最近、写真への関心がより高まっている。
ちょっとしたマイブーム(?)のようだ。
【最近読んだ本・読んでいる本】
新旧織り交ぜて、写真史170年余の変遷を理解するのはまだまだ足りない。
まだまだ、「写真を見る経験」が不足しており、体感として作家名が入ってこないのだが、とりあえず、大まかな流れや系譜が頭に描かれつつある。もう少し、現代写真を俯瞰したら、次には、著名な作家の代表的な作品集を網羅的に解析していきたいと思っている。
(いつか自分なりの歴史年表やマップを作ってみたい。その上で、現在売れている作家達を分類し、どの系統の「進化型」なのか「突然変異型」なのか同定してみたい。)
しかし、正直なところ、現段階では批評家達の言説は難しく、なかなか頭に入ってこないのも本音だ。
例えば、写真分離派宣言の参加者である倉石信乃さんは、世界写真史の現代写真編を担当しているが、ここのパートはいきなり難解である(倉石さんは写真批評家)。
絵画に従属した写真(絵画主義)を否定して、レンズを通して得られた正直な、細密な写真(ストレートな写真)を謳ったスティーグリッツや、その後のf.64、主観写真といった流れはよく分かる。その後発生する、カラー写真を取込んだニューカラーやソーシャルランドスケープ、ベッヒャー夫妻から始まるタイポロジーによる客観主義、といったものもよく分かる。
しかし、1980年代以降のポストモダンから突然変異が多重に起こったように、「作家性」のベクトルが混沌とし出してくる。
僕は「写真の現在」を理解したいのだが、その直前までの経緯が最も複雑で、混沌としているという印象だ。
(日本の歴史と同じ。第一次世界大戦あたりから情報過多となり、かつ大抵が学期末と重なって駆け足で流されてしまう。日本(人)にとって居心地の悪い時代であったことも反映しているのかもしれないが。)
また、比較的最近の2010年に鷹野隆大さん、鈴木理策さん、松江泰治さん、倉石信乃さん、清水穣さんが始めた「写真分離派宣言」も、それそのものが混沌としている。
正直、声明文は一本のベクトルに貫かれたものではなく、複数のベクトルが包含されたもので、主張がバラバラになってしまっている印象だ。
しかし、結果として、参加者それぞれが「写真の現在」を異なる形で理解しているのがよく分かる。(また、それが分かるように、意図的に修正せず、そのまま出しているのだろう)
例えば、
・何に対する分離なのか?
(一方、スティーグリッツがかつて行った「写真分離派宣言」は、絵画主義写真(鮮明な写真にならないようにネガに処理を施し、あたかも印象派の絵画のようなテクスチャを与えたり、絵画の構図をそのまま受け入れ、「絵画に似ていること」に価値を見る主義。鈴木理策さんの言では、「絵画に従属した写真」)に対する「分離」を宣言しており、それに対して「ストレートな写真」を提唱し、その作家性を推進し、後進への教育も行った。分離する対象、その後の方向性が明確で、今回の宣言と大きく異なっている。)
2010年の写真分離派宣言の発端としては、「写真のデジタル化によって、フイルム時代の現像やプリントワークが過去の遺物になってしまう」ということに鷹野さんが危機感を抱いたことが挙げられているが、写真のデジタル化に対する意見(肯定/否定)も参加者によって異なっている。
鷹野さんは、デジタルよりもフイルムを肯定したい(保存していきたい)立場のようだが、一方で、松江さんは「デジタルの方がごまかしが効かない正直なものなのだから、さっさと全てのフォーマットはデジタルに移行してほしい。」と話す(とは言いつつ、松江さんの作品は大判カメラで撮られており、大判カメラの細密性の優位は認めている。恐らく松江さんとしては、「フイルムの大判カメラと同じフォーマットのデジカメが出てくれれば、全く躊躇無く全てをデジタルに引っ越せるのだが、実際は大判デジタルなんてメーカーは作らない(作ったとしても数百万は確実)。なので、(仕方なく)大判のフイルムを使っている、という状況なのだろう)。
