿であっても、容易に想像がつく。
特に、幻想と共同意識の産物である、映画、小説、漫画では、半年程度のラグを経て、変容を見せるのだろうな、というのが僕の密かな読みだった。
それは、寝起きの馬鹿であっても、ズブの素人の占い師であっても簡単に予想できる程度の低次元な話なわけだけど、それがそっくりそのまま現実になってみると、
「ああ、やっぱりか。」
と妙に愉快になってくるもんだ。
人は、まずショックを受け、立ち尽くし、咀嚼し、人に言いふらす。
その期間は、ショックの大きさに応じて変化するわけだが、今回の大震災では大体半年くらいのラグがそれに見合っていたということだろう。
今、漫画にせよ映画にせよ、「3.11その後」というものが、ある程度冷静に、またある程度、皮肉って表現されだしている。
そんなわけで、今日紹介したいのは、短篇映画「Blind」である。
ガスマスクすら、デコってしまう感性が、「ああ、日本人」って思えてくる。
それが、リアルだし、同時に、デコって日常のものにしてしまう逞しさと、アホっぽさが、「ああ、日本人」って思えてくる。
世界一、我慢強く、
世界一、お人好しな、
世界一、他人行儀で、
世界一、日本的な日本人
っていう印象。
実は、今回の地震で、日本人は世界でも類い稀なる特質を持っていることを世界に示したのではないか、と思っている。
パニックを案外起こさない。
デモもすぐにはやらない。
静か。
逃げ出さない。
それは我慢強さ、という度を超している、と外国人のみなさんには映っただろうし、日本人としては、他にやりようがなかったという感覚もある。
いずれにせよ、日本人は静かにその日を迎え、耐えて、耐えて、徐々に復興が始まっている。これは、外国人のみなさんには不思議な現象かもしれないが、事実、そういう民族なんだ日本人って。
この過程そのものが、日本人のアイデンティティを示しているのだろう。
良かれ悪かれ、事実が証明している。
我々は我々である。
原発が危なくなっても、生命の危険が近づいて来ても、やっぱり日本人は日本人。
いい、とか、悪い、とかではなく、どうしようもない現実として厳然としてある。
そして、その特質は希有なものだと言っても、僕はいいと思う。