2009年1月31日土曜日

011. 知識や情報に質量はない。


考えてみると、
僕は何かを知ることで太らない。
ってものすごく当たり前だけれど、どれだけ勉強したり本を読んだりしても、
どれだけ知識を持っても、質量としては増えない。
つまり、知識ってやつは、質量を持たない。
知識とは、「記憶」だから、記憶も質量を持たないってことになる。
加えて言えば、例えばHDDに取りためた大事な写真。
これも、写真を撮る前と撮った後で、質量が変わらないことから、写真という「情報」も質量を持たないことになる。
当然と言えば、当然。
とはいえ、「質量を持たない物質はない」のだから、知識や記憶や情報は、物質ではないということを示唆するいい事例だと思う。
では、物質ではないこれらは「無」か?といえば、これもまた当然、「有」である。
そこに知識はあり、記憶はありありと存在し、写真を僕たちは見る事が出来る。これらの実体は何か?
恐らく、「配置」なんだろう。
HDD内の磁気の配置、
脳内のニューロンの結合配置。
つまり、配置が変わる事自体に、知識や記憶や情報は宿る。
「配置」という概念で、人間活動を眺めてみると、人間とはいかに「配置」を変えてきたか、それが文明の本質か、ということがわかる。
たとえは、鉄。
鉄鉱石として土中に、薄い密度で存在していたFeを、僕たち人間は採り出して、熱をかけて鉄だけを抽出して、建築物の骨格にしたり、包丁や銃に変えたりする。Feにしてみれば、その存在位置が変わっただけだが、人間世界にとっては、同じFeでも持つ意味が全く異なる。こうして、人は家を建て、街を作り、車を走らせ、空を飛んだ。
長い時間をかけて、物質の「再配置」をせっせと行ってきたわけだ。
考えてみると、僕の身の回りの全てのものは、地球のどこかから連れてこられた物質達がさまざまな形に作り替えられたものばかり、というか、それしかない。
もともと、この僕の周りには何もなかった。
そこに、経済の流れに乗って、様々な物質達がたぐり寄せられてきた。
そして僕は、この快適な自室で本を読む。本からは、様々な知識を得る事が出来る。そして僕の脳内ではニューロンの結合配置が書き換えられる。
僕の周りでも、僕の内側でも、常に「再配置」が行われ、一つのダイナミクスが生成されている。
このダイナミクスこそが、人の命の証なのかもしれない。
僕が死んでしまったら、それでこのダイナミクスは終わってしまうのだから。
とするならば、僕はこのダイナミクスを楽しめるだけ楽しもう。
僕がいて、
誰かがいて、
物質があって、
地球がある。
その中で、 一つ一つの要素が、相互に作用を与えながら、 再配置の流れが起き、その波に乗りながら、僕は息をしている。
相互作用の様々な形態(言語派社会学的に言えば、性、言語、権力の3種のベクトル)で要素は自己組織化する。僕もまた要素である限り、その自己組織化された何か(会社であったり、国であったり)の一部を構成している。
僕は結婚するのか今のところ不明だけれど、仮に結婚して子供が生まれたら、僕の複製された遺伝子はさらに60年〜100年くらい長くこの世界に居残ることになる。もちろん、完全に僕の遺伝子というわけではない。それでも、僕の「残り香」のような遺伝子はそこに確実に存在するだろう。そうして、僕以外の同世代も部分的に複製され、次世代へとつながっていく。次世代の彼らもまた、要素として、人と物質と地球と相互作用し、再配置を行い新たな世界を創っていくのだろう。幸運に恵まれれば、この再配置のダイナミクスは未来永劫繰り返されることになる。その正否はともかくとして、それが現実の世界である。
配置、相互作用、自己組織化、複製、これら概念が世界を記述する要素だと思う。

