2012年9月29日土曜日

137.  写真生活(本、写真展)

最近、写真への関心がより高まっている。
ちょっとしたマイブーム(?)のようだ。

【最近読んだ本・読んでいる本】
  • 世界写真史/飯沢耕太郎 監修(執筆:飯沢耕太郎、大日方欣一、深川雅文、井口嘉乃、増田玲、倉石信乃、森山朋絵)


  • 写真分離派宣言/鈴木理策、鷹野隆大、松江泰治、倉石信乃、清水穣 著



  • 苔のむすまで/杉本博司 著

  • 伝わる、写真。/大和田 良 著

  • 写真と生活/小林紀晴 著

  • 現代写真論 コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ/シャーロット・コットン著、大橋悦子、大木美智子 訳



新旧織り交ぜて、写真史170年余の変遷を理解するのはまだまだ足りない。
まだまだ、「写真を見る経験」が不足しており、体感として作家名が入ってこないのだが、とりあえず、大まかな流れや系譜が頭に描かれつつある。もう少し、現代写真を俯瞰したら、次には、著名な作家の代表的な作品集を網羅的に解析していきたいと思っている。
(いつか自分なりの歴史年表やマップを作ってみたい。その上で、現在売れている作家達を分類し、どの系統の「進化型」なのか「突然変異型」なのか同定してみたい。)

しかし、正直なところ、現段階では批評家達の言説は難しく、なかなか頭に入ってこないのも本音だ。

例えば、写真分離派宣言の参加者である倉石信乃さんは、世界写真史の現代写真編を担当しているが、ここのパートはいきなり難解である(倉石さんは写真批評家)。

絵画に従属した写真(絵画主義)を否定して、レンズを通して得られた正直な、細密な写真(ストレートな写真)を謳ったスティーグリッツや、その後のf.64、主観写真といった流れはよく分かる。その後発生する、カラー写真を取込んだニューカラーやソーシャルランドスケープ、ベッヒャー夫妻から始まるタイポロジーによる客観主義、といったものもよく分かる。

しかし、1980年代以降のポストモダンから突然変異が多重に起こったように、「作家性」のベクトルが混沌とし出してくる。

僕は「写真の現在」を理解したいのだが、その直前までの経緯が最も複雑で、混沌としているという印象だ。
(日本の歴史と同じ。第一次世界大戦あたりから情報過多となり、かつ大抵が学期末と重なって駆け足で流されてしまう。日本(人)にとって居心地の悪い時代であったことも反映しているのかもしれないが。)

また、比較的最近の2010年に鷹野隆大さん、鈴木理策さん、松江泰治さん、倉石信乃さん、清水穣さんが始めた「写真分離派宣言」も、それそのものが混沌としている。

正直、声明文は一本のベクトルに貫かれたものではなく、複数のベクトルが包含されたもので、主張がバラバラになってしまっている印象だ。

しかし、結果として、参加者それぞれが「写真の現在」を異なる形で理解しているのがよく分かる。(また、それが分かるように、意図的に修正せず、そのまま出しているのだろう)

例えば、

・何に対する分離なのか?

・どこに向かいたいのか?
・参加者(5人中3人が写真作家、2人が批評家)の作品の方向性として、何か軸があるのか?

など、肝心な部分で、参加者内に分裂が起こっている。



(一方、スティーグリッツがかつて行った「写真分離派宣言」は、絵画主義写真(鮮明な写真にならないようにネガに処理を施し、あたかも印象派の絵画のようなテクスチャを与えたり、絵画の構図をそのまま受け入れ、「絵画に似ていること」に価値を見る主義。鈴木理策さんの言では、「絵画に従属した写真」)に対する「分離」を宣言しており、それに対して「ストレートな写真」を提唱し、その作家性を推進し、後進への教育も行った。分離する対象、その後の方向性が明確で、今回の宣言と大きく異なっている。)


2010年の写真分離派宣言の発端としては、「写真のデジタル化によって、フイルム時代の現像やプリントワークが過去の遺物になってしまう」ということに鷹野さんが危機感を抱いたことが挙げられているが、写真のデジタル化に対する意見(肯定/否定)も参加者によって異なっている。

鷹野さんは、デジタルよりもフイルムを肯定したい(保存していきたい)立場のようだが、一方で、松江さんは「デジタルの方がごまかしが効かない正直なものなのだから、さっさと全てのフォーマットはデジタルに移行してほしい。」と話す(とは言いつつ、松江さんの作品は大判カメラで撮られており、大判カメラの細密性の優位は認めている。恐らく松江さんとしては、「フイルムの大判カメラと同じフォーマットのデジカメが出てくれれば、全く躊躇無く全てをデジタルに引っ越せるのだが、実際は大判デジタルなんてメーカーは作らない(作ったとしても数百万は確実)。なので、(仕方なく)大判のフイルムを使っている、という状況なのだろう)。

このように、時代を牽引している著名な作家が、これほど現状に異なる見解を持っていて、「分裂」しているというのが、「写真の現在」なのだろう。

とはいえ、毎年、木村伊兵衛賞は発表され、新たな写真は生まれつつある。賞を与える側の頭には、写真史が描かれ、特に現在の写真の流れを考慮した上で、「新しさ」を評価しているわけで、その流れが分かっていなければ、新しさも分からないということになる。「流れ」と「新しさ」は、陰と光のような関係だ。

