自問自答をしている。
「限りあるこの人生において、本当にやりたいことはなんだろうか?」
僕は今、医薬品の臨床開発を行っている。
これは、僕が学生時代に心からやってみたいと思っていた仕事だ。
それができているんだから、いいじゃないか。
とも思う。
自分の会社や待遇も気に入っている。
上司にも比較的恵まれている方だと思っている。
それはとても幸運なことだろう。
新薬の開発は、それそのものが先端的で、知的な欲求にも「それなり」に応えてくれる。いや、そう言うのは失礼か。
実際には、広大な知識の平原のうち、手の届く範囲で摘み取っているだけなのかもしれない。いずれにせよ、興味の持てない仕事ではないのは事実だ。
つまり、ちょうどいいサイズなのだ。
自分の能力の範囲内でこの仕事を行うことが可能。(もちろん、時間的なストレッチや精神的なストレスはかかるが、それもmanageできる範囲内だ。)
この現状に対して、「過不足無く自分を発揮できている」という肯定的な評価もできるし、何か「収まりのいい範囲にいる」という否定的な評価もできる。
(もちろん、今の与えられたポジションで、最大限の努力はしている、という前提があってのことだ。)
---
入社当初、僕は海外に赴任することを夢見ていた。
臨床開発の活発な欧米に行き、日本の臨床開発を変えられるような発想や制度や技術を手にして帰ってくる、というような漠然とした夢を見ていた。
しかし、実際には、まず海外に行くにも長い順番待ちがあり、既に入社してから丸7年が経とうとしているが、それでもあと3年は必要と思われる(順当に行ってもだ)。
また、実際に海外に赴任して帰ってきた人に話を聞くと、日本と海外の試験環境差が激しく、海外の発想や制度や技術で日本の試験環境を良くするというロジック自体がほとんど成立しないことが分かってきた。
また、海外ではMD(医師)が臨床試験のデザインを行っており、単なる修士出身の自分にとっては高い障壁があることもよく分かった。
残されているのは、臨床試験の推進(Operation)と日本を中心としたアジア地域での治験デザインといったところか。
経験が蓄積してきたことで、担当できる業務の幅は年々広がってきたと思う。この先もあることはわかる。この先、どんなことを期待されるのかも、おぼろげながら見えている。
そう、「見えている」のだ。
この「見えている」というのは、大きな安心感にも繋がるし、強力な自信にもつながるし、また、逆に「見えてしまっている」という残念な気持ちにもなる。
先が見えてしまっている。
また、その「先」というものに行き着くのに、あと10年かかることもわかっている。1万人を超える企業であれば、順番待ちは、どこだって、ありふれたものとなる。
そうやって、連綿と続く選手層があってこそ、組織は力を維持できるという側面もあるので、一概に否定できないが、それでも、間延びしてしまう感は否めない。
こんなこと、今まで思うことはなかった。
---
冒頭に書いた通り、会社や待遇や上司に大きな不満はなく、仕事の内容も興味を持てるもので、安定と安心と自信に満ちた日々を送っていたのだ。
しかし、状況が一変してしまった。
友人から、立ち上げたばかりの会社に入らないかとリクルートを受けている。
まだ数人の会社だ。規模としては、今の会社の1万分の一になる。
しかし、事業内容はとてつもなく魅力的だ。
iPS細胞の臨床応用。
世界の先陣を切る争いの渦中に、傍観者としてではなく、中心的なプレーヤーとして参加できる。ノーベル賞の受賞で一躍時の人になったが、京都大学山中教授が開発したiPS細胞は、日本発の技術であり、バイオ分野で「日本がかろうじてまだ世界と戦える唯一の技術」とも言える。
そして、山中教授が臨床応用を目下の目標としているように、基礎の成果を臨床で結実させることが急務となっている。
医薬品の開発を行っていると、欧米でのメガファーマの開発に遅れを取っていることや、例えば臨床試験だけに限って考えれば、効率やスピード、国際化の面で韓国に多いに遅れを取っていることを、何かにつけて感じてきた。
一方で、例えばEML-ALK融合遺伝子の発見は日本人によるものだが、そのターゲットを利用したクリゾチニブの開発はアメリカのファイザーがやってのけたように、「日本は基礎が強いが、臨床応用が弱い。事業化はもっと弱い。」ということが再三指摘されてきた。
その結果、最近の医薬品開発では、
ということが各種医学会で叫ばれている(特にOncology)。
基礎から臨床への橋渡しが重要。
その最たるものが、iPS細胞だろう。
iPS細胞の可能性は、現時点では推し量れない。
様々な臓器、組織に分化させる技術が続々と生まれつつある。毛髪や腎臓まで出てきた。これだけ基礎の発見が充実してくれば、臨床応用も自ずと増えていくだろう。
しかし、一方で、原理的に考えれば、分化誘導が不十分な細胞が仮に移植されてしまった場合、腫瘍化するリスクは否めない(恐らく原理的には)。
