ちょっと感動してしまった。
僕は本を読むのが好きなのだが、その中には日本サブカルチャーの本命、「漫画」も含まれる。
中学生の頃に、一時期本気で漫画家を目指したこともあり、一般的な人よりもかなりマニアックに漫画を読んでいると思う。(例えば、NARUTOという現在少年ジャンプで連載されている漫画があるが、僕は中学二年生の頃、この作者のデビュー作「カラクリ」を新人漫画家専門の雑誌(赤丸ジャンプ)でリアルタイムに読んでいた。一読して、新人とは思えないパースの取れた画力に目をつけた僕は、「この人は鳥山明の次を継ぐ人だ!」と周囲に公言した上(実際にはそこまで行かずワンピースに持っていかれたが(笑))に、「しかし、妙に沙村広明の『無限の住人』のコマ回しに共通する部分がある・・・」とのマニアックな読みを、漫画好きの仲間にひっそりと漏らす不気味な少年であった。後に、NARUTO作者の岸本斉史氏が「無限の住人」のファンであることを知り、「ほらね?」と意味深にニヤつく始末だった。救いようのないオタクであり、灰色の青春が確定した瞬間でもあった。)
そんな僕にとって、高校生の頃のバイブル的漫画があった。
「The world is mine」
新井英樹という漫画家の作品だが、この作品に関してはもはや言いたいことが有り過ぎてこのコーナーに書けない程だ。
端的に言えば、2001年9月11日のテロをあたかも予言したかのような作品である。(僕の言葉では表現できない圧倒的な世界がそこにはある。ただし、この作品が好きだ、と公言しにくい面もある。というのも、ありとあらゆる暴力に満ちた北斗の拳真っ青の残虐物語だからだ。高校生の頃、僕はこの作品に世界の全てが詰まっていると信じてしまう程、のめり込んでいた。また、自分のメールアドレスに、登場人物の名前を入れてしまう程の熱の入れようだった。今となっては、青臭い、いい思い出だが。)
さて、この新井英樹という人は、とてつもなく冷徹なリアリストである。どうやったらそんなに現実を冷めた目線で見れるのか?本当に今になっても、いつ読み返しても理解不能なくらい天才的なセンスを持っている。
しかし、その表現があまりにもリアルすぎるために、一般受けはしないし、決して映画化できないだろう。(映画化したとしても、恐らく大ヒットはしない。また、R指定を食らうのは目に見えている。)
そんな熱烈な新井英樹ファンだった僕は、大学生時代に、ある新井作品を見て驚嘆したことがある。その作品は、
「宮本から君へ」
というサラリーマン漫画だ。
当時、この作品は絶版で、古本屋で偶然見つける以外に入手方法がなかった。このため、僕は古本屋に通っては、「宮本から君へ」がないか探し、1巻1巻徐々に集めていったものだった。(現在は、愛蔵版として復刻しているので結構簡単に手に入る。・・・あのときの苦労はなんだったんだ(笑))
さて、この作品は、1991年〜1994年のバブル崩壊直後に描かれた新井秀樹の初期連載作品である。サラリーマンが抱える悶々とした日常と、女と、男のプライドを描ききった凄まじい作品なのだが、僕を何より驚かせたのは、実はこの作品、「初めて読んだのは小学生の頃だった」ということに、ある一コマの絵を見た瞬間に気付かされた点だった。
小学校4年生か5年生の頃、親父が買ってきた(もしくは拾ってきた)青年誌が部屋に転がっていた。
それを家族が家にいない時間に、こっそりと読んでいたことがあった。当時にしてみれば、自分の知らない「大人の世界」を垣間みる背徳感を感じるものだったのだろう。
その漫画のほとんどは、小学生の僕の理解を超えた変な世界であり(例えば麻雀漫画)、僕の記憶には残っていないが、ひとつだけ明確に憶えているシーンがあった。
それは、別れた恋人の名前を何度も何度も叫びながら、ティッシュを使って自慰行為にふける男性の描写だった。
当時、小学生の僕には、自慰行為自体が不可解なもので、「なんでこの人は人の名前を叫びながらティッシュを使い続けるのだろう?」と真剣に悩んだ(笑)
その上,その描写があまりに切実過ぎて、その場面だけが、話の筋(ロジック)とは全く無関係に、強烈なイメージ(画像情報)として海馬に刷り込まれてしまった。
それはある種の「トラウマ」に近い。
僕の持っている人間観が揺さぶられたと言っても過言ではない。
一言で言えば、「うわぁ、人間って醜いなぁ。」である。
それが、だ。
10年近く経ったある日、まさか好きになった漫画家の作品に、そのトラウマシーンが出て来るとは思ってもみなかった。
「宮本から君へだったのか!!」
僕は全く予期せずして、トラウマのシーンに再会することになったのだ。
それはなんとも言いがたい経験だった。