僕は作家になるつもりはさらさらないが、「写真の鑑賞者」として、より高い視点を持ちたいと思っている。現在の「新しい写真」=光を理解するためには、「古い写真」=陰を知らなければならないのだろうと思う。

そして、古い写真というのは、何も数十年前という訳ではなく、たった数年でも「古い写真」に認定されてしまうのが、恐ろしいところだ。

ま、その分、愉しいとも言えるのだが。



【最近行った写真展】

  • Ryan McGinley 「Animals」 /渋谷ヒカリエ
  • Ryan McGinley「Reach out, I'm Right Here 2012」 /小山登美夫ギャラリー
  • 松井一泰 「幻の島」/新宿ニコンサロン
  • 第4回SPRAY写真展「写真ってナンダ?!」/写真企画室 ホトリ


明日は、TOKYO PHOTO 2012に行く予定だ。
Ryan McGinley「Reach out, I'm Right Here 2012」はとても良かった。とても良かったのだが、この「良かった」をより明確な言葉で表せないのが歯がゆい。(これが、現状の鑑賞者としてのレベル)

自分なりに思ったことはあるのだが、恐らく、その大部分が「外している」予感がするのでここでは敢えて書かない。
(残念ながら、McGinleyの写真を、どのように自分の中で位置づけていいのか分からない、というのが本音だ。)



【最近のカメラについて】
週間ダイヤモンドの9/22号がカメラ特集で面白かった。



このブログでも書いていたのだが、スマホを発端としてドミノゲームが起こっていることが分かりやすく書かれている。
また、各企業がどの程度、台湾企業に依存しているかも紹介されており、各社の戦略の違いが明確になっている。キヤノンがニコンより高めな価格設定なのは、内製化の副作用なのかもしれない。自動化を強力に推し進めることで、人件費の高さはカバーできる、と言っているが、過渡期の間はどうしても相対的に高くなってしまうのではないか。


また、本日(9/29)、キヤノン待望のミラーレス機「EOS-M」が発売された。早速ヨドバシに行ってみたのだが、なんと、全く人気がない。並びもせずにあっさりと触れてしまった。

印象は、

  • APS-Cとしては(&小型化に熱心でなかったキヤノンとしては)驚異的に小さい。(ただし、NEXと比べるとほぼ同じだが)
  • AFが遅い、迷う(コントラストAFのみのOLYMPUSに完全に負けている。)
  • 絞り優先AEなど、凝ったことをやろうとすると、設定が面倒。その上、タッチパネルでの操作が必要。
という感じで、あまりいい印象はなかった。キヤノンもそこは十分承知していると思うので、少なくともAF周りは、今後急速にキャッチアップを進めるのだろう。

しかし・・・、やはりEOS Kissデジタルとの棲み分けを意識した作りは随所に感じられたので、このコンセプトをやめないと厳しいと思う。キヤノンの戦略部門には、「あんまり考えすぎるな」と言いたい。
(「いいものを出す」それに集中しないといけないと思う。子狡くラインナップの統制ばかりを気にすると、ミラーレスの世界で戦っていけないように思う。今回改めて、「デジタル一眼」と「ミラーレス一眼」の世界は別物だと実感した。例えばOLYMPUSのOM-Dは、素子のサイズは小さいが(とはいえとてもよいSONY製センサーだが)、操作性、AF速写性が良く練られており、ミラーレス市場での経験値の差を如実に感じることができる。キヤノンがミラーレスをAPS-Cで出したことで、m4/3陣営は途端に厳しくなるかとも思ったが、システムとしての完成度でまだまだレベルアップは可能であり、システム全体としての完成度として(単純なスペックに出ない操作性など含めて)戦っていけるのではないかと感じた。・・・と、センサーサイズ至上主義者の僕でもそう思わせるほど、EOS-Mは残念な感じなのである。キヤノンがAPS-Cを選択したことで、キヤノンもミラーレスに本気になったかと思ったが、正直まだまだ、ミラーレスを「コンデジとデジタル一眼の中間層」程度にしか位置づけていないらしい。「隙間を埋める」発想だと、EOS-Mのようなものしかできないし、それで問題とも思わなくなってしまう。(確かにEOS-Mは隙間を埋めている。しかし、ミラーレスを主戦場とするSONY、OLYMPUS、パナソニック、富士フイルムは、隙間だとは思っておらず、本気の開発を行ってくる。この本気度の違いは侮れない。))


とまぁ、一通り書いてみて、結局最後はカメラの話になってしまった(笑)

さて、作品のキャプション作りを再開するかな。

2012年9月14日金曜日

136. 歴史的一日(キヤノンが最近つまらない)

午前中、アップルから、iPhone5の発表があった。
朝からニュースで取り上げられ、より薄く、より早く、より長く使えるようになった「正常進化版」のiPhone5は奇をてらった機能はないけれども、確実にヒットするだろう。

