2012年9月13日木曜日

135. 明るい部屋(写真と時間についての覚書)



ロラン バルトの「明るい部屋 写真についての覚書」を読み終わった。
友人の勧めで読んだ写真論の本だったが、古典的な写真論(兼 思想書、私小説)としてとても楽しめた。とは言っても、バルトの意図をどれだけ正確に把握できたかはいささか自信ないが。

以下、読書メモをコピペする。

正確な抜粋ではなく、主旨を簡単にまとめたものだ。括弧内は、自分なりに噛み砕いた内容だったり、(無謀にも)解説(を試みた記載)だったりする。

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16頁


というわけで、いまや、「写真」に関する「知」の尺度となるのは、私自身である。
(バルトは、自分が関心を惹かれる写真とそうでない写真を、自分の「快楽」の度合いから選別し、その特徴を探ることで、「よい写真」と「そうでない写真」の区別をつけようとする。)

23頁 

カメラを向けられたとき私は同時に4人の人間になる。
私がそうであると思っている人間、私が人からそうであると思われたい自分、写真家が私はそうであると思っている自分、写真家がその技量を示すために利用する人間。

(被写体となることに関する写真論。この件を読んでから、巻末のバルトの写真を見ると、えも言われぬ感覚に襲われる。えも言われぬ笑みを浮かべ、「そうであると思っている人間」と「そう思われたい自分」を思い浮かべるバルトと、「彼はそうである」と思いながら、より良いアングルを探る(=技量を見せたい)写真家が突如としてイメージされる。それが同時に存在した瞬間の光がこの写真だ。)

27頁

ある作家の「ある写真」は好きだが、ある作家の「全ての写真」が好きなわけではない。
(写真は、同じ人が撮ったと思えないほど、作風が異なる。これはスーザン ソンタグも指摘しており、絵画と大きく異なる点だ。写真だけを並べたとき、それだけで作家の自己同一性(アイデンティティ)を示すことは難しい。

48頁

写真はなぜそれが写されたかわからなくなるとき驚くべきもの、不意を打つものになる。
(確かに、そうだ。意図が分からない写真は強い。意図を考えさせる余地があるからだ。ただ、全く意味不明な写真が連続すると、人は見ることをやめてしまう。答が見つからないなぞなぞに人は付き合わない。)


51頁

(写真に写された)社会的視線はすでに批判的能力のある人々のもとでしか批判的になりえない。写真の批判能力は弱い。
(かつてあった「黒人専用の粗末な椅子席」と「白人専用のふかふかな椅子席」を写した写真を見たとしても、【粗末な方は「黒人専用」で、ふかふかな方が「白人専用」だ】という知識を持たない人にとっては、その写真は単に「粗末な椅子とふかふかの椅子が並べられている風景」にしか映らない。写真の社会批判能力はその前提の批判的知識を持たないと機能しない。写真は雄弁ではない。)


59頁

プンクトゥムは部分的特徴。ストゥディウムとプンクトゥムは共存できる。
(この本で提唱される中心概念、プンクトゥムとストゥディウム。プンクトゥムは「突き刺すもの」のラテン語で、ストゥディウムは「一般的関心を惹くもの」(=社会的なコード)である。バルトは、ストゥディウムだけの写真は「凡庸なもの」と断じる。例えば、「瓦礫と化した街を歩く兵士の写真」は、「戦争状態にある街」という社会的なコード(記号)にはなる(一般的な関心は満たす)
が、「特別関心を惹く存在」にはならない。一方、「瓦礫と化した街を歩く兵士の後ろを修道士が歩く様子」を写した写真は、同じ世界に属していない二つの異質な存在を同居しており、その違和感が私を「突き刺す」。この作用をバルトはプンクトゥムと呼び、優れた写真の要素として重要だとしている。そして、ストゥディウムとプンクトゥムは同じ写真内に共存できる(瓦礫+兵士のストゥディウムと、修道士というプンクトゥム)。


68頁

プンクトゥムは見る者が付け加えるもの。(あらかじめ意図された)コードではない。
(子供達が遊ぶ風景。その中で、1人の少年の歯並びが悪く、私は気になってしまう。写真家は歯並びの悪いことを見せたいわけではなく、子供達が遊ぶ風景というコード(記号)を見せたくて写真を撮ったわけだが、私は、その写真に「歯並びの悪さ」というプンクトゥムを見つける。プンクトゥムは部分的特徴であり、所与のものではなく、発見する(付け加える)ものである。ただし、写真はもともとあるがままであるので、当然ながら、元から写っている必要はある(その意味では、所与のものである)。最近の写真は何となく、このプンクトゥムを意図的に発生させようとしている写真が多いように思う。もしくはプンクトゥムを捕らえようと撮られている写真が現代写真なのかもしれない。なお、この本は1979年に書かれた本である。)