このように、時代を牽引している著名な作家が、これほど現状に異なる見解を持っていて、「分裂」しているというのが、「写真の現在」なのだろう。
とはいえ、毎年、木村伊兵衛賞は発表され、新たな写真は生まれつつある。賞を与える側の頭には、写真史が描かれ、特に現在の写真の流れを考慮した上で、「新しさ」を評価しているわけで、その流れが分かっていなければ、新しさも分からないということになる。「流れ」と「新しさ」は、陰と光のような関係だ。
僕は作家になるつもりはさらさらないが、「写真の鑑賞者」として、より高い視点を持ちたいと思っている。現在の「新しい写真」=光を理解するためには、「古い写真」=陰を知らなければならないのだろうと思う。
そして、古い写真というのは、何も数十年前という訳ではなく、たった数年でも「古い写真」に認定されてしまうのが、恐ろしいところだ。
ま、その分、愉しいとも言えるのだが。
【最近行った写真展】
明日は、TOKYO PHOTO 2012に行く予定だ。
Ryan McGinley「Reach out, I'm Right Here 2012」はとても良かった。とても良かったのだが、この「良かった」をより明確な言葉で表せないのが歯がゆい。(これが、現状の鑑賞者としてのレベル)
自分なりに思ったことはあるのだが、恐らく、その大部分が「外している」予感がするのでここでは敢えて書かない。
(残念ながら、McGinleyの写真を、どのように自分の中で位置づけていいのか分からない、というのが本音だ。)
【最近のカメラについて】
週間ダイヤモンドの9/22号がカメラ特集で面白かった。
このブログでも書いていたのだが、スマホを発端としてドミノゲームが起こっていることが分かりやすく書かれている。
また、各企業がどの程度、台湾企業に依存しているかも紹介されており、各社の戦略の違いが明確になっている。キヤノンがニコンより高めな価格設定なのは、内製化の副作用なのかもしれない。自動化を強力に推し進めることで、人件費の高さはカバーできる、と言っているが、過渡期の間はどうしても相対的に高くなってしまうのではないか。
また、本日(9/29)、キヤノン待望のミラーレス機「EOS-M」が発売された。早速ヨドバシに行ってみたのだが、なんと、全く人気がない。並びもせずにあっさりと触れてしまった。
印象は、
ちょっとしたマイブーム(?)のようだ。
【最近読んだ本・読んでいる本】
- 世界写真史/飯沢耕太郎 監修(執筆:飯沢耕太郎、大日方欣一、深川雅文、井口嘉乃、増田玲、倉石信乃、森山朋絵)
- 写真分離派宣言/鈴木理策、鷹野隆大、松江泰治、倉石信乃、清水穣 著
- 苔のむすまで/杉本博司 著
- 伝わる、写真。/大和田 良 著
- 写真と生活/小林紀晴 著
- 現代写真論 コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ/シャーロット・コットン著、大橋悦子、大木美智子 訳
新旧織り交ぜて、写真史170年余の変遷を理解するのはまだまだ足りない。
まだまだ、「写真を見る経験」が不足しており、体感として作家名が入ってこないのだが、とりあえず、大まかな流れや系譜が頭に描かれつつある。もう少し、現代写真を俯瞰したら、次には、著名な作家の代表的な作品集を網羅的に解析していきたいと思っている。
(いつか自分なりの歴史年表やマップを作ってみたい。その上で、現在売れている作家達を分類し、どの系統の「進化型」なのか「突然変異型」なのか同定してみたい。)
しかし、正直なところ、現段階では批評家達の言説は難しく、なかなか頭に入ってこないのも本音だ。
例えば、写真分離派宣言の参加者である倉石信乃さんは、世界写真史の現代写真編を担当しているが、ここのパートはいきなり難解である(倉石さんは写真批評家)。
絵画に従属した写真(絵画主義)を否定して、レンズを通して得られた正直な、細密な写真(ストレートな写真)を謳ったスティーグリッツや、その後のf.64、主観写真といった流れはよく分かる。その後発生する、カラー写真を取込んだニューカラーやソーシャルランドスケープ、ベッヒャー夫妻から始まるタイポロジーによる客観主義、といったものもよく分かる。