そして、午後。
ニコンから、兼ねてから登場が噂されていた「廉価版」フルサイズ機 D600が正式発表された。
一日にこれほど注目する製品が登場するのも珍しい。
歴史的な一日と言っていいかもしれない。




これまでフルサイズ(24mm×36mmの大型撮像素子。フィルム時代の35mmフィルムと同じ撮像面積であり、そのため「フル」サイズと言われる。デジタル一眼レフカメラの分野では長らく16mm×24mmのAPS-Cサイズの撮像素子が一般的で、これはフルサイズのおよそ40%の面積しかない)と言えば、プロ向け(50〜80万円くらい)かハイアマチュア向け(大体25〜35万円)だった。
しかし、D600のコンセプトは、「ミドル層」を狙った「廉価版フルサイズ機」である。

D600のスペックを見てみると、

  • 本体サイズ幅約141mm、高さ約113mm、奥行き約82mm、質量約760gと、ニコンFXフォーマットデジタル一眼レフカメラで最小・最軽量を実現。
  • ボディー各所に効果的なシーリングを施すことで「D800/D800E」と同等の防塵・防滴性も確保。
  • 有効画素数約2400万画素、新開発FXフォーマットCMOSセンサーを搭載し、高いS/N比と広いダイナミックレンジを確保。
  • AFセンサーには、39点フォーカスポイントのマルチCAM4800オートフォーカスセンサーモジュールを採用。
  • FXフォーマットで視野率約100%、約0.7倍の高倍率光学ファインダーを搭載。
  • 1920×1080/30pのフルHDに対応。映像圧縮にはH.264/MPEG-4 AVC方式を採用。
  • ワイヤレスモバイルアダプター「WU-1b」を装着することで、「D600」で撮影した画像をスマートデバイスと共有可能。
  • 約5.5コマ/秒の連続撮影、起動時間約0.13、レリーズタイムラグ約0.052秒。
  • 最高速1/4000秒、フラッシュ同調速度1/200秒、約15万回のレリーズテストをクリアした、高精度、高耐久シャッターユニット。
  • 発売日は2012年9月27日、価格はオープン。

廉価版とは言え、なかなかのハイスペックだ。
正直、キヤノンEOS5DMkIIを使っている自分からすると、十分過ぎるくらいだ。(高感度性能がどうかは分からないが)
価格はオープンとなっているが、量販店の予約価格を見たところ、196200円〜218000円といったところ。フルサイズの初値としては相当安い。

実は、以前16万円代という噂も流れていたため、それよりは高めだったと見る向きも多いかもしれないが、防塵防滴を施して、5.5コマ/秒、2400万画素というのは、かなり良い性能であり、当初の予想性能を上回っている。これを考えると、196200円は、安いと言えるだろう。

そして、何より、重量だ。
760gとは。
マレーシアからの噂で、確かに軽いとは言われていたが、事実だったとは。キヤノンのAPS-C機EOS7Dが820gだから、それよりも軽いことになる。
ついにここまで来たか、という感じだ。価格も、重量も。

軽いと言えば、一昨日(9/12)発表になったSONYの「フルサイズコンパクトデジカメ」RX1も相当画期的だと思う。
その重量、482g(!)
片手で扱えてしまうレベルである(とはいえ、フルサイズで2430万画素だと手ぶれにシビアなので、きちんと両手で構えるが)。


形はややレトロで、なんとなくエプソンのRD-1や、富士フィルムのX100を彷彿とさせる。割と好きな方だ。35mmのゾナーF2というのも、コンタックスのTシリーズを彷彿とさせて、いい感じだ。もちろん、レンズ固定式の(それもEVFが内蔵されていない)カメラに25万円はおいそれと出せはしないが、エポックメイキングという点では、間違いなく歴史に名を残すカメラになると思う。

ニコンとSONYが実に、元気だ。
一方、我がキヤノンはというと、実に心もとない。

キヤノンにはD600に対抗した廉価版フルサイズ機が噂されているが、そのスペックは今のところ次のようなものだ。

EOS 6D(仮称)

- 2200万画素フルサイズセンサー
- 可動式モニタ、フラッシュ内蔵
- 19点AF、63分割測光
- シングルDigic5+
- 連写は4.5コマ秒で4.9コマ秒ではない
- 3インチ液晶モニタ(以前にタッチスクリーンと聞いている)
- ISO12800
- 新型のバッテリーグリップ、オプションで新型のGPSとWi-Fiグリップ
- 接続ソフトと共有ソフト内蔵
- 可動式液晶は採用されない
- フラッシュは内蔵されない

引用元:http://digicame-info.com/2012/09/eos-6d.html

AFポイントにしても、画素数にしても、D600に負けている。
恐らく、防塵防滴も採用されないと思う。
こうなってくると、6Dであと注目すべき点は、価格くらいしかない。
相当安くなければ、D600とD800への流れは買えられないだろう。


2400万画素のD600が196000円で、3680万画素のD800が241000円。
対して、2230万画素の5DMkIIIが275800円である。

現在、高画素のD800に対抗する3Dxなる機種が噂されているが、その位置づけから考えると、間違いなく、5DMkIIIより高くなり、初値で450000円台というのもあり得ると思っている。

