2012年7月25日水曜日

123. 八重山諸島のこと(覚書)

7/20から本日(7/25)まで、沖縄県は八重山諸島を旅行してきた。
八重山諸島とは、石垣島以西にある島々のことを言い、石垣島、西表島(いりおもてじま)、竹富島、波照間島、小浜島などが有名だ。
沖縄本島から500km程離れており、むしろ台湾の方が200km程で近いくらいだ。
今回は、その中でも西表島をメインに、竹富島と石垣島、それから沖縄本島の那覇を回ってきた。

沖合の珊瑚礁にてシュノーケリングを2回、亜熱帯の密林にてトレッキングを2回、マングローブ林を抜けるカヤックを1回、夜間にしか咲かないサガリバナを歩いて見に行き、水牛車にて竹富島の村を回り、同じく水牛車にて由布島へと渡った。

中でも西表島のジャングルっぷりはすごかった。
マリユドゥの滝へと目指す、比較的簡単なトレッキングコースですら、蔦植物が絡まり合い、シダ植物が生い茂るジャングルらしさ満点の道を歩くことができる。ここは日本だろうか?視覚情報だけを頼りに判断するのなら、NOである。完全に、見事なまでのジャングル。

ピナイサーラの滝を目指すトレッキングコースでは、やや難易度が上がり、木の根がボコボコと出ている獣道を、岩や石を掴みながら上って行くことになる。植生の豊かさは、一目で分かるが、それだけではない。

手のひら大の大きな蜘蛛が当たり前のようにいて、赤や黒のベンケイガニが穴から出てきて、ふと見つけたヤドカリは天然記念物だったり、夜には蛍の幼虫(幼虫でも光る)が道の脇にいたり、体長30cmほどのでかいネズミが出てきたり、カヤックで通り過ぎる川には5〜6匹の30cm程の魚が群れをなしてゆうゆうと泳いでいる。

マングローブ林は、川由来の淡水と海由来の海水が混じり合うところにある。水の中にどぼんと浸かると、水面に近い層は冷たく、足下が生暖かい。明らかに温度が異なるのだ。
普通、温かいものは上に行き、冷たいものは下に行くのだが、ここでは逆である。

なぜか?

これは比重の重い海水が下に行き、真水の淡水が上にあるためだ。なお、海水は温かく、川の水は冷たいので、足下が温かく、水面ほど冷たい。これは、流速が低い川特有の現象だ。つまり、両者は混じり合わず、2層の層流となって流れている。やがて海側に近づくと両者は混じり合うが、このような物理現象を、自身の身体によって感知できるのは、知識と行動とが混じり合うようで、実に愉しい。

今回は、妊娠五ヶ月の奥さんとの旅行だったので、トレッキング時の足下の不安定さにはヒヤヒヤさせられたが、見事に登りきってくれた。ピナイサーラの滝には、滝の上を目指すコースと滝壺を目指すコースがあり、滝壺の方が距離も短く勾配も緩やかで比較的簡単とされているが、それでも、かなりの勾配を這って進むことになる。こんな体験は、そうできることじゃない。

植生の違いや、生物の圧倒的な多様さ、その循環を感じることができる希有な場所だと思う。今回は、森本さんという方にプライベートガイドをしてもらったのだが、植物、昆虫、動物、魚類、土壌、水の相互作用や循環作用について色々と教わった。先の層流の話も森本さんに教えてもらったことで、自分だけでは決して気付けなかったと思う。これらのことを、日本語で知ることができるのは、日本が南北に長い国土を持ち、多様な自然環境帯を有するからだろう。改めて、日本の懐の深さを思い知らされた。


また、虹も通算3回ほど見ることができた。小雨が降ったり、すぐ晴れたりを繰り返す気候で、比較的容易に虹を見る事が出来る。特に西表島では、陸から海にかけてアーチを描く虹を初めて見た。


ただ、いいことばかりではなく、例えば夜、自販機に水を買いに行こうとすると、歩道のすぐ脇の茂みから、ガサッ!という音が次々と鳴り出し、街路樹から何かがバッと飛び出してきたりして、かなり恐ろしい思いをすることになる。