しかし、1980年代以降のポストモダンから突然変異が多重に起こったように、「作家性」のベクトルが混沌とし出してくる。
僕は「写真の現在」を理解したいのだが、その直前までの経緯が最も複雑で、混沌としているという印象だ。
(日本の歴史と同じ。第一次世界大戦あたりから情報過多となり、かつ大抵が学期末と重なって駆け足で流されてしまう。日本(人)にとって居心地の悪い時代であったことも反映しているのかもしれないが。)
また、比較的最近の2010年に鷹野隆大さん、鈴木理策さん、松江泰治さん、倉石信乃さん、清水穣さんが始めた「写真分離派宣言」も、それそのものが混沌としている。
正直、声明文は一本のベクトルに貫かれたものではなく、複数のベクトルが包含されたもので、主張がバラバラになってしまっている印象だ。
しかし、結果として、参加者それぞれが「写真の現在」を異なる形で理解しているのがよく分かる。(また、それが分かるように、意図的に修正せず、そのまま出しているのだろう)
例えば、
・何に対する分離なのか?
・どこに向かいたいのか?
・参加者(5人中3人が写真作家、2人が批評家)の作品の方向性として、何か軸があるのか?
など、肝心な部分で、参加者内に分裂が起こっている。
(一方、スティーグリッツがかつて行った「写真分離派宣言」は、絵画主義写真(鮮明な写真にならないようにネガに処理を施し、あたかも印象派の絵画のようなテクスチャを与えたり、絵画の構図をそのまま受け入れ、「絵画に似ていること」に価値を見る主義。鈴木理策さんの言では、「絵画に従属した写真」)に対する「分離」を宣言しており、それに対して「ストレートな写真」を提唱し、その作家性を推進し、後進への教育も行った。分離する対象、その後の方向性が明確で、今回の宣言と大きく異なっている。)
2010年の写真分離派宣言の発端としては、「写真のデジタル化によって、フイルム時代の現像やプリントワークが過去の遺物になってしまう」ということに鷹野さんが危機感を抱いたことが挙げられているが、写真のデジタル化に対する意見(肯定/否定)も参加者によって異なっている。
鷹野さんは、デジタルよりもフイルムを肯定したい(保存していきたい)立場のようだが、一方で、松江さんは「デジタルの方がごまかしが効かない正直なものなのだから、さっさと全てのフォーマットはデジタルに移行してほしい。」と話す(とは言いつつ、松江さんの作品は大判カメラで撮られており、大判カメラの細密性の優位は認めている。恐らく松江さんとしては、「フイルムの大判カメラと同じフォーマットのデジカメが出てくれれば、全く躊躇無く全てをデジタルに引っ越せるのだが、実際は大判デジタルなんてメーカーは作らない(作ったとしても数百万は確実)。なので、(仕方なく)大判のフイルムを使っている、という状況なのだろう)。
このように、時代を牽引している著名な作家が、これほど現状に異なる見解を持っていて、「分裂」しているというのが、「写真の現在」なのだろう。
とはいえ、毎年、木村伊兵衛賞は発表され、新たな写真は生まれつつある。賞を与える側の頭には、写真史が描かれ、特に現在の写真の流れを考慮した上で、「新しさ」を評価しているわけで、その流れが分かっていなければ、新しさも分からないということになる。「流れ」と「新しさ」は、陰と光のような関係だ。
僕は作家になるつもりはさらさらないが、「写真の鑑賞者」として、より高い視点を持ちたいと思っている。現在の「新しい写真」=光を理解するためには、「古い写真」=陰を知らなければならないのだろうと思う。
そして、古い写真というのは、何も数十年前という訳ではなく、たった数年でも「古い写真」に認定されてしまうのが、恐ろしいところだ。
ま、その分、愉しいとも言えるのだが。
【最近行った写真展】
- Ryan McGinley 「Animals」 /渋谷ヒカリエ