そうなると、キヤノンではニコンより7〜20万円くらい高い設定になることになる(もちろん、画素数だけで比べるのは不当であり、高感度性能であったりAF性能であったりとした、トータル性能で比べるのが真っ当であるが、それでもニコンの機種は全体的にしっかりできているという現実がある。総合力でも、大きくは見劣りしないのだ)。


他方、SONYの非常に早い新製品開発サイクルに、巨人のキヤノンは完全についていけてない。さらに、SONY製のセンサーを採用したOLYMPUSのOM-DやニコンのD800を見たところ、SONY製のセンサーは階調も豊富で、目を見張る性能をたたき出している。
このように、他社へも撮像素子を売り、他社が儲かれば、自分たちも儲かる仕組みは、食品業界の味の素と同じビジネスであり、PC業界のインテルとも重なる。
PCではアップルのMacも、もはやインテル製のプロセッサを搭載しており、プロセッサと言えば、インテルというくらい市場を席巻している。

SONYがカメラ業界のインテルになる日も近いだろう。
(カメラ業界のアップルには、どの会社がなれるのだろうか?)

キヤノンはいつまでも横綱相撲(後だしジャンケンでの勝利)が取れると思っていないで(恐らく、さすがに社内はそれなりに危機感を抱いているとは思うが)、もう少し的を絞って開発した方がいいと思う。

時代は変わってきているし、価格破壊は進んできている。


+++ 2012年9月15日追記 +++

EOS 6Dのスペックについて、新しい噂が出てきた。
恐らく、D600の正式発表に触発される形で、意図的にリークされたものと思われる。

- センサーは新開発の2020万画素フルサイズCMOSセンサー
- 画像処理エンジンはDIGIC5+
- APS-C機並に小型化されたボディ
- ボディはカバーのみマグネシウム合金
- W-Fi内蔵
- GPS内蔵
- AFは11点、中央はF2.8対応のクロスセンサー
- 連写は最高4.5コマ/秒
- シャッター速度は30-1/4000秒、シンクロ1/180秒、シャッターの耐久性は10万回
- 防塵防滴
- 液晶モニタは3型104万ドット
- 動画はフルHD(1920x1080)、30p/25p/24p
- ISO100-25600(拡張で50、51200、102400)
- クリエイティブオート
- メディアはSD/SDHC/SDXC(UHS-I対応)
- 重さ755g(バッテリー、メディア含む)
- 発売(on-sale date)は2012年12月
- 店頭予想価格はボディが195000円前後、EF24-105mm F4L ISキットが295000円前後
- (追記)ファインダーはペンタプリズム、視野率97%、倍率0.71倍
- (追記)大きさは144.5mm(幅) x 110.5mm(高さ) x 71.2mm(奥行き)
- (追記)AFユニットは低輝度に強い新型



まず、僕の想定を上回っていたのは、重量だ。
バッテリーとメディアを含んで755gというのは、大体APS-C機の60Dと全く同じで、APS-C機と同じ気軽さ(と言ってももちろんミラーレスとは異なるが)で持ち出せる。素晴らしいサイズに収めてきた。

なお、先の文章では、D600が760gとなっているが、これはバッテリーとメディアを除いた重量で、バッテリーとメディアを込みにすると、860gとなり、100gほど6Dより大きくなる。
この点で、6Dは頑張っていると言える。

また、防塵防滴は諦めるかと思っていたが、きっちり行ってきた。エントリー版フルサイズ機と言えど、そこまで手は抜かなかったということだ。

Wifi内蔵とGPS内蔵も嬉しい誤算だ。特にGPS内蔵は、旅写真で重宝する(バッテリーを喰うということもあるだろうが)。

手を抜かなかったという点では、ペンタプリズムもある。Kissのようにペンタミラーを搭載する可能性も考えていたが、そうではなかった点にはホッとした。キヤノンはなんだかんだ文句を言われても、「カメラメーカー」として真面目に考えられているなと思う。
(後は、戦略の全体像を指揮する優れた指導者がいれば文句無しなのだが。。)


AFはポイント数が前回の噂の19点から11点まで減ってしまっているが、「低輝度に強い新型」ということで、合焦の精度やスピードに期待したい。なお、ポイント数ではD600の39点からするとかなり少ないので、AFの「カバー面積」を意識する人、動体を撮りたい人には、D600の方が良さそうだ。
(自分の使い方は中央1点に絞って使うことが多いので、AFのポイント数よりアベイラブルライト下での精度やスピードを重視する。)

価格は、初値で195000円ということだが、これはD600の実売価格(値引き後の価格)とほぼ同等。しかし、元々D600は220000円が正式な(?)初値なので、そういう意味では、2万円程安い位置づけのようだ。
これはスペック差を考慮すると妥当なラインと思われる。ただ、実売の初値として18万円代が見えていないと、実質的な差がなくなってしまい、性能差の方が注目される結果となりかねない。ここらへんは、営業部隊の戦略が試されるのだろう。


さて、600Dと6Dで、今後注目すべき点は何だろうか?
個人的には、「高感度」だと思っている。

画素数こそ幾分少ないが、6Dのセンサーは「新型」であり、5D MkIIIの方向性を引き継いでいるとすると、「高感度耐性」に特徴付けされている可能性がある。
一方、作例を見る限り、600Dはそれほど高感度に強くない印象だ(と言っても、まだまだ検証データ不足で完全に推測の範囲内だが)。

