2012年9月13日木曜日

135. 明るい部屋(写真と時間についての覚書)



ロラン バルトの「明るい部屋 写真についての覚書」を読み終わった。
友人の勧めで読んだ写真論の本だったが、古典的な写真論(兼 思想書、私小説)としてとても楽しめた。とは言っても、バルトの意図をどれだけ正確に把握できたかはいささか自信ないが。

以下、読書メモをコピペする。

正確な抜粋ではなく、主旨を簡単にまとめたものだ。括弧内は、自分なりに噛み砕いた内容だったり、(無謀にも)解説(を試みた記載)だったりする。

+++

16頁


というわけで、いまや、「写真」に関する「知」の尺度となるのは、私自身である。
(バルトは、自分が関心を惹かれる写真とそうでない写真を、自分の「快楽」の度合いから選別し、その特徴を探ることで、「よい写真」と「そうでない写真」の区別をつけようとする。)

23頁 

カメラを向けられたとき私は同時に4人の人間になる。
私がそうであると思っている人間、私が人からそうであると思われたい自分、写真家が私はそうであると思っている自分、写真家がその技量を示すために利用する人間。

(被写体となることに関する写真論。この件を読んでから、巻末のバルトの写真を見ると、えも言われぬ感覚に襲われる。えも言われぬ笑みを浮かべ、「そうであると思っている人間」と「そう思われたい自分」を思い浮かべるバルトと、「彼はそうである」と思いながら、より良いアングルを探る(=技量を見せたい)写真家が突如としてイメージされる。それが同時に存在した瞬間の光がこの写真だ。)

27頁

ある作家の「ある写真」は好きだが、ある作家の「全ての写真」が好きなわけではない。
(写真は、同じ人が撮ったと思えないほど、作風が異なる。これはスーザン ソンタグも指摘しており、絵画と大きく異なる点だ。写真だけを並べたとき、それだけで作家の自己同一性(アイデンティティ)を示すことは難しい。

48頁

写真はなぜそれが写されたかわからなくなるとき驚くべきもの、不意を打つものになる。
(確かに、そうだ。意図が分からない写真は強い。意図を考えさせる余地があるからだ。ただ、全く意味不明な写真が連続すると、人は見ることをやめてしまう。答が見つからないなぞなぞに人は付き合わない。)


51頁

(写真に写された)社会的視線はすでに批判的能力のある人々のもとでしか批判的になりえない。写真の批判能力は弱い。
(かつてあった「黒人専用の粗末な椅子席」と「白人専用のふかふかな椅子席」を写した写真を見たとしても、【粗末な方は「黒人専用」で、ふかふかな方が「白人専用」だ】という知識を持たない人にとっては、その写真は単に「粗末な椅子とふかふかの椅子が並べられている風景」にしか映らない。写真の社会批判能力はその前提の批判的知識を持たないと機能しない。写真は雄弁ではない。)


59頁

プンクトゥムは部分的特徴。ストゥディウムとプンクトゥムは共存できる。
(この本で提唱される中心概念、プンクトゥムとストゥディウム。プンクトゥムは「突き刺すもの」のラテン語で、ストゥディウムは「一般的関心を惹くもの」(=社会的なコード)である。バルトは、ストゥディウムだけの写真は「凡庸なもの」と断じる。例えば、「瓦礫と化した街を歩く兵士の写真」は、「戦争状態にある街」という社会的なコード(記号)にはなる(一般的な関心は満たす)
が、「特別関心を惹く存在」にはならない。一方、「瓦礫と化した街を歩く兵士の後ろを修道士が歩く様子」を写した写真は、同じ世界に属していない二つの異質な存在を同居しており、その違和感が私を「突き刺す」。この作用をバルトはプンクトゥムと呼び、優れた写真の要素として重要だとしている。そして、ストゥディウムとプンクトゥムは同じ写真内に共存できる(瓦礫+兵士のストゥディウムと、修道士というプンクトゥム)。


68頁

プンクトゥムは見る者が付け加えるもの。(あらかじめ意図された)コードではない。
(子供達が遊ぶ風景。その中で、1人の少年の歯並びが悪く、私は気になってしまう。写真家は歯並びの悪いことを見せたいわけではなく、子供達が遊ぶ風景というコード(記号)を見せたくて写真を撮ったわけだが、私は、その写真に「歯並びの悪さ」というプンクトゥムを見つける。プンクトゥムは部分的特徴であり、所与のものではなく、発見する(付け加える)ものである。ただし、写真はもともとあるがままであるので、当然ながら、元から写っている必要はある(その意味では、所与のものである)。最近の写真は何となく、このプンクトゥムを意図的に発生させようとしている写真が多いように思う。もしくはプンクトゥムを捕らえようと撮られている写真が現代写真なのかもしれない。なお、この本は1979年に書かれた本である。)


70頁

プンクトゥムはフレームの外へ意識を広げる。
(優れた写真は、写真の「外」へ意識を引っ張り出す。)


72頁

前言取り消し
(この項で、バルトは思考方法の転換を行う。これまでは写真に対する「快楽」をベースに「快楽を感じる写真とそうでない写真の違い」を考察することで、プンクトゥムとストゥディウムという概念を発見した。しかし、それだけでは写真の本性(エイドス)には迫ることができないと独白する。ここで、快楽主義的な発想から脱却し、「母が娘だったときの写真」という至極個人的な思い入れのある写真を出発点として(その写真のプンクトゥムはこれまでの定義では説明できない)、その写真がなぜ素晴らしいかを考察するという方法に切り替える。ここが本書の面白いところだ。つまり、方法論の撤回を一度行っているわけだ。)