翌日になって注意深く周囲を観察すると、体長30cm程の立派なトカゲが複数、歩道近くに生息していることが分かった。またカエルも多数いるようで、これらが夜中ガソゴソと動くようだ。歩道の脇の茂み、というやつも大体3mくらいの高さがあり、正直、人間の勢力よりも自然の勢力の方が圧倒的に強い世界だ。

噛まれても死にはしないらしいが、でっかいムカデもいた。
ヤモリも常時2匹は、部屋の中に入ろうと画策していた。人が近づくと驚いて逃げるのだが、壁からジャンプして逃げて行く様はちょっと驚きだ。
このような種に出会うことも、ある程度覚悟しておいた方がいい。

西表島には、日本最大の蛇(2mくらいになる種)と、日本最小の蛇(みみずくらいの種)がいるそうである。日本最大の蝶もいて、一瞬だが、目の前を通り過ぎて行った。水陸両方に対応できるハゼの仲間がたくさんいたり、「ヒトとは別の種」によくも悪くもたくさん出会える。

日本のいわゆる日常世界から一瞬抜け出してみたいヒトにはおすすめである。

2012年7月1日日曜日

122. スマートフォンがカメラを進化させる(ドミノゲーム)

カメラの話をし始めると、もう小一時間では済まなくなるのが常なので、今日は短く切り上げるつもりだ。


さて、最近、と言ってもここ半年くらいのスパンだが、キヤノンがミラーレス一眼を出すという噂がよく出てくる。
一時期は、エントリーデジタル一眼レフのEOS Kiss Xシリーズの最新機X6iと同日に発表されると言われていたが、それは実現しなかった。


(6月に無事EOS Kiss X6iは発売となった。同時に発表された、40mmF2.8のパンケーキは数年前から自分が欲していたスペックの物であり、ようやくキヤノンもパンケーキの重要性が分かってきたか、と思ったが、時既に遅し。既にコシナ製の40mmULTRON(パンケーキ)を買ってしまっている。標準域では、EF50mmF1.8とF1.4があり、パンケーキと言えど今更F2.8に手を出すわけにはいかないだろう。しかし、「光学性能優先」で「サイズ非重視」のキヤノンが変わったものである。パンケーキはPENTAXのお家芸だと思っていたが、キヤノンは作る気になりさえすればあっという間に作ってしまう。F2.8に抑えたのはパンケーキのコンセプトをSTMと両立させるためだろう。ULTRONはF2だが、AFは非対応だ。それにしても最近キヤノンの新製品発表にはがっかりさせられっぱなしだったので、この40mmとX6iの像面位相差AF搭載には久方ぶりの爽快感を感じた。)


このキヤノンのミラーレス機が注目される理由は、「業界最大手」のキヤノンが「現在市場が急拡大中のミラーレス市場」に「未だに」参入していない、という特異な状況が2年以上続くためである。


ミラーレス機は、一眼レフからミラーボックスをとっぱらったレンズ交換式カメラだが、その大きさが既存の一眼レフ機と比較して小さいことから、主に「コンパクトデジカメよりいい写真を取りたいけど、ごっついカメラはちょっと・・・」というエントリー層向けに市場を形成し、その後、富士フィルムのX-Pro1やOLYMPUSのOM-Dに代表されるような高級路線ミラーレス機も出始め、徐々にハイアマチュア層にも訴求しつつある。


百花繚乱。
撮像素子のサイズも、コンデジと変わらないレベル(PENTAX Qシリーズ)から、ニコン1シリーズの1インチや、OLYMPUS、パナソニックのm4/3、SONYや富士フィルムのAPS-Cサイズとバリエーションは広い。
ミラーレス市場はここ2年は急成長を続けており、明らかに既存のエントリー層向けの一眼レフが喰われている。


さらにここに来て、いわゆるコンデジの中にも、ミラーレス機と遜色ない撮像素子を搭載したモデルが出てきた。
キヤノンが「ミラーレスも喰うようなコンデジを出しますよ!」と年初に息巻いて、投入してきたPower shot G1Xは1.5インチセンサー(18.7×14.0mm)を搭載し、撮像素子としてはOLYMPUSやパナソニックのm4/3(17.3×13.0mm)よりも大きい。