70頁

プンクトゥムはフレームの外へ意識を広げる。
(優れた写真は、写真の「外」へ意識を引っ張り出す。)


72頁

前言取り消し
(この項で、バルトは思考方法の転換を行う。これまでは写真に対する「快楽」をベースに「快楽を感じる写真とそうでない写真の違い」を考察することで、プンクトゥムとストゥディウムという概念を発見した。しかし、それだけでは写真の本性(エイドス)には迫ることができないと独白する。ここで、快楽主義的な発想から脱却し、「母が娘だったときの写真」という至極個人的な思い入れのある写真を出発点として(その写真のプンクトゥムはこれまでの定義では説明できない)、その写真がなぜ素晴らしいかを考察するという方法に切り替える。ここが本書の面白いところだ。つまり、方法論の撤回を一度行っているわけだ。)


87頁

最後に母は娘となった。子供を作らなかった私は、種に寄り添うことはなく、個体としての死を迎える。今後やるべきことは書くことだけだ。
(写真論を飛び越えた話だが、母への愛情について語られていると同時に、種と個体という大きな概念にまで言及している。親子は互いの生の時間がクロスオーバーしながら、連綿と続くことで種を形成するが、子供を作らなかった場合、その鎖はその個体で断ち切られることになる。その意味で、バルトが「やるべきことは書くことだけだ。」という私的な生産行為にのみ、自らの生の価値を見いだしたのは至極納得のいくことだ。書くこと、何かを生み出すこと、遺すこと、これは個体に備わったエイドスであり、(一個体にとっては)種の存続と等価に近い。また、バルトは年老いた母を自分の「娘」のように思った。この二重構造の親子関係の概念は特殊だが、その分、バルトの愛情が深かったことを示唆しているように思う。)


94頁

写真のノエマは、「それは、かつて、あった」
(ノエマとはフッサールの現象学に出てくる「現出体/基体」のことで、簡単にするなら「本体」と考えられる。写真は、「それは、かつて、あった」を示すことを(それだけを)本体としている。)

96頁

写真はポーズがあり映像は流れ去ってしまう。これが写真と映画との違いだ。
(静止していることが写真の大きな特徴で、バルトがこだわっている点である。止まっているから、「かつてあった」現実を、子細に眺めることができる。あたかも「かつてあった現実」が時間の波を越えて、この「今、ここ」にやって来たように。)

98頁
写真は実際にあったことを示す。
(当たり前のようだが、このことが写真の素晴らしさでもあり、また、写真による欺瞞(トリック)を発生させる源でもある。現代写真は、この「写真は実際にあったことを示す」という作用を逆手に取って、人をだますことがある。その「だまし」によって、人の意識を混乱させ、混乱から意図を汲み取るように設計している。トーマスデマンドなどいい例だ。)


100頁

写真はある星から遅れてやってくる光のようだ。かつて存在していたものが放つ光が実際に触れた写真の表面に、今度は私の視線が触れにいくのだと考えるとひどく嬉しくなる。
(この部分の表現は、この本の中でかなりいい。最も近いのはポジフィルムのポジ像かもしれない。被写体が反射した光はレンズに導かれてフィルムに触れる。その光の接触は、化学反応を引き起こし、フィルム面に定着する。このフィルムの潜像を現像によって表に出してやったのが、ポジフィルムのポジ像だ。これを僕らが眺める時、僕らの視線はフィルムの表面をなぞり、かつて被写体から放たれた光に触れることになる。この時間を飛び越えた被写体と視線との接触を、「ある星から遅れてやってくる光」に喩えた筆に拍手を送りたい。この部分を読んで頭をよぎったのは、超新星爆発(大質量の恒星がその一生を終える時に起こす大規模な爆発、supernova)だ。




超新星残骸 おうし座のかに星雲
(引用元:http://ja.wikipedia.org/wiki/超新星)

何億光年と離れた場所で起こった超新星爆発では、その光を地球で観測したときには、その本体である恒星そのものは既に跡形もなく無くなっている(光が何億年も遅れて地球にやってくるので)。既に亡くなってしまった人が生前、生き生きとしていた様子を示す写真は、supernovaそのものだなと思った。この、どうしようもなく写真と現在の間に流れる「時間差」こそが、バルトが示したいもう一つのプンクトゥムである。)