87頁

最後に母は娘となった。子供を作らなかった私は、種に寄り添うことはなく、個体としての死を迎える。今後やるべきことは書くことだけだ。
(写真論を飛び越えた話だが、母への愛情について語られていると同時に、種と個体という大きな概念にまで言及している。親子は互いの生の時間がクロスオーバーしながら、連綿と続くことで種を形成するが、子供を作らなかった場合、その鎖はその個体で断ち切られることになる。その意味で、バルトが「やるべきことは書くことだけだ。」という私的な生産行為にのみ、自らの生の価値を見いだしたのは至極納得のいくことだ。書くこと、何かを生み出すこと、遺すこと、これは個体に備わったエイドスであり、(一個体にとっては)種の存続と等価に近い。また、バルトは年老いた母を自分の「娘」のように思った。この二重構造の親子関係の概念は特殊だが、その分、バルトの愛情が深かったことを示唆しているように思う。)


94頁

写真のノエマは、「それは、かつて、あった」
(ノエマとはフッサールの現象学に出てくる「現出体/基体」のことで、簡単にするなら「本体」と考えられる。写真は、「それは、かつて、あった」を示すことを(それだけを)本体としている。)

96頁

写真はポーズがあり映像は流れ去ってしまう。これが写真と映画との違いだ。
(静止していることが写真の大きな特徴で、バルトがこだわっている点である。止まっているから、「かつてあった」現実を、子細に眺めることができる。あたかも「かつてあった現実」が時間の波を越えて、この「今、ここ」にやって来たように。)

98頁
写真は実際にあったことを示す。
(当たり前のようだが、このことが写真の素晴らしさでもあり、また、写真による欺瞞(トリック)を発生させる源でもある。現代写真は、この「写真は実際にあったことを示す」という作用を逆手に取って、人をだますことがある。その「だまし」によって、人の意識を混乱させ、混乱から意図を汲み取るように設計している。トーマスデマンドなどいい例だ。)


100頁

写真はある星から遅れてやってくる光のようだ。かつて存在していたものが放つ光が実際に触れた写真の表面に、今度は私の視線が触れにいくのだと考えるとひどく嬉しくなる。
(この部分の表現は、この本の中でかなりいい。最も近いのはポジフィルムのポジ像かもしれない。被写体が反射した光はレンズに導かれてフィルムに触れる。その光の接触は、化学反応を引き起こし、フィルム面に定着する。このフィルムの潜像を現像によって表に出してやったのが、ポジフィルムのポジ像だ。これを僕らが眺める時、僕らの視線はフィルムの表面をなぞり、かつて被写体から放たれた光に触れることになる。この時間を飛び越えた被写体と視線との接触を、「ある星から遅れてやってくる光」に喩えた筆に拍手を送りたい。この部分を読んで頭をよぎったのは、超新星爆発(大質量の恒星がその一生を終える時に起こす大規模な爆発、supernova)だ。




超新星残骸 おうし座のかに星雲
(引用元:http://ja.wikipedia.org/wiki/超新星)

何億光年と離れた場所で起こった超新星爆発では、その光を地球で観測したときには、その本体である恒星そのものは既に跡形もなく無くなっている(光が何億年も遅れて地球にやってくるので)。既に亡くなってしまった人が生前、生き生きとしていた様子を示す写真は、supernovaそのものだなと思った。この、どうしようもなく写真と現在の間に流れる「時間差」こそが、バルトが示したいもう一つのプンクトゥムである。)

107頁

写真はすべて存在証明書である
(その性質が、今度は逆手に取られている。)

110頁

写真は停止しているので、時間の流れを相対的には逆流する。過去志向であり、写真に未来はない。
(「相対的に」。何という正しい理解だろう。「写真の中」以外が前に進んでいるのだから、過去に留まる写真は、「現在」が固定されていると仮定すると、過去に向かって突き進んでいるとも言える。つまり、2000年に撮った写真は、2012年の今からすると12年前の写真に過ぎないが、2100年にその写真を見返せば、100年前の写真になる(88年分過去に進んだわけだ)。つまり、写真は「止まることで過去に向かって進んでいる」と「相対的」には考えられる。賢いな、バルト。)

118頁

新しいプンクトゥムは時間である。写真のノエマの悲痛な強調であり、その純粋な表象である。
(というわけだ。)

122頁

写真ではアマチュアのほうが専門家の極致にいる
(世に溢れる写真は「映像」の部類であって、公共性のある写真である。これに対して、「母の幼い頃の写真」は私の血の系譜を感じさせるものであり、切実なものであり、私的な、私の真実に近い。アマチュアの方がむしろこのような写真のノエマに近い。)

135頁

雰囲気とは肉体についてまわる光輝く影。捕らえそこねると、主体は永久に死んでしまう。
(バルトを持ってしても、「雰囲気」という曖昧な言葉にしか変換できなかった、「雰囲気と言われるもの」は、同じ人間を撮ったとしても宿るときと宿らないときがある。このえも言われぬ「雰囲気」なるものを捕らえられるかで、写真の良し悪しが変わってきてしまうが、さて、どうしたら「雰囲気」を捕らえられるのか。本書はあくまで「観客」としての写真論のため、「雰囲気を再現性よく、繰り返し確実に捕らえる方法」は残念ながら示されていない。しかし、私小説的な写真を撮る人は、比較的、再現性良くこの雰囲気をモノにしているように思う。そして勝手な思い込みかもしれないが、女性作家に多い気がする。