2009年1月17日土曜日

010. Thanks a lot for 100 accesses


このサイトに訪れてくれたみなさまへ。
今日サイトを見たところ、アクセス数が100を超えていました。
細々とやっているサイトなので、うれしい限りです。
アクセス数を稼ぐことが目的ではないのですが、やっぱり、自分が作ったものを見てもらえるのはうれしいものです。
今後もたまーに覗いていただけると幸いです。         

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さて、2008年末から、休日の過ごし方が変わってきたなぁと思う。
冬ということもあるけれど、
・家でゆっくり落ち着いて過ごす。
・写真の編集に精を出す。
・英語の勉強を再開する。
・俵万智「恋する伊勢物語」や茂木健一郎「脳とクオリア」など、知的興味に従った読書をする。
・読書を通じて、考えたことを、疑問を、ノートに取る。

ちょっとずつ、また習慣が変わりつつある事を感じる。いい傾向だと思うので、できるだけ続けばいいなぁ。
茂木健一郎がテレビの番組で、「人間の脳の配線が変わるには、2週間かかる」と言っていた。
つまり、なんらかの習慣を身につけるには、2週間くらいその行動を続けないといけない。年末年始を、いつもと違った過ごし方をして、だんだん、身に付いてきたのかもしれないなぁ。
とりあえず、2009年の始まりは、「落ち着いて、考えよう」がテーマかもしれない。

2009年1月11日日曜日

009. 科学の謎と文学と。


茂木健一郎の「脳とクオリア」を読んでいる。
高校生の頃を思い出すようだ。というのも、彼が問題としているのは、
「私」とはどこにいて、どのように生成されるのか?
「認識」とはどこから、どのように生成されるのか?
という哲学的な、日常では問題とすることすら忘れてしまっている問題だからだ。
そして、そこには考えれば考える程、「?」が湧いてくる。脳がかゆくなってくる。
そして、この脳のかゆみこそ、「面白い」のだ。
「なんで僕って、この世界をこんなにも鮮明に認識できるんだろう?」
「なぜ、僕という外界を認識できる存在が、存在しているのだろう?」(親が結婚したから、とか、社会に役立つため、とかそういうことではなく。)