ここでの差別化がうまくできれば、6Dと600Dはいい勝負をするかもしれない。

あと、どうでもいいことだが、デザインは6Dの方が好みだ。
(レンズもキヤノンの方が好みで、Lレンズの赤いラインは差し色として好ましく思っている。一方ニコンのカメラは質実剛健といった「Fシリーズの系譜」を感じさせるものなのだが、どうしても、純正レンズの金文字が気になってしまう。撮るときには見えないものなのだが、気分の問題はコントロールできないものでもある。)

両者の今後の動向に注視したい。

2012年9月13日木曜日

135. 明るい部屋(写真と時間についての覚書)



ロラン バルトの「明るい部屋 写真についての覚書」を読み終わった。
友人の勧めで読んだ写真論の本だったが、古典的な写真論(兼 思想書、私小説)としてとても楽しめた。とは言っても、バルトの意図をどれだけ正確に把握できたかはいささか自信ないが。

以下、読書メモをコピペする。

正確な抜粋ではなく、主旨を簡単にまとめたものだ。括弧内は、自分なりに噛み砕いた内容だったり、(無謀にも)解説(を試みた記載)だったりする。

+++

16頁


というわけで、いまや、「写真」に関する「知」の尺度となるのは、私自身である。
(バルトは、自分が関心を惹かれる写真とそうでない写真を、自分の「快楽」の度合いから選別し、その特徴を探ることで、「よい写真」と「そうでない写真」の区別をつけようとする。)

23頁 

カメラを向けられたとき私は同時に4人の人間になる。
私がそうであると思っている人間、私が人からそうであると思われたい自分、写真家が私はそうであると思っている自分、写真家がその技量を示すために利用する人間。

(被写体となることに関する写真論。この件を読んでから、巻末のバルトの写真を見ると、えも言われぬ感覚に襲われる。えも言われぬ笑みを浮かべ、「そうであると思っている人間」と「そう思われたい自分」を思い浮かべるバルトと、「彼はそうである」と思いながら、より良いアングルを探る(=技量を見せたい)写真家が突如としてイメージされる。それが同時に存在した瞬間の光がこの写真だ。)

27頁

ある作家の「ある写真」は好きだが、ある作家の「全ての写真」が好きなわけではない。
(写真は、同じ人が撮ったと思えないほど、作風が異なる。これはスーザン ソンタグも指摘しており、絵画と大きく異なる点だ。写真だけを並べたとき、それだけで作家の自己同一性(アイデンティティ)を示すことは難しい。

48頁

写真はなぜそれが写されたかわからなくなるとき驚くべきもの、不意を打つものになる。
(確かに、そうだ。意図が分からない写真は強い。意図を考えさせる余地があるからだ。ただ、全く意味不明な写真が連続すると、人は見ることをやめてしまう。答が見つからないなぞなぞに人は付き合わない。)


51頁

(写真に写された)社会的視線はすでに批判的能力のある人々のもとでしか批判的になりえない。写真の批判能力は弱い。
(かつてあった「黒人専用の粗末な椅子席」と「白人専用のふかふかな椅子席」を写した写真を見たとしても、【粗末な方は「黒人専用」で、ふかふかな方が「白人専用」だ】という知識を持たない人にとっては、その写真は単に「粗末な椅子とふかふかの椅子が並べられている風景」にしか映らない。写真の社会批判能力はその前提の批判的知識を持たないと機能しない。写真は雄弁ではない。)


59頁

プンクトゥムは部分的特徴。ストゥディウムとプンクトゥムは共存できる。
(この本で提唱される中心概念、プンクトゥムとストゥディウム。プンクトゥムは「突き刺すもの」のラテン語で、ストゥディウムは「一般的関心を惹くもの」(=社会的なコード)である。バルトは、ストゥディウムだけの写真は「凡庸なもの」と断じる。例えば、「瓦礫と化した街を歩く兵士の写真」は、「戦争状態にある街」という社会的なコード(記号)にはなる(一般的な関心は満たす)
が、「特別関心を惹く存在」にはならない。一方、「瓦礫と化した街を歩く兵士の後ろを修道士が歩く様子」を写した写真は、同じ世界に属していない二つの異質な存在を同居しており、その違和感が私を「突き刺す」。この作用をバルトはプンクトゥムと呼び、優れた写真の要素として重要だとしている。そして、ストゥディウムとプンクトゥムは同じ写真内に共存できる(瓦礫+兵士のストゥディウムと、修道士というプンクトゥム)。


68頁

プンクトゥムは見る者が付け加えるもの。(あらかじめ意図された)コードではない。
(子供達が遊ぶ風景。その中で、1人の少年の歯並びが悪く、私は気になってしまう。写真家は歯並びの悪いことを見せたいわけではなく、子供達が遊ぶ風景というコード(記号)を見せたくて写真を撮ったわけだが、私は、その写真に「歯並びの悪さ」というプンクトゥムを見つける。プンクトゥムは部分的特徴であり、所与のものではなく、発見する(付け加える)ものである。ただし、写真はもともとあるがままであるので、当然ながら、元から写っている必要はある(その意味では、所与のものである)。最近の写真は何となく、このプンクトゥムを意図的に発生させようとしている写真が多いように思う。もしくはプンクトゥムを捕らえようと撮られている写真が現代写真なのかもしれない。なお、この本は1979年に書かれた本である。)


