江戸川の花火大会に行って来た。
今年も、友人のおかげで素晴らしい花火を素晴らしい仲間とともに観ることができて、本当にありがたい限りだ。
さて、その帰りである。
電車を間違えたらしく、山手線の終電は僕の最寄りの駅から二駅先の大崎駅で停車した。
「仕方ない。歩くか。」
ここからなら自宅まで3km程。毎日の通勤(徒歩)に比べたらへっちゃらだ。
僕は週末の都心を、AM1時過ぎにぶらぶらと歩いて帰った。
途中、灯りのあるところでは戯れにいくつか写真を撮った。
五反田付近ではマンションが火事になっていて、煙がもうもうと上がっていた。
階段を降りて逃げる人々。消防車から避難の号令が発せられる。
僕は、その悲惨な場面を前にして、立ち尽くすと同時に、
「それにしてもマンションというのはいやに幾何学的な造りをしているものだな」などと不謹慎にも考えてしまっていた。
僕はその建物が焼ける匂いを嗅ぎながら、またぶらぶらと歩き始めた。
◇◇◇
僕は最近、写真のサークルに通い始めた。
ニーチという団体で、年に一回「写本」というものを作って発表する。写本とは、平たく言えば「写真集」であり、自分が撮り貯めた写真作品を本という形式で表現してみましょう、というわけだ。
先週、僕はその写本作成の集まりに出席して、写真家の講義を聴いていた。
写真家の先生は写本の作成に当たって、「言葉で説明できるテーマを持て。」との主張をしていた。それは「感性で切り取った一瞬の現実です」等のあいまいな言葉ではなく、もっと具体的な言葉で説明できるテーマだ。
プロの写真家というのは、そういった「言語化できるテーマ」を持って写真を撮っているそうだ。
僕は今、写本を作っている。
それは、ニーチという場で発表するための写本ではない。
単純に、「これまで自分がやってきた写真の軌跡をここらでひとつまとめてみようか。」というごく個人的な動機に基づくものだ。
それを漫然と進めていただけに、この講義は、僕にとって非常に重たいものだった。
「言葉で表現できるテーマだって?そんなものあったっけ?」
僕は、突然、難問に出くわしたのだ。
講義を聴きながら、僕は自分の「写真撮影」という行為に対して、何らかの意味付けやテーマ性を見いだそうと考えてみた。
僕の写真は、基本的に「旅」がベースとなっている。
言うなれば、「旅の記録」という側面が強い。
「こんな世界が、この世の中にはあるんだよ。」
ってことを、その時間と空間を共有できなかった他の人に伝えることを目的としている。
「一人旅」というスタイルから必然的に生まれた目的、とも言える。
僕が写真を撮る時に考えることは、
「この感動をどうやって画面に落とし込もうか?」
「一枚の絵として、どうやったら綺麗に見えるだろう?」
といった程度のことだ。
つまり、
「旅の記録」という機能と、
「一枚の絵としての完成度」という品質。
それが僕の写真撮影という行為の根底にあるものだ。
それだけしかない。
そこには、「テーマ性」というものは、ない。
「旅」という強烈に日常から身体と精神を引きはがす「力」に引きずられて、
「撮ってしまっている」だけなのかもしれない。
僕はそんなことを考えながら、少し自分のことを恥ずかしく思った。
「写真が好きだ、と言いながら、そこに何の意志もテーマもなかったのか。」
唐突に、僕は自分がとても虚しい人間に思えてきた。
でも、それが現実ってことだろう。
それは反省。
そこで、である。
僕は今、「Flashbacks」というタイトルで写本を作成している。
僕がこの本で表現したかったことは、「僕が見た世界」そのものだ。
そこには、「旅で見つけた日常にはない世界」がある。
それは間違いない。
しかし、それだけでは、足りないことに気がついた。
つまり、僕が見た世界というやつは、「日常」があって、「旅」があって、というその右往左往とする現実なのである。
「日常」と「旅」の「往復」こそが、僕の世界の構成要素の全部だ。
僕が見た世界、というものを正しく、そっくりそのまま表現するのなら、「日常」を省いて、「旅」だけの写真とするのは間違っている気がする。
もちろん、「日常」と言っても、オフィスの様子を撮影するわけにはいかないし、その「絵」が僕が感じている「日常」と一致するとは思えない。
では、僕が感じる「日常」とは何か?
それが、僕にとって、撮影行為に対するテーマ性を発掘する鍵になるんじゃないか?