136頁

まなざし。 写真に写っているまなざしは、私をまともに見据えるが、映画の中のまなざしは、その本質が虚構であるため見据えない。
(ここでもバルトは、映画と写真とを比較する。映画は本質的に虚構であるが、写真は現実であるとする考え方。これには異論を唱える向きも多いだろう。)

138頁

十全な写真は現実(それは、かつて、あった)と真実(これだ!)を融合させる
(母の娘の頃の写真は、まさにそれを体現していた。)

140頁

写真は分裂した幻覚。「それはそこにない」と、「それは確かにそこにあった」が同時に示される。
(死刑囚の写真は、「もう彼はそこにいない」ことを示しつつ、「かつて彼はそこいた」ことを示す。写真に写る死刑囚は「すでに死んでいる」し、「今、まさに死に向かいつつある」という両義性(つまり、分裂)を示す。)

145頁

「狂気」をとるか、「分別」か?写真のレアリスムが経験的な習慣(雑誌をめくって眺める写真等)で弱められれば、写真はその人にとって「分別」(をつけるためのコード)となる。しかし、もしも写真のレアリスムが始原的なものとなって(写真が時間の流れに逆行して、過去に進み続けるという基本的な性質に目を向けるようになって)、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義を思い起こさせるのなら、写真は「狂気」になる。私は本書を終えるにあたり、これを写真のエクスタシーと呼ぶことにしたい。写真を「文化的なコード」に従わせるか、そこに蘇る「手に負えない現実」にするかは自分次第である。

+++

バルトがこだわったのは、「写真が過去に立ち止り続けること」のように思う(この停止している状態が生み出す特異性を重視するがために、動画である映画と写真は本質的に異なると主張していると思われる)。
そして関心を惹く写真の「特筆すべき何か」は、シーンや被写体の「形態的な特徴としてのプンクトゥム」だけで構成されているわけではなく、その写真を眺める「私」とその写真が示す「かつての世界」との間に横たわる「時間」がもう一つのプンクトゥムとして機能していることを発見した点で、とても秀逸な写真論だと思った。

このような議論があった上で、それから既に30年が経過した。
今、写真は「それは、かつて、あった」ことを示すという性質を見透かされた上で、その性質(人々の思い込み)を利用して、新たな表現に変えられていっているように思える。とは言え、この点についてはまだまだ語るべき言葉が見当たらない。
見足りないし、知り足りないのだ。

もっと知りたい。もっと見たい。

2012年9月10日月曜日

134. 写真展やります(第9回ニーチ写真展)





今回は告知です。
10月9日〜14日まで、渋谷のルデコというギャラリーで写真展をやることになりました。

所属している「ニーチ」という団体が主催するグループ展です。
僕は、2作品出展する予定です。(鋭意製作中)

今回のグループ展では、結構難しいテーマが設定されています。

テーマ
「視覚以外の感覚を感じる写真」

例えば、「ラテンの音楽が聞こえてきそうな写真」であったり、
「土ぼこりの匂いを感じる写真」であったり、
写真が通常伝える感覚は「視覚」な訳ですが、その視覚を通して、さらに別の感覚も惹起させる・・・という割と挑戦的なテーマです。

正直、かなりハードルが高く、一体何人がこのテーマをまともに作品に転化できているか少々不安なところもあるのですが、皆、がんばって作品を撮っています。
(なんとなく、例年よりテンション高いような気がする)

秋口に写真観賞など、オツですよね。
ぜひぜひ、お誘い合わせの上、お越し下さいね。
もちろん無料です。

ちなみに僕は、10/13(土)と14(日)に在廊予定です。
ではでは。


+++  写 真 展 詳 細  +++

第9回 HИTb写真展
メンバー33人による写真展「sense of・・・」


Gallery LE DECO 2/LE DECO 3 (DECOのEの上に「'」 みたいのがついてます。)
〒150-0002 東京都渋谷区渋谷3-16-3 ルデコビル5F/6F
TEL:03‐5485‐5188

【会期】
2012/10/9(火)~10/14(日)展示期間
11時~19時 最終日は17時まで
パーティー
13日(土)17時~

【地図】
渋谷駅東口を出て明治通りを恵比寿方面に徒歩5分。
渋谷駅新南口からは徒歩1分。
明治通り沿い右手、
明治通りを挟んで真向いがスターバックスコーヒー。

2012年9月7日金曜日

133. 故郷の抜け殻(夢の跡)

10年振りに、地元に帰った。
ショックだった。

緊張しながら入った初めてのレストランや、
バイト代を手にして通った服屋さん、
セガのゲームギアが欲しくて何度も通ったおもちゃ屋さん、
個性を探してCDやビデオを物色したツタヤ、
漫画を立ち読みするために何度も通った本屋さん、
初めて携帯を買ったJ-Phone(現ソフトバンク)ショップ、
箱を見るだけで買えなかった中古ゲーム屋(ソフトはスーパーファミコンの三国志シリーズ)、
地下のスガキヤ(東海圏に多いチェーンのラーメン屋)で昼飯を食べ、6階のゲームコーナーで100円だけ使って遊んでいたデパート(ユニー)、
当時は高級品だったマクドナルド、
初めて眼鏡を買った眼鏡屋、
中学生の頃、塾からの帰りに楽しみにしていたロールケーキを売る洋菓子店、
小学校の頃にお小遣いを使い果たした骨董品屋、
小学校6年間通った柔道場、