70頁

プンクトゥムはフレームの外へ意識を広げる。
(優れた写真は、写真の「外」へ意識を引っ張り出す。)


72頁

前言取り消し
(この項で、バルトは思考方法の転換を行う。これまでは写真に対する「快楽」をベースに「快楽を感じる写真とそうでない写真の違い」を考察することで、プンクトゥムとストゥディウムという概念を発見した。しかし、それだけでは写真の本性(エイドス)には迫ることができないと独白する。ここで、快楽主義的な発想から脱却し、「母が娘だったときの写真」という至極個人的な思い入れのある写真を出発点として(その写真のプンクトゥムはこれまでの定義では説明できない)、その写真がなぜ素晴らしいかを考察するという方法に切り替える。ここが本書の面白いところだ。つまり、方法論の撤回を一度行っているわけだ。)


87頁

最後に母は娘となった。子供を作らなかった私は、種に寄り添うことはなく、個体としての死を迎える。今後やるべきことは書くことだけだ。
(写真論を飛び越えた話だが、母への愛情について語られていると同時に、種と個体という大きな概念にまで言及している。親子は互いの生の時間がクロスオーバーしながら、連綿と続くことで種を形成するが、子供を作らなかった場合、その鎖はその個体で断ち切られることになる。その意味で、バルトが「やるべきことは書くことだけだ。」という私的な生産行為にのみ、自らの生の価値を見いだしたのは至極納得のいくことだ。書くこと、何かを生み出すこと、遺すこと、これは個体に備わったエイドスであり、(一個体にとっては)種の存続と等価に近い。また、バルトは年老いた母を自分の「娘」のように思った。この二重構造の親子関係の概念は特殊だが、その分、バルトの愛情が深かったことを示唆しているように思う。)


94頁

写真のノエマは、「それは、かつて、あった」
(ノエマとはフッサールの現象学に出てくる「現出体/基体」のことで、簡単にするなら「本体」と考えられる。写真は、「それは、かつて、あった」を示すことを(それだけを)本体としている。)

96頁

写真はポーズがあり映像は流れ去ってしまう。これが写真と映画との違いだ。
(静止していることが写真の大きな特徴で、バルトがこだわっている点である。止まっているから、「かつてあった」現実を、子細に眺めることができる。あたかも「かつてあった現実」が時間の波を越えて、この「今、ここ」にやって来たように。)

98頁
写真は実際にあったことを示す。
(当たり前のようだが、このことが写真の素晴らしさでもあり、また、写真による欺瞞(トリック)を発生させる源でもある。現代写真は、この「写真は実際にあったことを示す」という作用を逆手に取って、人をだますことがある。その「だまし」によって、人の意識を混乱させ、混乱から意図を汲み取るように設計している。トーマスデマンドなどいい例だ。)


100頁

写真はある星から遅れてやってくる光のようだ。かつて存在していたものが放つ光が実際に触れた写真の表面に、今度は私の視線が触れにいくのだと考えるとひどく嬉しくなる。
(この部分の表現は、この本の中でかなりいい。最も近いのはポジフィルムのポジ像かもしれない。被写体が反射した光はレンズに導かれてフィルムに触れる。その光の接触は、化学反応を引き起こし、フィルム面に定着する。このフィルムの潜像を現像によって表に出してやったのが、ポジフィルムのポジ像だ。これを僕らが眺める時、僕らの視線はフィルムの表面をなぞり、かつて被写体から放たれた光に触れることになる。この時間を飛び越えた被写体と視線との接触を、「ある星から遅れてやってくる光」に喩えた筆に拍手を送りたい。この部分を読んで頭をよぎったのは、超新星爆発(大質量の恒星がその一生を終える時に起こす大規模な爆発、supernova)だ。




超新星残骸 おうし座のかに星雲
(引用元:http://ja.wikipedia.org/wiki/超新星)

何億光年と離れた場所で起こった超新星爆発では、その光を地球で観測したときには、その本体である恒星そのものは既に跡形もなく無くなっている(光が何億年も遅れて地球にやってくるので)。既に亡くなってしまった人が生前、生き生きとしていた様子を示す写真は、supernovaそのものだなと思った。この、どうしようもなく写真と現在の間に流れる「時間差」こそが、バルトが示したいもう一つのプンクトゥムである。)

107頁

写真はすべて存在証明書である
(その性質が、今度は逆手に取られている。)

110頁

写真は停止しているので、時間の流れを相対的には逆流する。過去志向であり、写真に未来はない。
(「相対的に」。何という正しい理解だろう。「写真の中」以外が前に進んでいるのだから、過去に留まる写真は、「現在」が固定されていると仮定すると、過去に向かって突き進んでいるとも言える。つまり、2000年に撮った写真は、2012年の今からすると12年前の写真に過ぎないが、2100年にその写真を見返せば、100年前の写真になる(88年分過去に進んだわけだ)。つまり、写真は「止まることで過去に向かって進んでいる」と「相対的」には考えられる。賢いな、バルト。)