一般に、撮像素子の大きさは、高感度耐性にも、ボケ味にも効いていて、大きければ基本的には綺麗であり、かつ製造が難しくなるので高価である。
つまり、ミラーレス機よりも大きな撮像素子を有するコンデジは、コンデジだけれど、ミラーレスキラーになりうる。しかし、G1Xは、「コンデジ?」というくらいの大物感漂う絶妙にでかい躯体と、その「女人禁制」的なマッチョなデザイン、そして、最短撮影距離の問題と、コントラストAFのみの搭載で、あまり大きなヒットとはならなかった。
せめて像面位相差AFの搭載はしてほしかった。
あと、デザインにももう少し配慮すべきだと思う。


(ちなみに、キヤノンのミラーレスには様々な噂が飛び交っているが、一番多い物は、G1Xの1.5インチセンサーを流用して作る、というものだ。これは、既存のAPS-Cの一眼レフ達に配慮(遠慮)しつつ、厳格に「ミラーレス」と「デジタル一眼」をラインで区別するやり方であり、大御所のやることとしては、正しい。同じく大御所のニコンも、まったく同じ戦法で、ニコン1という1インチセンサーを搭載したミラーレスシリーズを展開している。しかし、一カメラファンからすると、まったくもってつまらない戦法でもある。ミラーレスを単に「エントリー機の代替品」くらいにしか思っていないのであれば、最も知性溢れる選択なのだろうが、他社が既に保有しているシェアを奪い返す、という目的があるのであれば、もっともっと強力なコンセプトが必要だ。動画を重視する戦略(Cinema EOSシリーズなど)を展開しているキヤノンとしては、ミラーアップ状態が持続しているようなミラーレス機は、その動画性能を発揮する非常にいい「舞台」なわけで、それを既存品に気を遣ってちまちました戦略を取った結果、大成しないのであればもう本当に失望としか言いようがない。とはいえ、玄人の方々からすると、「APS-Cサイズにすると、レンズが大きくなってしまいどうしても不格好になってしまう。全体の大きさも、SONYのNEXシリーズが限界であり、ミラーレスで小型化するという目的が達成できない。」という意見もある。これも理解できるし、そのような読みはニコンがニコン1を始めたときにもあったのだろう。なので、1.5インチセンサーでミラーレスが出るのだとしても、それはそれで容認はするのだが、ただ、せめて、像面位相差AFは搭載してほしい。また、あのG1Xのデザインをそのまま踏襲することだけはやめてほしい。本当に。そして、動画性能を売り文句として、スッキリしたシンプルなモデルで、EVFありモデルとなしモデルを同時発売したら、それなりの話題にはなるはずだ。その上、別のラインとして、「フルサイズのミラーレス」が出たら相当素晴らしいが、そうなるとフランジバックの異なるマウントがEF&EF-Sマウント、1.5インチミラーレス用マウント、フルサイズミラーレス用マウントと3種類も混在する状況になるので、コスト意識の高いキヤノンはそんなことしないんだろうな。


その後、先日SONYから発売されたサイバーショットDSC-RX100も、1インチ(13.2×8.8mm)の大型素子を搭載したモデルで、35mm換算で28mm-100mm相当の広角端F1.8の明るめズーム(バリオゾナーを銘を冠す)を搭載し、そして何よりも、圧倒的な小ささで登場した。広角側が24mmスタートだったら!という声はよく聞こえてくるが、それでも、これは驚異的な小ささだ。
G1Xでキヤノンが成し遂げたかったコンセプトを、うまい具合に体現している。正直、カメラ作りの観点から、RX100はG1Xに勝っていると思う。発売から2日後にたまたまヨドバシカメラで触る機会に恵まれたのだが、落ち着いたデザインで、若干Zeissのマークが剥がれやすい難点はあるものの、よくできていると思った。(惜しむらくはリングファンクションがあるのにも関わらず、Power shot S100のようなステップズームがない点と、焦点域を変えた後、電源をOFFにすると必ず広角端にまで焦点がリセットされてしまう点だ。これはRX100の短所であり、S100の長所である。かく言う自分はS100ユーザー。負け犬の遠吠えのようで恥ずかしい。)