全て、無くなっていた。


あのときの、あの「憧れ」やあの「緊張」は、一体どこに行ってしまったのか。
懐かしがる隙すら与えずに、10年という歳月は全てこの街から思い出を消し去ってしまった。


「街に行ってくる。」


と行って、向かったあの場所は、もはやない。
シャッターの向こう側で、暗い伽藍堂と化している。


小学生から高校生までは、「街」に慣れるのに精一杯だった。
お店に入るのにいちいち緊張したし、
買えないものも多かった。
ただ、ディスプレイを眺める日々。

それが、僕にとっての青春だったように思う。

この10年で、この街は一体どうしてしまったんだ?
街行く人が、ひどく他人に感じられて、
まるで自分の故郷が見知らぬ人に乗っ取られてしまったかのような錯覚を憶えた。

ことごとく、「跡地」が続く。

いいか!ここは、もともとマクドナルドだったんだぞ!(今は仏具店だ)
ここは、携帯屋で!(今は、鍵屋)
ここは、ツタヤで!(今は、魚民)
ここは、ユニクロで!(今は、ダイソー)
ここは、おもちゃ屋で!(今は、空き家)
ここは、眼鏡屋で!(今は、空き家)
ここは、服屋で!(今は、レストラン)
ここは、ゲーム屋で!(今はダスキンの事務所)
ここは、本屋で!(今は空き家)
ここは、デパートで!(今はマンション)
ここは、柔道会館だったんだ!(今は、大きな家が立っている・・・)

叫び出したいような、目眩で倒れそうな、そんな心持ち。

変わらないのは、街を流れる水(富士山からの湧き水が源平川となって流れている)と、その中に生息する水草、神社。

僕は10年、故郷に帰らなかったおかげで、
10年前の様子をはっきりと心の中に描くことができる。
10年分の変化をいっぺんに感じることができる。
これは、この街に住む人には分からないと思う。
日々の変化はわずかでも、それが集積すると、跡形もないのだ。

その跡形の無さが、あまりに強烈で、街を歩いて写真を撮りながら、
何度も立ち止って、当時の様子をなぞった。
あのおもちゃ屋には、まず入り口近くに、ゴジラやウルトラマンのフィギアがあって、真ん中にミニ四駆のコースが置かれていた。少し奥に行くと、レジがあって、その回りにテレビゲームの本体やソフトが置かれている。柔道会館の畳の感触、デパートの屋上の人工芝の日に焼けた感じ、Popcorn! Popcorn! This is a popcorn!としゃべるカウボーイ型をしたポップコーンの自動販売機、ツタヤのCDの配置、ここにJ-Popで、左奥にB'z、こっちに小室ファミリーで、右側に行くと洋楽、二列目がジャズ、その奥はイージーリスニングで、そのさらに奥からビデオが続く。当時はまだVHSがメジャーで、DVDはマイナーだったな。

そんな、当時のクオリア(質感)が、脳内で再生される。
しかし、それらはもう既に、脳内にしかあり得ない、幻想の一部となってしまった。


自然よりも、人の経済活動の方が、よっぽど儚くて、移ろいやすく、消えて行く。

あれだけ、
「変わらない日々」
に嫌気がさしていたのに。

それも今や夢のようだ。
こうして、僕は精神的な故郷を失った。

唯一の救いは、地元の友人と少しの躊躇も無く話せたことだ。

2012年8月30日木曜日

132. 次のX(いい予感)

兼ねてから噂のあったFujifilmのレンズ交換式ミラーレス機「X-Pro1」の「弟分」が、その姿を現した。

と言ってもまだリーク情報に過ぎず、正式発表が待たれるところだが、画像を見る限りかなりいい感じなのである。



出展:デジカメinfo 富士フィルムX-E1の前面・上面・背面の画像


名を「X-E1」というらしい。
兄貴分のX-Pro1とはセンサーが共通であり、つまり、APS-Cでかつローパスレスということだ。X-Pro1と同様に、先鋭度の高い画像が得られるだろう。

まず、注目したいのはファインダーだ。
OVF(光学ファインダー)とEVF(電子ビューファインダー)のハイブリッドだった(ハイブリッドビューファインダー)X-Pro1と異なり、X-E1はEVF一本に絞っている。
これは、大変賢明な判断だったと思う。

CP+2012で富士フィルムの方に聞いた話では、もともとハイブリッドビューファインダーは、OVFがベースだったとのことだ。

OVF上にパララックス補正した枠(この範囲が写りますよと示す枠線)が出たら面白いよねという話が出てきた→だったら液晶を光路上の間に噛ませればいいよね→だったらOVFの窓を塞いでしまえばそのままEVFになるよね。
といった流れで、技術者達が盛り上がり、実際に生み出されたという逸話がある。

つまり、技術者からすると、OVFありきで始まったモデルで、廉価版を出すとしたら「OVF一本」という方向性も考えられたわけだ。(実際、ハイブリッドビューファインダーを搭載しているX100の弟分であるX10はOVFのみである)

しかし、レンズ交換式であることを考えると、望遠側のレンズを付けた際に、EVFならば望遠の拡大された視野が反映されるわけだが、OVFの場合、表示される枠線が小さくなるだけで写らない余白部分が相対的に大きくなってしまう。
100mmを越えたら現実的にはEVFしかあり得なくなるだろう。