107頁

写真はすべて存在証明書である
(その性質が、今度は逆手に取られている。)

110頁

写真は停止しているので、時間の流れを相対的には逆流する。過去志向であり、写真に未来はない。
(「相対的に」。何という正しい理解だろう。「写真の中」以外が前に進んでいるのだから、過去に留まる写真は、「現在」が固定されていると仮定すると、過去に向かって突き進んでいるとも言える。つまり、2000年に撮った写真は、2012年の今からすると12年前の写真に過ぎないが、2100年にその写真を見返せば、100年前の写真になる(88年分過去に進んだわけだ)。つまり、写真は「止まることで過去に向かって進んでいる」と「相対的」には考えられる。賢いな、バルト。)

118頁

新しいプンクトゥムは時間である。写真のノエマの悲痛な強調であり、その純粋な表象である。
(というわけだ。)

122頁

写真ではアマチュアのほうが専門家の極致にいる
(世に溢れる写真は「映像」の部類であって、公共性のある写真である。これに対して、「母の幼い頃の写真」は私の血の系譜を感じさせるものであり、切実なものであり、私的な、私の真実に近い。アマチュアの方がむしろこのような写真のノエマに近い。)

135頁

雰囲気とは肉体についてまわる光輝く影。捕らえそこねると、主体は永久に死んでしまう。
(バルトを持ってしても、「雰囲気」という曖昧な言葉にしか変換できなかった、「雰囲気と言われるもの」は、同じ人間を撮ったとしても宿るときと宿らないときがある。このえも言われぬ「雰囲気」なるものを捕らえられるかで、写真の良し悪しが変わってきてしまうが、さて、どうしたら「雰囲気」を捕らえられるのか。本書はあくまで「観客」としての写真論のため、「雰囲気を再現性よく、繰り返し確実に捕らえる方法」は残念ながら示されていない。しかし、私小説的な写真を撮る人は、比較的、再現性良くこの雰囲気をモノにしているように思う。そして勝手な思い込みかもしれないが、女性作家に多い気がする。


136頁

まなざし。 写真に写っているまなざしは、私をまともに見据えるが、映画の中のまなざしは、その本質が虚構であるため見据えない。
(ここでもバルトは、映画と写真とを比較する。映画は本質的に虚構であるが、写真は現実であるとする考え方。これには異論を唱える向きも多いだろう。)

138頁

十全な写真は現実(それは、かつて、あった)と真実(これだ!)を融合させる
(母の娘の頃の写真は、まさにそれを体現していた。)

140頁

写真は分裂した幻覚。「それはそこにない」と、「それは確かにそこにあった」が同時に示される。
(死刑囚の写真は、「もう彼はそこにいない」ことを示しつつ、「かつて彼はそこいた」ことを示す。写真に写る死刑囚は「すでに死んでいる」し、「今、まさに死に向かいつつある」という両義性(つまり、分裂)を示す。)

145頁

「狂気」をとるか、「分別」か?写真のレアリスムが経験的な習慣(雑誌をめくって眺める写真等)で弱められれば、写真はその人にとって「分別」(をつけるためのコード)となる。しかし、もしも写真のレアリスムが始原的なものとなって(写真が時間の流れに逆行して、過去に進み続けるという基本的な性質に目を向けるようになって)、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義を思い起こさせるのなら、写真は「狂気」になる。私は本書を終えるにあたり、これを写真のエクスタシーと呼ぶことにしたい。写真を「文化的なコード」に従わせるか、そこに蘇る「手に負えない現実」にするかは自分次第である。

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バルトがこだわったのは、「写真が過去に立ち止り続けること」のように思う(この停止している状態が生み出す特異性を重視するがために、動画である映画と写真は本質的に異なると主張していると思われる)。
そして関心を惹く写真の「特筆すべき何か」は、シーンや被写体の「形態的な特徴としてのプンクトゥム」だけで構成されているわけではなく、その写真を眺める「私」とその写真が示す「かつての世界」との間に横たわる「時間」がもう一つのプンクトゥムとして機能していることを発見した点で、とても秀逸な写真論だと思った。

このような議論があった上で、それから既に30年が経過した。
今、写真は「それは、かつて、あった」ことを示すという性質を見透かされた上で、その性質(人々の思い込み)を利用して、新たな表現に変えられていっているように思える。とは言え、この点についてはまだまだ語るべき言葉が見当たらない。
見足りないし、知り足りないのだ。

もっと知りたい。もっと見たい。