小学生の自分があんなにも嫌悪したシーンを、
今は共感しながら読んでいる・・・。
「あれ?俺って汚れちゃったのかな?」
と、別の意味で悩んだ(笑)
時間とは恐ろしいものである。
さて、そんなエグイ場面と熱いドラマが満載の「宮本から君へ」なのだが、大人になってから冷静に考えてみて、やはり「名作」なのである。
これほど、絶望的にサラリーマンの悲惨さ(それは「生活の苦しさ」という意味ではなく、「名も残らないしがない仕事ですら、器用にこなすことができないどうしようもない自分。その器の小ささ。」を痛い程リアルに描写しているという点で、という意味である)を描いた作品はないし、これほど、精力的に人間の根源的な欲求を描いた作品もないし、これほど汗臭い作品もない。
絶望的なリアル感。
その一点においては、1968年に発表されたつげ義春の「ねじ式」に勝るとも劣らない、と言えば漫画マニアには一発で伝わるだろう。(そして大部分の人には伝わらないこと受け合いだ(笑)ちなみに、新井英樹も「つげ義春」ファンであり、恐らく、影響を受けている。特に、暗めのトーンを使用した、台詞のない背景のみのコマを多用する描写方法はつげ義春の影響と考えられる。というのが僕の意見だ。)
ともかく、「宮本から君へ」はサラリーマンの汗臭い、しょうもない人生を、時に冷徹に描写し、時にぶち壊そうとする熱いドラマが混ざり、さらに、泥臭い20代の恋愛が挟まり、その上、とてつもない犯罪が挿入され、かき乱された展開は、「血がたぎる喧嘩の嵐」へと発展して行き・・・という「これ、サラリーマン漫画なの?」という読者全員が疑問符を投げかけるような急展開を見せて行く。もはや読者の期待や想定を裏切りまくって、キャラクターが勝手気ままに動きまくるのである。
そんな「路線からはずれまくっていく破天荒さ」は一種のスリルであり、僕のような偏屈な漫画ファンを魅了した。
さて、それからしばらくして、僕は花沢健吾という漫画家を知ることになる。
彼がビックコミックスピリッツで描いた、
「ボーイズオンザラン」
という作品を読んだ時、僕が一瞬で感じたのが、
「あ、これって現代版「宮本から君へ」だ。」
だった。
これは、「異常な程のリアルな描写」と、「普通のだめサラリーマンが、恋愛をきっかけとして、暴力と喧嘩の渦に巻き込まれて行く」という破天荒な展開の両方に対して、僕が感じたことだった。
どう考えても、似てる、だったのである。
この気づきを、当時漫画の貸し借りをしていた研究室の技官さん(30代後半)にしてみたところ、
「は?全然ちゃうがな。ボーイズオンザランはボクシング漫画やし、宮本から君へはサラリーマン漫画やんか。」
と、ばっさり切られたのだった。
ちなみに、その技官さんに「宮本から君へ」を貸したきり、4年以上戻って来ていない(笑)(いいかげん来週会うときに返してもらおう。なんせ絶版ものなのだ。)
さて、そんな技官さんの一言で、
「そうかー。勘違いかなぁ。」
と思い直していたのだが、、
つい先ほど、花沢健吾をウィキペディアで調べて、決定的な事実を知ってしまった。
以下がウィキペディアの引用である。
・・・間違いない。
花沢健吾がボーイズオンザランを描いたとき、頭にあったのは、
「宮本から君へ」
であろう。
「宮本から君へ」へのオマージュとも取れなくない展開は、新井英樹を意識したものだったのだ。
また、あの異常な程トーンを多用し、写真を元に描いたであろうパースの整った背景描写も、新井秀樹の影響(そして僕的には、つげ義春の遠い影響)と考えられる。
つまり、僕が無意識的に感じ取っていた「新井英樹らしさ」は、作者の意図するものであったということだ(と思う)。
ボーイズオンザランを読むとき、僕が仮定していたのは、
「現代版「宮本から君へ」を本気でやったらどうなるか?という実験がこの作品なんじゃないか?」
というものだった。
もし、暇な方は両作品を以下のような対比で読んでみると、数段面白く感じるはずだ。
「宮本から君へ」1991−1994年
【主人公像】
「宮本から君へ」の主人公「宮本」は、文具メーカーの若手営業マン。不器用であるが、情熱的。問題が起こった時に、逃げることよりも戦うことを選ぶ(ただし、自分自身の怒りに気付くのに若干時間がかかる)。自分の正しさを曲げようとしない。自分のプライドを心底信じて疑わない。俺がやりたいようにやる!という強い意志を持っている(それが爆発するまで時間がかかるが)。
【クライマックスのあらすじ】
ある事件(悲惨な悲惨な事件、女性絡み)の犯人に対して、真っ向から喧嘩を挑む。歯を3〜4本折られても、自分で自分を鍛えて、異常な程再戦を繰り返す。血みどろの戦いの末、見つけたものとは・・・!?