さらに、OVFの場合、確かに素通しで明るいことは明るいのだが、ピントの山が分からず、どこにピントがあっているのか分かりにくい(というか分からない)という問題もあった。

さらに、AFのスピードと精度にもやや難がある印象で、せっかくボケのきれいなAPS-Cを選んでいるのにもったいないなぁという印象だった。

僕はX100ユーザーなのだが、やはりAFには手こずっていて、これは何とかなってほしい。また、OVFよりも結果的にEVFの方が使用頻度が高いという状況にもある。

というわけで、個人的には「弟分には絶対EVFを」と思っていたが、実際そうなって、まずはホッとしている。

さて、次に重要な変更点は、デザインだ。

X-Pro1と比較してみた。



注目すべきは、X-Pro1で賛否両論だった軍幹部左の「なで肩」が、X-E1ではなくなっている(水平に戻っている)ということだ。
賛否両論と書いてはみたものの、実際には恐らく「否」の方が多かったと思われるので、これはデザイナーの英断だったと言ってもいいと思う。
惜しむらくは、X-E1のロゴがややサイバー過ぎる所だが、現代のカメラなんだし、そこは良しと考えよう。

さて、X-Pro1と比較すると、サイズもややコンパクトにまとめられている。
以下は、マウント径を画像上で合わせたもので、縮尺は大体合っていると思う。


もちろん正式発表を待つ必要があるが、このくらいの違いであれば、視覚的にも、触覚的にも小サイズ化を感じられると思う。
特に、OVFとのハイブリッドを諦めたことで、軍幹部が短縮し、全体としてやや横長となった点は、カメラとしての納まりが良くなっており歓迎したい。

残る問題は、AFだろう。

背面を見てみると、「MACRO」ボタンがある。


これはつまり・・・このボタンを押さなければ近接撮影に持っていけないということか。
この点は一眼レフユーザーとして、不便さを感じる所かもしれない。
やはりコントラストAFだと近接と遠景の大きなレンズ移動は厳しいらしい・・・。この辺りは、位相差AFにどうしても軍配が上がってしまう。折衷案として、像面位相差AFの搭載があると思われるが、さてX-Trans CMOSセンサーには載るのだろうか?ベイヤーの計算が通常のものより複雑そうなのだが、位相差AF用のセンサーを乗せられるのだろうか。
(なお、X-E1にはほぼ間違いなく搭載されないだろう。恐らく、X-Pro1 Mark IIのような次のメジャーアップデートの目玉にされるはずだ。そして、もしそこまで行けば、システムカメラとしての完成度は飛躍的に向上するだろう。)

とはいえ、AFの改善も噂されており、X-Pro1よりも良くなっている可能性は残されている。また、ピーキング機能が優秀なシリーズなので、恐らくMFに割り切ればかなり軽量で、高画質の頼れる相棒になりそうだ。

FUJINONレンズの柔らかなボケ感はかなり好きなので、是非良い物としていただきたい。
頑張れ、富士フィルム!



2012年8月27日月曜日

131. Transition(相の移り変わり目)

「百聞は一見にしかず。」
これには続きがあるらしい。

「百見は一行にしかず。」
百回見ることは、1回の行動に及ばないということだ。

そして、これにはさらに続きがある。

「百行は一考にしかず。」
考えなしの行動を100回するよりも、1回の深い考えの方が重要だ、ということらしい。

これは、西表島のガイドさんから教わったこと。
このガイドさんからは、

・鳥を食べる蜘蛛の話(3重の蜘蛛の巣が張られており、一個目は目の粗い弱そうな作りで、残りの二つが目の細かい巣になっている。残りの二つは近接しておかれており、鳥が羽ばたくと両方にかかる仕掛けになっている)

・獰猛な蜘蛛の蜘蛛の巣に、ちゃっかり居座っている別の種の蜘蛛がいること(その姿は同種の雄の姿にそっくりであり、仲間だと思われて攻撃されない)

・マングローブの木というものは存在しない(マングローブは総称であり、実際は、メヒルギやオヒルギといった名前が正確)

・マングローブだけを移植しても、環境は改善しない。(沖縄の那覇の河原にマングローブを植林したが、マングローブの土に住むシャコや蟹、ヤドカリ、その他の生物が一緒でないと落葉したマングローブの葉や周辺に滞留する生物の循環がうまくいかない。川のゴミなども引っかかってしまい、異臭を放つことに。)

・イヌビワなど、名称にイヌがつく植物の実は食べられるが、おいしくはない。(だからイヌが食べるビワということでイヌビワとなっている)

・西表島は、400万年前に中国大陸の長江の土砂が集積してできた。(中国大陸が現在よりも張り出していた)

などと色々教わった。
フィールドでの学習というのは、身体作用を伴っており、実に面白い。

さて、こんなことを書いているのは、これから忙しくなるからだ。
仕事では、止まっていたプロジェクトが動きだし、再び忙殺の日々を送ることになるだろう。
写真では、グループ展に出展することになり、10月までの1ヶ月間(の土日)は準備に追われることになる。
家庭では、11月に出産を控えており、その前にやるべき準備がある。

こんなかんじで、これから急激に忙しくなってくるので、西表島で得た知識を忘れないうちにメモしておきたかった。

さて、作品製作に取りかかろう。

2012年8月19日日曜日

130. SONYが最近面白い2(ようやくフルサイズミラーレス?)

1ヶ月前くらいだろうか。
デジカメの新製品に関する噂まとめサイト「デジカメinfo」で、ついに、SONYが業界最大手の一角ニコンを、累計の「噂数」で抜いてしまった。