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人は、死んだ瞬間に、質量としては、死ぬ直前となんら変わらない。
見た目も、死んだ瞬間と死ぬ直前で、変わらない。
しかし、死は厳然としてそこにある。
言い換えれば、「死」とは、肉体から「私」がいなくなることだ。
しかし、死を境にして、質量が変わらないなら、「私」は質量には表されないものだということだ。そしてあらゆる「物質」は「質量」を持っている。
つまり、「私」とは、「物質」ではない。
「私」を構成しているのは、肉体であるが、正確には手でも腸でも肺でもなく、「脳」であり、その構成体の中でも実質的に精神活動に結びつく「ニューロン」である。
しかし、その構成体があるだけでは「私」は存在していない。死んだ直後もそれら構成体はそこにあるのである。つまり、「私」そのものは、ニューロンという構成体の「活動」によって現出していると考えるのが妥当である。
つまり、「私」とは「現象」である。
より細かく言えば、「ニューロンの発火現象」が、「私」である。
発火とはニューロンによる電気信号のon状態を示し、複数のニューロンの協同的な電気信号の総体、つまり、「波」のようなものが、「ニューロンの発火現象」である。ここまでは、いい。しかし、科学的に「壁」となると考えられるのは、ニューロンは、三次元的に分布しているため、その位相は、一次元(三角関数によってグラフに描かれるような波)でもなく、二次元(池の水面を広がる波)でもなく、三次元的に立体として存在する「波」であるということだ(シュレディンガーの方程式に代表されるような。しかもそれが不均一な空間に分布するえらく複雑な波であり、方程式化することはえらく困難なことと推察される)。このため、その波の計測が、PETやfMRIで行われてはいるが(時間的分解能の限界や空間的分解能の限界もあり、またファクター(外界からの刺激)が無数にあることからも)、「3次元上に描かれる波に対して、その意味を対応させる=コーディングさせること」は容易ではないだろう。この命題は、タンパク質の立体構造から機能を予想することが難しいこと、そして、一次元構造のDNAから三次元構造のタンパク質の形を正確に対応させ予測することが難しいことといった、分子生物学の「壁」と本質的に近い。つまり、「次元変換の高い壁」が立ちはだかっているのである。しかも、脳の方が入力情報(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、さらにそれらが複合して生成される質感のクオリア・・・クオリアが入力情報なのか、出力情報なのか微妙だが)が複雑な分だけ、絶望的に問題は困難である。その上、人には未知の物や人、未来に対して「仮想」を持つ。その所在などは到底、到達できないのではないだろうか?と思う程深遠な闇の中にある。
と、まぁ以上が、313ページ中70ページまで読んだ中での感想だ。
さて、このように科学が直面している「壁」というものを知る事は、楽しい。
僕は無神論者だ。宗教を否定しているのではない。信じれば、その人の脳内には神は存在し得る。神はその人には感じられる。神は存在していい。
しかし、僕の脳内にはいないのである。正確には「いない」ようにしていたい、と思っている。
なぜなら、「神」という「超越的な存在」を仮定する事で、思考が止まってしまうからだ。もっと人間の知性は、探求できるのに、もっと神秘は解明できるのに、あきらめてしまうのは嫌だ。その昔、疫病は「祟り」であると考えられてきた。しかし、現在は、細菌やウイルスによって引き起こされる感染症であることが分かっている。これこそが進歩だと思う。一見、神秘に見えることを、実はきちんとした因果律に従った現象であると証明することが、科学に課された使命であると思っている。僕は科学の見地から、物事を考えたい。そのために、一旦、僕は「神」という存在を自分の中から棄却する。(ぞんざいに扱うのではない。とりあえず、前提としないのだ)
そして、脳は科学の対象として、最もエキサイティングなものの一つだ。
脳は、「科学」という客観的な世界と、クオリアや仮想、さらには神や魂といった形而上学的命題を扱う「哲学」とを結びつける恰好の(唯一の?)対象である。ちなみに、科学の対象として、僕が面白いと思うのは、
1)脳
2)生命の作り方(人工的に生命を一から作る)
3)宇宙(空間、時間、物質、力)の始まり
3つだ。
それ以外の、例えば、レセプターの構造の話や、生理活性物質の話は、社会のために役立つ実学として面白いと思うが、それは利益生を伴っていることから、僕が思う純粋科学とは異なる。


さて、今年は、読書をこれまで以上に強化するつもりである。(時間もふんだんにあるし)
そのうえで、上記のような「科学の壁」を把握するような読書は、非常に魅力的だと考える。
さらに、脳科学のクオリアや仮想を考える上で、「文学」と言われる書物にも興味を持ち始めた。言葉は現実を完璧に表すには不完全だ。どのような美辞麗句を並べても、この感動は、この現実の美しさは正確に写し取る事、「言葉として保存する事」はできない。というのは、確かにそうだと思う。しかし、現実文字変換にロスがあっても、人には想像力という強力な武器がある。文字脳内での想像(仮想)の変換過程で、多いに「想像力」がレバレッジを効かしてくれる(故に、読み手の想像力次第だが。。)。そして、その想像力は人間の人間たる所以、人として知性を持って生まれてきた特権であるように思う。つまりは、文学で名作と呼ばれるすばらしい物語に、非常に高い価値を感じ始めた訳である。
今年は、名作と言われる古典を読もう。それが、これまでの生活に欠けていた要素である気がするから。

2009年1月1日木曜日

008. 2009年を表す漢字一文字


 一年の計は元旦にあり。ということで、今年も「一年をどうやって過ごそうか?」考えてみようと思う。
 ちょうど去年の元旦に2008年のテーマとして、「選択と深化」ということを考えていた。つまり、目標を絞って、そこに集中しましょう。ということだ。そこで立てられた目標は、
1)作品の投稿(写真)
2)TOEIC900越え
3)海外旅行2回