【僕の解釈】
1990年代初頭のバブル直後にあったとしても、宮本の熱さはうざがられたらしい(作者談)。とはいえ、それでもバブル期のイケイケな時代(自己肯定的な時代)の余韻があったからこそ、こんな主人公像は成り立つのかもしれない。なんだかんだ言って、宮本は自分に正直で、真っすぐな強い人間だった。初期の宮崎駿アニメ(ナウシカ、天空の城ラピュタ、紅の豚など)が掲げた「かくあるべし」的なヒーロー像に通じるものがある。宮崎駿ほど、ストレートな描き方はしていないが、それでも宮本は「男のなかの男」だったと思う。
「ボーイズオンザラン」2005-2008年
【主人公像】
「ボーイズオンザラン」の主人公「田西」は、27歳。ガチャガチャのおもちゃメーカーで若手営業マン。不器用である上に、姑息で、すぐ逃げる。問題が起こった時に、戦うことよりも逃げることを選ぶ。自分の正しさは頭の中では叫んでも、現実では愛想笑い。自分のプライドを何度も忘れかけ、のたうち回った末に、ようやく譲れないものだと気づく。俺がやりたいようにやる!という強い意志に到達するまでに8巻分くらい時間がかかる(全10巻中)。
【クライマックスのあらすじ】
ある事件(女性絡み)で、宿敵に戦いを挑むもぼこぼこにされる(そのときの秘策がもろに「宮本から君へ」とかぶっているし、それが返り討ちに合ってしまうのは、現代的と言えば現代的だ。敵も進化しているのである)。その後、ボクシングを始めて強くなろうとするが(この辺り、自分で筋トレを始めた宮本と大きく異なる)、結局へたれはへたれのまま。しかし、ある事件(また女性絡み。しかし、前述の女性とは異なる)でようやく譲れないものを見つけ、戦うことを決意する。血みどろの戦いの末、見つけたものとは・・・!?
【僕の解釈】
「宮本から君へ」と話の筋(女性絡みで事件があって、喧嘩へと発展)は似ているが、宮本と比べると田西はとにかくエンジンのかかりが悪い。しかも、エンジンがかかってもガス欠をよくするし、自信もないし、要所要所ですぐ逃げる。このような主人公像の変遷は、そのまま「時代の変遷」を物語っていると思う。1990年代後半から2000年代にかけて、エヴァンゲリオンのような「強くない主人公」が「強くないこと」をそのまま出す形で、物語に登場するケースが目立ったが、このボーイズオンザランにおいてもその系譜が流れていると言えよう。「かくあるべし」のヒーロー像に胸焼けがした、か弱き僕たち世代には、田西のような自意識過剰なわりに自信欠乏気味な主人公の方が馴染みやすいのかもしれない。
描写方法と話の筋が似通っているのにも関わらず、主人公像がここまで異なる二作品。
なかなか面白い対比なのではないだろうか?
さて、こんな話を書いていたら、別のサイトでも両作品の類似性について論じているものを見つけた。(やはり、両方知っていると、「似ている」と気がつくものなのだなぁと再確認。)
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/boysontherun.html
このサイトでは、主役の変化に加えて、ヒロインの変化や物語の軸の違い等についても指摘している。
さて、これら2作品に加えて、60年代の漫画「ねじ式」を読めば、日本の青年漫画史の移り変わりを一気に俯瞰することができるのではないかと思う(非常に偏った領域のみであるが)。
マニアックな漫画好きで、かつ大人の男にお勧めする作品である。
(※女性は見ない方がいいです。単に気持ち悪くなるだけですから(笑))
listening to 「September/Radwimps」