デジタル一眼レフでは、キヤノンとニコンが大体シェアを30〜35%ずつ取っていて、二強の争いが長らく続いてきた。これはデジタル一眼レフ分野では今なお続いていることだが(ロンドンオリンピックでのシェア争いは記憶に新しい。両社とも「我が社の方が五輪でのシェアは高かった」とする勝利宣言をした、奇妙な事態も見られた)、ミラーレス機の登場から徐々に構図が変わってきている。

ミラーレス機の市場のみに注目すると、ミラーレス機を最初に始めたPanasonicや、PENシリーズやOM-Dが売れているOLYMPUSが一定のシェアを獲得している(およそ3割前後)。しかし、この二社の製品はマイクロフォーサーズ(m4/3)という比較的小さな撮像素子(17.3×13mm)を積んだ機種であり、「素子の大きさ」にこだわる自分としては、関心の対象外だった。

一方、SONYはAPS-Cサイズというデジタル一眼レフで多く採用されている比較的大きな撮像素子(23.4×16.7mm)を採用し、かつボディを小さくまとめた「NEXシリーズ」を投入した。2010年6月のことだ。

それ以来、SONYの動きは非常に活発だ。製品のサイクルが非常に早く、次から次へと新製品が発売される。ユーザーからは様々な意見(交通整理が必要では?や、カメラ本体の開発より弱点のレンズを開発してくれ等)が出ているが、NEXの登場で明らかにミラーレス市場は活性化したと思う。

先日公表されたキヤノンのミラーレス機EOS-Mは、その大きさや、フランジバック(*)、性能を見る限り、「キヤノンがやるNEX」と言ってもいいくらいで、両者は瓜二つだ。それだけ、NEXがエポックメイキングな存在だったと言えよう。逆に考えると、2010年6月から2年以上経って、ようやくキヤノンは似たような機種を出してきたわけで、動きが遅いと言えば遅いとも言える。とはいえ、キヤノン開発陣からしてみると、APS-Cで使える像面位相差AFの搭載にはこの年月が必要だった、市場の動向を読むにはこの年月が必要だった、シニアがこの方向性に了承するのに(意思決定するのに)この年月が必要だった等、色々と言い分はあるだろうから、そこはとりあえず無視しておこう。APS-Cでミラーレス機を業界最大手のキヤノンが出してきた、ということ自体が十分評価されるべきだと考える。

(*フランジバック:レンズの後玉から撮像面までの距離。これが短いということは本体が薄いことを意味する。また、フランジバックがより長い他社のレンズをマウントアダプターを介して使用することができるようになるため、オールドレンズで遊びたい人にとっては、基本的には短い方がありがたい。)

さて、NEXが出た当初、僕がまず思ったのは「小さいなぁ!」だった。
(とにかく薄く、軽く、結果として、レンズを付けると出目金のごとく不格好になる。これはAPS-Cサイズの素子を積みつつ(=レンズはそれなりに大きくせざるを得ない)小型化を行った副作用のようなもので、ある程度致し方ないものだ。当然、EOS-Mでも同様の悩みは発生するだろう。)

そして、次に思ったのは、「APS-Cでここまで小さくできるなら、35mmフルサイズでも小さなカメラができるんじゃないか?」
だった。

この話をカメラ好きの友人何人かに言ってみたのだが、そのときは、
「フルサイズは基本的にプロユースを意識したラインだから、それに見合うAF性能やその他の機能が追いつかないと商売にならないでしょう。性能を積むということは、サイズは必然的に大型化してしまうし、フルサイズでコンパクトというのは成立が難しいのでは。」
「撮像素子を大きくするということは、ウェハの切り出しで歩留まりがとても悪くなる。生産のコストを考えると、そうやすやすとは小型軽量の廉価モデルとしては、出しにくいでしょう。」
という否定的な意見が多かったように記憶している。


しかし、時代は移り変わりつつあるようだ。
ニコン、キヤノンは恐らく廉価版フルサイズ機(ミラー有り)を投入してくるだろう。フルサイズエントリー機と言えるこれらの機種(D600とEOS 9D?)は、プロユースというより、ハイアマ〜ミドルユーザーあたりをターゲットにしたモデルとなるだろう。
つまり、「フルサイズを気軽に」という時代まであと一歩といった状況だ。

そしてここに来て、

「SONYがフルサイズのNEXシリーズを開発している。」

との噂が流れてきた。
ようやくか。
いや、早かったと言うべきかもしれない。




(上図は、SONYのフルサイズNEXの噂を報じるデジカメinfoの画面(http://digicame-info.com/)。左袖のカテゴリ欄で、ニコンの記事数が807であるのに対して、SONYが823であることが分かる。)


APS-Cの素子を搭載したEOS-Mの登場で、また一つドミノが倒れたのかもしれない。もちろん、フルサイズNEXというのは、まだまだ噂の段階で、この後、どうなるかは分からないが、それでも、時代の流れは確実に、そこに向かっていくのだろう。

フルサイズNEXが出るとすると、まず、マウントがもう一つ増えることになる。SONYは現在、コニカミノルタから引き継いだデジタル一眼レフ(αシリーズ)用のAマウントと、NEX用に開発したEマウントの二つのマウントを保有しているが、フルサイズNEXを出すとすると、ミラーレスな分、Aマウントよりはフランジバックは短くなるだろうし、フルサイズのイメージサークルをカバーするには、Eマウントよりは大きなマウントにする必要があるだろう。イメージとしては、Aマウントの口径で、フランジバックはEとAの中間くらいといった感じだろうか。これくらいのサイズでフルサイズミラーレスが出たら・・・確実に買ってしまうな。