- Ryan McGinley「Reach out, I'm Right Here 2012」 /小山登美夫ギャラリー
- 松井一泰 「幻の島」/新宿ニコンサロン
- 第4回SPRAY写真展「写真ってナンダ?!」/写真企画室 ホトリ
明日は、TOKYO PHOTO 2012に行く予定だ。
Ryan McGinley「Reach out, I'm Right Here 2012」はとても良かった。とても良かったのだが、この「良かった」をより明確な言葉で表せないのが歯がゆい。(これが、現状の鑑賞者としてのレベル)
自分なりに思ったことはあるのだが、恐らく、その大部分が「外している」予感がするのでここでは敢えて書かない。
(残念ながら、McGinleyの写真を、どのように自分の中で位置づけていいのか分からない、というのが本音だ。)
【最近のカメラについて】
週間ダイヤモンドの9/22号がカメラ特集で面白かった。
このブログでも書いていたのだが、スマホを発端としてドミノゲームが起こっていることが分かりやすく書かれている。
また、各企業がどの程度、台湾企業に依存しているかも紹介されており、各社の戦略の違いが明確になっている。キヤノンがニコンより高めな価格設定なのは、内製化の副作用なのかもしれない。自動化を強力に推し進めることで、人件費の高さはカバーできる、と言っているが、過渡期の間はどうしても相対的に高くなってしまうのではないか。
また、本日(9/29)、キヤノン待望のミラーレス機「EOS-M」が発売された。早速ヨドバシに行ってみたのだが、なんと、全く人気がない。並びもせずにあっさりと触れてしまった。
印象は、
- APS-Cとしては(&小型化に熱心でなかったキヤノンとしては)驚異的に小さい。(ただし、NEXと比べるとほぼ同じだが)
- AFが遅い、迷う(コントラストAFのみのOLYMPUSに完全に負けている。)
- 絞り優先AEなど、凝ったことをやろうとすると、設定が面倒。その上、タッチパネルでの操作が必要。
という感じで、あまりいい印象はなかった。キヤノンもそこは十分承知していると思うので、少なくともAF周りは、今後急速にキャッチアップを進めるのだろう。
しかし・・・、やはりEOS Kissデジタルとの棲み分けを意識した作りは随所に感じられたので、このコンセプトをやめないと厳しいと思う。キヤノンの戦略部門には、「あんまり考えすぎるな」と言いたい。
(「いいものを出す」それに集中しないといけないと思う。子狡くラインナップの統制ばかりを気にすると、ミラーレスの世界で戦っていけないように思う。今回改めて、「デジタル一眼」と「ミラーレス一眼」の世界は別物だと実感した。例えばOLYMPUSのOM-Dは、素子のサイズは小さいが(とはいえとてもよいSONY製センサーだが)、操作性、AF速写性が良く練られており、ミラーレス市場での経験値の差を如実に感じることができる。キヤノンがミラーレスをAPS-Cで出したことで、m4/3陣営は途端に厳しくなるかとも思ったが、システムとしての完成度でまだまだレベルアップは可能であり、システム全体としての完成度として(単純なスペックに出ない操作性など含めて)戦っていけるのではないかと感じた。・・・と、センサーサイズ至上主義者の僕でもそう思わせるほど、EOS-Mは残念な感じなのである。キヤノンがAPS-Cを選択したことで、キヤノンもミラーレスに本気になったかと思ったが、正直まだまだ、ミラーレスを「コンデジとデジタル一眼の中間層」程度にしか位置づけていないらしい。「隙間を埋める」発想だと、EOS-Mのようなものしかできないし、それで問題とも思わなくなってしまう。(確かにEOS-Mは隙間を埋めている。しかし、ミラーレスを主戦場とするSONY、OLYMPUS、パナソニック、富士フイルムは、隙間だとは思っておらず、本気の開発を行ってくる。この本気度の違いは侮れない。))
とまぁ、一通り書いてみて、結局最後はカメラの話になってしまった(笑)
さて、作品のキャプション作りを再開するかな。