そんな思いを抱いていた。
さて、話はまた本日の深夜のぶらぶら歩きに戻る。
火事になったマンションで感じた違和感。
それは、そのあとも続いていた。嫌に冷静な自分を嫌悪しながら、僕は五反田の街を歩く。そこにはいつもと変わらない、なんの変哲もない街並が広がっている。
舗装された道路、街路樹、タクシー、街灯、閉店後の飲み屋、酔っぱらい、アスファルト、橋、手すり、車よけ、コンビニ、
そんなものが目に飛び込んで来る。
しかし、何かが、違う。
都市を構成する全ての要素に、「ああ、東京だな。」と気付かせてくれる「何か」があるのだ。
僕はうつむき気味にして歩いていた。
そこは歩道で、クリーム色の正方形のタイルが敷き詰められていた。
延々と。
等間隔で。
「ああ、そういうことか。」
僕はようやく気付いた。
僕が「日常」と呼んでいる世界が、「日常」と感じる所以を。
僕が「ここは東京だな」と瞬時に判断できる「理由」を。
それは・・・
「秩序」だ。
よく見てみよう。
街灯は、暗いところが少なくなるように、巧妙に配置されていて、
それは多くの場合、「等間隔」だ。
足下を見てみよう。
そこには正方形に綺麗に切られたタイルが敷き詰められている。
その間隔も、計ったように「等間隔」だ。
都市の無機質感を和らげるように配置された街路樹をよく見てみよう。
ほら、やっぱり「等間隔」に配置されている。
マンションの消火栓のバルブもご丁寧に「等間隔」に6つ設置されている。
車止めも「等間隔」に並んでいる。
ガードレールもきれいに支柱が「等間隔」。
ビルのシャッターには横縞のでこぼこがあるけれど、綺麗に「直線」だし。
考えてみれば、この道路はなんと「平ら」なことだろう。
誰かがこの道をならしたに違いない。
横断歩道を渡ってみれば、そこには白と黒の縞模様。
これもやはり「等間隔」!
ああ、なんて幾何学的な世界に僕は住んでいるのか。
そして、それにまったく違和感なく生活をしてきたなんて。
僕は、今、酔ってへんなことを考えているだけなのかもしれないけれど、
それでも、この「東京」って街は、設計しつくされているのは間違いない。
そして、この「東京」という場所なしでは、僕の「日常」は語れない。
いや、もっと言えば、「東京」そのものが、僕の「日常」を定義しているのかもしれない。この「設計された都市」こそが、僕の日常の礎だ。
僕は旅に出て帰って来ると、まず、成田空港から渋谷までの高速バスで、
「日本の道ってすごく平坦だな。そして、車は実にスムーズに進む。」
「あ、赤信号でしっかり停まっている。それに見てみろよ。後続の車はきちんと車線に従って二列に並んでいるよ。なんて律儀な国民なんだ。」
と、驚く。
そして、渋谷が近づくと、
「あ、だんだん賑やかになって来た。なんだか帰って来た気がするなぁ。」
と安堵する。
つまり、日本の都市という、「秩序」に僕の日常は強く依存して存在しているのだ。
そのことを、今日、強烈に気付かされた。
僕は火事で煙ったマンションを見て、被害に合った人々への同情を感じるよりも、やけに幾何学的な造りに興味を持ってしまった冷酷な自分に恥じ入るとともに、いや、それと引き換えに、この「日常」と「秩序」との関係性を見いだすにに至った。
これは、間違いなく写本「Flashbacks」に、還元されることになるだろう。
東京の途方も無い「秩序」
海外の途方も無い「自然」
その対比。
それが今回の写本の軸になるはずだ。
そして、これは大切な要素なので忘れないように書いておくと、
東京という秩序の中で生きる人間は、時として、「無秩序」をかいま見せる、ということを忘れてはならない。
人間はあくまでも生身で、そこには秩序だけではない「あそび」がある。
それを「日常」から全て排除してしまっては、やはり「僕の見た世界」を名乗ることはできないだろう。
終電が去ったホームのベンチで、酔いつぶれて寝ているおっさん。
「いつもきれいに使っていただいてありがとうございます」と書かれたシールが半分はがされたトイレ。
そんな整数で割り切れないものたちが、この日常には溢れている。
そして、人々の感情。
喜怒哀楽。
笑顔。
その全てが詰まっていて、初めて「日常」だと言えると思う。
僕の写真庫には「旅」の写真が詰まっている。
いや、「旅」の写真しかない、と言ってもいいかもしれない。
もうちょっと「日常」を増やそう。
そこに立って生きているのだから。
The Hiatus /Trash We’d love.