問題は、AF性能か。
ミラーレス機でも比較的早いAFを達成できる、「像面位相差AF」もしくは「像面位相差AFとコントラストAFの組み合わせ」は、今後どの程度スピードと精度を上げていけるだろうか。ミラー有りの一眼レフ機では、「位相差AFセンサー」というAFに特化したセンサーが搭載されており、AFのスピード/精度ともに速い。現状では、像面位相差AFやコントラストAFとの組み合わせでは、位相差AFにはスピード/精度ともに到底及ばない。センサーのサイズが大きければ大きい程、被写界深度(ピントが合っている深さ)が浅くなるので、AFはよりシビアになってくる。これをどれだけ詰められるか。像面位相差AFの開発競争を制したものが、次代の覇者となる可能性が高いと言える。

僕はカメラの開発に携わっている人間ではないので詳しいことは分からないが、像面位相差AFの技術的な伸びしろがまだまだあることを期待したい。

それにしても、ようやく、高級フィルムコンパクトカメラに対抗しうるレベルの35mmフルサイズデジタルカメラが出るのかもしれない。僕はこれをどれだけ期待していたことか。(EOS 5D MkIIをメインに使っているが、ちょっとした外出には大きすぎる。しかし、一度5D MkIIの画質に慣れてしまうと他の機種(APS-C以下)を使う気になれなくなってしまう。フルサイズかつ小型というのは、正に理想のカメラ(の一つ)なのだ。)

それにしても、PENTAXはどうするのだろうか?
こういったダイナミックな潮流に、デザインやカラーバリエーションだけで勝負していくのだろうか?
また、これまで通り、APS-Cのカメラに注力して、スペシャリティを狙って行き続けるのだろうか。
フルサイズミラーレス、一番出すべきなのはPENTAXなのではないだろうか。
(一方で、一番「出しやすい」のが、撮像素子屋として卓越した技術力を持つ、SONYなのも分かるのだが。)

SONYの今後が実に楽しみだ。

2012年8月4日土曜日

129. EOS M (ドミノゲーム再び)

遅ればせながら、EOS Mの話をさせていただこう。
長らく待たれていた業界最大手のキヤノンの、ミラーレス市場参入。
キヤノンのデジタル一眼レフをメインに使用している自分としては、気になる存在だった。
このブログの中でも、既に何度かその存在に触れてきた。


そして、去る7月23日、ちょうど西表島でピナイサーラの滝を楽しんだ日、EOS Mという名称でキヤノンのミラーレス機が発表された。発売は9月とのことだ。




画像







7月1日の記事の中で、キヤノンのミラーレス機について、僕は以下のように記述している。

122.スマートフォンがカメラを進化させる(ドミノゲーム)http://7billionth-essay.blogspot.jp/2012/07/122.html

ちなみに、キヤノンのミラーレスには様々な噂が飛び交っているが、一番多い物は、G1Xの1.5インチセンサーを流用して作る、というものだ。これは、既存のAPS-Cの一眼レフ達に配慮(遠慮)しつつ、厳格に「ミラーレス」と「デジタル一眼」をラインで区別するやり方であり、大御所のやることとしては、正しい。同じく大御所のニコンも、まったく同じ戦法で、ニコン1という1インチセンサーを搭載したミラーレスシリーズを展開している。しかし、一カメラファンからすると、まったくもってつまらない戦法でもある。ミラーレスを単に「エントリー機の代替品」くらいにしか思っていないのであれば、最も知性溢れる選択なのだろうが、他社が既に保有しているシェアを奪い返す、という目的があるのであれば、もっともっと強力なコンセプトが必要だ。動画を重視する戦略(Cinema EOSシリーズなど)を展開しているキヤノンとしては、ミラーアップ状態が持続しているようなミラーレス機は、その動画性能を発揮する非常にいい「舞台」なわけで、それを既存品に気を遣ってちまちました戦略を取った結果、大成しないのであればもう本当に失望としか言いようがない。とはいえ、玄人の方々からすると、「APS-Cサイズにすると、レンズが大きくなってしまいどうしても不格好になってしまう。全体の大きさも、SONYのNEXシリーズが限界であり、ミラーレスで小型化するという目的が達成できない。」という意見もある。これも理解できるし、そのような読みはニコンがニコン1を始めたときにもあったのだろう。なので、1.5インチセンサーでミラーレスが出るのだとしても、それはそれで容認はするのだが、ただ、せめて、像面位相差AFは搭載してほしい。また、あのG1Xのデザインをそのまま踏襲することだけはやめてほしい。本当に。そして、動画性能を売り文句として、スッキリしたシンプルなモデルで、EVFありモデルとなしモデルを同時発売したら、それなりの話題にはなるはずだ。その上、別のラインとして、「フルサイズのミラーレス」が出たら相当素晴らしいが、そうなるとフランジバックの異なるマウントがEF&EF-Sマウント、1.5インチミラーレス用マウント、フルサイズミラーレス用マウントと3種類も混在する状況になるので、コスト意識の高いキヤノンはそんなことしないんだろうな。

この時点では、1.5インチセンサーの噂が支配的で、僕自身もそうかと思っていた(諦めていた)のだが、果たして登場したEOS Mは、APS-Cセンサーを搭載していた。
結果として言えることは2つある。