結果はというと、
1)写真作品「イスラムの光陰」をデジタルカメラマガジンに投稿するも、「次点」ということで、名前のみの掲載となった。評点:△

2)TOEIC:3月受験時に、905を取り、無事目標達成。評点:◎

3)海外旅行2回:GWに南アフリカには行けたが、2回は無理だった。しかし、沖縄や京都に行けたし、まぁまぁだったと思う。評点:◯

ただ、「選択と深化」と言うわりに、絞れていなかったし、集中も出来ていたか、というと疑問である。。とはいえ、どれも自分の私生活にとって重要な要素であった事は確かだ。



さて、2009年である。今年のテーマを考えるに当たって、試みに漢字一文字でテーマを表してみようと思う。


「強」


2009年には、いよいよ27歳になる。
いよいよ、というのは、「27歳〜28歳」が人生の中で頭の回転が最高だと、親父に教えられていたからだ。それ以降は、そこまでに付けていた知識なり見識なりを組み合わせ、土台にして、物事に取り組むらしい。もちろんそれ以降にも成長はできるはずだが、人生の通過点として、27歳というのは自分にとって特別だと思う。
そこで、選んだのは「強」という字。
2008年までは、ある程度で考えをストップしてしまう、ある程度のクオリティーで満足している(=あと一歩を詰める苦労から逃げている)、「今日は疲れたし、とりあえず、酒飲むか」と平日に勉強ゼロを容認、「昼間もPCに向かってばかりだから、作品作りはまた週末」と作れるはずの作品を中断、いつも「癒し」「楽」の方向へと意識が流れていた気がする。それを改善する。それを改善しない限り、今、なかなか手に入れられない、もう一歩先の段階(それは、TOEIC満点レベル、会議で自在に英語を使う、作品を世に出す、といったこれまで叶えられなかった自分)に到達できない。日々の小さな甘えが、長期的に自分を壊していく。その甘えを断つことが、今年の目標であり、それは意志の「強さ」だと思う。
意志の「強さ」を、意識的に高める一年にしたい。
さて、テーマは「強」であるが、ブレイクダウンした目標を立てよう。


1)臨床開発の仕事で使える英語を勉強する。
上司からどんどん英語のプレゼン作成や翻訳を請け負って行こう。そして、それは「仕事」ではなく、「勉強」と位置づけて、運用レベルまで高めよう。プレゼン資料な最高の教材である。



2)国内でできる最大限の英語環境に身を置き、英語の基礎力を再構築する。
「国内でできる最大限の英語環境」とは、高い英会話スクールを指すのではない。一人で、シャドーイングやリピーティングを毎日継続してやれる環境のことである。頻度が重要であり、また、コンテンツが重要である。そして、それは大体決まっている。
・コエダスadvance Vol.2〜6
English Journal 2007年11月号〜2008年10月号
American Accent Training
30音English Rhythm
・映画英語のリスニング
・ヒアリングマラソン 2007年11月号〜2008年10月号
HEMHET 2007年11月号〜2008年10月号
以上である。
つまり、2008年中に手を広げてみたが、結局やりきれなかった者達、を再度やり直してみよう。ということである。
「国内でできる最大限の英語環境」は実はもう手元にあるのだ。あとは、自分の尻を叩いて、この教材の持つ力を余すところなく全うしてやるだけだ。目新しくもないし、地味な目標だが、手持ちの資料の価値を再発見したつもりになってコツコツやろう。



3)海外旅行1回(遠くへ)&写真作品の応募5回
ここ数年、仕事の合間を縫って海外へ行くという経験をしてきて、海外旅行は、やはり年1回くらいが限度らしい。ということがわかった。仕方ない。金もかかることだし、今年は年1回でも納得しよう。ただし、遠くへ。南米か、アラスカかその辺りだ。
そして、写真作品は「5回」ということで、むしろ多くなっているが、これは既に頭の中に4つくらい作品があるからだ。あとは、きちんと処理して、適切な時期に適切に応募する。それだけなのだ。それをいつまでもしないのは逃げであり、甘えだと思う。