さて、これらコンデジの高性能化や、ミラーレスの台頭を受けて、既存のデジタル一眼レフは、改革を迫られている。
撮像素子では、ミラーレスとの差別化は難しい。
特にAPS-Cサイズではミラーレスでも一般的だ。
そこで、各社が今、APS-Cサイズの一眼レフ機を、他の性能(連射速度、AF、高感度)で上回るように変えつつある。
先のキヤノンのエントリー層向けデジタル一眼EOS KissX6iは、一つ上の機種「EOS 60D」の後継機かと思うような、高性能で登場してきた。
となると、60Dの後継機があるのなら、さらに上の7Dと被るような高性能に、7Dはひょっとすると、APS-Cからフルサイズへ撮像素子を大きくして5Dと同じ土俵へ、と連鎖的に性能の突き上げが起こることが予想される。


そして起こるのは、「フルサイズデジタルの一般化」だろう。(フルサイズとは、フィルム時代とほぼ同等の36×24mmサイズの撮像面を指す。なお、APS-Cは23.4×16.7mm)
まことしやかに、ニコンの廉価版フルサイズ機やキヤノンの廉価版フルサイズ機の登場が噂されているが、このような突き上げの流れでは、もはや出し惜しみできない状況になっているのだろう。まだ、フルサイズ機は「プロ用」もしくは「ハイアマチュア用」と認知されているが、そのうち、「ミドルクラス」の層も当たり前のようにフルサイズを使うようになるのだろう。


さて、こういった変化は、カメラユーザーにとってみると、非常によいことで、どんどん競争してもらいたいと思っている。しかし、このような流れを作っているのは何か?を考えてみると、それは意外と身の回りにある、「ありふれたもの」だったりする。


それは、スマートフォン。


ここ数年、スマートフォンは急激に一般化し、もはや普通の携帯の方が機種数が少ない状況である。スマートフォンはさまざまな恩恵をもたらしているが、搭載されているカメラが500万画素を越えたあたりから(つまり写真として十分成立するレベルに達してから)、「コンパクトデジカメ」の市場を喰い始めた。


日常的に持ち歩けるスマートフォンが、コンデジの代わりとなる。
コンデジは売れなくなる。
その結果、コンデジの高機能化、もしくは、コンデジからさらに上の階層(ミラーレス)への誘導が必然となってくる。


この「下」からの、いや、「外部」からの突き上げが、結果として、カメラ業界の起爆剤となり、今の進化競争が発生している。
と、勝手に憶測している。


はー、結局長くなってしまった。
これから、ニコンのD800のポジショニングの正しさとキヤノンの次の一手について考察を述べたいところだが、また今度にしよう。


さて、そんなデジカメファンの自分は、一方で、古いカメラも愛している。
最近、ヤフオクにも手を出し始め、重症化が止まらないかんじだ。




【1500円で手に入れたブロニカS2のプリズムファインダー(ジャンク品)】


ジャンク品ではあるが、実用可能。
どうやったらこうなった?という塗装の剝げ方が、USED感を演出しており、個人的には「ダメージ加工したジーンズ」と同じと思っている。どと言うより、リアルに古いジーンズの方に近いが。(ブロニカS2は1966年発売の一品。このプリズムもそれなりの年齢のはずだ)
問題は、総重量が2.2kgもあるということだ。
これは、グリップが必要である。うん、絶対に必要であるな。
ブロニカS2にはL字型グリップと、ピストル型(T字型)グリップがあり・・・

121. トーマス デマンド展(何を見ているか)

6月30日(土)、東京都現代美術館で開催されているトーマス デマンド展に行ってきた。
(以下ネタばれあり。本展は、7月8日まで開催しているので、もし行く気がある人は見ない方がいい。)


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トーマス デマンドはもともと彫刻家からスタートした写真家だ。
僕は現代写真論という本で、トーマス デマンドという作家と、代表作の一枚だけは知っていた。
なにやら、現実の光景を忠実に「紙」で再現して、写真を撮る人らしい。


ふーん。
紙で、かぁ。


その程度の認識だった。
しかし、百聞は一見に如かず。
実際に、作品を前にしてみると、こうも違うものなのか。


紙で再現したとは思えないその完成度にまず驚く。
(これは反射的な反応だ。)