リスクとベネフィットのバランスが、通常の医薬品と異なる地点にあるように思う(ベネフィットが限りなく続くが、製造の過ちで途端にリスクが反転するイメージ。一方医薬品は基本的に用量に依存してリスクは上がっていく。線形にせよ非線形にせよ連続的なバランスのイメージ)。これを社会的な視点でどのようにジャッジするのか?厚生労働省も今後極めて難しい判断に迫られることになるだろう。
日本では、ベンチャーキャピタルが欧米に比較して弱小で、結果、日本ではバイオベンチャーは生き残りにくい状況になっている(投資家がいない。バイオベンチャーブームも2005〜7年くらいに去ってしまった)。
医薬品であっても、成功確率は合成段階から2万分の一(数年前まで1万2000分の一くらいだと言われていたが最近さらに下がってしまったらしい)。一つの医薬品がつぶれても、会社そのものはつぶれない大手と、一つの製品に望みを託すベンチャー。
明らかに人生のvolatilityは増大する選択だ。
しかし、やり甲斐は極めて大きい。
将来性は未知数だが、大化けする可能性がある。
そして何より、cutting edgeに接していられる。
僕がやりたかったことは、そういうことだった。
最先端の突端に触れていたい。
尊敬できる人を得たい。
こういう自分の根源的な欲求は間違いなく満たされる。
そして、嫌が応にも、本気になれるはずだ。
そうしないと、ついていけないだろうから。
そういう、必死になっている自分を見てみたい気もしている。
追い込んでやろうと。
生活も一変し、生活の拠点も帰る必要がある。
家族との相談も必要だ。
子供はまだ2ヶ月半。まだまだ子育てが大変だ。
そうそう、最近になって、泣く時以外にも「あー!」とか「んぁーっ!」とか意図的に声を発するようになってきた。同じ声を真似てやると、ニヤリと笑う。それがまた可笑しい。
奥さんは今朝から食中毒のような症状で、つらい状況なので、今日は一日子供の面倒を見ていた。
色々なことを考えた。
これ以上考えても結論は出ないので、今日はここらへんにしておこう。
最後に一つ。
今回のことで直感したのは
「人生をかけてチャレンジできることって本当に少ないよな」ということだ。
そのモードへのスイッチを押してみたい自分がいる。
「限りあるこの人生において、本当にやりたいことはなんだろうか?」
僕は今、医薬品の臨床開発を行っている。
これは、僕が学生時代に心からやってみたいと思っていた仕事だ。
それができているんだから、いいじゃないか。
とも思う。
自分の会社や待遇も気に入っている。
上司にも比較的恵まれている方だと思っている。
それはとても幸運なことだろう。
新薬の開発は、それそのものが先端的で、知的な欲求にも「それなり」に応えてくれる。いや、そう言うのは失礼か。
実際には、広大な知識の平原のうち、手の届く範囲で摘み取っているだけなのかもしれない。いずれにせよ、興味の持てない仕事ではないのは事実だ。
つまり、ちょうどいいサイズなのだ。
自分の能力の範囲内でこの仕事を行うことが可能。(もちろん、時間的なストレッチや精神的なストレスはかかるが、それもmanageできる範囲内だ。)
この現状に対して、「過不足無く自分を発揮できている」という肯定的な評価もできるし、何か「収まりのいい範囲にいる」という否定的な評価もできる。
(もちろん、今の与えられたポジションで、最大限の努力はしている、という前提があってのことだ。)
---
入社当初、僕は海外に赴任することを夢見ていた。
臨床開発の活発な欧米に行き、日本の臨床開発を変えられるような発想や制度や技術を手にして帰ってくる、というような漠然とした夢を見ていた。
しかし、実際には、まず海外に行くにも長い順番待ちがあり、既に入社してから丸7年が経とうとしているが、それでもあと3年は必要と思われる(順当に行ってもだ)。
また、実際に海外に赴任して帰ってきた人に話を聞くと、日本と海外の試験環境差が激しく、海外の発想や制度や技術で日本の試験環境を良くするというロジック自体がほとんど成立しないことが分かってきた。
また、海外ではMD(医師)が臨床試験のデザインを行っており、単なる修士出身の自分にとっては高い障壁があることもよく分かった。
残されているのは、臨床試験の推進(Operation)と日本を中心としたアジア地域での治験デザインといったところか。
経験が蓄積してきたことで、担当できる業務の幅は年々広がってきたと思う。この先もあることはわかる。この先、どんなことを期待されるのかも、おぼろげながら見えている。
そう、「見えている」のだ。
この「見えている」というのは、大きな安心感にも繋がるし、強力な自信にもつながるし、また、逆に「見えてしまっている」という残念な気持ちにもなる。
先が見えてしまっている。