118頁

新しいプンクトゥムは時間である。写真のノエマの悲痛な強調であり、その純粋な表象である。
(というわけだ。)

122頁

写真ではアマチュアのほうが専門家の極致にいる
(世に溢れる写真は「映像」の部類であって、公共性のある写真である。これに対して、「母の幼い頃の写真」は私の血の系譜を感じさせるものであり、切実なものであり、私的な、私の真実に近い。アマチュアの方がむしろこのような写真のノエマに近い。)

135頁

雰囲気とは肉体についてまわる光輝く影。捕らえそこねると、主体は永久に死んでしまう。
(バルトを持ってしても、「雰囲気」という曖昧な言葉にしか変換できなかった、「雰囲気と言われるもの」は、同じ人間を撮ったとしても宿るときと宿らないときがある。このえも言われぬ「雰囲気」なるものを捕らえられるかで、写真の良し悪しが変わってきてしまうが、さて、どうしたら「雰囲気」を捕らえられるのか。本書はあくまで「観客」としての写真論のため、「雰囲気を再現性よく、繰り返し確実に捕らえる方法」は残念ながら示されていない。しかし、私小説的な写真を撮る人は、比較的、再現性良くこの雰囲気をモノにしているように思う。そして勝手な思い込みかもしれないが、女性作家に多い気がする。


136頁

まなざし。 写真に写っているまなざしは、私をまともに見据えるが、映画の中のまなざしは、その本質が虚構であるため見据えない。
(ここでもバルトは、映画と写真とを比較する。映画は本質的に虚構であるが、写真は現実であるとする考え方。これには異論を唱える向きも多いだろう。)

138頁

十全な写真は現実(それは、かつて、あった)と真実(これだ!)を融合させる
(母の娘の頃の写真は、まさにそれを体現していた。)

140頁

写真は分裂した幻覚。「それはそこにない」と、「それは確かにそこにあった」が同時に示される。
(死刑囚の写真は、「もう彼はそこにいない」ことを示しつつ、「かつて彼はそこいた」ことを示す。写真に写る死刑囚は「すでに死んでいる」し、「今、まさに死に向かいつつある」という両義性(つまり、分裂)を示す。)

145頁

「狂気」をとるか、「分別」か?写真のレアリスムが経験的な習慣(雑誌をめくって眺める写真等)で弱められれば、写真はその人にとって「分別」(をつけるためのコード)となる。しかし、もしも写真のレアリスムが始原的なものとなって(写真が時間の流れに逆行して、過去に進み続けるという基本的な性質に目を向けるようになって)、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義を思い起こさせるのなら、写真は「狂気」になる。私は本書を終えるにあたり、これを写真のエクスタシーと呼ぶことにしたい。写真を「文化的なコード」に従わせるか、そこに蘇る「手に負えない現実」にするかは自分次第である。

+++

バルトがこだわったのは、「写真が過去に立ち止り続けること」のように思う(この停止している状態が生み出す特異性を重視するがために、動画である映画と写真は本質的に異なると主張していると思われる)。
そして関心を惹く写真の「特筆すべき何か」は、シーンや被写体の「形態的な特徴としてのプンクトゥム」だけで構成されているわけではなく、その写真を眺める「私」とその写真が示す「かつての世界」との間に横たわる「時間」がもう一つのプンクトゥムとして機能していることを発見した点で、とても秀逸な写真論だと思った。

このような議論があった上で、それから既に30年が経過した。
今、写真は「それは、かつて、あった」ことを示すという性質を見透かされた上で、その性質(人々の思い込み)を利用して、新たな表現に変えられていっているように思える。とは言え、この点についてはまだまだ語るべき言葉が見当たらない。
見足りないし、知り足りないのだ。

もっと知りたい。もっと見たい。

2012年9月10日月曜日

134. 写真展やります(第9回ニーチ写真展)





今回は告知です。
10月9日〜14日まで、渋谷のルデコというギャラリーで写真展をやることになりました。

所属している「ニーチ」という団体が主催するグループ展です。
僕は、2作品出展する予定です。(鋭意製作中)

今回のグループ展では、結構難しいテーマが設定されています。

テーマ
「視覚以外の感覚を感じる写真」

例えば、「ラテンの音楽が聞こえてきそうな写真」であったり、
「土ぼこりの匂いを感じる写真」であったり、
写真が通常伝える感覚は「視覚」な訳ですが、その視覚を通して、さらに別の感覚も惹起させる・・・という割と挑戦的なテーマです。

正直、かなりハードルが高く、一体何人がこのテーマをまともに作品に転化できているか少々不安なところもあるのですが、皆、がんばって作品を撮っています。
(なんとなく、例年よりテンション高いような気がする)