1.キヤノンは思ったよりミラーレスに大きな可能性を見い出している。
最大のライバルであり、かつ既にデジタル一眼レフに主力製品があるという商品構造が似通っているニコンは、小型の1インチセンサーをミラーレスに採用し、既存のAPS-Cサイズのデジタル一眼レフを保護する選択をとったが、キヤノンは違った。ニコンよりキヤノンの方が、思いきった選択をしていると思う。
APS-Cセンサーを積んでいるということは、AFの精度さえ改善すれば、APS-Cサイズのデジタル一眼レフを代替するポテンシャルがあるということだ。これを敢えて積んできたということは、それをするだけの価値をミラーレス市場に(ようやく)見い出したのだろう。それは、ユーザーからすると、在るべき姿に近く、好感が持てる。


2. APS-Cサイズのセンサーは、ミラーレスがメインになる可能性が高まった。
これは長期的な話だが、撮像素子面内にAFセンサーを配置する「像面位相差AF」は今後確実に進化していく技術だ。この技術が進化すると、ミラー有りのデジタル一眼レフが得意としている高速度のAFがミラーレス機でも可能になってくる。さらに、EVF(電子ビューファインダー:液晶画面をファインダー内で覗くようなもの)も進化を続け、液晶の表示速度(リフレッシュ速度)が向上すれば、OVF(光学ビューファインダー:ペンタプリズム等で実際の光を見るファインダー)の代替となる日もやってくるだろう。そうなると、中級機以下のミラー有りデジタル一眼レフでできることは、ミラーレス機で代替できてしまうようになる。


こうなってくると、苦しいのがニコンのニコン1シリーズとPENTAXのAPS-Cサイズのデジタル一眼レフだろう。
ニコン1は、既にSONYからサイバーショットRX100が出ているように、コンパクトデジカメにも同じサイズの素子(1インチ素子)が積まれるようになってきており、これら高級コンデジとの差別化が難しくなってしまう。近い将来、「レンズが交換できるコンデジ」という位置づけに成り下がってしまう可能性がある。(つまり、PENTAXのQシリーズと同様、悲しい結末を辿る可能性が出てきた。)

また、PENTAXが厳しいのは、まず、PENTAXのデジタル一眼レフには、フルサイズ機が無いということである。APS-Cセンサーを積むミラーレスが一般的になってくると、「画」として同じサイズの素子を積むミラー有り機との差を出すのが厳しくなってくる。そうなると、ミラー有り機は「それだけかさばるのなら、フルサイズじゃないと。」となってくる。しかし、困ったことにPENTAXにはフルサイズのデジタル一眼レフを作る体制が整っていない。既に古い話かもしれないが、今年のCP+(2月)でPENTAXの方に聞いた話だと、「フルサイズへの進出は厳しい。現状のラインナップだと、フルサイズに対応できるレンズがない。」ということだ。元々KマウントのレンズはフルサイズをカバーできるFAレンズというものがあったのだが、デジタルになってから、APS-C機に注力するということで、FAシリーズはリミテッド以外はディスコンとなり、APS-Cに最適化したDAシリーズがメインとなった。この選択は、少ない経営資源を集中するという意味で正しいのだが、今後の展開として、フルサイズ進出の足かせとなってしまっている。

このように、EOS MやSONYのNEX等、APS-Cミラーレス機の一般化によって、上にも(APS-Cデジタル一眼レフ)、下にも(ニコン1やm4/3)ドミノゲームが始まる可能性が出てきた。

PENTAXが一発逆転を狙うのなら、レンズを一から作り始めても良さそうな「フルサイズのミラーレス機」を作ることだろう。ミラーレス機は、フランジバックが短いため、レンズを一から作り始めるにはいい理由(カモフラージュ、または大義名分)になる。さらに、これは妄想だが、OLYMPUSのOM-Dのように、往年のMXシリーズを彷彿とさせるようなフルサイズミラーレス機(EVF有り)を出してくれば、俄然面白くなってくる。

一方、m4/3陣営やニコン1は、レンズとボディとのバランスがいい、スタイリッシュである、というデザインに訴求する戦略を取らざるを得ないだろう。ここだけは、APS-C陣営には物理的に真似できない(多少レンズの明るさを犠牲にすればそこそこはできるはずだが)芸当なので、それを多いに謳えばよろしい。OM-Dは、いい例だと思う。

さて、EOS Mに話を戻そう。
EOS Mのスペックは、ほぼEOS Kiss X6iと同じで、像面位相差もある。センサーも共通だ。しかし、サイズはm4/3機に迫る小ささで、小型化に熱心ではなかったキヤノンとしてはよく頑張っていると思う。デザインは、正直、それほど好みではないが、G1X程ずっこけてはいないと思う。もう少し、角張った形が良かったのだが。
問題は操作系で、これは実機を触ってみないと分からないが、タッチパネルで操作するやり方がメインなため、直感的な操作はし辛そうだ。

理想的には、GR-Dの操作系だ。
人差し指で操作するダイアルと、親指で操作するダイアルの2軸で操作でき、絞りと露出をアナログでコントロールできる。こういったダイアル搭載モデルは、中級機〜ハイエンド機に搭載してほしい。その上で、EVFを搭載してくれれば、確実に買いだ。
その上で、多少明るさを犠牲にしても構わないから、沈胴式の小さな標準ズームが出たらいいが、換算35mmのパンケーキ(EF-M22mm)が出ているだけでも御の字だ。

とりあえず、早く実機に触れてみたい。