どこまでも続く空の上に、
階段が浮かんでいる。
その階段は緩やかに、
しかし確実に、上へ上へと上って行く。
どうやらこれは、エスカレーターのようだ。
階段の横幅は異様に広く、
地平線の彼方まで続いている。
その一段一段に人が立っている。
いや、「人々」と言うべきか。
私もその一員で、あなたもそこに立っている。
私たちの目の前には、階段に並べられたおびただしい数の人々が、
ゆっくりと、天高くを目指して、階段に連れられて行く。
ところが、ある瞬間、
あなたのはるか前方にいる人が消えた。
よぉく、目を凝らして見る。
それは1人ではない。
幾人もの人が、ぽつり、ぽつりと消えて行く。
あなたはやがて、その数が、高さを増す毎に増えて行くことに気付くだろう。
どうやら、
ある高さまで上がった時に、階段の床が一人分抜ける仕組みになっているらしい。
落下した人の行く末は分からない。
なぜなら、あなたも私も、この階段から一歩たりとも動くことができないのだ。
自分の場所は決められている。
そして、その場所は、ゆっくりと、確実に上がって行く。
ふと、後ろを振り返る。
そういうことか。
自分の後ろにいる連中は、みな、自分よりも若かった。
遥か後方には、大勢の赤ん坊が見える。
一方、遥か前方には、じいさまやばあさまが見える。
先に行く程、残っている人数も少なかった。
自分の階段の床がいつ抜けるのか?
それは分からない。
しかし、階段の高さが増す毎に、床が抜け消えて行く人々が周囲に増えてくる。
自分と同じ高さの階段で、
消えてしまう人が増えてくると、
自分もそろそろではないだろうか、と不安になる。
また逆に、自分の後方に若い連中がたくさんいることを
考えると、自分はよく生きた方だ、なんて思うのかもしれない。
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以上は、僕が見た白昼夢だ。
最近、あまりに抗がん剤の試験データを見過ぎていて、
ちょっとやられているのかもしれない。
上記の暗示的な想像が、寒々しいくらい客観的なのは、
きっと、縦軸が「生存者数」なんていうグラフを「客観的に」相手にしているからだろう。
グラフは、時間の経過とともに減衰していく。
一目盛り減るごとに、1人の人間が亡くなっていく。
そういうことを、リアルに想像して、感じてしまうと、
(それ自体は素晴らしい感性のはずだが)あまり精神衛生上よろしくない。
件の白昼夢は、言うなれば「ところてん方式」で人類全体の生死を表したものだ。
そんな価値観に立って考えると、
全てのことが、あらゆる事物が、「虚しく」思えてきてしまう。
仕事で関わる気難しいあの人も、
あと40年も経てば、階段の床が抜けるかもしれない。
世間を賑わすアイドルグループも、
あと50年も経てば、階段の床が抜けるかもしれない。
そんな風に考えると、何故か、世界は遠くなり、
自分が世界から隔絶された客観的な存在のような気がしてきてしまう。
駅でごった返す人々。
その一人一人に、死相を見ることができるくらい、
意識が先鋭化してしまうこともある。
一人一人の顔に50年の時間を外挿してしまうのだ。
それは全くの想像で、当の本人には無関係のものだが、
結果として感じるのは、「虚しいなぁ」だった。
「あの人も、この人も、みんな死んじゃうんだなぁ」
そんなことを思うのは、異常に思われるかもしれない。
しかし、気をつけていただきたいのは、
それが「事実」である、ということだ。
やがて、死ぬ。
それは生まれた瞬間から確定している。
そんな当たり前のことを、今更騒ぎ立てたところで・・・・・・
と大人の感性をお持ちの方は言うのかもしれないが、
「客観的に見て」
とても重要なことだと思う。
さて、そんな世界認識を持つ僕にとって、
川内倫子さんの写真集「Cui Cui」は衝撃的だった。
僕は写真が好きだ、と言いながら、
元来、人の作品をあまり見ない人間だ。
というのは、見ると真似してしまいそうだから。
そう思っていたが、最近は少し変わってきた。
写真って、それそのもので何ができるのだろう?
という根源的な、初歩的な、疑問が出てきたからだ。
写真にできることは少ない。
直感的にはそう思う。
では、写真にどこまでのことができるのか。
それを見てみたい。
そんなことから、写真展に行くようになった。
渡部さとるさんの写真展、川内倫子さんの写真展と立て続けに見てみた。
思うことは色々あるが、
その中でも、ふと手に取った川内倫子さんの「Cui Cui」は、非常に良かった。
その内容については、ここでは触れない。
言語にしてしまうと、どうしてもズレてしまう気がするからだ。
ただ、それが僕にもたらした影響については、言語にできそうな気がする。
僕は、白昼夢の世界から世の中を眺めた時、
「虚しいなぁ」
と感じていた。
しかし、今では少しばかり違うことに気がついた。
「切ないなぁ」
なのである。
人々は、ところてん式に奈落の底に消えていく運命にある。
しかし、その間。
生と死のあいだにある時間、
それは死ぬから虚しいのではなく、
死があるからこそ、切なく、懸命に生きる価値がある。
そう思うと、全ての存在は「切なく」なってくる。
アラーキーではないが、センチメンタルなのだ。
生きとし生けるものは、平等に、切ない。
だから、せめて、大切にしよう。
そんな気がしている。