それが1枚や2枚ではなく、延々と続くうちに、「一体何が彼を突き動かしているのだ?」と疑問が湧き上がってくる。
(理性が働き出す。)


横幅5メートルはあろうかという巨大な作品の中には、緻密で繊細な作業が蓄積しており、
「現実らしい何か」が形作られている。
そう、自分が見ているのは、「現実らしい何か」。
よくよく考え出すと、次第に自分が何を見ているのか?
何に感動しているのか分からなくなってくる。
(こうして理性の混乱が始まる。)


そこに写っているのは、「現実」ではなく、「現実を模倣した何か」である。
模倣という言葉が軽々しいのなら、「現実を再構築した何か」であってもいい。


しかし、漠然と、何の予備知識もなく、なんとなくその写真を見た人は、それが「紙で作られた虚構の世界」とは思わず、あたかもそれが本物の「鍾乳洞」であったり、「福島第一原発の制御室」であったり、「美術品の壷が不注意で割れてしまった瞬間」であったり、「有名な美術家の納屋」であったり、「米国大統領の部屋」であったりすると「錯覚する」。


大統領執務室を再構築した「大統領」シリーズは製作期間こそ2週間程度と短いが、考えさせられる作品である。
この作品を見ると、「意外と大統領室というのは、派手な色使いをしているのだな。」とか「アメリカのイメージそのものだな。」とか「ホテルで喩えると、ストリングスホテルやシェラトンではなく、ロイヤルパークホテルやマリオットホテルっぽいな」等、自然といくつかの感想が思い浮かんでくる。


しかし、理性はこう問いかける。
「いや、ちょっと待てよ。これはあくまで紙で作られた別の世界であって、本物の大統領室ではないはずだ。」
うっかり現実だと知覚した世界は、虚構の世界だった。


しかも、実際、こんな大統領室は現存しない。
というのも、米国政府はトーマス デマンドに大統領室の見取り図や室内の写真等、一切の資料を渡していないのだ。
こういった情報がテロリストに渡ってしまうことを恐れたのだ。


デマンドは、このため、Times誌の資料庫から大統領室に関連するあらゆる過去の写真、イメージを収集した。
その数は、6000点以上に及び、様々な年代の大統領室のイメージが集約された。


その結果、この写真には、ロナルド レーガンが好んだ絨毯や、ジョージ H.W.ブッシュ(親父さんの方)の万年筆、ジョージ W.ブッシュ(息子の方)の手帳、ジミー カーター時代のカーテン等(※)、様々な時代の大統領室が混在した、「現実のパッチワーク」となった。
結果として、どう見ても現実に見える虚構の世界は、その模倣元であるオリジナルの現実すら捏造されることになる。


しかし、だ。
やっぱりこの写真を見た第一印象は、「現実の大統領室」なのである。
目を凝らして、近づかないと、それが虚構であることに気付けない。


私たちは、「現実」と「虚構」は明確に区別できると思っている。
しかし、このような写真を見た時に、その自負はもろくも崩れさる。
そして同時に、これは写真を見て受けた衝撃なのか、それとも、現実のような虚構を見て受けた衝撃なのか、現実が何かを明確にできない自分自身に対する衝撃なのか、分からなくなってくる。


自分は何かを見て衝撃を受けたが、それが何だったのか表現できない。
という、もどかしさ(理性の混乱)を感じることになる。


この反響するような疑問や悩ましさが、よりその作品を見ようとする反射につながる。
結果として、長時間、細部に渡って見ていられる、とても見応えのある「写真」になっていく。
とても個人で真似できるものではないが(恐らく、映画に近いレベルの大勢のスタッフが彼のプロジェクトを支えている)、現代アートとしての写真の一つの在り方を提示していると思う。




(※トーマス デマンドの作品解説を聞いた記憶を頼りに書いているので、正確な引用ではないことをお断りしておく。例えば、もしかしたらジミーカーターの好んだ絨毯だったかもしれないし、ブッシュの親子が入れ変わっているかもしれない。いずれにせよ、各年代の各大統領の好みがバラバラに入り込んでいるということをここでは言いたい。)