また、その「先」というものに行き着くのに、あと10年かかることもわかっている。1万人を超える企業であれば、順番待ちは、どこだって、ありふれたものとなる。
そうやって、連綿と続く選手層があってこそ、組織は力を維持できるという側面もあるので、一概に否定できないが、それでも、間延びしてしまう感は否めない。
こんなこと、今まで思うことはなかった。
---
冒頭に書いた通り、会社や待遇や上司に大きな不満はなく、仕事の内容も興味を持てるもので、安定と安心と自信に満ちた日々を送っていたのだ。
しかし、状況が一変してしまった。
友人から、立ち上げたばかりの会社に入らないかとリクルートを受けている。
まだ数人の会社だ。規模としては、今の会社の1万分の一になる。
しかし、事業内容はとてつもなく魅力的だ。
iPS細胞の臨床応用。
世界の先陣を切る争いの渦中に、傍観者としてではなく、中心的なプレーヤーとして参加できる。ノーベル賞の受賞で一躍時の人になったが、京都大学山中教授が開発したiPS細胞は、日本発の技術であり、バイオ分野で「日本がかろうじてまだ世界と戦える唯一の技術」とも言える。
そして、山中教授が臨床応用を目下の目標としているように、基礎の成果を臨床で結実させることが急務となっている。
医薬品の開発を行っていると、欧米でのメガファーマの開発に遅れを取っていることや、例えば臨床試験だけに限って考えれば、効率やスピード、国際化の面で韓国に多いに遅れを取っていることを、何かにつけて感じてきた。
一方で、例えばEML-ALK融合遺伝子の発見は日本人によるものだが、そのターゲットを利用したクリゾチニブの開発はアメリカのファイザーがやってのけたように、「日本は基礎が強いが、臨床応用が弱い。事業化はもっと弱い。」ということが再三指摘されてきた。
その結果、最近の医薬品開発では、
- トランスレーショナルリサーチ(基礎から臨床への橋渡しを担う研究)を重視しよう。
- 初期臨床であるPhase1を日本でやろう。(特に、初めてヒトに投与するFirst in Human:FIHを日本でやろう)
ということが各種医学会で叫ばれている(特にOncology)。
基礎から臨床への橋渡しが重要。
その最たるものが、iPS細胞だろう。
iPS細胞の可能性は、現時点では推し量れない。
様々な臓器、組織に分化させる技術が続々と生まれつつある。毛髪や腎臓まで出てきた。これだけ基礎の発見が充実してくれば、臨床応用も自ずと増えていくだろう。
しかし、一方で、原理的に考えれば、分化誘導が不十分な細胞が仮に移植されてしまった場合、腫瘍化するリスクは否めない(恐らく原理的には)。
リスクとベネフィットのバランスが、通常の医薬品と異なる地点にあるように思う(ベネフィットが限りなく続くが、製造の過ちで途端にリスクが反転するイメージ。一方医薬品は基本的に用量に依存してリスクは上がっていく。線形にせよ非線形にせよ連続的なバランスのイメージ)。これを社会的な視点でどのようにジャッジするのか?厚生労働省も今後極めて難しい判断に迫られることになるだろう。
日本では、ベンチャーキャピタルが欧米に比較して弱小で、結果、日本ではバイオベンチャーは生き残りにくい状況になっている(投資家がいない。バイオベンチャーブームも2005〜7年くらいに去ってしまった)。
医薬品であっても、成功確率は合成段階から2万分の一(数年前まで1万2000分の一くらいだと言われていたが最近さらに下がってしまったらしい)。一つの医薬品がつぶれても、会社そのものはつぶれない大手と、一つの製品に望みを託すベンチャー。
明らかに人生のvolatilityは増大する選択だ。
しかし、やり甲斐は極めて大きい。
将来性は未知数だが、大化けする可能性がある。
そして何より、cutting edgeに接していられる。
僕がやりたかったことは、そういうことだった。
最先端の突端に触れていたい。
尊敬できる人を得たい。
こういう自分の根源的な欲求は間違いなく満たされる。
そして、嫌が応にも、本気になれるはずだ。
そうしないと、ついていけないだろうから。
そういう、必死になっている自分を見てみたい気もしている。
追い込んでやろうと。
生活も一変し、生活の拠点も帰る必要がある。
家族との相談も必要だ。
子供はまだ2ヶ月半。まだまだ子育てが大変だ。
そうそう、最近になって、泣く時以外にも「あー!」とか「んぁーっ!」とか意図的に声を発するようになってきた。同じ声を真似てやると、ニヤリと笑う。それがまた可笑しい。
奥さんは今朝から食中毒のような症状で、つらい状況なので、今日は一日子供の面倒を見ていた。
色々なことを考えた。
これ以上考えても結論は出ないので、今日はここらへんにしておこう。
最後に一つ。
今回のことで直感したのは
「人生をかけてチャレンジできることって本当に少ないよな」ということだ。
そのモードへのスイッチを押してみたい自分がいる。