4)節約する。
と、いきなり家庭的な目標だが、少しお金のことも考える時期になってきたと思う。さしあたって、株やらFXやらは考えていないが(正直、英語の勉強と作品作りをマジメにやっていたらそんなことに費やす時間はない)、単純に、好き放題遣ってきたのを少し控え目にしよう、というだけのことだ。これまでひと月、大体5万〜10万くらいは遊びや飲み代、欲しい物に遣ってきたと思う。そういった「多少の贅沢」を少し控えめにするだけで、恐らく年間50万くらいは違うと思う。既に、英語の教材を見ればわかるように、手元には処理しきれない程の本や物が集まっている。それらが腐らないうちに、十分楽しむだけでも、時間は足りないくらいだ。というわけで、すぐに買うのではなく、基本的にはある物を生かすようにしよう。



5)このサイトを継続して運営すること
正直、このサイトの立ち上げはしんどかった。やりたいことがあり過ぎた&その割にソフトの使い方を知らなかったということもあるが、何よりも、2005年〜2008年の3年分を一気にまとめようとした、のがそもそもの仕事量として多すぎだったのだろう。
というわけで、やはり旅なり、イベントなりで、「思い出写真」がたまってきたのなら、小刻みにこのサイトにまとめておくべきだろう。(とはいえ、意外とそれが難しかったりするんだよな)


6)掃除をする。
と、これもまた家庭的な目標だが、掃除とは「面倒なこと」であり、やらなくても「気にしない」ならそれでいい、という「逃げ」やすい行為である。簡単に逃げられるが、そうすると、ごちゃごちゃした中で、生活または仕事をすることになり、ひいては頭の中までごちゃごちゃしてくる。これも心がけ一つのことのはずだ。そして、その心がけこそ、今年のテーマ「強」に当たる。


7)良質な作品に出会う。
今年最後の目標である。最近、いろいろあって、ずいぶんと心が虚しいときがある。何よりショックなのは、大抵「他人の冷たさ」に触れたときよりも「自分の冷たさ」に触れたときであろう。「他人の冷たさ」の場合は、「嫌な奴もいるもんだ。でも自分は違う。」と怒りの対象になっても、虚しさの源泉にはならない。広い意味で自己肯定へと作用するからだ。一方で、「自分の冷たさ」を切に感じてしまった場合、「なんて俺はひどい奴なんだ」と虚しさが沸き上がってくる。自己否定へと意識が持って行かれてしまうのだ。そうすると、手に負えない。勉強などと高度な行為はたちまち忘れ去り、思考も固く、停止してしまう。行動も消極的になり、萎縮してしまい、早く帰って寝たくなる。
ただ、今年は、それをそう簡単には許さないのである。しかし、必ず波はあるもので、虚しさが突然暗雲のようにこの身を取り巻くこともあるだろう。そのときの何よりの処方箋は、良質な映画、小説、漫画、音楽、写真、エッセイ、に出会うことだと思う。(もちろん、人に話を聞いてもらう、なんていう方法もあるが、とりあえず、自分一人で完結する手段としては、ということである)
せっかく、知性を持って存在しているのだから、他の知性が作った良質な作品は、体験しておきたい。それこそが、人間として生まれてきた醍醐味ではないか。と思う。また、それを楽しむだけの心の余裕は持って生きていたい。
優れた作品が、心を震わせてくれることで、虚しさの緊縛が少し解けるのも経験的に知っている。つまり、心へのいい薬になるわけだ。今年は、意図的にそれら作品と出会うよう、探そうと思う。

・・・とまぁ、以上が2009年の自分に期待することである。
全体的に、「これまで挑戦した、もしくは設定してみたけどうまく出来なかった」事を目標に置いている。そういう点からは、「これまでの延長線上にある年」と言えるだろう。
しかし、これは、「これまでの方針は今も間違っていないと思う」という自分の中の無意識の判断を物語っているものだと思う。
このままの道筋でいい。しかし、より高みへ。

そういった気持ちで、一年が始まる。