秋口に写真観賞など、オツですよね。
ぜひぜひ、お誘い合わせの上、お越し下さいね。
もちろん無料です。

ちなみに僕は、10/13(土)と14(日)に在廊予定です。
ではでは。


+++  写 真 展 詳 細  +++

第9回 HИTb写真展
メンバー33人による写真展「sense of・・・」


Gallery LE DECO 2/LE DECO 3 (DECOのEの上に「'」 みたいのがついてます。)
〒150-0002 東京都渋谷区渋谷3-16-3 ルデコビル5F/6F
TEL:03‐5485‐5188

【会期】
2012/10/9(火)~10/14(日)展示期間
11時~19時 最終日は17時まで
パーティー
13日(土)17時~

【地図】
渋谷駅東口を出て明治通りを恵比寿方面に徒歩5分。
渋谷駅新南口からは徒歩1分。
明治通り沿い右手、
明治通りを挟んで真向いがスターバックスコーヒー。

2012年9月7日金曜日

133. 故郷の抜け殻(夢の跡)

10年振りに、地元に帰った。
ショックだった。

緊張しながら入った初めてのレストランや、
バイト代を手にして通った服屋さん、
セガのゲームギアが欲しくて何度も通ったおもちゃ屋さん、
個性を探してCDやビデオを物色したツタヤ、
漫画を立ち読みするために何度も通った本屋さん、
初めて携帯を買ったJ-Phone(現ソフトバンク)ショップ、
箱を見るだけで買えなかった中古ゲーム屋(ソフトはスーパーファミコンの三国志シリーズ)、
地下のスガキヤ(東海圏に多いチェーンのラーメン屋)で昼飯を食べ、6階のゲームコーナーで100円だけ使って遊んでいたデパート(ユニー)、
当時は高級品だったマクドナルド、
初めて眼鏡を買った眼鏡屋、
中学生の頃、塾からの帰りに楽しみにしていたロールケーキを売る洋菓子店、
小学校の頃にお小遣いを使い果たした骨董品屋、
小学校6年間通った柔道場、


全て、無くなっていた。


あのときの、あの「憧れ」やあの「緊張」は、一体どこに行ってしまったのか。
懐かしがる隙すら与えずに、10年という歳月は全てこの街から思い出を消し去ってしまった。


「街に行ってくる。」


と行って、向かったあの場所は、もはやない。
シャッターの向こう側で、暗い伽藍堂と化している。


小学生から高校生までは、「街」に慣れるのに精一杯だった。
お店に入るのにいちいち緊張したし、
買えないものも多かった。
ただ、ディスプレイを眺める日々。

それが、僕にとっての青春だったように思う。

この10年で、この街は一体どうしてしまったんだ?
街行く人が、ひどく他人に感じられて、
まるで自分の故郷が見知らぬ人に乗っ取られてしまったかのような錯覚を憶えた。

ことごとく、「跡地」が続く。

いいか!ここは、もともとマクドナルドだったんだぞ!(今は仏具店だ)
ここは、携帯屋で!(今は、鍵屋)
ここは、ツタヤで!(今は、魚民)
ここは、ユニクロで!(今は、ダイソー)
ここは、おもちゃ屋で!(今は、空き家)
ここは、眼鏡屋で!(今は、空き家)
ここは、服屋で!(今は、レストラン)
ここは、ゲーム屋で!(今はダスキンの事務所)
ここは、本屋で!(今は空き家)
ここは、デパートで!(今はマンション)
ここは、柔道会館だったんだ!(今は、大きな家が立っている・・・)

叫び出したいような、目眩で倒れそうな、そんな心持ち。

変わらないのは、街を流れる水(富士山からの湧き水が源平川となって流れている)と、その中に生息する水草、神社。

僕は10年、故郷に帰らなかったおかげで、
10年前の様子をはっきりと心の中に描くことができる。
10年分の変化をいっぺんに感じることができる。
これは、この街に住む人には分からないと思う。
日々の変化はわずかでも、それが集積すると、跡形もないのだ。

その跡形の無さが、あまりに強烈で、街を歩いて写真を撮りながら、
何度も立ち止って、当時の様子をなぞった。
あのおもちゃ屋には、まず入り口近くに、ゴジラやウルトラマンのフィギアがあって、真ん中にミニ四駆のコースが置かれていた。少し奥に行くと、レジがあって、その回りにテレビゲームの本体やソフトが置かれている。柔道会館の畳の感触、デパートの屋上の人工芝の日に焼けた感じ、Popcorn! Popcorn! This is a popcorn!としゃべるカウボーイ型をしたポップコーンの自動販売機、ツタヤのCDの配置、ここにJ-Popで、左奥にB'z、こっちに小室ファミリーで、右側に行くと洋楽、二列目がジャズ、その奥はイージーリスニングで、そのさらに奥からビデオが続く。当時はまだVHSがメジャーで、DVDはマイナーだったな。

そんな、当時のクオリア(質感)が、脳内で再生される。
しかし、それらはもう既に、脳内にしかあり得ない、幻想の一部となってしまった。


自然よりも、人の経済活動の方が、よっぽど儚くて、移ろいやすく、消えて行く。

あれだけ、
「変わらない日々」
に嫌気がさしていたのに。

それも今や夢のようだ。
こうして、僕は精神的な故郷を失った。

唯一の救いは、地元の友人と少しの躊躇も無く話せたことだ。